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(138)“シルクロードと繋がるという「さぬきうどん」”

 日本の各地には様々なうどんがあります。秋田の稲庭うどん、群馬の水沢うどん、埼玉の加須うどん、山梨のほうとう、名古屋のきしめん、三重の伊勢うどん、大阪のきつねうどん、福岡の丸天うどん、等々です。それらの中でも、香川県特産のものは“さぬきうどん”と呼ばれています。「さぬき」とは香川県の旧国名のことです。
 香川県人は概してうどん好きで、昔から、半夏(はんげ)、虫送り、冬至、祭りなどのハレの日や法事のときには、必ずうどんが振舞われてきました。食事が済んだ後でも、別腹といってさらにうどんを食べる人や、さらにはうどんをおかずにしてご飯を食べる人もいます。多度津では、まだろれつの回らない子供がうどん好きの人を、「たろつのかろのうろんやで うろんろっぱいくうてはらろぐろぐ」(多度津の角のうどん屋で、うどん六杯食うて腹ログログ)といってからかったそうです。また、宇高連絡船が就航していた当時は、多くの香川県人が、連絡船甲板のスタンドで供されるうどんに帰郷を実感したものです。平成18年(2006)8月には、香川県出身の本広克行監督により“さぬきうどん”を題材にした「UDON」という映画も製作されています。
 香川県に住む者にとって、うどんは日常的な食べ物となっており、香川県のうどん屋の数は、800軒から1100軒程度あるのではないかといわれています。香川県の総人口は約100万人程度ですから、人口当たりのうどん屋の数すなわち“うどん屋密度”は、全国一だといわれています。その多くは、セルフサービスの店で、自分の好みに合わせて、“かけ”、“かやく”、“わかめ”、“てんぷら”、“ざる”、“天ざる”、“釜揚げ”(かまあげ)、“釜天”、“湯だめ”、“ぶっかけ”、“しっぽく”、“釜玉”(かまたま)、“生醤油”(きじょうゆ)等々様々なうどんを食べることができます。また、“肉うどん”や“カレーうどん”もあります。

 “さぬきうどん”の特徴といえば、なんといっても麺の“コシ”でしょう。また“ダシ”とそれに上に載せる“具材”にも特徴があります。
 まず、麺の“コシ”ですが、これは、麺の硬さとは異なりコシコシとした歯ごたえ感があって喉越しがいいというような食感です。この“コシ”はうどん屋ごとに全く異なり、香川県人が“さぬきうどん”を評価する場合の最も重要なポイントです。人によれば、麺の食感だけを純粋に味わうために、うどんに醤油を少しかけただけで賞味することもあります。
 この“コシ”ができる秘密は、うどんの原料である小麦粉の中に6~15%含まれているタンパク質にあります。そのタンパク質の約85%は、ほぼ同量のグリアジンとグルテニンという成分からなっていますが、グリアジンは弾力性が低く伸縮性が高いのに対して、グルテニンは弾力性が高く伸縮性が低いというそれぞれ異なった性質を持っています。そして、小麦粉に水を加えて捏ねると、この異なる二つの性質のタンパク質が絡み合って弾力性と粘着性の両方の性質を適度に兼ね備えたグルテンという成分になり、これにデンプンが結びつくことによって麺体が作られます。
 グルテンは小麦に特有なタンパク質であり、パンのふくらみやラーメンの歯ごたえもグルテンの働きによるものです。そば粉や米粉が麺体になりにくいのは、小麦粉のようにグルテンを含まないからです。そして、グルテンは、原料となる小麦の種類や品質、加える水の量や捏ね方によって、粘着力が強かったり、弾力が強かったりするので、この複雑に絡み合うグルテンの違いによって、うどんの“コシ”の食感に差が生じてきます。こね、足踏み、打ちなど古くから伝わった麺の鍛え方により地域や店によって“コシ”に違いが出るというわけです。
 さらに、塩も麺作りにとって重要な要素です。小麦粉に塩が加えられることによって、グルテンが引き締められて粘弾性が増加し、また小麦粉の味と香りが引き立てられます。このため美味いうどん作りには、適度の食塩が不可欠で、小麦粉を溶く塩水の水と塩の割合が重要となります。この割合のことを、讃岐では、昔から、俗に「土三寒六(どさんかんろく)」と呼び、美味いうどん作りの秘訣とされてきました。これは、バケツ一杯の水を使って小麦粉を団子にする場合、暑いときにはまずそのバケツに3分の1の塩を入れ、寒いときにはそのバケツに6分の1の塩でよい、ということです。
 “コシ”があって美味しいのは、打ちたてを茹でて水で締めた直後だとされています。

 次の“ダシ”ですが、“さぬきうどん”では、かけ汁にイリコの出汁を使い、これを“ダシ”と呼んでいます。香川以外のところでは、鰹節と昆布の一番出汁を“うどんつゆ”として用いているところが多いようです。
 イリコは、煮干し(にぼし)イワシのことで、鰹節よりも濃厚な出汁を作ることができます。香川県観音寺市の10Km沖合いに浮かぶ伊吹島は、このイリコの産地として知られており、その品質、味は日本一であるといわれています。島の周囲に広がる燧灘(ひうちなだ)は、イリコの原料であるカタクチイワシの好漁場となっており、水深が浅く、海の流れも緩やかなため、ここでとれるイワシは骨や身がやわらかく、イリコにしたときに水が浸透しやすく、ダシの出がよいといわれています。また、伊吹島では、漁を行う網元が加工までを一貫して行っているので新鮮な状態で加工されており、イリコの品質が良いといわれています。

 三番目の“具材”ですが、香川では、よく麺の上に“具材”を載せて一緒に食べます。“具材”には、ちくわの天ぷら、海老の天ぷら、イカゲソ、タコの天ぷら、かき揚げ、甘辛く煮た油揚げや牛肉、天かす、じゃこ天など魚肉を使った練り物の天ぷら、生卵、半熟卵、コロッケなど様々なものが用いられ、セルフサービスの店では色々な具材を自分の好みに合わせて選ぶことができます。香川県人にとっては、うどんに様々な具材を載せて一緒に食べるということは常識ですが、県外人には珍しく映るようです。

 うどんの原料である小麦の原産地は、現在のカスピ海南岸地域、アフガニスタンからイラン、イラクにかけての地域だと考えられています。それが、西に伝わり「パン文化圏」、東に伝わって「麺文化圏」となりました。
 日本では、紀元前5~3世紀の縄文時代晩期ないし弥生時代の初期にかけて、既に小麦の栽培が始まったものと考えられています。8世紀には「小麦と大麦を植えるように」という詔勅が出ており、「古事記」にも、スサノヲノミコトに関連するエピソードの中に小麦が登場しています。しかし、この頃までは小麦は雑穀の一つに過ぎなかったものと思われます。
 うどんのルーツは、奈良時代に発達した“混沌(こんとん)”という小麦粉を丸めて煮た団子のようなもので、その原型は7~8世紀ごろ、飛鳥時代から奈良時代にかけて中国から伝えられたものと考えられています。それが日本人の口に合ったものにされていき、室町時代には“饂飩(うどん)”になります。その製法は、基本的に現在とほぼ同じだったようで、今日のうどんの元祖だと考えられています。しかし、この頃までのうどん類は、公家や武家が仏事の集会などにおいて、「点心」という今で言うおやつの一つとして食べられていたようです。うどんが現在のように庶民の食べ物として普及したのは江戸時代からのことです。江戸時代前期の元禄の頃には江戸、京、大坂、そして讃岐の琴平にもうどん屋が出現しています。

 ところで、香川には、うどんはお大師さん、すなわち空海が中国から持ち帰ったものだという言い伝えがあり、善通寺市には犬塚伝説という伝承も残っています。この伝承は次のような物語です。
 唐での留学を終えた空海は、日本に帰るとき、小麦の種を持ち帰ろうとしました。しかし、当時、小麦の国外持ち出しは禁止されていて、唐の役人が小麦の臭いを嗅ぎわけることのできる犬を使って、国外持ち出しをチェックしていました。今の麻薬犬のようなものでしょう。そこで空海は、足のふくらはぎのところを切って、その中に小麦の種を隠していました。検査のとき、犬は空海のところで吠えましたが、小麦を隠していることは発覚しませんでした。空海はその犬を不憫に思い日本に連れて帰りました。その犬が死んだときに葬られたところが、現在の善通寺国立病院近くにある犬塚だということです。
 空海は、奈良時代の末期宝亀5年(774)6月15日、現在の善通寺の地で誕生し、平安時代初頭の延暦23年(804)31歳のとき唐の長安(現在の西安)に留学し、大同元年(806)に帰朝しています。前述のように、小麦が日本に伝播したのはそれよりももっと早い時代で、うどんのルーツもすでに奈良時代にはあったようです。しかし、うどんは空海が中国から持ち帰ったという伝承は、全く根拠のない作り話だともいいきれないところがあるように思われます。

 空海が留学した当時、唐は広大な領土を有する世界国家であり、その都である長安には日本や新羅、吐蕃など周辺諸国からの使節・留学生が訪れていました。また、長安はシルクロードの東の窓口であったことから、西域から僧侶や商人たちなども訪れ、仏教のほか、イスラム教・マニ教・景教(ネストリウス派キリスト教)・ゾロアスター教などの寺院が建ち並ぶ国際色豊かな都市でした。ちなみに西遊記の三蔵法師のモデルとなった玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)がガンダーラから膨大な経典を長安に持ち帰ったのは、西暦645年といわれており、空海が長安に行く約160年前のことです。
 当然のことながら、西域の様々な文物もシルクロードを通じて盛んに長安に流れ込んできており、品種改良された小麦の種子や小麦を原料とする麺の様々な製法もその中に含まれていたと思われます。現在でも西安の人たちは小麦を主食としており、それを様々な麺にして食していますが、空海が留学していた当時も、長安では色々な麺を食べられており、空海も麺を食べたと想像されます。

 空海をはじめ中国に留学した僧は、仏教以外にも様々なものをわが国に持ち帰りましたが、その中に品種改良された小麦の種子やそれを原料とする麺の製法もあったのではないかと考えられます。僧は肉食を禁じられていたことから、小麦は貴重な植物性タンパク質の補給源として僧侶たちの間で食されていたのではないでしょうか。
 小麦と米のタンパク質含有量を比較すると、日本の玄米が平均6.8パーセントといわれているのに対して、小麦は6~15%含まれています。また、タンパク質は水の吸収を阻害することから、ご飯を炊くときにデンプンの膨潤を抑えてしまう働きがあり、同じ品質の米でもタンパク質の含有の高いものは粘りが弱くなり、その含有が低いものは粘りが強く炊き上がりもふっくらとしたご飯になります。したがって、粘りのある美味しいご飯ほどタンパク質の含有量が低くなります。
 また、小麦にはビタミンB1が含まれており、食べることにより脚気を防止することができます。
 このことからすると、米飯中心の食生活をする場合、小麦は貴重な栄養の補給源となることが僧侶たちの間で経験的に知られていたのではないでしょうか。

 讃岐は古代、仏教の先進地で、白鳳時代にすでに17か寺、奈良時代には31か寺を数えていたといわれます。伊予・阿波が各10数か寺、土佐が5か寺、備前・備中・備後が各20か寺前後といわれており、讃岐の仏教文化の高さがうかがえます。これは、讃岐と吉備(岡山)との間にある備讃瀬戸は、畿内に近い瀬戸内海沿岸の中では最も海が狭くなるところで、讃岐の港には、中国大陸と畿内を往来する船が頻繁に立ち寄り、先進の仏教文化を伝えたことと関係があるように思われます。そして、中国で学んだ僧たちは、讃岐に上陸したとき、讃岐の寺院で起居する僧の集団に、品種改良された小麦の種子やそれを原料とする麺の製法を伝えたのではないでしょうか。それが、後に庶民一般に広まっていったのではないでしょうか。「お大師さんが中国から持ち帰った」というのは、「僧が中国から持ち帰った」ということであり、その意味するところは、“さぬきうどん”は讃岐の古代仏教文化によって産み出されたということではないでしょうか。
 ちなみに、中国西域奥地にあるタクマラカン沙漠で「楼蘭の美女」と呼ばれるミイラが発見されていますが、その棺の中には草編みの籠が入っていて、その中には小麦の種子があったそうです。そのミイラは紀元前1800年ぐらい前の人だということですが、最近の科学的研究によると、その小麦と讃岐の小麦のDNAとは一致するといいます。

 13世紀の鎌倉時代になると、土地利用率の向上によって集約的に多くの生産をあげることを目的として、稲作のあとに裏作として麦をつくる水田二毛作が発達します。裏作の麦は租税対象とされずに農家の収入となったため、零細な農家の経営を支えることになったといわれています。
 讃岐は、温暖な気候であることから水田二毛作が発達し、しかも冬場に雨が少ないことが小麦の栽培に適していたため、“さぬきうどん”の原料となる良質の小麦を産したものと考えられます。興味深いことに、中国の西安(かっての長安)と讃岐は同緯度にあります。この小麦の生産に加え、瀬戸内海沿岸で生産される良質の塩やイリコ、醤油など、うどんの材料となる主要な産物が入手しやすかったことも讃岐でうどんが発達した大きな要素だと考えられます。
 しかし、戦後の高度経済成長以降は、裏作として小麦栽培も行われなくなり、“さぬきうどん”の原料となる小麦粉の多くは、オーストラリア産の「Australian Standard White」(略称ASW)が用いられていました。こうしたことから、讃岐産小麦で作られた本場の“さぬきうどん”作りを目指し、2000年代に入り、讃岐うどん用小麦として新品種の「さぬきの夢2000」が開発されています。

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テーマ : 香川
ジャンル : 地域情報

(137)“瀬戸内の古代の風景が残る信仰の山”

 シルクロードという言葉を初めて使ったのは、ドイツの地理学者であるリヒトホーフェン(1833~1905年)だといわれています。リヒトホーフェンは、1877年に出版した著書の中で、ユーラシア大陸の東西を結ぶ交易路を始めて「ザイテンシュトラーセン」(絹の道)と呼び、その後、それが英訳されて「シルクロード」といわれるようになりました。
 リヒトホーフェンは、幕末の万延元年(1860)に瀬戸内海に立ち寄り、「広い区域に亙る優美な景色で、これ以上のものは世界の何処にもないであろう。将来この地方は、世界で最も魅力ある場所の一つとして高い評価をかち得、沢山の人を引き寄せることであろう。此処には到る処に生命と活動があり、幸福と繁栄の象徴がある。」と、その風景の美しさを称賛し、旅行記として世界に発表しました。
 そのリヒトホーフェンが称賛した瀬戸内の風景とは、静かな海面に多数の島々が点在し、多くの岬が突出した多島海的景観の美しさと、白砂青松の連なる海岸の美しさにあり、また、段々畑など古くから自然と人間の営みとが一体となった景観だといわれています。その特徴は、風化花崗岩の白砂とクロマツが形成する白砂青松、海に面するアカマツの生えた絶壁の崖地など、マツが景観の重要な要素を形成していたと考えられます。讃岐でも、津田の松原(琴林公園)や観音寺の有明浜(琴弾公園)は、瀬戸内を代表する白砂青松です。
 しかし、幕末から明治初期にかけての時期は、日本列島の自然が最も荒廃していたときだといわれており、特に瀬戸内海沿岸は製塩業が盛んであったことから、塩田近くでは多量の木が燃料として伐採され、ハゲ山が広がっていました。リヒトホーフェンも、その景観を、「それらの山々は、けわしく傾斜しているとはいえ、粗削りの形はどこにもなく、針葉樹の群を含む灌木で覆われている。数多くの露出個所が赤みを帯びた分解した土壌を示しているが、その土壌ははなはだ不毛に違いない。そのために、それぞれの山は全体が、赤みかかった荒涼たる外観を呈している」と記しています。

 リヒトホーフェンが訪れてきたときから約1600年前、3世紀頃の中国は三国時代(220~280年)でしたが、その三国の一つ魏(ぎ)の使者が、当時、倭(わ)と呼ばれた日本を訪れています。のちにその見聞は「魏志倭人伝」としてまとめられ、その中に女王・卑弥呼が治める邪馬台国のことが書かれていることはよく知られているところです。
 魏志倭人伝には、倭国は「土地は山険にして深林多く、草木茂盛・・・」であり、そこにはクスやカシなどの樹木が見られると記載されているということです。しかし、その中にマツの記載はないそうです。この記述から、魏志倭人伝の使者が見た倭の国の自然は、カシ・シイ・クス・タブなどの暖温帯照葉樹林で覆われ、うっそうとして黒々とした深い森だったと想像されています。この当時の瀬戸内沿岸の風景は、リヒトホーフェンが見たものとは全く様相が異なっていたと考えられます。卑弥呼が生きた時代からリヒトホーフェンが訪れてきたときまでの間に、瀬戸内海沿岸の自然は人によって手が加えられ、それに伴って風景も大きく変化していったのです。

 スギやヒノキなどの針葉樹に対して、温帯から熱帯を中心に分布し、葉が広くて平たい被子植物に属する木本を広葉樹といい、そのうち、生育に不適な季節になると全ての葉を落とすものを落葉広葉樹といいます。その樹冠つまり樹木の最上部は逆円錐形をしており、日本では、冬に葉を落とし、水分の消費を抑えて休眠状態で春を待ちます。一般的に、ある土地に生育している植物の集団を全体的にとらえて「植生」といいますが、日本における落葉広葉樹の自然植生は、水平的には平地では中部地方の山沿いから東北、北海道地方の南部にかけて、垂直的には本州南部では標高約1000m以上だといわれています。主な樹木はブナ、ミズナラ、カエデなどで、特にブナが中心になるので、ブナ帯とも呼ばれます。よく知られている白神山のブナ林はその自然植生の代表です。
 一方、広葉樹でも落葉する時期のない木を、常緑広葉樹といいます。樹冠は“もこもこ”と丸くなっており、葉は巾広で面積が大きく、初夏に新旧の葉を入れかえ、冬も青々と葉をつけます。熱帯から暖温帯にかけて通年の環境変化が少ない良好なところに生育します。常緑広葉樹の中でも暖温帯に生育するものは、冬の寒さに対する対策として葉が小さくて厚くなる傾向があり、また、葉の表面がロウ質の発達したクチクラ層で被われて陽光を受けるとテカテカ光ることから、「照葉樹」とも呼ばれています。主な樹木は、カシやシイ、クス、タブ、ヤブツバキ、サカキなどです。照葉樹林の林内は薄暗く、じめじめして、シーンと静まりかえっています。なお、地中海地方に見られるゲッケイジュやオリーブも暖温帯の常緑広葉樹ですが、夏期に雨が少ないため、それに対応して葉が硬くなっており硬葉樹とも呼ばれます。
 森林は長い年月をかけて気候的にできあがっていくものですが、照葉樹林の自然植生地帯は、アジアでは、ヒマラヤの南麓部からアッサム、東南アジア北部の山地、中国雲南省の高地、さらに揚子江の南側の山地を経て、日本列島の西南部と東アジアの暖温帯一帯に広がっています。日本列島においては、縄文時代前期の6500年前頃から、気候の温暖化により西日本の低地を中心に急速に拡大していき、倭国の時代にあたる弥生時代には、西日本の低地をびっしりと覆い、もうこれ以上変化しない極相林として安定したものと考えられています。
 ちなみに、西日本一帯を含めたアジアの照葉樹林帯では、ワラビ・クズなどを水に晒してアク抜きする方法、茶の葉を発酵させ加工して飲用する慣行、蚕から絹を作る技術、ウルシから漆器を作る技法、麹を発酵させた酒づくり、ミソ・納豆などの発酵食品づくり、コンニャクの製法、イモ類・アワ・ソバなどを栽培する焼畑農耕などの生活文化や、さらには神話・習俗においても共通の特色があることが指摘されています。これら地域を「照葉樹林文化圏」という概念でとらえ、日本文化をはじめ東アジアの伝統文化の基層を形づくる文化であると考える学説もあります。

 照葉樹林に覆われていた地域は気候も暖温であることから、そこには古くから人が住み着きました。人口が増加するにしたがって、食料、燃料、家屋、道具等を確保する必要があります。そこで、人は、田畑を開墾するために、また薪炭燃料や建築用材などを得るために照葉樹林の森を伐採していきました。そして、伐採した跡には、風・塩・砂に強くて痩せ地でも育ち火力の強いマツや、用材として加工しやすいスギ・ヒノキなど人が利用しやすい樹種を植林し、照葉樹林に置き換えていきました。また、人が再三の伐採などの人為的撹乱をしたことにより、照葉樹林は、コナラやアベマキ・クヌギなど落葉広葉樹の雑木林に移行していきました。
 ちなみに、マツは、6、7世紀にかけての飛鳥時代頃から急速に拡大したといわれています。これは、古墳に代わって寺院が建立されるなどにより、瓦を焼くための燃料、建築用材として多量の照葉樹林が伐採されていったためと考えられています。
 こうして、かつて日本列島を厚く蔽っていた原生の照葉樹林は、その大部分が失われていきました。わが国では、現在、原生の照葉樹林は、宮崎県綾町の照葉樹林地や、いわゆる「鎮守の森」といわれる寺社林、社寺林、とりわけ社叢などの一部例外を除き、まとまった面積のものはほとんど見られなくなってしまいました。
 その中で、瀬戸内海沿岸では、琴平町にある象頭山(琴平山)の金刀比羅宮社叢は、よく原生状態を残しており、全国的にも代表的で面積も広い原生林に近い亜極相の照葉樹林の森だといわれています。特に、この山のクスノキ林は、わが国のクスノキ林の北限地と考えられています。象頭山は、古くから神域として改変が禁止され、人の手が加えられてこなかったことから、原生状態をよく保ったものです。ちなみに、象頭山は昭和26年、天然記念物に指定されています。
 古伝によれば、太古の時代は、この辺りまで瀬戸内海の海水が深く湾入し、潮が常に山麓を洗い、湾奥に船の碇泊所が横たわっており、大物主神がここに行宮を営まれ、表日本経営の本拠地と定めて、中国、四国、九州の統治をされたといわれています。金刀比羅宮はその行宮跡に大物主神を奉斎したところで、のちに“海の神様”として広く親しまれるようになったものだと伝えられています。鬱蒼とした樹林に囲まれた象頭山の各所には、今も神の山という雰囲気が漂っています。卑弥呼が見ていた風景も、象頭山に見られるような照葉樹林の森の風景だったのではないでしょうか。

 このように、瀬戸内沿岸地域の元の自然植生は照葉樹林であり、マツ、雑木林、スギ・ヒノキなどは、人の手が入ったことにより、照葉樹から替わっていったものですが、人によって改変された植生も、人為的作用が加わらなくなると、その土地本来の元の植生に復帰していきます。これを「再極相化遷移」といいます。「遷移」とは、その土地で植物種が自然に交代して植生が変化していくことで、数百年から数千年単位のサイクルで繰り返しています。
 高度経済成長時代以降、我が国では、エネルギー源が、薪炭燃料から石炭・石油の化石燃料へ急速に転換していきました。また、農地肥料は、それまでの森林の落ち葉・下草を材料とした堆肥から化学肥料へ転換していきました。さらに、昭和38年に木材輸入が自由化され建築用材を外材に依存するようになりました。こうして、日本の多くの森林は人の手が入らず、放置されたままになっていきました。それに加えて、昭和30年代後半以降、マツクイムシが猛威をふるい、多くのマツ林が枯死しました。このため、放置されたままの雑木林や松枯れ地などが増加し、これらの森林には瀬戸内の本来の植生である照葉樹林へ徐々に移行する再極相化遷移が見られます。
 照葉樹林は、森から川に流れ出す降水のスピードが緩慢であるため緑のダムとして水源涵養の機能が高く、山火事にも耐性があり、魚つき林として河口付近に好漁場を確保するなど、多くの効用があります。したがって、照葉樹林への再極相化遷移を否定的に考える理由はありませんが、このままの再極相化遷移が進めば、リヒトホーフェンが見た瀬戸内の風景は、見られなくなってしまうでしょう。また、こうした再極相化遷移もすんなり進行しているわけではなく、放置されたスギ・ヒノキ人工林の水土保全機能の低下、モウソウチクの繁茂による竹害などが大きな問題となっています。

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(136)“日本モダニズム建築の到達点といわれる香川県庁舎”


 パリやローマなどのヨーロッパの都市を歩くと、日本の都市の街並みと大きな違いがあることに気が付きます。ヨーロッパの都市には、あまり高くなくクラシカルな外観の個性的な建物が多く残っています。これに対して、日本では、全国どこの都市でも、四角い箱のような没個性的なビルばかりが目立ちます。それは、広く開けられた四角いガラス窓や、凹凸や装飾の少ない外壁をもち、外壁の色も白系統か薄く目立たない色のものであるという共通性を持っています。ヨーロッパと日本のこのような差異は、建築思想の受け入れ方の違いに基づくものです。
 中世ののち、19世紀以前のヨーロッパでは、古代ギリシャ・ローマに起源を持ち、ルネサンス建築で復興された建築様式が長く主流とされてきました。建築は建物の基本構成から細部の装飾に至るまでやり方が決まっており、建築家は過去の歴史的様式を深く理解し、その決まった枠の中で個性を発揮して芸術的な作品を造ることが求められました。これを“歴史主義”あるいは“様式主義”といます。ヨーロッパの都市に残っているクラシカルな外観の建物は、この歴史主義に基づくものです。
 日本でも、1868年の明治維新以降、文明開化により欧米の文物が導入されるのに伴い、歴史主義に基づく洋風建築物が建てられていきました。今でも、東京日本橋にある日本銀行本店や、高松でも百十四銀行高松支店(旧本店、大正15年:1926)に、それを見ることができます。ただし、この“歴史”主義とは、ギリシャ・ローマに始まる洋風建築のものであり、日本の伝統的和風建築のものではありません。

 20世紀に入ると、18、19世紀に起きた市民革命と産業革命以降の合理主義的・社会改革的な思想を背景に、“モダニズム”(近代主義)と呼ばれる実験的な芸術運動が各分野で起こります。モダニズムは従来の19世紀芸術に対して、伝統的な枠組にとらわれない表現を追求し、その後、未来派、キュビズム、シュールリアリズム、ポップアート等へと展開していきます。
 建築の分野でも、19世紀以前の様式建築を桎梏としてそこから離脱し、合理的な精神から成り立つ近代精神をベースに、人が快適な生活を送ることができるための経済的・合理的・機能的な現実に合った建築を造ろうという試みが行われるようになります。その背景には、技術革新により、鉄骨造や鉄筋コンクリート造が普及し、また大量生産のガラスなどの新しい素材が使われるようになったことと、また社会生活の多様化に応じて建築に様々な要求が求められるようになったことがあるといわれています。これを“モダン・ムーブメント”(近代運動)といい、これにより生まれた建築様式を“モダニズム建築”(近代主義建築)といいます。
 モダニズム建築は、民族や国境を超えた、世界共通の普遍的なデザインを目指すことから“インターナショナル・スタイル”とも呼ばれ、機能的・合理的で装飾のない直線的構成を持つ立方体を特徴とします。モダン・ムーブメントは、1920年代に西ヨーロッパで明確な形をとり、その後世界に広まっていき、各国で新しい建築を求めて様々な試行錯誤が繰り返されていきます。

 日本でもヨーロッパの動きに応じ、1920年代からモダニズム建築の理念が導入され、第二次世界大戦による中断を含みながらも急速に普及していきました。日本では洋風の歴史様式をまとった建築は否定され、装飾のない“豆腐のような”、“白い箱”といわれる機能性・合理性だけの無味乾燥な建物が主流を占めます。その背景としては、日露戦争から第1次世界大戦にかけての日本の工業生産の発展、また日本にはギリシャ・ローマに始まる洋風建築の歴史的伝統が存在しなかったことなどが考えられます。

 戦後の20世紀半ばになると、世界ではモダニズム建築の理念が普及し、国連本部ビル(1952年)に代表されるような装飾のない建物が一般的となり、白い箱ばかりの街並みが生れていきました。しかし、このような街並みについては、単調で味気ないという批判が起こり、モダニズム建築は次第に革新性を失っていきます。そして、モダニズム建築が世界各国にも普及していくに従い、それぞれの地域の伝統に適用した建築、抽象と伝統との折り合いがその課題となりました。
 日本では、洋風としての歴史主義が消えても、和風あるいは“日本らしさ”への追求までが消えたわけではなく、むしろ、桂離宮などの数奇屋建築とモダニズムの近親性が論じられ、柱と梁(はり)で構成される日本の伝統的建築の方が、煉瓦や石を積み上げて造る西洋の建築よりも、モダニズムの理念と適合していると主張されました。

 第二次世界大戦後、モダニズムの旗手として登場したのが丹下健三です。丹下はすでに戦時中、伊勢神宮の中に伝統と抽象の同居する形を見出していたといわれ、白く四角い箱のモダニズムを“衛生陶器”と揶揄し、新たなモダニズムへの追求を試みます。
 丹下の戦後における実質的なデビュー作が、昭和30年(1955)に完成した「広島ピースセンター」です。この建物は、モダニズム建築でありながら、日本の伝統を強く感じさせる作品として、丹下の名声を一気に高めます。なお、平成18年(2006)、戦後の建築物としては初めて国の重要文化財に指定されています。
 さらに、丹下が、日本の伝統表現を建物の構造全体にまで及ぼしたのが、昭和33年(1958)に完成した香川県庁舎(現・東館)です。広島ピースセンターでの伝統表現は、ルーバー(羽板と呼ばれる細長い板を平行に組んで板状にして取り付けたもの)という表面の“装飾”にほぼ限定されていましたが、香川県庁舎では、日本の寺社建築に見られる柱と梁の繊細な組み合わせが、鉄筋コンクリートで表現されました。特に、床とベランダを支える小梁は、構造的な強さを確保しつつ、極限まで細く薄くすることにより、その連続・反復する様子は、下から見上げた時、五重塔のようにイメージされました。香川県庁舎は瓦屋根や日本的な装飾を用いずに、人々の感性に日本的伝統を訴えかけたモダニズム建築でした。
 「構造と表現」は、モダニズム建築が最初から抱えていたテーマでもありますが、香川県庁舎(現東館)は日本的伝統という切り口でこの難題に初めて明確な解答を出し、世界へ発信した作品という点で高い評価を得ています。日本におけるモダニズム建築の到達点を世界に示したともいえるものです。
 なお、香川県庁舎(東館)が完成した年は、巨人軍の長嶋茂雄選手が4打席4三振デビューをし、東京タワーが完成しています。また、現在の天皇・皇后である明仁・皇太子と正田美智子さんが婚約を発表し、ミッチー・ブームが始まったときで、日本が高度経済成長に突き進んでいたころでした。

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テーマ : 香川
ジャンル : 地域情報

(135)“日本野球史上最大のライバル劇を演じた二人の讃岐男”

 日本における野球の発祥は、明治5年(1872)、アメリカ人教師のホーレス・ウィルソンが第一大学区第一番中学(現在の東京大学)で生徒たちに教えたのが最初だとされています。それを記念して、東京神田の神保町にある学士会館敷地内には、「日本野球発祥の地」の碑が建立されています。香川で野球が始まったのは、その22年後の明治27年、高松中学校(現在の県立高松高等学校)の校長がアメリカの「ベースボール技術書」を手にし、野球部を創設したときからだといわれています。
 以降、日本では学生野球を中心に普及していき、大正4年(1915)には、夏の甲子園といわれる全国高等学校野球選手権大会の前身である全国中等学校優勝野球大会の第1回大会が大阪の豊中で開催されます。また、大正13年には、春の甲子園といわれる選抜高等学校野球大会の前身である選抜中等学校野球大会の第1回大会が名古屋で開催されます。夏、春の甲子園大会が甲子園球場で行われるようになったのは、それぞれ第10回大会、第2回大会のときからです。
 さらに、大正14年(1925)秋からは東京六大学野球が始まり、学生野球が大学間のリーグ戦として行われるようになります。
 日本での本格的なプロ野球が始まったのは、昭和9年(1934)に来日したアメリカチームと対戦するために組織された全日本野球倶楽部(現在の読売巨人の前身)が結成されたのがきっかけで、昭和11年に巨人、阪神などによって日本職業野球連盟が発足します。
 この甲子園、東京六大学野球、プロ野球を通じて二人の讃岐男が、戦前から戦後にかけて、まるで運命の糸が絡み合うように、宿命の闘いを繰り広げます。その闘いのドラマは、あたかも戦国時代の武将を髣髴させ、日本中の観客を興奮と感動の渦に巻き込みました。
 その二人の讃岐男とは、巨人軍の監督として第二期黄金時代を築いた水原茂と、セ・パ両リーグ日本一を初めて達成し、「野球は筋書きのないドラマである」という名言を残した三原脩(おさむ)です。水原と三原は小次郎・武蔵にも例えられた永遠のライバルでした。

 水原は明治42年(1909)1月19日、香川県の高松市福田町で、父庄八・母章江の長男として生まれます。旧姓を竹林といい、のちに親子で五番丁(今の番町2丁目)の水原家へ養子に入ったことから水原姓を名乗ります。家業はクリーニング業を営んでいました。大正4年(1915)に築地尋常小学校へ入学し、3年のときに高松尋常高等小学校へ転校します。大正12年、14歳のときに高松商業学校(現高松商業高等学校)へ進みます。
 一方、三原は明治44年(1911)11月21日、現在のまんのう町で、父一彦・母政子の末っ子5男として生まれます。実家は大地主でした。大正7年(1918)、丸亀城西尋常小学校へ入学し、大正13年、13歳のとき丸亀中学校(現丸亀高等学校)へ進みます。しかし、野球に熱中したため野球嫌いの父親の意向で、昭和2年(1927)、4年生の秋、16歳のときに高松中学校へ転校します。ところが高松中学の校長が野球部に入ることを条件に転入を認めたことからさらに野球にのめり込んでいきます。
 高松商業は香川県における中等実学教育の中心で、一方、高松中学は県内第一の進学校でした。その校風は対照的で、大正の終わりから昭和の初めにかけて、高松商業と高松中学は野球で競い合い、高松の町も高中(たかちゅう)派と高商(たかしょう)派に別れて激しい応援合戦を繰り広げていました。高松中学の校長が三原に野球部に入ることを条件に転入を認めたのもこのような背景があったといわれています。
 水原が入ったころの高松商業野球部は、春の第1回選抜大会(大正13年)で全国優勝したのを皮切りに黄金時代を迎えようとしていました。水原の1年先輩で剛腕投手として知られた宮武三郎や同級生の井川喜代一、堀定一など、のちに慶応大学に進み、東京六大学野球やプロ野球界などで活躍する多くの逸材を輩出しています。
 水原は、高松商業では、投手・三塁手として活躍し、春夏合わせて5回甲子園へ出場しています。大正14年(1925)、3年生のとき、春の第2回選抜大会で全国準優勝し、その夏の第11回選手権大会では全国優勝を達成します。このときの高松商業の投手は宮武三郎でした。さらに、翌々年の昭和2年(1927)、5年生のとき、夏の第13回選手権大会でも全国優勝し、優勝投手にも輝きます。
 水原と三原は、夏の第13回選手権大会四国予選の準決勝において初めて対決しますが、このときは、三原を含めて高松中学は高松商業の水原の前に手も足も出ずノーヒットノーランで敗れています。しかし、水原が高松商業を卒業した後の昭和3年(1928)、三原のいる高松中学は高松商業を破り、夏の第14回選手権大会で甲子園へ出場します。三原は遊撃手として参加します。この大会で高松中学は準決勝戦まで進みますが、松本商業に「豪雨によるコールド負け」で無念の敗退をします。ちなみに、このとき高松中学野球部のマネージャーは、後に日本社会党中央執行委員長となる成田知巳でした。
 そのころの日本の野球は、学生野球が花盛りの時代で、甲子園の中等野球(今の高校野球)や東京六大学野球に観衆は熱狂していました。また実業団の都市対抗も人気を集めていましたが、プロ野球はまだ始まっていませんでした。このような中で、高松は野球が盛んなところで、大正13年から昭和5年の7年間における中等野球全国大会での成績は、高松商業が優勝2回、ベスト8が2回、それに次ぐ高松中学がベスト4が2回、ベスト8が1回という成績で、「野球王国」と呼ばれました。

 昭和3年(1928)、水原は、先輩の宮武三郎がいる慶応大学へ、同級の井川喜代一・堀定一とともに入ります。昭和4年春の慶応野球部メンバー27名のうち、高松商業出身者は、宮武、水原、井川、堀のほか野村栄一の5名がいました。
 一方、翌昭和4年、三原は早稲田大学へ入ります。中学校を卒業するとき、三原は旧制第四高等学校(現在の金沢大学)を受験しており、野球を続ける気持ちはなかったようです。受験の間に東京の親類のところへ行ったときにスカウトされたといいます。
 水原と三原の二人が早慶戦で最初に顔を合わせたのは、昭和4年5月21日のときです。このとき2年生の水原は三塁手と投手をやっていますが、新入生の三原はピンチ・ランナーに出ただけでした。この年の10月13日、二人は初対戦をします。水原は投手として登板し、三原は新人でしたが左翼手としてスターティング・メンバーに入ります。この対戦では、三原は水原に対して、三振を2回を喫しています。ちなみに昭和4年には世界大不況が始まっています。
 二人の本格的な対戦は、昭和5年5月17日の早慶戦のときからです。このとき、水原は5番・三塁手、三原は2番・二塁手して出場し、三原は宮武三郎投手から安打を放っています。その後、水原と三原の二人は東京六大学野球のスター選手として人気を博します。ちなみに、宮武三郎は、打者としても活躍した選手で、長嶋に破られるまでは東京六大学のホームラン記録を持っていました。昭和40年に野球殿堂入りをしています。
 昭和6年(1931)春季の早慶戦2回戦で、早大の三原は、6回慶大が2-2の同点とした直後の7回、2死満塁の場面でホームスチールを敢行します。このときの慶大の投手は水原でした。三原のホームスチールは左打者が打席に入っていたときに企てたもので、打者が左打席に立てば三塁走者の動きは相手捕手から丸見えになるばかりか投手は右投げの水原であり、通常ホームスチールが考えられない局面でした。このホームスチールで勝ち越した早大は流れをつかみ、その後も加点して6-3で対戦成績を1勝1敗とし、前年春からの早慶戦の連敗を5で止めています。ちなみに昭和6年は満州事変が勃発し、翌昭和7年には五・一五事件が発生しており、世相は暗くなる一方でした。
 しかし、三原は、昭和8年(1933)春季終了後、スター選手の座を捨て野球部を突然自主退部します。病床についていた郷里の父が眼の黒いうちに三原が身を固めるのを見たいと言い出したのですが、当時早大野球部は学生結婚を認めていなかったので、結婚を機にあっさり退部したというわけです。三原は早稲田を中退して一時、香川へ帰郷します。
 一方、水原も、昭和8年秋のリーグ戦終了後、慶応野球部を退部します。この当時の早慶戦は応援もかなり過熱気味だったようで、この年の秋のリーグ戦で、早大側応援席から投げ込まれたリンゴを慶大三塁手の水原が投げ返したことにより乱闘事件が発生し、その責任をとったというわけです。のちに「水原リンゴ事件」と呼ばれるこの事件以降、早慶戦では、早大と慶大のダック・アウト・応援席は、それぞれ一塁側、三塁側に固定されたといいます。

 昭和9年(1934)、水原は、奉天(今の中国瀋陽市)の自動車会社に入り、実業団野球に活躍の場を求めます。一方、三原は、香川から大阪へ出て就職し、都市対抗全大阪チームに参加します。
 この頃、わが国ではプロ野球を結成しようという動きが急速に高揚し、昭和9年(1934)、読売新聞社長の正力松太郎の招聘により、ベーブ・ルースらが加わるアメリカ大リーグ選抜チームが来日することになりました。そして、アメリカ選抜チームと対戦するため日本でも全日本チームが結成され、大阪にいた三原、満州にいた水原茂らが全日本チームに参加します。投手の沢村栄治もこのとき一緒に参加しています。三原23歳、水原25歳のときです。
 アメリカ選抜チームとの対戦では、水原と三原の二人は、交互に二塁を守り、三原は11試合出場で38打数6安打、水原は10試合出場で21打数2安打でした。なお、三原は両チームトップの5盗塁を記録します。ちなみに、静岡県草薙球場における試合で、沢村栄治投手がベーブ・ルース、ルー・ゲーリックらを三振にしとめる好投をした話はよく知られているところですが、このときの二塁手は水原でした。
 こうして日米野球の盛り上がりもあり、昭和9年12月26日、全日本チームを基礎としてわが国で初めてのプロ野球団体である「株式会社大日本東京野球倶楽部」(現在の読売巨人軍)が創設され、水原も三原も加わります。なお、大日本東京野球倶楽部と最初に契約し、我が国のプロ野球選手第1号となったのは、三原でした。
 翌、昭和10年2月、大日本東京野球倶楽部一行は105日間のアメリカ遠征に向かい、水原は沢村栄治らと参加します。しかし、三原は、陸軍から召集を受け、昭和10年1月に郷里の丸亀連隊に入隊したため参加できませんでした。これから本格的に活躍の場ができたと思っていた三原は悔しい思いをしたことでしょう。
 この年、大日本東京野球倶楽部が帰国すると、全国各地にプロ野球球団設立の動きが出てき、10月末に大坂タイガースができたのを皮きりに、名古屋軍、東京セネタース、阪急軍、大東京軍、名古屋金鯱軍の合計6球団が名乗りをあげます。そして翌昭和11年(1936)2月5日に巨人軍を含む7球団で「日本職業野球連盟」が結成され、初めてプロ野球のリーグ戦が始まります。
 昭和11年の前半、水原は巨人軍のメンバーとして第2回目のアメリカ遠征をしています。一方、軍隊にいた三原は、この年の7月末、1年余りで除隊することができ、早大の先輩である巨人軍藤本監督の要請で秋のリーグ戦から選手兼助監督として巨人軍に復帰します。そして、この年の秋の優勝チーム決定戦は、巨人軍と大阪タイガースとの戦いとなり、巨人軍は、トップ・二塁手三原、二番・三塁手水原で始まる打線で、沢村投手を擁してタイガースに勝ち初優勝をします。ちなみに、この年、二・二六事件が発生し、日本は軍国主義へ大きく傾いていきます。
 しかし、翌昭和12年7月、三原は、日華事変の勃発により再び召集され、丸亀連隊に入り、中国戦線へと赴きます。そして機関銃隊第1分隊長として大場鎮の激戦に加わり、このときの戦闘で左太腿に貫通銃創弾を受けます。翌昭和13年3月、除隊した三原は再び巨人軍に復帰しますが、審判とのトラブルにより、その年、27歳で現役を引退し、その後報知新聞のスポーツ記者に転向します。このときの報知新聞の社長は、高松中学、早大の先輩で高松出身の三木武吉でした。
 水原はその後も巨人軍で活躍し、スター選手となります。昭和12年に後楽園球場が竣工すると、オールスター紅白試合では後楽園球場第1号のホームランを打ちます。昭和15年(1940)にベストナイン、昭和17年(1942)にMVPにそれぞれ選ばれ、主として三塁手として活躍します。
 当然のことながら、現役選手としては、選手生活の長かった水原の方が活躍しており、通算では、三原が92安打、0本塁打であるのに対して、水原は昭和11年から昭和17年までの7年間で476安打、12本という成績でした。
 日米開戦直前の昭和16年10月、三原は、30歳のとき、3度目の召集令状を受け陸軍曹長として善通寺第十一師団の司令部勤務となり、楯師団に配属されビルマ戦線へ赴きます。一方、水原も昭和17年のシーズン終了間際の9月、33歳のときに応召されて丸亀歩兵連隊に入隊し、満州へ出征します。二人の戦争体験は悲惨を極め、三原は多くの兵士が病死したビルマでのインパール作戦に従軍し、水原はソ連軍に連行されてシベリアで強制労働に就かされます。

 ビルマ・タイ国境で終戦を迎えた三原は、敗戦後1年近くも経てた昭和21年(1946)6月、九死に一生を得て帰国します。35歳のときです。その後、読売新聞の記者として勤務していましたが、再び野球の世界に復帰するチャンスが廻ってきます。翌昭和22年、請われて総監督の立場で巨人軍に復帰したのです。1年目のその年は5位に終わりましたが、2年目の昭和23年には2位となります。
 一方、水原は、昭和24年(1949)7月20日、40歳のとき、4年間のシベリア抑留生活の末ようやく帰国し巨人軍に合流します。出征から7年ぶりでした。そしてその4日後の24日、巨人対大映の試合前にホームベースのところで「水原茂、ただいま帰ってまいりました」とマイクを握って報告し、ファンから大歓声を受けます。このとき、三原が花束を持って水原を迎え、二人は固い握手を交わします。
 戦前、水原は名プレイヤーとして多くのファンの人気を得ており、そのプレーを再び見たいという声が高まります。しかし、水原は既に現役選手としてプレーするには無理な年齢となっており、試合に勝つことを優先する三原が水原を起用することはありませんでした。そのような中、三原にとって3年目のこの年、巨人は2位に16ゲームという圧倒的な差をつけて優勝を果たします。
 ところが、巨人軍のチーム内から、「三原は水原に対し冷たい仕打ちをしている」という批判の声が出てきます。そして、その動きは、昭和24年のシーズン終了後、巨人選手たちが監督の三原を排斥して水原を擁立しようとするいわゆる「幻の連判状事件」に発展します。選手たちは、要求が聞き入れなければ巨人を退団して他球団に移籍するとの姿勢をほのめかしたといいます。慌てた球団はこれをみて「総監督・三原、監督・水原」の人事を発表し、昭和25年、ついに水原が三原のあとを受けて巨人の監督に就任します。
 三原は球団から説得されて専任の「総監督」に就きますが、それは事実上の棚上げでした。水原はこの謀議にはかかわっておらず、「優勝に導いた監督が辞めさせられるのは筋が通らない」と監督交代には否定的だったといいます。総監督に祭り上げられた三原に球団から仕事が与えられることはなく、退屈しのぎに新聞社で将棋や碁を打つ毎日だったといいます。第一線に立ち自己の考える野球をやりたいという三原にとっては、座敷牢に閉じこめられているような屈辱の日々でした。ちなみに、昭和25年は朝鮮戦争が始まったときで、翌昭和26年は日本がサンフランシスコ平和条約に調印してようやく占領統治から独立したときです。
 巨人を去ることを決意した三原は名前を修から脩に改名し、昭和25年のオフ、西鉄ライオンズの監督に就任します。そのときの心境を三原は、後に、「私は報復の思いを胸に秘めて関門海峡を渡った」と記しています。翌昭和26年、40歳のとき、初のキャンプで「我いつの日か中原(ちゅうげん)に覇を唱えん」と第一声を発し、巨人総監督時代の悶々とした気持ちを晴らすため、西鉄を強大なチームに育て上げて、日本シリーズで巨人と対戦して負かそうと誓ったといわれています。

 一方、巨人軍の監督に就任した水原は、就任1年目の昭和25年(1950)こそ3位でしたが、昭和26・27・28年と3年間連続でリーグ優勝と日本シリーズ制覇を果たします。そして、その名声はますます高まり、球界の寵児となります。一方、三原西鉄は、昭和26年が2位、27年が3位、28年が4位と、なかなか成果が出ず、我慢の日々が続きます。ちなみに、昭和28年から野球のテレビ中継が始まります。
 こうした中、昭和29年、ついに転機が訪れます。忍耐のチームづくりにより地力をつけた三原西鉄は、チーム初のパリーグ優勝を果たします。この年、セリーグでは中日ドラゴンズが優勝し、水原巨人は2位に終わります。日本シリーズでは、三原西鉄は中日ドラゴンズと対戦しますが、3勝4敗で敗れ、日本一の座へはまだ一歩及びませんでした。

 昭和30年(1955)、水原巨人は2年ぶりにセリーグ優勝を果たします。しかし、三原西鉄はパリーグ2位にとどまります。水原巨人はさらに2年ぶりの日本シリーズ制覇も果たします。
 昭和31年、水原巨人は前年に引続いてセリーグ優勝し、三原西鉄も2年ぶりにパリーグ優勝を果たします。ついに、三原と水原は日本シリーズで闘うことになったのです。当時、この2人の闘いはマスコミから「巌流島の決闘」と評されるほどの注目を集め、知将・三原vs勝負師・水原ともいわれました。そして、この闘いで、三原西鉄は4勝2敗で水原巨人を倒し、念願の「巨人を破っての日本一」を成し遂げます。ついに、三原は自分を追った巨人に対して、報復を果たしたのです。
 翌年の昭和32年も、三原西鉄と水原巨人は再度それぞれリーグ優勝を果たし、日本シリーズで対戦します。このときも、三原西鉄が水原巨人を打倒し、日本一に連続して輝きます。
 さらに翌年の昭和33年、三原西鉄と水原巨人は再々度それぞれリーグ優勝を果たし、3年連続、日本シリーズで対戦します。巨人には新人の長嶋が加わっていました。2年連続で三原西鉄に辛酸をなめさせられた水原巨人は初戦から3連勝し、日本中の者がとうとう水原巨人が三原西鉄の息の根を止めるときがやってきたと思いました。しかし第4戦以降、奇跡が起きたのです。西鉄はなんと稲尾和久が一人で4連投し、しかも4連勝したのです。まさに逆転の日本一で、三原の凄まじい執念が試合の流れを一気に変えたのではないかと思われました。この時稲尾が受けた称号が「神様・仏様・稲尾様」というものでした。ちなみに、この年の10月14日には東京タワーが完成しています。
 また、この頃の三原西鉄を打撃で支えたのが「怪童」といわれた中西太です。中西は、昭和8年4月11日に高松市で生まれ、高松市立第一高等学校に進み、昭和27年に西鉄に入団します。新人王を獲得し、翌昭和28年から31年にかけては4年連続で本塁打王に輝いています。ちなみに、三原の長女・敏子は中西太の妻であり、三原は中西の義父にあたります。
 昭和34年、パリーグでは鶴岡率いる南海(現ダイエー)が優勝し、三原西鉄は力を使い果たしたかのように4位に終わります。一方、水原巨人はセリーグ5連覇を果たし、セリーグの覇者としての地位を守ります。しかし、日本シリーズでは鶴岡南海に破れ、日本一の座に4度涙を呑みます。

 昭和34年(1959)のオフ、三原は、9年間在籍した西鉄を去り大洋監督に就任します。当時大洋は昭和29年から昭和34年まで6年連続最下位でした。いよいよ、水原と三原の二人が同じセリーグで闘うことになったのです。セリーグ覇者の地位を守ろうとする水原、これを攻め取ろうとする三原、二人はペナントレースで死闘を繰り広げます。
 昭和35年、三原大洋は開幕から6連敗を喫し、苦しい幕開けとなります。しかし、すぐさま選手起用が冴え渡り、水原巨人と激しく優勝を争います。そして、三原は「超二流選手」たちを巧く組み合わせる采配を取り、1点差試合を33勝17敗で勝ち越し、ついに水原巨人を突き放して大洋球団史上初のリーグ優勝を果たします。水原巨人は2位に終わり、またしても三原に煮え湯を飲まされる結果となりました。
 この年の日本シリーズで、三原大洋は、「ミサイル打線」との異名を持つ大毎オリオンズと対戦します。そして、1点差勝ちの4連勝を果たしセリーグから日本一に輝きます。前年度最下位からの日本一でした。両リーグから日本一を達成したのは三原が初めてでした。また監督として3球団での優勝はプロ野球史上初の快挙でした。この功績が評価され、三原はスポーツ界では初めて菊池寛賞を受賞します。この賞は同郷の文豪菊池寛を記念して設けられたものでした。
 なお、三原大洋が日本一となったこの年、新人の近藤昭仁(あきひと)が日本シリーズMVPに輝いています。近藤は、昭和13年4月1日に高松市で生まれ、高松第一高等学校、早稲田大学を経て、昭和35年に三原大洋に入団していました。
 このときが三原の絶頂のときでした。一方、水原はセリーグ6連覇を達成できなかった責任を取り、昭和25年から昭和35年まで11年間務めた巨人軍監督を追われるような形で退任します。勝者が出れば、必ず一方に敗者が出るという勝負の世界の厳しい掟でした。なお、水原の後任は川上哲治です。

 しかし、野球の世界はまだまだ水原を必要としていました。水原は、請われて昭和36年から東映(現日本ハム)の監督に就任したのです。今度は水原がパリーグに移ったのです。そして、翌昭和37年(1962)、リーグ優勝を果たし、さらに阪神を破って日本シリーズを制覇します。水原自身にとって5度目の日本一でした。巨人を追われた水原が東映を育てて巨人に一矢を報いたのです。
 水原は、東映監督を昭和42年まで7年間務め、その後昭和44年から中日の監督を3年間務めます。昭和46年を最後に62歳で監督を退任します。
 一方、三原は、8年間務めた大洋監督を辞した後、昭和43年から3年間近鉄バッファローズの監督に就きますが優勝は出来ず、その後、昭和46年から3年間ヤクルトに移籍しますが、3年連続でBクラスのままに終わり、昭和48年を最後に62歳で監督を退任します。ちなみに、水原の中日監督最終日の第一試合の相手は終世のライバル・三原率いるヤクルトでした。

 通算成績は、水原が1586勝1123敗73分け、三原が1687勝1453敗108分けでした。
リーグ優勝は、水原が昭和26~34年(昭和27年を除く)の巨人優勝8回と昭和37年の東映優勝1回の計9回であるのに対して、三原が昭和24年の巨人優勝1回と昭和29~33年(昭和30年を除く)の西鉄優勝4回それに昭和35年の大洋優勝1回の計6回です。
 日本シリーズ優勝は、水原が昭和26~30年(昭和29年を除く)の巨人優勝4回と昭和37年の東映優勝1回の計5回であるのに対して、三原が昭和31~33年の西鉄優勝3回と昭和35年の大洋優勝1回の計4回です。
 水原は昭和52年に、三原はその6年後の昭和58年にそれぞれ野球殿堂入りを果たします。昭和57年3月26日、水原逝去、享年74歳。その2年後の昭和59年2月6日、三原逝去、享年72歳。
 水原と三原は小次郎・武蔵にも例えられた永遠のライバルで、犬猿の仲とも評されましたが、ユニフォームを脱いだ後は交流があったといいます。水原は「三原は素晴らしいライバルだった。彼の先を見通す眼の確かさ、着眼点の素晴らしさには敬服した。」と、三原は「彼がいなかったら私の闘争心はあれほど燃えなかっただろう。そういう意味で感謝しなければならない。」と、それぞれ相手を称えたといいます。

  「讃岐国の風俗、気質弱く、邪智の人、百人に而(しか)して半分如(ごと)く斯(か)くなり。武士の風、別諂い(わけてへつらい)強く方便をもって立身をすべきなどと思う風儀の由(よし)、兼ねて聞き及ぶに不替形(ふたいけい)儀なり。」といわれるように、讃岐人は、利害にすばしこく、おべっかを使って出世しようという小利口で思慮の狭い「へらこい」県民性などと評され、昔から讃岐では大器が育たない風土ともいわれています。しかし、水原、三原の両監督は、このような讃岐人の典型から全く正反対の人で、自分の信念を、自分の実力でもって突き進んだ気骨のある讃岐男でした。
 高松市の中央公園には、水原と三原が並んで立っている像があります。その像を見ると、今まさに何かを二人が語ろうとしています。二人は永遠のライバルとして二人だけにしか分からない何かを語ろうとしているのでしょう。

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(134)“江戸時代初めに流行したパンクヘアのルーツは鬼十河”

 江戸時代、三代将軍徳川家光の頃、旗本小普請組の二男・三男の若者たちに、「十河額」という髪型が流行しました。それは前額から頭の中央にかけて月代(さかやき)を四角に大きく剃り込むもので、戦国時代の武将である十河一存(そごうかずまさ)がそのようなヘアスタイルしていました。十河一存は、「鬼十河」といわれた讃岐の猛将で、当時の若者たちがその武勇にあやかろうと真似をし始めたといわれています。
 徳川幕府も、三代将軍徳川家光の時代になると、戦乱も収束して安定期に入り、封建体制の確立により身分秩序も固定化されます。そして、武士の仕事も戦から幕府や藩を運営する行政的な事務に移っていき、武勇は無用の長物となっていきます。そうなると、下層武士の中でも特に家督を継げない次男以下の者たちは、いくら能力があっても、またいくら努力しても将来出世できるという見込みは全く無く、不平不満を蓄積させていきました。
 こうした封建社会から閉め出された下層武士や百姓の次男・三男、流民などの中から、派手で異様な身なりをして常軌を逸する目立った行動をする者が現れてきました。自分たちの不平不満を、武力により権力にぶつけるというほどの勇気は無いけれども、世間の耳目を自分たちに向けさせることにより発散しようということでしょう。当時、彼らは「傾者(かぶきもの)」と呼ばれました。
 こうした傾者は、徳川家直属の家臣である旗本の中にも現れます。下層の小普請組に属する不平分子には、幕府の直参であることを笠に着て、徒党を組んで町衆に乱暴・狼藉を働く者がいました。彼らは「旗本奴」と呼ばれ、上っ面だけの男伊達を競い、喧嘩と博打に明け暮れ、江戸市中を我が物顔で横行しました。その首領が悪名高い水野十郎左衛門(みずのじゅうろうざえもん)です。彼ら「旗本奴」が好んだヘアスタイルが「十河額」だったといわれています。十河額は、今風でいえば、パンクヘアのようなものでしょう。
 そして「旗本奴」に対抗して争ったもう一方のアウトロー集団が「町奴(まちやっこ)」です。その親分である幡随院長兵衛(ばんずいいんちょうべえ)と水野十郎左衛門との争いは芝居の題材にも使われ、よく知られた物語です。

 十河氏は神櫛王(かんぐしおう)の末裔といわれる植田氏の支族で、南北朝時代の初め頃から現在の高松市南部の山田辺りで勢力を伸ばし始めました。そのきっかけは、貞治元年(1362)、南朝方についた細川清氏が、勢力挽回のため讃岐の三木郡白山の麓に陣を構えて兵を募ったときの出来事だといわれています。清氏の呼びかけに、讃岐の諸豪族のうち、植田三郎景保の当時18歳であった末子・十河十郎吉保がまず応じ、次いで長兄の神内次郎景辰と次兄の三谷八郎景之が加わりました。このとき、清氏が、「十河は庶子であるが、惣領の挙動だ」といって、十河氏を植田一族の惣領に定めたということです。十河氏の家紋である檜扇は、このときに清氏から授けられた檜扇によるということです。清氏が細川頼之に敗れた後、十河氏は細川京兆家の被官となります。
 十河一存(そごうかずまさ)は、天文元年(1532)に、阿波の三好元長の四男として生まれます。通称を又四郎といい、讃岐の国人・十河景滋に子供が無かったのでその養子となり、後に一存と名を改め讃岐守と称しました。織田信長が生まれたのが天文3年(1534)ですから、信長と同世代といえるでしょう。
 阿波の三好氏は、甲斐源氏・小笠原長清を始祖とし、鎌倉時代に承久の乱での功績により阿波守護となり、その後、美馬・三好郡を与えられ三好姓を名乗るようになったといわれています。室町幕府が開かれると、阿波は讃岐とともに細川氏の領国となり、三好氏は南北朝時代には宮方に組みしていましたが、やがて細川氏に下りその重臣となった家柄です。

 細川阿波守護家に仕えていた三好氏が頭角を現し始めたのは、細川京兆家の家督をめぐる永正の錯乱(永正4年(1507))が勃発したとき、一存の曽祖父に当たる三好之長(ゆきなが)が、管領細川政元の養子となった阿波守護家出身の細川澄元(すみもと)を支え、各地を転戦して活躍したときからです。之長の後は、その孫の三好元長が、澄元の子で幼君の細川晴元を支えて、ついには管領に擁立します。
 十河氏と三好氏との関係は、十河景滋が寒川元政と数年にわたる争いをしていたとき、大永6年(1526)に、三好元長が十河氏の求めで清水越えをして援軍に出向いたことに始まります。このとき、三好元長の軍勢は、阿讃国境の津柳(現在の三木町)で待ち伏せをしていた昼寝城主寒川元政にさんざん蹴散らされたといわれています。
 三好元長は、細川家中において随一の勢力となりますが、その台頭に脅威を感じた細川晴元が、三好一族で元長の台頭を妬んだ三好政長らの讒言を入れたため、元長は天文元年(1532)に自害に追い込まれます。
 一時は衰退した三好氏ですが、元長の後を継いだ三好長慶(ながよし、大永2年(1522)生)は、弟の三好義賢(よしかた、のちに実休と号した。大永7年(1527)生)、安宅冬康(享禄元年(1528)生)、十河一存の3人の弟と協力して、細川家中において父以上の勢力を築き上げていきます。ちなみに、長慶は、武田信玄(大永元年(1521)11月生)とほぼ同じ頃の生まれです。すぐ下の弟の義賢は阿波を治め、二番目の弟の冬康は淡路の安宅氏を継いで安宅水軍を率います。この三好四兄弟は、それぞれの本拠である阿波・淡路・讃岐を固め、三好長慶の京畿における活躍を支えます。

 十河一存は讃岐で国人の寒川氏と度々戦っていますが、あるとき、寒川氏の領内に攻め入ったときに、長尾の辺りで合戦となり、寒川軍の神内左衛門に槍で左腕を突き刺されます。一存は、太刀で槍を撃ち折り、左衛門を切り倒した後、負傷した傷口に塩を塗りこんで消毒し、その上から藤の蔓(かずら)をぐるぐる巻きにして血を止め、その治療が終ると、また何食わぬ顔して戦闘を続け、やがて勝利を得て、平然と帰陣していったといわれています。この時から一存は、「鬼十河」または「夜叉十河」と、その猛勇を世にうたわれることになりました。以後その瘢(あと)を見たものは無いといいます。一存は前髪をぜんぶ引き抜き、さらに月代を大きく広げて剃り上げた髪型をしており、多くの武士が真似たということです。これが「十河額」の起源です。しかし、実際には、一存は肌が弱かったらしく、長時間兜をかぶっていると、汗で蒸れて湿疹になってしまうので、それを防ぐための実用的な髪型だったようです。

 天文18年(1549)6月、一存の長兄・長慶は、細川晴元、三好政長(宗三)らに対する父・元長の復讐に立ち上がり、政長を摂津国江口において破ります。これを江口の戦いといい、一存は三人の兄たちを差置いて勲功第一の活躍をします。この一戦で三好氏は、畿内を制圧して入京を果たし、主家細川家を完全に凌ぐ勢力となります。細川晴元の政権は崩壊し、三好一族が名実ともに畿内の支配者となります。ちなみに、織田信長が父信秀の家督を継いだのが天文20年(1551)3月のことです。
 天文21年(1552)、長慶は、将軍足利義輝(よしてる)を京に迎え、将軍足利義輝-管領細川氏綱-三好長慶という体制に移行しますが、実権は長慶が握り、義輝も氏綱も傀儡に過ぎませんでした。また、この年、阿波にいた長慶の弟・義賢(実休)が主君細川持隆を討ち、実質的に阿波の国主の地位に就きます。
 一方、讃岐では、天文22年(1553)、三好義賢(実休)が、弟の十河一存に命じて東讃の安富盛方・寒川政国と、香川・阿野郡を領有する香西元政を服従させ、続いて、多度・三野・豊田郡を領する香川之景を服従させようとします。しかし、之景が応じないため、義賢(実休)は、永禄元年(1558)8月、阿波・淡路の兵と寒川・安富・植田・香西氏の兵を率いて、9月25日善通寺に18,000の兵で布陣しました。香川氏は6,000の兵で天霧城に籠城し、城はなかなか落ちませんでした。しかし、結局、香川氏は降伏を余儀なくされ、讃岐は阿波三好氏の支配下に組み入れられます。なお、三好軍が善通寺から撤収するとき、火が出、堂塔のほとんどが灰燼に帰しました。
 こうして阿波、淡路、讃岐の三国が三好氏の領国となり、細川氏の旧家臣も大半が三好氏に従い、三好氏は絶頂期迎えます。永禄3年(1560)には、一存は畠山高政を追って岸和田城主となっています。ちなみに、この年は桶狭間の戦いがあった年です。
 長慶は河内の飯盛城を本拠とし、長慶を中心とする三好四兄弟の勢力は、畿内(摂津、河内、大和、丹波、山城、和泉)や四国(阿波、讃岐、淡路)の9カ国(今の大阪府と、徳島、香川、奈良三県、さらに兵庫県南東部、京都府南部)と播磨、伊予、土佐の一部まで及びました。

 ところが三好四兄弟の布陣は早い時期に崩れていきます。一存は疱瘡を患って、療養のため有馬温泉へ向かいます。途中、松永久秀の見舞いを受けますが、このとき、一存が葦毛の馬に乗っているのを見て、久秀は「有馬権現様は葦毛の馬を嫌うから、別の馬に乗りかえられい」と忠告しました。一存は虫が好かない久秀の言うことなど聞かずに出かけ、落馬し、その傷がもとで永禄4年(1561)3月、若くして亡くなります。なお、松永久秀に暗殺されたという説もあります。ちなみに、この年の9月、山本勘助が討死した川中島の戦いが行われています。
 また、翌年の永禄5年(1562)には、次兄の三好義賢(実休)が戦死し、すぐ上の兄安宅冬康は松永久秀の讒言を信じた長慶によって誅殺されます
 永禄7年(1564)、三好家当主の長慶も亡くなります。長慶は安宅冬康の無実を後で知り、悔い悩みながら没したといいます。

 三好長慶が没すると、十河一存の実子で養子の義継が三好宗家を継ぎますが、若年のため家臣の三好三人衆(三好長逸・三好政康・石成友通)と三好家執事の松永久秀が後見しますが、三好三人衆と松永久秀と対立するようになり、一進一退の争いを繰り広げます。このような状況のときの永禄11年(1568)、織田信長が怒濤の入洛をし、三好の勢力は畿内から追われていきます。
 長慶は、織田信長が永禄11年(1568)に上洛する前の天文18年(1549)から永禄7年(1564)の約15年間にわたって、都にあって天下に号令したことから、戦国時代初の天下人といわれます。

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(133)“細川京兆家のお膝元だった讃岐”

 平成5年(1993)、初めて非自民党連立政権が成立しましたが、そのときの内閣総理大臣は、熊本県知事を務めた後、国政に出た細川護熙(もりひろ)氏で、その先祖が肥後熊本藩の藩主だということはよく知られた話です。肥後熊本藩主の直接の先祖は、戦国時代に活躍した細川藤孝(幽斎)という武将です。幽斎は、はじめ室町幕府最後の第15代将軍足利義昭に仕えましたが、のちに、長男の忠興とともに織田信長を経て豊臣秀吉配下の部将として活躍しました。関ヶ原の合戦では徳川方につき、そのとき、明智光秀の娘で忠興の妻であるガラシャが西軍の人質になることを拒んで自害したという話は、よくテレビや映画の中で採り上げられています。戦後、忠興は、功により豊前小倉藩39万9千石を経て肥後熊本藩54万石を領し、明治維新に至りました。
 しかし、その祖はもっとさかのぼり、鎌倉時代に足利氏の庶流が三河国額田郡細川郷に住んだことから、地名にちなんで細川を称したことに始まります。そして、細川氏が日本史上主役を演じたのは、室町幕府において、斯波氏・畠山氏とともに三管領の一家として権勢を振るったときです。細川一族は、南北朝の早期に、畿内及び東瀬戸内海沿岸を中心に8ケ国(摂津・和泉・丹波・讃岐・土佐・阿波・淡路・備中)におよぶ世襲分国を獲得し、室町幕府において確固たる地位を占めました。このとき、讃岐は京兆家(けいちょうけ)と呼ばれる細川氏嫡流家のお膝元だったところで、その重要な勢力基盤の地でした。今もその名残が讃岐には残されています。

 細川氏が室町幕府内で確固たる地位を築いたのは、細川頼之(よりゆき)の功労が大であったといわれています。頼之は、南朝方に走った従兄弟の細川清氏を讃岐の白峯合戦で破り、細川一門で随一の実力者となって幕府内で頭角を現していきます。そして、阿波・讃岐・土佐・伊予の守護職を兼任して四国管領と呼ばれ、讃岐の宇多津に本拠地を構えました。その後、京に上り、管領となって幼少の第2代将軍足利義満を補佐します。いったんは康暦の政変(天授5年/康暦元年(1379))で失脚しますが、復帰して管領となった弟で養子の頼元(よりもと)を幕府宿老として補佐し、明徳の乱では山名氏を破り丹波国を分国に加えます。
 頼之から細川氏惣領家の家督を継いだ頼元は、讃岐・丹波・土佐の守護職を継承するとともに、新たに摂津の守護職を得て、讃岐・摂津・丹波・土佐の4カ国の守護職を兼帯し、従四位下右京大夫に任ぜられます。以後、頼之・頼元系の細川氏は、代々右京大夫の官途を踏襲し、右京大夫の唐名を京兆と呼ぶことから、京兆家と呼ばれました。京兆家当主は、讃岐・摂津・丹波・土佐の4カ国守護職を世襲し、幕府管領に任ぜられる家格でした。頼元のあと、京兆家の家督は、満元(みつもと)→持元(もちもと)→持之(もちゆき)→勝元→政元と受け継がれていきます。この中で最も有名な人物が、応仁の乱(1467―77年)のときの東軍の将であった細川勝元です。
 また、頼之の弟らを祖とする細川氏傍系は、阿波・淡路・和泉・備中4カ国の守護職を占め、それぞれ阿波守護家、淡路守護家、和泉上守護家、和泉下守護家、備中守護家として京兆家を支えます。中でも、阿波守護家は、頼之からその弟の頼有を経て、さらにその弟の詮春の子・義之に伝えられ、その系統に継がれていきます。京兆家を上屋形と呼ぶのに対し、阿波守護家は下屋形あるいは阿波屋形と呼ばれ、庶流家の中では京兆家に次ぐ高い家格を有していました。なお、頼之が持っていた伊予守護職は、康暦の政変以後、河野氏に復帰しています。
 こうして細川一族は、畿内及び東瀬戸内海沿岸8ケ国(摂津・和泉・丹波・讃岐・土佐・阿波・淡路・備中)において、京兆家を中心とした同族連合体とも言うべき集団を形成し、頼之から政元に至るまでの約150年間、室町幕府内で最大の勢力を持つ守護大名としての地位を保ち続け、その権勢は勝元と政元の代になって絶頂期を迎えます。この間、讃岐は、頼之以来の京兆家直轄地だったところで、京兆家の勢力を支えたるための戦略上の要衝でした。これは讃岐を押さえれば瀬戸内海の海上交通権を掌握できたことによると考えられます。そして、京兆家の讃岐経営の中心都市だったところが宇多津でした。宇多津の港には、京と讃岐を往来する多くの船が出入りしていたと思われます。

 京兆家は幕府の管領となる家柄であったため、その当主である讃岐守護本人は常に在京しており、讃岐には被官からなる守護代が置かれました。応永年間(1394~1428)初頭から讃岐では、安富氏、香川氏がそれぞれ東と西を半ばずつ担当するという両守護代制がとられ、安富氏は本城を雨滝城に置き、香川氏は多度津本台山に居館を構え、天霧城を詰城としました。しかし、安富氏・香川氏も京兆家の重臣であったため在京することが多く、讃岐には一族の中から又守護代が置かれました。この2氏のほか、安富氏の所領には香西氏、十河氏、寒川氏という有力な国人がいました。
 これらの讃岐武士は、直参として京兆家家臣団の中核を構成し、京へ上がり、京兆家に近侍して内衆や奉行人としてその家政に参加して活躍しました。特に香西氏は応永21年(1414)から永享3年(1431)まで、京兆家の被官として丹波守護代を務めています。応仁の乱のときの勝元側東軍の主力戦力も讃岐武士で、安富・香西・奈良・香川氏は細川四天王と呼ばれました。当時、讃岐武士は、京兆家の権威を背景に、京において大きな勢力を張っていました。

 しかし、隆盛を誇った京兆家も、勝元のあとを継いで京兆家の当主となった政元の代から家督をめぐって内紛が始まり、急速にその勢力を低下させていきます。明応2年(1493)4月、政元は対立していた将軍・足利義稙(よしたね)を追放して新たに足利義澄(よしずみ)を将軍とします。そして将軍職を傀儡化し、幕府の実権を掌握して「半将軍」とまで呼ばれる専制体制を確立します。ところが、修験道に凝り、生涯女性を傍に寄せなかったため実子がなく、関白九条家から澄之(すみゆき)、阿波守護家から澄元(すみもと)、京兆家庶流から高国の3人の養子を迎えます。その後、この3人がそれぞれの被官や諸勢力と結びつき、京兆家の家督をめぐって争いを起こし、細川一族とその家臣団を内紛の渦に巻き込んでいきました。
 最初に、澄之派と澄元派の対立が表面化します。澄之には香西元長ら讃岐武士が、澄元には三好之長(ゆきなが)ら阿波武士がそれぞれ後ろ盾となります。永正3年(1506)、澄元が之長に擁されて阿波から上洛すると、政元は京兆家の分国であった丹波を澄之に、摂津を澄元にそれぞれ分割継承させますが、これに反発した澄之派の香西元長と摂津守護代薬師寺長忠は、永正4(1507)年6月、政元が湯殿で行水をしているところに刺客を差し向けて殺害し、澄之を京兆家の家督に擁立します。政元の死によって、頼之・頼元系統の京兆家はここに断絶します。これに反撃した澄元派は、細川高国らの支援をえて澄之と香西元長、安富元治、香川満景ら在京の讃岐武士を倒し、澄元を京兆家の家督に据えます。
 これにより京においては、澄之派に属した讃岐武士の勢力が一掃され、澄元派に属した阿波の三好之長が澄元の後見人として勢力を伸ばします。一方、讃岐が京兆家の本拠地だったという時代も政元の死によって終焉を迎え、その支配を脱した讃岐各地の国人・土豪たちによる群雄割拠の様相となっていきました。そして、この讃岐国内の混乱に乗じて阿波の三好の勢力が讃岐に及んでくることになります。

 その後も京兆家の家督争いは続き、永正5年(1508)、周防の大内義興が前将軍足利義稙を擁して上洛すると、高国は澄元派から離反して大内義興と結び、将軍足利義澄並びに管領細川澄元とその家臣三好之長を京から追い落とします。将軍に復帰した義稙のもと、高国は京兆家の家督を継承して管領に任じられ、大内義興らと連合政権を立ち上げます。しかし、京兆家の家督争いはこれに止まらず、高国と阿波に雌伏した澄元との争いは、将軍家の家督争いも巻き込んでその後も続きます。これを永正の錯乱、両細川の乱といい、政元が暗殺されて25年目の天文元年(1532)に、澄元と之長の遺志を継いだ細川晴元(澄元の子)と三好元長(之長の孫)が、摂津天王寺の戦いで高国を打ち破り、切腹させることによってようやく収束します。この合戦を大物(だいもつ)崩れといい、その後、阿波細川家から出た細川晴元が京兆家の家督を継ぎます。
 しかし、今度は、晴元とその家臣の三好元長との対立が始まります。両細川の乱の間、阿波から出た細川氏を支えたのは三好氏の軍事力であり、三好氏の勢力が細川氏を凌ぐようになっていたからです。天文元年(1532)、晴元は、元長の台頭を妬んだ三好一族の三好政長らの讒言を入れ、一向一揆と結んで元長を自害に追い込みます。そして、義晴を傀儡将軍とし管領となって幕政を執ります。その間、元長の子・三好長慶は父を晴元に討たれたものの、失地を回復してその家臣として頭角を現していきます。
 天文11年(1543年)、高国の養子・細川氏綱が挙兵したことにより、細川家の内紛が再燃します。初めは晴元側にたっていた長慶ですが、父が晴元によって自殺に追い込まれたことを知り、氏綱側に寝返ります。天文18年(1549年)、晴元と三好政長は摂津江口の戦いでに長慶に敗れ、政長は討ち死し、晴元は前将軍義晴と将軍義輝父子と共に近江に逃亡します。
 以後、細川氏綱を擁立した三好長慶が京都に入り、事実上畿内は長慶の制圧下に入ります。天文21年(1552)、長慶は将軍義輝(よしてる)を京都に迎え入れ、氏綱に京兆家の家督を継がせ、管領職に補任され、ここにおいて、永正4年(1507)の細川政元の暗殺に端を発した約45年間にわたる争いはようやく収束します。しかし、この争いにより、将軍家と京兆家は全くその権威を失墜し、傀儡化されます。以後、幕政の実権は長慶が掌握し、実体は三好政権というものでした。晴元はその後も復権を策して長慶との争いを続けますが、ついに政権に返り咲くことはなく、永禄6年(1563)に病死します。
 永禄11年(1568)、織田信長が足利義昭を擁立して怒濤の入洛を果たし、畿内から三好氏の勢力を一掃すると、晴元の嫡子・細川昭元は信長に属しその妹婿となり名を信良と改めます。しかし、もはや政治的に何ら影響を及ぼす存在ではなく、家運が回復することはありませんでした。その後、昭元の嫡子・細川元勝(頼範)は豊臣秀頼の近臣として大坂城に在り、大坂の陣の後、讃岐に隠棲したとも、常陸宍戸藩の秋田氏に仕えたともいわれています。
 一方、細川氏傍流の和泉上守護家出身の細川藤孝(幽斎)は、初めは足利義昭の側近としてその将軍職就任に奔走していましたが、後には息子の忠興とともに織田信長を経て豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の戦いで徳川側につき、江戸時代を迎えることになります。

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テーマ : 香川
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(132)“ため池密度日本一の讃岐平野”

 香川県議会の3階フロア壁には、人工衛星から撮影された香川県の大きな写真が掲示されています。その形は南の讃岐山脈を底辺にして北の瀬戸内海に向かって扇を開いたような半円形をしており、南から北に讃岐平野が広がっています。さらにそれを見ると、平野部には虫食いの穴のようなものが大小無数見られます。じつはこの虫食い穴のように見えるものはため池なのです。
 香川県には、満濃太郎と呼ばれる日本最大のため池である満濃池以下、神内次郎の神内池、三谷三郎の三谷池、奈良須四郎の奈良須池を始め大小様々なため池が約14,600箇所あります。その数は全国の中で第1位の兵庫県(約44,200箇所)、第2位の広島県(約21,000箇所)に次いで第3位です。しかし、ため池の数を県土面積で割った「ため池密度」からみると、香川県が全国の中で第1位、大阪府が第2位、兵庫県が第3位、広島県が第4位となっています。

 讃岐は気候が温暖で、山間部に比べて平野部の占める割合が高いことから、日本列島の中でも早い時期から開墾が進められ、古代には我が国の重要な穀倉地帯になっていたものと思われます。古事記によると、讃岐は飯依比古命(いいよりひこのみこと)の国で、飯(米)が美味しい国とされています。平安時代に書かれた「和名抄」によると、10世紀初期頃すでに讃岐の耕地面積は18,646町(約18,493ヘクタール)とあり、これは南海道では最も広く、現在の香川県の水田面積約29,500ヘクタールの約63%にも及んでいました。現在でも県土総面積に占める農地面積の割合は、全国平均が12.7%、中四国平均が8.4%であるのに対して、香川県が18.2%と飛びぬけて高くなっています。
 しかし、かなり早い時代から開墾が進んだ讃岐平野では、農地の増加にともない農業用水の確保が問題となっていきました。通常、水田に安定的な水量を供給していくためには、川の上流部に耕地面積の10倍ほどの森林面積が必要だといわれています。ところが、讃岐は森林面積が総面積の半分程度しかなく、しかも年間降雨量が日本平均の6割程度という日本でも有数の少雨地域に属しています。このため讃岐では、土地の開墾と並行して、灌漑事業が古くから行われ、大小多くのため池が築かれてきました。飛鳥時代の大宝年間(701~704年)に讃岐の国司である道守朝臣(みちもりあそん)によって満濃池が築かれ、その後、空海が改築したというのはよく知られた話です。

 江戸時代に入ると、新田の開発や二毛作の普及により、新たな農業用水を確保する必要が生じてきました。一毛作の場合には冬期も田に水を残すため田自体が貯水池のような役割を果たしますが、二毛作の場合には冬期に水が貯められないため翌年の田植期に必要な水が増えました。
 17世紀前半頃の江戸時代前期、生駒藩の西嶋八兵衛は、満濃池の改修を手がけたほか、90以上のため池を築きます。また、生駒藩の領地を引き継いだ初代高松藩主・松平頼重も400以上のため池を築きます。この工事に携わったのは矢延平六(やのべへいろく)だといわれています。それ以後も江戸時代、讃岐ではため池造りが積極的に行われました。ちなみに、現在の香川県のため池の大半は江戸時代以降に造られたものです。こうして、幕末の讃岐には、少なくとも6,500以上のため池があったとされています。

 また、江戸時代、「水ブニ」、「香の水(こうみず)」などといった水の配分をめぐる讃岐独特の水利慣行が次第に形成されていきました。
  「ブニ」とは歩合、割合を表す讃岐の方言で、「水ブニ」とは一枚の水田ごとに用水を使用できる固有の持ち分という意味です。これは、同一のため池から複数の水田が水を引いている場合、各水田はそれぞれ水量が割り当てられ、「水台帳」、「水割帳」といった水ブニの台帳を持っていました。
 この決められた取水の分量の時間配分によるものが、「香の水」、「線香水」、「香箱」などと呼ばれる取り決めです。香の水・線香水は、引水する時間を線香が燃える長さで計るという取り決めで、台帳には線香の本数や長さを記していました。また、香箱は、箱に入れた灰に溝を刻み、その中に抹香を入れて抹香が燃えている間のみ水田に水を引くという取り決めでした。
 しかし、多くのため池が造られても、讃岐平野全体でみれば、使える水に余裕ができたわけではなく、常に旱魃の不安がついて回りました。このため、讃岐では江戸時代の中期以降、旱魃に強く、しかもより商品価値の高いサトウキビや綿といった作物の栽培が奨励され、盛んに栽培されるようになっていきます。また、温暖で少雨の気候条件を活かし、塩の生産も盛んになり、これらは、次第に“讃岐三白”と呼ばれる特産品となり、米とならぶ讃岐の財政基盤となっていきました。

 ところが明治に入ると、外国の砂糖や綿が大量に安く輸入されるようになり、讃岐の砂糖と綿は一気に衰退していきます。このため、サトウキビ畑、綿畑を水田へ切り替えることが急務となり、新たな水を確保するため、ため池の築造が行われます。以後、大正、昭和と時代が進んでも、数年に一度は起こる大規模な旱魃をきっかけにため池の築造や改修が進められました。大正13年の大旱魃を契機に造られた豊稔池(昭和5年竣工)、昭和9年の旱魃後に造られた門入池と小川下池、昭和14年の大旱魃後に計画され戦後の食料増産政策によって造られた長柄ダムと内場ダム(昭和28年竣工)などです。
 中でも、観音寺市大野原町田野々の高尾山の麓にある豊稔池は、マルチプル・アーチ式(多供扶壁式(たきょうふへきしき))という当時の最新理論を適用したわが国の農用ため池では前例のない近代的なものでした。当時、鉄筋コンクリートは普及し始めたばかりで土堰堤がまだ主流でしたが、このため池は、6つの扶壁(ふへき)(補助壁)を持つ粗石モルタル積堰堤で川の上流の谷間を堰き止めるというダム形式が採られました。木々の間から見える高さ300メートル余の石堰堤は、まるで風雪にさらされヨーロッパの古城を思わせる偉容です。

 このような努力にもかかわらず、県内で利用できる水の絶対量は限界に達しようとしていました。こうして、昭和49年、全く水系の異なる吉野川から導水した香川用水、全長108kmというわが国屈指の大用水が誕生することになりました。
 しかし、香川用水の完成によりため池が不要になったわけではなく、現在でも、香川県では農業用水に占めるため池の依存率は50パーセントを超え、これは全国平均の10パーセント弱を大きく上回っています。また、ため池は、洪水の調節や地下水の涵養の機能も果たしており、魚、昆虫、鳥などの生息地ともなっています。さらに、讃岐の田園風景に欠くことのできないものとなっており、ため池にまつわる伝承・祭りなども多く残されています。ため池は讃岐の人間が、古代からその叡知と労力をかけて築きあげた貴重な社会資本といえるでしょう。

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(131)“讃岐に残る平家落人伝説”

 現在の三豊市高瀬町羽方に鎮座する大水上神社(おおみなかみじんじゃ)は、讃岐二宮と称される古社です。ちなみに讃岐一宮は高松の田村神社です。大水上神社の境内左手には、四社宮という平教盛(のりもり)、平経盛(つねもり)、平資盛(すけもり)、平有盛(ありもり)の四人を祀る小祠があります。教盛と経盛は平清盛の弟、資盛と有盛は清盛の孫にあたり、関門海峡での壇ノ浦の戦いの敗戦の中でともに海中に身を投じて果てたといわれています。
 元暦元年(1184)2月15日の屋島合戦の前、大水上神社は平家から戦勝の祈願を受けましたが、その効なく平家は滅亡してしまい、その後、神社に災いが続いたそうです。これは平家の祟りだろうということで、それを鎮めるために四社宮が営まれたといわれています。おもしろいことに、同年の2月25日、大水上神社は源氏からも戦勝祈願を受けています。
 現在の東かがわ市大内町水主に鎮座する水主神社(みずしじんじゃ)も、屋島合戦の前に、源氏と平氏の両方から戦勝祈願を受けたといわれています。平教経(のりつね)が大雁股を奉納し、また、源義経が大坂越えをして屋島へ向かう途中、鞍を奉納したといわれています。平教経は、平清盛の弟にあたる平教盛の次男で平国盛の別名です。平家随一の猛将として名高く、数々の合戦において武勲を上げたといわれています。

 源氏と平氏の両方から戦勝祈願を受けた神様は、結局、源氏に軍配をあげ、元暦2年(1185)2月19日、平氏一族は屋島の戦いで源氏に敗れ、生き残った者たちは散り散りに逃げて行きました。徳島県の祖谷地方には平氏の落人が逃れてきたという伝承が残っていますが、それによると、平国盛は、屋島の合戦に敗れた後、安徳天皇を奉じ、手勢を率いて陸路東に逃れ、現在の大内町の水主村にしばらく潜伏した後、讃岐山脈の大山を越えて吉野川をさかのぼり、奥深い祖谷山に入ったといいます。讃岐にも平家の落人が隠れ住んでいたという伝説が残っています。

 観音寺市大野原町には五郷ダムがありますが、そのダムの中ほどに架かる「有盛橋」を東に500メートルほど行くと、有木(ありき)という集落があります。ここには、関門海峡での壇ノ浦の戦いで亡くなったとされている平有盛(ありもり)が落ち延びてきたという伝承が残っています。平有盛は清盛の息子・重盛の四男で、小松少将と呼ばれた武将です。有盛はしばらく有木に留まっていましたが、愛用の小烏丸(こがらすまる)という太刀をこの地に残し、もっと奥深い祖谷へ移り住んだといわれています。安土桃山時代の慶長の頃、この太刀を生駒一正が高松へ持ち帰ったところ、いろいろ怪奇があったため有木に返したという話も伝えられています。
 今でも有木には「えかた」という所があるそうですが、これは有盛が住んでいたという「やかた」が訛ってそのように呼ばれるようになったといいます。また、宝屋敷、上屋敷、中屋敷、下屋敷、烏帽子屋敷、神子谷(巫女谷)、王塚、鞍掛松、高旗など平家にまつわる地名や、平岡、平口、平野という平家にちなむ姓があるといいます。
 また、有木の里では、戦後しばらくまで、源氏の旗が白旗だから、鶏やウサギなど白い家畜は飼わず、衣類や祭りの幟も白いものは避けて色物を使っていたとか、有盛が小黍(こきび)の畑で討死したといわれることから里人は決して小黍を作らなかったなど独特な風習や伝統が残っていたそうです。

 まんのう町琴南美合の土器川をさかのぼった竜王山の標高650m前後の山腹には、横畑という集落があります。ここには、源平屋島合戦で敗れた平国盛ら数十騎が、阿波の祖谷へ落ち延びる途中、平寿盛の一族数人が住み着いたという伝承が残っています。平寿盛は清盛の息子・知盛(とももり)の三男だといわれています。
 横畑という地名は、平家の軍旗を横に倒して農民になったから「横旗」すなわち横畑になったといわれています。横畑集落の下方の入口には木戸、尾根越えの寒風峠には物見櫓があり、見張りの人が住んでいた「キビジリ屋敷」という屋敷跡が残っているそうです。また、今でも十数基の墓が現存し、墓碑に平寿盛の孫であると刻されている墓も残っているそうです。

 三木町西鹿庭の竹尾にも平家の落人が隠れ住んだという伝承があります。屋島合戦のとき、筒井日向守孫兵衛という武将が、平宗盛の命を受けて、源義経の軍が阿波から讃岐山脈の清水峠を越えて進撃してくるのに備えていました。ところが義経は北方の海岸沿いに丹生・石田・白山・高田を越えて屋島を背後から攻撃してきました。逃げ遅れた日向守は家来を連れて山中に分け入り、途中で一人の狩人に匿われて竹尾の山里に逃れたということです。今も竹尾には、日向守の屋敷跡や、日向守を祀るという日向大明神が残っているといいます。

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(130)“藤原京の瓦を焼いた日本最大級の瓦窯”

 香川県の西部に高瀬川という川があり、その流域に三野津平野という北が海への出口となり三方を山で囲まれた小さな田園地帯があります。ここは、その大半が17世紀後半の江戸時代前期に干拓され、室町時代以前には山裾近くまで海だったところです。今でも、この辺りには、浅津・砂押(大見)、西浜・東浜(下高瀬)、津ノ前・汐木(吉津という当時海岸だった頃の地名が残っています。
 この三野津平野の南の山麓に宗吉(むねよし、三豊市三野町吉津宗吉)というところがあり、古くからこの付近では、「ここでお大師さんが瓦を焼いた」との言い伝えが残っていました。近所の古老には幼い頃、赤茶けた窯(かま)の一部が露出していたところの中で遊んだという人もいたそうです。この瓦窯(がよう)の本格的な調査が始まったのは、平成2年の農道工事に伴う発掘調査からです。その調査により遺構が確認され、複弁八葉蓮華文軒丸瓦、変形偏向忍冬唐草文軒平瓦などが出土し、奈良国立文化財研究所で照合した結果、藤原京で使用された瓦と同一であることが確認されました。平成8年9月10日には、藤原京へ瓦を供給した瓦窯跡として国史跡に指定されています。

 現在の奈良市が平城京として日本の都であった期間は、一時中断はあるものの、和銅3年(710)から延暦3年(784)に長岡京に遷都されるまでの約70余年間です。この平城京の前の都が現在の奈良県橿原市にあったといわれる藤原京です。ここでは、持統・文武・元明の3天皇が居住し、16年間、日本の都として天皇や貴族中心のおおらかな白鳳文化(はくほうぶんか)が華咲きました。
 藤原京は、持統天皇の御代の持統4年(690)に着工されて同8年(694)に完成し、飛鳥浄御原宮(あすかきよみがはらのみや)から遷都されました。持統天皇は、天智天皇の娘で、夫は天智天皇の弟である天武天皇すなわち自分の叔父にあたります。夫がまだ大海人皇子と称していた頃に起きた壬申の乱(じんしんのらん)では終始行動を共にし、天武天皇が亡くなった後、子の草壁皇子が皇位を継承するよう目論んだものの、皇子が急逝したため孫の軽皇子(後の文武天皇)が成長するまでの中継ぎとして自ら天皇に即位しました。ちなみに、天智天応は大化の改新(645)のときの中大兄皇子です。なお、藤原京という名称は後世の人がそう呼んだもので、日本書紀には、京が「新益京(しんやくのみやこ、しんやくきょう)」、宮が「藤原宮」と書かれています。

 藤原京は、日本で最初の条坊制(じょうぼうせい)が布かれた本格的な中国風都城だといわれています。条坊制とは、中国の都に似せ、東西の道を条路、南北を坊路という碁盤目状に道路を走らせる町割(まちわり)をいいます。その大きさは北に耳成山(みみなしやま)、西に畝傍山(うねびやま)、東に天香具山(あまのかぐやま)の大和三山を内に含む5.3km四方で、面積は少なくとも25平方キロあり、平安京(23平方キロ)や平城京(24平方キロ)をしのぐ古代最大の規模だったと考えられています。
 都の中心やや北寄りには、ほぼ1km四方の内裏・官衙のある藤原宮が配置され、大極殿などの建物の周囲はおよそ5mほどの高さの塀で囲まれ、東西南北の塀にはそれぞれ3か所、全部で12か所に門が設置されていました。
 また、藤原京は日本で初めて中心建物を瓦葺きに統一した都でした。瓦は仏教と共に百済から日本に伝来し、飛鳥時代では、瓦葺きの許された建物は寺院のみでした。寺院以外で初めて瓦が使用されたのが藤原京だといわれており、大極殿・朝堂院・大垣の全てが瓦葺きとされました。その規模からするとこれらに必要な屋根瓦の数は200万枚とも推計され、藤原京の造営には極めて限られた期間での膨大な量の瓦生産が必要でした。
 これまでの出土例によると、藤原京のすぐ近くの日高山瓦窯(ひだかやまがよう)や久米寺瓦窯(くめじがよう)、奈良盆地緑辺部の安養寺瓦窯(あんようじがよう、平群町)、西田中瓦窯・内山瓦窯(大和郡山市)や高台・峰寺瓦窯(こうだい・みねでらがよう、御所市)で瓦が製造され運ばれています。さらに、これらの瓦窯でも需要に追いつかず、古墳時代以来の大窯業地帯であった陶邑窯(すえむらよう)を含む和泉国(大阪)や近江国(滋賀)の瓦窯で造られた瓦が補充されたものと考えられています。当時の軒瓦は1枚で10kgを超える重さがあることから、藤原宮のすぐ近くを除き、これらの地は水運に便利な地が選ばれたものと考えられます。

 藤原京に用いられた瓦の生産地としては最も遠く、しかも大規模なものが現在の三豊市三野町にある「宗吉瓦窯(むねよしがよう)」です。畿内以外で藤原京に用いられた瓦が出土しているのはここだけです。
 宗吉瓦窯跡は、現在までに、山麓の傾斜面をトンネル状にくりぬいた窖(あな)窯と呼ばれる構造の23三基の瓦窯跡と工房跡と見られる掘っ建て柱建物跡の一部が確認されており、この23基の窯跡は当時の瓦窯としては全国最大規模のものです。また、そのうち17号窯(17番目に確認した窯跡)は全長が13メートルあり全国最長のものです。したがって、宗吉瓦窯跡は日本国内で最大級規模の瓦窯跡といえます。
 7世紀末、大和から遠く離れた西讃岐の地が都の造営のための瓦生産地として選ばれた理由の一つは、水運の便だと考えられます。宗吉瓦窯跡の地は、現在は海から離れていますが、当時はすぐ近くまで古三野湾が迫っており、重い瓦を瀬戸内海を通じて船で運ぶことが可能でした。
 二つ目は、讃岐には、藤原京造営以前に、すでに造瓦技術を持った工人がかなりいたのではないかということです。讃岐では飛鳥時代にすでに開法寺(坂出市)や妙音寺(三豊市豊中町)が建立されており、大化の改新によって律令国家の基礎が確立した白鳳時代には17の寺院があったといいます。藤原京造営以前までは、屋根を瓦で葺くのは寺院だけで、その造営には瓦造りの工人が不可欠でした。実際、藤原京造営以前に宗吉瓦窯から讃岐の地元の寺院に瓦が供給されていたことが明らかにされています。
 三つ目は、短期間に大量の瓦を製造するためには、既存の造瓦工人だけでは追いつかず、その他多数の工人をかり出して瓦の生産にあたる必要があったと思われますが、宗吉瓦窯付近の現在の三豊市三野町大見、下高瀬から、高瀬町上高瀬にかけての火上山麓などの地域では、7世紀から8世紀の初めにかけて、須恵器作りが盛んだったといわれており、その人たちが瓦作りに従事したのではないかと考えられます。

 宗吉瓦窯の存在から、讃岐は藤原京が造営される頃には、すでに大和朝廷と深い結びつきがあり、瀬戸内海を通じて頻繁に飛鳥地方と行き来があったのではないかと考えられます。また、讃岐は古代、仏教文化の先進地であり、当時の先端技術を持つ工人が多数居たのではないかと考えられます。瀬戸内海は中国大陸・朝鮮半島と大和を結ぶ交通ルートに当たることから、大和の西手前に位置する讃岐は、古代、先端の文化や技術がいち早くもたらされたのではないでしょうか。
 ちなみに、空海が讃岐で生まれたのは、奈良時代の末期宝亀5年(774)6月15日で、藤原京の完成より80年後のことです。「ここでお大師さんが瓦を焼いた」という言い伝えよりも歴史的事実の年代の方が古いというのはおもしろいことです。

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(番外4) 多 度 津 物 語 ―香川近代産業発祥の地の栄枯盛衰―

●プロローグ
 香川県の西部に位置し、瀬戸内海に面するところに多度津という人口23,744人・世帯数9,142世帯(平成20年1月1日現在)の町があります。この町は明治23年(1890)2月15日に町制が施行されており、もう町になってから100年以上経つ古い町です。このとき、香川県では、市になったのが高松市、町になったのが多度津町のほか丸亀町、坂出町、多度津町、琴平町、観音寺町です。現在、多度津と琴平を除いて、すべて市になっていますので、多度津は琴平と並ぶ香川県で最も古い町といえます。
 多度津は古い面影を残す静かな町で、多度津町以外で住んでいる人が、今、多度津と聞けば、少林寺拳法を想い浮かべる人が多いでしょう。確かに現在の多度津で全国的にも知られているものといえば、少林寺拳法をおいて他にあまりないでしょう。しかし、長い多度津の歴史からすればそれは一こまであり、他にも多くの興味深い場所や物語が多度津には残されています。主なものといえば、77番札所道隆寺、海岸寺、細川四天王の一人香川氏の城下町、金毘羅参詣船、多度津陣屋と湛浦、北前船、鉄道や電力の発祥地、桃陵公園と一太郎やあい、工機部などです。
 瀬戸内海は古代から奈良・京都・大坂と九州あるいは朝鮮半島・中国大陸とを結ぶ交通路であったことから、その沿岸には古くから多くの港―古代・中世においては“津”、近世においては“湊”といわれた―ができ、そこに人が集まり町が形成されてきました。これらの港町は、その地理的条件やその地域の文化・物産などの特性に応じてそれぞれユニークな発展を遂げ、独特の雰囲気を持った町になっています。
 多度津の町もこのような瀬戸内の港町の一つですが、他の町には無い歴史的意義を持っています。それは一言でいうと、「香川近代産業発祥の地」ではないかと思われます。わが国が幕藩体制から脱し、近代国家の道を歩み始める明治の文明開化の時代、多度津の町では、鉄道・道路・港湾という近代的交通インフラの整備が香川県内の他の地域に先駆けて着手されました。また、金融業・電力産業という20世紀の代表的な産業も香川県内の他の地域に先駆けて生まれています。かつて、多度津は冨とパイオニア精神に満ち、近代産業へ挑戦していくエネルギッシュな町だったのです。
 しかし、今では、多度津に住む人間でも、このことを忘れかけようとしています。なぜ、明治期、多度津において先進的な取組みに向けた動きが生まれたのでしょうか。また、それはどうして衰退していったのでしょうか。町を散策しながら多度津の歴史を垣間見、このような疑問について考えてみましょう。

 一 鎌倉時代以前

 一般的に平安時代までを古代といいますが、多度津の古代の物語は、現在の白方地区、堀江地区に残っています。鎌倉時代以前は、現在の多度津町の行政区域でいうと、市街地地区は開けたところではなく、白方地区と堀江地区に有力な豪族が住んでいたのではないかと思われます。現在の市街地地区が開けてくるのは室町時代以降です。
 多度津の古代の地形がどのようになっていたか明らかではありませんが、多度津山の北山麓まで海になっていて、桜川下流は現在よりも深く入江が南に入り込み、河口は干潟や砂州になっていたものと思われます。
 多度津の名の由来は、多度郡という郡名に港を意味する津の字が合わさったもので、多度郡の津すなわち港があったところだといわれています。古代、現在の多度津町と善通寺市あたりの地域が多度郡と呼ばれていました。「多度」というのは、良い田があるという「田所」とも、多くの人々が渡る意味だともいわれています。古代、多度の津がどこにあったのかは定かでありませんが、桜川の榜立(かいたて)八幡神社の付近や西水戸(にしみと)の地名のある明徳会図書館から町役場付近、あるいは堀江付近の入江ではないかと考えられています。
● 神功皇后にまつわる神社
 多度津に残る神話時代の物語としては、神功皇后の伝説があります。日本書紀には、仲哀天皇の后である神功皇后が、天皇が急死した後、住吉大神の神託により、お腹に子供を宿したまま海を渡って朝鮮半島に出兵し、新羅を降服させて朝貢を誓わせ、高句麗・百済も朝貢を約したという物語が記されています。これがいわゆる三韓征伐の伝説で、そのお腹の中の子が後の応神天皇です。
 多度津には神功皇后の三韓征伐にまつわる伝承と神社があります。それによると、神功皇后は、三韓征伐の帰途、風波の難を避けるため、現在の西白方に立ち寄って青木(おうぎ)北山付近を宿地としました。そして、出発に際して幟(のぼり)、熊手を港の近くに留め置いたうえ、榜(かい)を立てて、出船したといいます。幟は旗で、熊手は武器として用いられた鎌のことです。皇后が榜を立てて出発したところが桜川の畔にある榜立(かいたて)八幡神社(MAP)で、幟と熊手を村人が祀ったのが現在の西白方に鎮座する熊手八幡宮(MAP)だといわれています。その祭神は神功皇后と応神天皇です。真偽のほどは分かりませんが、多度津が古くから瀬戸内海航路の寄港地になっていたことをよく物語っている伝承といえるでしょう。
 なお、この神社に関係して、和歌山県伊都郡かつらぎ町の三谷というところにある「丹生酒殿神社」には興味深い伝承が残っています。この神社の境内社である「鎌八宮」は、かつて熊手八幡宮とも称され、その御神体は神功皇后が三韓出兵のとき用いたという幟と熊手で、それは讃岐国屏風浦の熊手八幡宮に祀られていたものだといいます。空海が高野山を開いた時、そのご神体が空海の後をついてきたので、櫟(イチイ)の木をその証の代わりとして祀ったということです。和歌山の奥に多度津の白方にある神社の話しが残っているのは不思議なことです。

● 巨大な勾玉が出土した古墳
 白方の弘田川と天霧山北尾根下の間に、盛土山(もりつちやま)古墳という円墳があります。この古墳は「千人塚」、「かんす塚」とも呼ばれ、大正4年(1914)に、ここから四神四獣鏡(しじんしじゅうきょう)、長さ7㎝の硬玉製勾玉(こうぎょくせいまがたま)、瑠璃勾玉(るりまがたま)、銅鈴、碧玉管玉(へきぎょくくだま)、玻璃小玉(はりこだま)、琺瑯丸玉(ほうろうまるたま)、瑪瑙丸玉、小玉、金環、刀などが出土しています。全国的にも類例を見ない逸品だといわれており、現在、東京博物館で保管されています。古代、白方には有力な豪族が住んでいたと思われます。

● 古代豪族和気氏の氏寺
 多度津には、四国八十八寺の一つがあります。現在の堀江港の南にある道隆寺(どうりゅうじ)(MAP)という寺です。この寺は、号を桑多山明王院道隆寺といい、四国霊場第77番札所となっています。
 その創建は古く、奈良時代末の天平勝宝元年(749)の頃まで遡るといわれています。当時、多度津は和気氏という豪族の支配する地で、かつて、この寺の付近は一大桑園だったといいます。この桑園の中で、和気道隆が自分を育ててくれた乳母を怪物と見誤って弓で射殺する、という事件が起きます。道隆はそのことを大いに悔やみ、乳母の供養のために桑の大樹を切って薬師如来の小像を作り、それを小堂を建てて中に安置しました。それが道隆寺の始まりで、弘法大師空海が薬師の大像を作り、道隆公の小像をその胸の中に納めて本尊としたといわれています。
 その後、道隆の子孫である二代住職朝祐が弘法大師より授戒を受けて、和気氏の田園財宝のすべてを注ぎ込んで薬師堂をはじめとする七堂伽藍を建立し、和気道隆の名をとって寺名を道隆寺としたということです。以降、この寺は和気氏の氏寺として現在に至っています。
 空海が生まれたのは、奈良時代の末期宝亀5年(774)6月15日だといわれていますから、年代の順番だけから考えるとこの話は辻褄が合っています。乳母射殺事件の真偽はともかく、和気道隆という人物が存在し、その名をとって寺名としたのは事実のように思われ、善通寺も、空海が佐伯善通(よしみち)という自分の父の名をとってつけたといわれています。
 道隆寺境内の北東隅には、妙見社(みょうけんしゃ)という社があります。ここでは毎年3月7・8日に星供養が行われています。

● 空海にまつわる寺
 多度津の南にある善通寺の正式の名称は「屏風ヶ浦五岳山善通寺誕生院」といい、そこが弘法大師空海の生誕地だというのが通説的見解です。しかし、多度津の西白方の海岸寺(MAP)のある辺りも屏風ヶ浦と呼ばれ、空海の母である玉依御前の里だったといわれています。玉依御前がこの地に産屋を設けて空海を出産し、その後空海がこの産屋跡に聖観音菩薩像を刻んで安置したのが海岸寺の始まりといわれており、奥の院には産湯の井というものが残っています。海岸寺は、四国八十八ヵ所の別格18番札所です。
 司馬遼太郎は、「空海の風景」の中で、「空海がうまれたのは、善通寺からはずっと海岸のほうの、いま海岸寺といわれる寺の所在地がそうだともいわれているが、出産のとき海岸に産屋でも設けられたのがそういう伝承になったのかもしれない」と書いています。
 また、海岸寺より東に行ったところに仏母院(MAP)という寺がありますが、この寺は玉依御前の屋敷跡に建てられたものだといわれており、境内の近くには、大師のヘソの緒を埋めた胞衣塚や、大師が子供のころ泥で仏像を作って遊んだという童塚が残っています。なお、この寺は「八幡山三角寺」といい、かつては三角屋敷・御住屋敷と呼ばれ、すぐ西にある熊手八幡宮の別当寺でした。明治時代までは熊手八幡宮にあった五重石塔がこの寺にはあり、石塔には「嘉暦元年丙寅、施入八幡」という文字が刻まれています。「嘉暦元年」は鎌倉時代末期の1326年のことで、この辺りの古さを垣間見ることができます。
 また、現在の海岸寺橋より、少し上に十四橋(そよつはし)(MAP)、という石橋が弘田川に架っていますが、この橋は、空海が海岸寺で勉強していた幼い頃、毎月14日に必ずこの石橋を渡って、仏母院のそばに住む母のところへ行ったり、また熊手八幡に参ったりしていたといわれています。そこで、空海が毎月14日に必ず通られることから後にこの石橋を十四日橋というようになったそうです

● 京都賀茂神社の荘園
 現在の南鴨地区に加茂神社(MAP)という古い神社があります。南鴨・北鴨の地は、古代、多度郡葛原(かずはら)庄といわれた地域の一部で、平安時代の寛治4年(1090)、白河上皇が京都の賀茂上・下社に寄進した不輸田(ふゆでん)600余町の一部だと考えられています。そして、この寄進で南鴨・北鴨の地が京都賀茂神社の荘園となったことにより、この地に京都の賀茂神社の祭神が勧請(かんじょう)され、加茂神社になったと考えられています。
 この神社には、京都賀茂神社の蔵本を基に鎌倉時代の寛喜4年(1232)頃に書写されたという大般若波羅蜜多(はんにゃはらみた)経600巻が所蔵されています。この経には、「校了弁慶」という記載があることから、源義経が多度津沖で嵐に遭ったときの無事を感謝して、奉納したものだという話が伝わっています。しかし、義経が平泉で亡くなったのは文治5年(1189)とされており、この伝承は辻褄が合わないようです。

二 室町時代から安土・桃山時代まで

 鎌倉時代から室町時代を概ね中世といいますが、この時代、讃岐の政治・文化の中心は守護所の置かれた宇多津でした。現在の高松市街や丸亀市街はまだ寒村にすぎませんでした。

● 細川四天王の一人香川氏
 室町時代、多度津は、豊臣秀吉の四国支配が及ぶまでの約250年間、香川氏の城下町として西讃岐支配の拠点となります。
 室町時代の初めの南北朝時代、細川頼之(よりゆき)が讃岐に入り、以後讃岐は細川京兆家の支配する地となります。このとき香川氏は頼之にしたがって讃岐に来たといわれています。香川氏は相模国の香川郷―そこは現在の神奈川県茅ヶ崎市郊外だといわれていますが―出身の関東武士で、鎌倉景政(かまくらかげまさ)の子孫だといわれています。
 貞治元年(1362)、今の坂出の林田で、北朝方の細川頼之は南朝方に走った従兄弟の細川清氏(きようじ)と戦い勝利します。これを白峰合戦といいますが、この戦で香川景則(かげのり)は戦功をあげます。そして、その功により頼之から多度、三野、豊田の西讃三郡を与えられ、多度津の本台山(ほんだいさん)に居館、天霧山に詰めの城を築きます。なお、香川氏が入る前の西讃岐は、詫間氏の支配下にありました。
 細川頼之は室町幕府三代将軍足利義満の管領になった人物で、宇多津を拠点に守護として讃岐を支配しました。なお、義満は厳島参詣をした際、宇多津に立ち寄っており、厳島からの帰路には風波を避けるため多度津の今の堀江の弘浜辺りに上陸し、今津、津ノ森など経て宇多津に到着したといわれています。
 のち、香川氏は細川氏より西讃岐の守護代とされ、応仁の乱のときには、東軍の大将である細川勝元の重臣として京で活躍し、安富氏、香西氏、奈良氏と並び細川四天王といわれました。この乱のとき、香川氏が率いる西讃岐の武士団は、多度津の港から京に向けて出陣していたのかもしれません。なお、安富氏は東讃岐の守護代とされ津田の雨滝城を拠点とし、香西氏は香西の勝賀山城、奈良氏は宇多津の聖通寺城を拠点としていました。

● 香川氏の城下町
 本台山というのは、現在桃陵公園となっている多度津山のことです。桃陵公園東丘にある子供遊園地の一郭が物見台の跡で、石垣の残留が東側に残っています。香川氏居館の跡は、これより下方の丘の麓辺りではないかと考えられています。この辺りには、今も法輪寺、宝性寺、宝寿院、光厳寺、薬師寺と寺が密集していますが、これは香川氏の居館跡であったことと何らかの関係があるのかもしれません。なお、江戸時代に書かれた西讃府誌によると、多度津の地一帯を「硯岡」といい、南に善通寺五岳山の一つ「筆ノ山」があることから、多度津、丸亀の海をすべて「筆ノ海」というとあります。
香川氏がこの地に居館を築いた理由は、推測ですが、多度津の地理的位置と地形に関係があるのではないかと推測されます。
 まず地理的位置ですが、多度津は三野郡・豊田郡との連絡もよく、塩飽諸島とも近く、古くから瀬戸内海交通の要所の一つでした。また、近くに詰めの城を築くのに適した天霧山があります。この山は標高が360mあり、上から西讃岐の四方を見渡すことができ、古代には白方軍団の砦が築かれたともいわれ、西讃岐支配の要衝でした。このような地理的位置から香川氏は多度津を西讃岐支配の拠点としたのではないかと思われます。
 次に地形ですが、多度津山と桜川、そして海の存在が居館を築くのに都合が良い地形だったのではないかと考えられます。桜川の本流は多度津山の南西の麓が源流で、そこから多度津山の南山裾に沿って東に向かって流れ、県道善通寺・多度津腺桜川橋辺りのところで流れの向きを北に変え、そこから豊津橋の少し北のところで今度は流れの向きを西に変え、さらに、そこから金比羅神社の辺りで流れを北向きに変えて海に注いでいます。しかし、多度津で海の埋立てが行われるようになったのは、江戸時代後期にあたる天保5年の湛浦(たんほ)築造のときからで、香川氏が居館を築いた頃は、海岸線が現在よりも南に大きく後退していたと思われます。これは仮説ですが、この頃は、多度津山北面の山裾までが波打ち際になっており現在の東浜町と西浜町辺りはまだ海だったと思われ、桜川は、現在は金比羅神社の辺りで流れの向きを西から北へほぼ直角に変えていますが、当時は真っ直ぐ西に向かって大きく河口を広げて流れ、この河口が港として利用されていたのではないかと推測されます。とすると、現在、桃陵公園の登り口の右手に厳島神社がありますが、この神社が見下ろす位置に桜川の河口港があったのではないでしょうか。そして、この神社は桜川河口港を守るために宮島の厳島神社から分詞されたものではないでしょうか。当時の港の位置をこのように考えると、香川氏が巨館を置いた場所は、そこからすぐ南の場所であり、港に隣接する水運の便がよいところだったということになります。また、その場所は、西側が多度津山で守られ、南側と東側は桜川が自然の掘となり、北側は海となっている非常に防御に適した地だったということになります。
 香川氏が本台城を築いたことから、その周りには家臣や職人・商人が集まり、城下町が形成されていったと思われます。門前・角屋・寺町・六軒町・鍛冶屋町(現在の仲ノ町付近)・田町などは、この本台城の城下町としてできたのではないかと考えられています。門前は居館の門があったところ、鍛冶屋町は鍛冶職が住んだところで、三野、豊田両郡から呼び寄せられて住んだものと思われます。こうして多度津は香川氏の城下町として西讃岐における政治・文化の中心地となっていきました。
 なお、多度津の多門院には西谷藤兵衛という武士夫妻の肖像と墓と伝えられる石塔が残っていますが、西谷氏は現在の三豊市豊中町の岡本周辺を支配した香川氏の家臣です。

● 香川氏の滅亡
 戦国時代の永禄元年(1558)、阿波の三好実休が阿波と東讃岐の連合軍を善通寺に布陣し、天霧城の香川之景(ゆきかげ)を攻め、之景はこの城に籠城して戦います。このとき、善通寺は三好の兵火にあい、堂塔のほとんどが灰燼に帰したといいます。
 その後、之景は織田信長に従い、信長の一字を賜わり信景と改めます。しかし、天正6年(1578)、讃岐に侵攻してきた土佐の長宗我部元親の軍門に下り、元親の息子を養子に迎え入れます。このとき、城を包囲した長宗我部軍に対して、城内に白米をまいて水に見せかけてあざむいたという白米城伝説が残されています。
 しかし、天正13年(1585)、豊臣秀吉の四国征伐により元親が降伏すると、香川氏は長宗我部氏とともに土佐に退き、本台城も天霧城も廃城となります。
天霧城は、峻険な自然を巧みに利用しており、千早城(ちはやじょう)とならぶ中世を代表する貴重な山岳城跡といわれています。今も「天守台跡」、「砦跡」、「切通(きりとうし)」、「井戸」、「馬道(うまみち)」、「犬返し(いぬがえし)」などの城の遺構が残っています。南麓の採石事業のため築城以来の山容が崩されているのは残念なことです。

● 生駒時代
 四国が豊臣秀吉の勢力下に入ると、仙石秀久(せんごくひでひさ)、次いで尾藤知宣(びとうとものぶ)が秀吉から讃岐を与えられ領主として入ってきます。しかし、いずれも九州の島津攻略の失敗によって讃岐を没収され、その支配は短命に終わります。その後を受けて、天正15年(1587)、生駒親正(いこまちかまさ)が秀吉から讃岐を与えられて入ってきます。これ以降、讃岐の近世が本格的に始まります。親正は、讃岐全体に目が行き届くように高松城を主城、西讃岐の支配のために丸亀城を支城として築き、高松城に自ら入り、丸亀城に息子の一正(かずまさ)を配します。
 それまでの中世の時代、讃岐で城下町として人家が集まり町並みが形成されていたところは、鎌倉時代以来の讃岐の守護所が置かれていた宇多津と、東では香西氏の居館である佐料城のあった現在の高松市香西地区、西では香川氏の居館である本台城のあった多度津でした。これら讃岐の中世の城が築かれた場所は、いずれも西側に山、東側に川があり、すぐ近くに港があるという地形的特徴を有しているように考えられます。これに対して、高松城と丸亀城が築かれた地は、いずれも見通しの良い平地で、それまで全く領主権力の中心となったことのないところでした。生駒氏がこのような地に築城したのは、在地的旧勢力からの影響を受けずに領主権力を確立したかったためと思われます。 以後、この両地が讃岐の二大城下町として発展していきます。
 香川氏が去ってから後、多度津の城下は、元禄7年(1694)に京極高通が丸亀から分封されて多度津藩が成立するまでの約110年間、荒廃していたものと思われます。

三 江戸時代

● 多度津京極藩
 生駒氏は三代将軍家光の時代に改易されて讃岐を去ります。その後、讃岐は東西に分割され、東讃岐が高松松平藩、西讃岐が丸亀山崎藩となります。しかし、山崎藩の時代は短く、その後に京極氏が入ります。
 そして、五代将軍綱吉の時代の元禄7年(1694)、丸亀藩二代目藩主の京極高豊のとき、その子の高通が1万石を与えられて分家したことにより多度津藩が成立します。その所領は、多度郡のうち、多度津郷(多度津・道福寺村)、庄村郷(庄村・三井村・堀江村・東白方村・青木村)、山階郷(山階村)、白方郷(奥白方村・西白方村)、鴨郷(南鴨村・北鴨村・新町村・葛原村)、吉原郷吉原村のうち(碑殿村)の15ヵ村と、三野郡のうち、大見郷(大見村・松崎村)、高瀬郷下高瀬村のうち(原村)、神田郷(神田村)財田郷(上之村)の5ヵ村の多度津町全域及び善通寺市と三豊市(三野・詫間・高瀬・財田)のそれぞれ一部です。それは、現在の多度津町と善通寺市の一部及び財田、三野、高瀬、詫間町の一部にあたります。
 京極高通が丸亀から分封されて多度津藩が成立するに及んで、多度津は再び城下町としての活気を取り戻していきます。しかし、多度津藩が成立したといっても、多度津藩主は丸亀城内の西御屋敷というところに居住し、主な藩士もここで勤務していました。
 高通以後、多度津藩は高慶・高文・高賢・高琢・高典と明治維新まで176年間続きます。

● 京極家のルーツは近江源氏
 京極家は、近江源氏(宇多源氏)の名で知られる佐佐木氏で、宇多天皇の第八皇子・敦実親王を祖とします。滋賀県蒲生郡安土町に沙沙貴神社(ささきじんじゃ)という神社がありますが、ここは古くから沙沙貴郷あるいは佐佐木庄と称された地で、佐佐木家、京極家、黒田家、六角家、三井家など宇多源氏・佐佐木氏の発祥の地です。丸亀京極家の四ッ目結いの家紋もこの神社からきているそうです。
 佐々木氏は源平の戦いで活躍し、佐々木高綱が宇治川の合戦で先陣争いをした話がよく知られています。鎌倉時代には評定衆を歴任し、北近江を領有しますが、京都の京極に居住したことから京極を名乗るようになりました。
 京極氏からは、南北朝時代、佐々木道誉(どうよ)―佐々木高氏、京極高氏ともいい、出家後の名が「道誉」―が出、足利尊氏・義詮(よしあきら)・義満の室町幕府三代将軍に仕えて活躍し、山名・一色・赤松の諸氏と並んで四職の一つに数えられるほどになります。道誉は世間の人をあっと驚かせるようなスケールの大きい、奇抜なことをやった人で、「婆娑羅(ばさら)大名」としてよく知られています。「婆娑羅」という言葉は、梵語(ぼんご)(サンスクリット語)からきた仏教語で、「金剛」を意味し、金剛石がすべてを打ち砕くことから既存の常識や道徳を踏みにじる行為をいいます。このことから、当時、それまでの常識を打ち破って新しい価値観を築こうとした大名のことを「婆娑羅大名」と呼んだということです。丸亀市では、平成12年(2000年)から、「まるがめ婆娑羅まつり」が夏のイベントとして催されていますが、これは京極家が佐々木道誉の子孫であることにちなんだものです。
 戦国時代に入ると京極家もやがて衰退に向かい、一時は領地を失います。その後、豊臣秀吉の時代の文禄4年(1595年)、京極高次(たかつぐ)が大津城主となって6万石を領し京極家を再興します。さして戦功もない高次が出世したのは、姉が秀吉の側室として寵愛を受けていたためで、女性の「尻の光」で出世したということから、「ほたる大名」と陰口をたたかれたそうです。しかし、高次は浅井三姉妹(淀殿・初・小督)の次女お初を娶り、豊臣氏と徳川氏の閨閥に連なります。関が原の戦いの時には徳川方につき、大津城に籠城して豊臣方の大軍を釘付けにし、この功績により家康より若狭小浜8万5千石を与えられます。
 そして、その子忠高は徳川秀忠の娘を娶り、松江藩26万4千石を与えられて所領を拡大します。しかし忠高が急死し、跡継ぎのいない状態となってしまいます。これは忠高が徳川の出である正妻に遠慮して庶子を跡継ぎとして幕府に届け出なかったためであるとも言われています。幕府も一度は法度どおりに家名断絶にしましたが、名門京極家の絶えることを惜しんで、忠高の甥である高和に京極家を相続させることを許し、播磨龍野に6万石を与え、次に、万治元年(1658年)、山崎氏の後の丸亀6万石へ移封しました。讃岐では豊臣秀吉によって讃岐一国を与えられた生駒氏の治世が四代54年間で終わり、東讃岐には松平氏、西讃岐には山崎氏が入っていましたが、山崎氏には跡継ぎがいなかったためその治世はわずか三代17年で終わっていました。
 その後、元禄7年(1694)に、丸亀藩から1万石を分けて支藩として多度津藩を設けたということです。これは、一度御家断絶の憂き目にあった京極家がお家安泰のためにとった安全策だったのではないかともいわれています。以後、讃岐では、明治維新まで、高松藩、丸亀藩と多度津藩の3藩体制が続きます。なお、多度津京極家の家紋は四角い四ッ目を中心から90度回転させた菱四つ目定紋が用いられ、その図案が今日の多度津町章になっています。
 こうして西讃岐に落ち着いた京極家ですが、先祖の地である近江に深い愛着の念を抱いていたのでしょう。丸亀藩2代藩主京極高豊(たかとよ)は、元禄元年(1688)に池泉回遊式大名庭園である中津に万象園を築造し、園内に近江の琵琶湖をかたどった池泉とそこに近江八景になぞらえた島々を造っています。また、丸亀第6代藩主京極高朗(たかあきら)は、天保年間に消失した沙沙貴神社の社殿を弘化5年(1848年)に再建しています。
 滋賀県米原市に清滝寺徳源院(きよたきでらとくげんいん)という寺がありますが、この寺は歴代京極家当主の墓所となっており、丸亀藩主は初代高和、2代高豊、3代高或、4代高矩、5代高中、多度津藩主は初代高通、2代高慶、3代高文、4代高賢の墓が整然と並んでいます。なお、佐々木道誉(どうよ)の墓も5代目当主としてその列の中に並んでいます。丸亀市南條町の玄要寺と東京麻布の光林寺にも多度津藩主の墓があります。

● 丸亀と並ぶ金毘羅参詣船の寄港地
 江戸時代は金毘羅信仰が全国に広まっていった時代で、中期以降になると、参詣者を運ぶ海上交通路が発達していき、多度津湊は、丸亀湊とともに、金毘羅参詣船の寄港地となります。安永3年(1774)の金毘羅会式には、多度津湊に187艘が入港し、人数は5452人であったといいます。丸亀湊には大坂など東からやって来る船が多かったのに対して、多度津湊には九州、中国、北陸方面からの船が多かったようです。
 この頃の多度津湊は、北に向かって海に開けたL字形をした桜川の河口が船溜まりとして利用されていました。これは、仮説ですが、おそらく中世の時代においては、真っ直ぐ西に向かって大きく河口を広げて流れ、現在の桃陵公園登り口の東側辺りが湊になっていたのではないかと思われますが、河口が海と川から流されてきた土砂の堆積によって次第に陸地化し、それによって河口も次第に北に向きを変え、この頃には工事も加えられて現在の金刀比羅神社の辺りで流れの向きを西から北へほぼ直角に変えていたものと推測されます。桜川の河口を船溜まりとして利用したことから、現在の大通りと東浜の間を結ぶ橋は架けられていませんでした。ちなみに、現在の金比羅橋は、明治21年から架けられたものです。
 天保9年(1838)に完成した新湛浦に対して、この桜川の河口港を古港といい、新湛浦ができるまでは金毘羅船もこの古港に停泊していました。古港であった当時の桜川河口は現在よりも川幅が広く、桜川沿いの仲ノ町5番10号~東浜1・4・5番辺りは、明治21年から22年にかけて埋め立てられたものです。現在も仲ノ町には蔵やえびす神社が残り、当時の古港の名残をみることができます。
 この古港からの人や荷物の出入りにより、町並みも現在の大通りの金比羅橋から極楽橋にかけての古港南岸(現在の仲ノ町)にできていきます。現在の大通りには金刀比羅神社がありますが、この神社は古港の出入り口に位置しており、かつて古港に金毘羅船が出入りしていた名残です。(ただし、当時の金刀比羅神社は現在の大通りの位置にあり、明治23年(1890)の四国新道の開通により現在の位置に移転したものです。)天保2年(1831)の土屋長治写とある江戸時代の絵図が当時の多度津湊の姿をよく表しています。
 多度津へ上陸した人は、船着場から、門前町から鶴橋を渡り、南へ三井、筆岡、永井、大麻の各茶堂を経て金毘羅高薮(こうやぶ)町に入る金毘羅街道を駕や馬、または歩いて行きました。なお、この鶴橋付近には一の鳥居が立っていました。
 江戸時代の相撲取りで有名な雷電為右衛門は、寛政6年(1794)に古港に上陸し、金毘羅参りをしたといわれています。現在桃陵公園の登り口にある鳥居は、一の鳥居を移設したものですが、この鳥居の奉納者の中に雷電為右衛門の名が見られることから、雷電鳥居と呼ばれています。
 “やじ・きた道中”で知られる「東海道中膝栗毛」の作者である十返舎一九は、金毘羅にも参詣しており、善通寺、弥谷にも遊歴しています。そのときの印象を、「秀異勝景の地多くして、その感情今に想像するに堪えず。」と記しています。この体験をネタに、一九は「東海道中膝栗毛」の続編として「金毘羅参詣続膝栗毛(こんぴらさんけいぞくひざくりげ)」を文化7年(1810)に出しています。この中には、やじさん、きたさんの二人が多度津に立ち寄った物語が書かれています。
 大坂から金毘羅船に乗り込んだやじさん、きたさんは、丸亀に渡り、金毘羅参りをします。帰路、弥谷山の麓の茶屋で止宿し、翌日、「弥谷寺の仁王門より石段を登り、本堂に参り、奥の院求聞持(ぐもんじ)の岩屋というに、一人前十二文づつ出して、開帳を拝み、この峠うち越えて、屏風ヶ浦というに降り立つ。」「それより弘法大師の誕生し給うという垂迹(すいじゃく)の御堂を過ぎて十四津橋(そよつばし)を渡り、行き行きて多度津の御城下に至る。」この「十四津橋」というのは、西白方の弘田川にかけられた橋のことだと思われ、「屏風ヶ浦」、「弘法大師の誕生し給うという垂迹(すいじゃく)の御堂」というのは海岸寺のことだと考えられます。一九は多度津に来ていたのかもしれません。

● 多度津陣屋の建設―城の無い城下町
 多度津藩は独立の藩とはいえ、初代高通から第三代までの藩主は丸亀城郭内に屋敷を構えて居住し、多度津には重臣をおいて藩政を任せるという中途半端な治世でした。このような本藩である丸亀藩の制約を受けがちな状態から脱却し、多度津藩独自の決定を行うことができるようにするため、第四代藩主京極高賢(たかかた)は、家臣の建議を受け入れ、多度津に陣屋を建設することを決断します。陣屋とは、城の築造を許されない大名の屋敷で、防御の備えはあるものの天守閣や大規模な櫓・掘・城壁を持たないもののことです。
 江戸時代後期第11代将軍徳川家斉の時代の文政9年(1826)、多度津藩は陣屋の建設に着手します。建設工事の責任者は、林直記(なおき)というまだ19歳の家老でした。陣屋の敷地となったのは、桜川の北側右岸で、北が海、南と西が桜川に面し、堀江を付け根に西に半島のように延びる砂州でした。この地を陣屋の建設地としたのは、三方を水域で囲まれていることから防御に適した地形であることに加え、直接陣屋から海に船出することができたためだと思われます。多度津陣屋は水城といえます。
 この頃の多度津の人家の広がりは、まだ桜川左岸と多度津山の東山裾に囲まれた地域の中だけに限られ、桜川の東側右岸は田圃となっており、北側右岸は墓場だったといわれています。人家のあるところから北側右岸へ行くには極楽橋という橋を渡る必要がありました。ちなみに、それを渡らないことにはお墓へ行けないことからその名がついたといわれています。陣屋は、明治21年に金比羅橋が架けられるまでは一般の商人や職人の住む町屋と切り離されていました。また、桜川の東側右岸に建物が建ち始めるのは、大正2年に現在のJR多度津駅のところに国鉄多度津駅が新築移転してから以降のことです。
 莫大な資金と多くの労力を費やして完成した陣屋に高賢が入ったのは文政12年(1829)6月のことでした。多度津藩は創設以来150年にして、ようやく独立した陣屋を持つことができたのです。明治維新が1868年のことですから、その約40年前のことです。
 この陣屋は東側に大手門を配し、そこを入ったところに蓮堀という人工堀を南北に掘削して東の防御としていました。東西約700m、南北約200mにわたる地域を占め、その中に居館、倉庫、営門、皷楼、学館、馬場、射場などもある立派なものでした。しかし、城下町であっても城はありませんでした。西讃辺りでは、絶壁頭の人を“多度津の殿さん”といいますが、これは“うしろ(後ろ)が無い”をしゃれて、“しろ(城)が無い”をからかったものです。
 この陣屋のあったところは、現在国鉄多度津工場の周辺、須賀町、家中(かちゅう)にわたる広い地域で、今の山本医院辺りに本陣、工場附近一帯に調練場、須賀町に御藏(ごくら)などがありました。現在「お東御殿」と呼ばれる一帯の地には、重臣、家臣達の居宅が建ち並び、家中の天神宮の裏手一帯には射弓・馬場がありました。そして、今の極楽橋の元詰めには、明治の初年までは多度津藩の黒門があって、門番がいかめしく控え、夕刻後は通行手形が必要であったと伝えられています。家中には、現在でも一見行き止まりを思わせる道路や威厳のある門構えの家など武家屋敷の名残があります。現在町立資料館となっている建物は旧多度津藩士浅見氏の屋敷です。資料館から道を挟んで斜め向かいが東御殿と呼ばれた家老林氏の屋敷あったところです。
 なお、宇多津町の西光寺の境内には、江戸末期に多度津藩が建造した藩主の御座船である日吉丸の屋形が残っています。多度津藩の財政窮乏の折り、明治の初めに寺が購入・移築し、船屋形茶室と利用しているものです。また、瀬戸内海歴史民俗資料館には多度津藩小早船絵図があります。
陣屋の建設により、多度津の町は一度に建築ラッシュを迎え、周辺の村々から大工・左官・石工・鍛冶など大勢の職人が集まってきたようです。また材木など建築資材の取引が盛況となって商人も増えていったようです。これにともなって一般の消費も増加して城下は活気を呈していきました。今日でいう、公共事業による地域経済の活性化ということでしょう。

● 多度津湛浦の築造―多度津一万石の挑戦
 多度津藩は、陣屋ができてから約5年後、今後は湛浦(たんほ)の築造に着手します。湛浦とは港のことです。江戸時代も後期になると、桜川の港は金毘羅参詣船や北前船の出入りで手狭になり、問屋衆の間からは新湛甫築造の要望がおこっていました。こうした背景の下、陣屋が設けられたことにより、藩士たちと領内の庄屋、商人との意思疎通が図られ、藩一体となって―現代風にいえば、官民一体ということでしょう―湛浦の築造計画に取り組みます。資金調達は講銀という形で、領内三井組15ヵ村にわたっておこなわれました。
 新湛浦の建設に着手したのは、天保4年(1833)、第五代藩主高琢(たかてる)のときです。水野忠邦による江戸幕府の政治改革である天保の改革が行われたのが天保12年(1841)から天保14年(1843)にかけてのことですから、その少し前のことです。
 この工事は、桜川河口の西側の海岸を埋め立てて新たに東突堤と、多度津山が海に迫る嶽下から海中へ西突堤を築き、その先端の間に防波堤を設け、その両端を2つの港門とするものでした。その規模は、東突堤119間(約216.3メートル)、西突堤74間(約134.5メートル)、中央突堤(一文字突堤)120間(約218.2メートル)で、いずれも堤幅3間半(約6.4メートル)の防波堤です。港内の水域面積は106間(約529平方メートル)、満潮時水深2丈3尺(約6.9メートル)という大きなもので、約5か年の歳月と9,500両に余る大金が投じられ、天保9年(1838)に完成しました。明治維新の29年前のことです。築造工事は難渋をきわめ、全国から優秀な石工を集めたといいます。なお、湛浦が完成したとき、一文字突堤の西端近くに、因島廻船方から寄進された大きな石燈籠が、港入口を挟んで2基立てられました。ちなみに、この石燈籠は昭和23年に壊されて行方不明になっているそうです。
 この頃、多度津湛浦より先の天保4年に完成していた丸亀湊の新掘湛浦は、その規模が東西80間(約145.4メートル)、南北40間(約72.7メートル)、入口15間(27.3メートル)、満潮時水深1丈6尺(4.8メートル)、工期が1年余り、工費が約2,000両であり、これと比べると多度津湛浦がいかに大きかったかが分かります。この湛浦の築造によって、多度津の港は丸亀の新掘湛浦より大きくて水深が深いため、大型船の出入りができるようになり、瀬戸内海屈指の良港となります。
 当時の多度津湛浦の様子は、弘化4年(1847)に刊行された暁鐘成の「金比羅参詣名所図会」に描かれています。多度津湛浦は明治以降の港湾整備により徐々にその姿を変えますが、昭和38年頃まではほぼ原型が維持されていました。しかし、昭和45年から着手された臨海土地造成事業により現在は全く姿を消し、今では図面でかつての姿を想像するほかありません。現在の位置でいうと、港内南側の海岸線は、東端が多度津商工会議所西南裏の交差点、西端が嶽下手前にある「屏風ヶ浦への道標」で、その間を東西に走る県道多度津港線に当たります。今も多度津商工会議所西南裏の交差点のすこし西南にえびす神社がありますが、それは東端の海岸にあったものです。東突堤は、東浜郵便局より少し北までが突出た陸地となっており、そこから海に延びていました。西突堤は、嶽下手前にある「屏風ヶ浦への道標」と浜街道の間にある細い路地に沿って海に延びていました。今も残る多度津湛浦の跡は、魚市場・青果市場がある東浜12・13番の北側護岸として用いられている天保時代に築かれた旧一文字突堤の石積だけです。

● 林良斎と大塩平八郎
 多度津で湛浦の築造工事が行われている頃の天保6年(1835)、大坂の大塩平八郎が多度津の林良斎(りょうさい)を訪れています。平八郎は、江戸時代末期、貧民救済をかかげ幕府に反乱を起こした大坂町奉行の元与力(よりき)です。号を中斎と称します。林良斎は、陣屋建設の工事の指揮をしていた多度津藩家老の林直記で、号を良斎といいます。
 林良斎は文化5年(1808)、多度津京極藩の家老の家に生れました。平八郎より14歳年下です。また自明軒とも称していました。良斎は父の後を受けて多度津藩の家老となり、陣屋建設工事を指揮して日常の家老職とあわせて多忙な激務に取り組みます。陣屋完成後の天保4年(1833)、26歳のとき、良斎は甥の三左衛門に家督を譲り、次いで天保6年(1835)、大阪へ出て平八郎について洗心洞で陽明学を研究します。その年の秋、平八郎が良斎を訪ねて多度津に来たというわけです。このときは、まだ湛浦は完成していませんので、平八郎は、古港に上陸したものと思われます。良斎は「中斎に送り奉る大教鐸(きょうたく)の序」に次のように記しています。
 「先生は壯(良斎のこと)をたずねて海を渡って草深い屋敷にまで訪問しました。互いに向き合って語ること連日、万物一体の心をもって、万物一体の心の人にあるものを、真心をこめてねんごろにみちびきます。私どもの仲間は仁を空しうするばかりで、正しい道を捨てて危い曲りくねった経(みち)に堕ちて解脱(げだつ)することができないと憂慮します。このとき、じっと聞いていた者は感動してふるい立ち、はじめて壯の言葉を信用して、先生にもっと早くお目にかかったらよかったとたいへん残念がりました。」
 翌年の天保7年(1836)にも、良斎は再び洗心洞を訪ね、平八郎に教えを乞いています。しかし、この頃には、天保の大飢饉が全国的に進行していました。長雨や冷害による凶作のため農村は荒廃し、米価も高騰して一揆や打ちこわしが全国各地で激発し、さらに疫病の発生も加わって餓死者が20~30万人にも達していました。これを見た平八郎は蔵書を処分するなど私財を投げ打って貧民の救済活動を行いますが、もはや武装蜂起によって奉行らを討つ以外に根本的解決は望めないと決意し、幕府の役人と大坂の豪商の癒着・不正を断罪し、窮民救済を求め、幕政の刷新を期して、天保8年3月27日(1837年5月1日)、門人、民衆と共に蜂起しました。しかし、この乱はわずか半日で鎮圧されてしまいます。平八郎は数ヶ月ほど逃亡生活を送りますが、ついに所在を見つけられたため、養子の格之助と共に火薬を用いて自決しました。享年45歳でした。明治維新の約30年前のことです。
 良斎はその後も陽明学の研究を続け、「類聚要語(るいしゅうようご)」や「学微(がくちょう)」など多くの著書を書き上げます。また、39歳の秋にはかねてからの念願であった読書講学の塾を多度津の堀江に建てています。その塾は弘浜(ひろはま)書院と名付けられ、藩の多くの子弟がそこで学び、彼らは明治に入ってからも活躍しました。良斎は陽明学者としては、本県初の人だと言われており、後に幕末陽明学の四儒と称されました。平八郎が没してから12年後の嘉永2年(1849)5月4日、43歳で没しました。田町の勝林寺(しょうりんじ)には良斎の墓が門人達の手によって建立されています。
 多度津町家中(かちゅう)の富井家には、大塩平八郎の著書といわれている「洗心洞塾剳記(せんしんどうさつき)」と「奉納書籍聚跋(ほうのうしょせきしゅうばつ)」の2冊が残されているそうです。いずれも「大塩中斎から譲られたものを良斎先生より賜れる」と墨書きされており、林良斎が大塩平八郎から譲られ、その後、良斎から富井泰藏(たいぞう)に譲られたものと考えられます。
 また、奥白方の山あいには、江戸時代末期の慶応3年に、多度津京極藩の家老だった林求馬が、外国の軍艦の攻撃があったときの殿様の安全な避難場所として建てた屋敷が残っています。林求馬は良斎の養子である三左衛門です。この林求馬邸内には堀江にあった「弘浜書院」が復元されています。ここには、「自明軒」という扁額(横に長い額)が掲げられています。これは大塩平八郎から贈られたもので、林良斎が洗心洞塾で学んでいたとき、あるいは帰国にさいして、平八郎が揮号(きごう)(書画を書くこと)したものといわれています。

● 北前船で賑わった多度津
 湛甫の完成により、さらに多くの金毘羅参詣客が多度津に上陸するようになります。また多度津は北前船(きたまえぶね)の寄港地となり、瀬戸内海屈指の港町として発展していくことになります。城に代わる湛浦の築造が、明治に続く多度津繁栄の基礎になったということです。
 北前船とは、北国や東北、蝦夷地と瀬戸内海や大坂を結んだ廻船をいいますが、そのルートは大坂から瀬戸内海を経て赤間関(関門海峡)を回り日本海を北上し、東北、北海道へと向かう和船でした。港から港へ移動して諸国の産物をあちらこちらへ運びながら売買するので危険性はありましたが、相場の地域格差を利用して一攫千金の利益を得ることができました。ちなみに江戸時代の主役となって日本沿岸をくまなく回っていたのがベザイ(弁財)造りの大和型帆船です。北前船は江戸時代中期に発生し、明治時代の30年代まで続いたといわれています。
 湛甫完成後、多度津は北前船の中継地となります。多度津の港で讃岐三白の砂糖や塩、綿を積み込み、瀬戸内海を西に向かい、赤間関を通って日本海に抜け、北陸の越前、佐渡、東北、遠くは北海道まで出かけ、帰りには鯡(にしん)の〆粕(しめかす)、干鰯(ほしか)などの魚肥や昆布、数の子などを持ち帰ったといいます。
 こうして多度津では、廻船問屋が数十軒を数え、萬(よろづ)問屋、干鰯問屋、材木商、砂糖商、米穀商などの商人や、造船や船の修理、製油業、酒造業、砂糖の製造業者などが出現し、商家の町として賑わいます。こうした商家は屋号で呼ばれ、その中には船名にちなんだものもありました。また、多度津港の西側の白方地区では、サトウキビが栽培され、北前船に積み込む砂糖作りがさかんに行われました。
 弘化4年(1847)に刊行された暁鐘成の「金比羅参詣名所図会」には当時の多度津の繁栄ぶりが次のように記されています。「この津は円亀に続いての繁昌の地なり。原来波塘の構えよく、入船の便利よきが故に湊に泊まる船おびただしく、浜辺には船宿、旅籠屋建てつづき、あるいは岸に上酒、煮売りの出店、うどん・そばの担(にな)売り、甘酒、餅菓子など、商う者往来たゆる事なし。そのほか商人、船大工等ありて、平生に賑わし。かつまた、西国筋の往返の諸船の内金毘羅参詣なさんず徒はここに着船して善通寺を拝し象頭山に登る。その都合よきをもってここに船を待たせ参詣する者多し。」

● 幕末の多度津
 嘉永6年(1853)、アメリカのペリー提督が、軍艦4隻をひきいて浦賀に来航し、幕府にアメリカ大統領の信書を提出してわが国の開国を強く要求しました。この威力に屈し、幕府は翌年再び来航したペリーと「日米和親条約(神奈川条約)」を締結します。ここに200年以上にわたって鎖国政策を行い、大平の世を享受してきたわが国も、ようやく西洋列強の軍事力に対抗できる国防の重要性をさとり、幕府・各藩は競って軍事力の近代化を進めます。
 多度津藩では、家老林三左衛門が、他藩に先駆けて藩兵の近代化を進め、洋式大砲や小銃の採用を積極的に行います。西洋の最新兵器を外国商人から購入して揃え、元治元年(1864)には、足軽で構成した歩兵銃隊の先進隊を結成しています。また、慶応2年頃には、藩内の志願農民で構成する農民隊も結成しています。この農民隊は歩兵銃隊で赤報隊と名付けられました。
 多度津藩は、小藩ながら先進的な軍事力の強化に努めていますが、これは、多度津港が瀬戸内海でも有数の港であったことにより、国内情勢に関する最新の情報が常に入っていたこと、また、北前船で財を成した豪商たちからの上納金により西洋武器を購入できたことなどによるものと思われます。
 多度津の沖合いには、塩飽諸島に属する高見と佐柳の二島がありますが、これらの島の住民は、塩飽水軍の末裔で、すぐれた船と航海術を持っていました。幕末、彼らに再び活躍の場が与えられます。わが国最初の遣米使節の軍艦「咸臨丸」乗船水夫50名のうち、高見島・佐柳島出身者が5名含まれていました。また、坂本龍馬の海援隊「いろは丸」の航海長佐柳高次も佐柳島出身者でした。
 また、幕末の世情不安な頃、多度津では、南林(なんりん)という義賊がいたという話が残っています。南林は三豊郡大野原の生まれで、義侠心があり、資産家の財貨を掠奪して貧民に施したということです。元治2年(1865)12月20日多度津藩の刑場、東白方崖下土壇にて処刑されたといいます。「南林のとりたる金は幾万両 身につく金は今日の一太刀」という辞世の歌と、東白方墓地に墓が残っています。

 四 明治時代

● 明治維新―官軍側についた多度津藩
 明治維新の大転換期に際して、多度津藩6代藩主の京極高典(たかまさ)は時代の動きを見誤ることなく、新政府側について時勢を先取りした動きをします。慶応4年(1868)1月3日、討幕派の策略に憤激した幕府軍は、大坂から京都に向かい、薩摩・長州を中心とする官軍と京都市街の南で戦いとなります。これが伏見・鳥羽の戦いですが、このとき、讃岐三藩の対応は対照的なものでした。高松藩は幕府側について朝敵となります。これと反対に多度津藩は、官軍側につき、フランス製大砲2門、小銃19挺を失うほどの戦いを幕府軍と交えます。一方、丸亀藩主京極朗徹(あきゆき)は江戸から京都に向かいますが、病のため京都に入ったときにはすでに戦いは終わっていました。
 新政府は、朝敵である高松藩の征討を土佐藩に命じ、1月19日、3千に余る土佐軍が丸亀城下に到着します。この土佐軍の参謀兼大隊司令は、板垣退助でした。翌20日、丸亀・多度津藩兵250人が土佐軍の先鋒として高松城下に入ります。この中には赤報隊もいました。高松藩は恭順の姿勢を示していたので戦いもなく、その日の夕刻には錦御旗を先頭にした土佐軍が大手門から高松城に入り、高松藩は平穏に土佐軍の占領下となります。土佐軍が高松から撤収したのは、それから約1ヵ月後のことです。このとき、戦いはありませんでしたが、讃岐が土佐からの侵攻を受けたのは、長宗我部元親の侵攻以来約290年ぶりのことでした。
 新政府により廃藩置県が断行されたのは明治4年7月の宣下によりますが、多度津藩は、他藩に率先して、すでに明治4年正月に廃藩の建白書を新政府に提出しています。これにより多度津藩は全国でも早い時期の4月2日に廃止され倉敷県に所属します。丸亀藩が廃止され丸亀県となるのは4月10日のことです。しかし、高松藩が廃止され高松県となるのは7月の宣下のときです。

● 北前船の基地から瀬戸内海定期航路の主要港へ
 明治に入っても、多度津は北前船の基地として活況を呈していました。明治14年の記録によると次のように記されています。多度津の戸数は1,230戸、人口は4,441人。北海道から鯡(にしん)の〆粕、昆布、数の子などを搬入。昆布、数の子は丸亀、多度津、琴平などへ転売。鯡の〆粕は那珂、多度、三野、豊田郡などへ転売。物産問屋は39軒あり、問屋は搬入された物品を預かり、仲買人に売り捌きをさせる習慣になっている。多度津港に定繋され出入りしている船は、300石以下が55艘、北海道まで渡航する300石以上が2艘。多度津港から搬出される物産は、砂糖が約84,500斥、その代価が約57,752円50銭、綿が約20,000貫目、その代価が約10,000円。砂糖は北海道又は大阪へ売り捌き、綿は北海道又は西海道へ搬出。近傍の農家の肥料は、近来、鯡の〆粕の類が多く用いられ、これによって土質が肥えて作物の生育がよく収穫が多い。
 明治時代は、鉄道や道路が未整備なため交通手段は海上交通が中心でした。明治10年、西南戦争により阪神・九州間の輸送量が飛躍的に増加すると、船腹が不足し、その機に乗じて70社以上の中小商船会社が瀬戸内航路に誕生します。しかし、戦争終結後は船腹過剰となり、熾烈な競争の結果、多くの中小海運会社は立ち行かなくなります。事態打開のため大連合の結成が進められ、明治17年5月に住友系の大阪商船会社が発足し、開業当初、大阪から山陽・四国・九州あるいは和歌山に至る18本線と4支線の航路を運行することになります。このうち香川県下の港に寄港する航路は、多度津に9本線と1支線、小豆島・高松・丸亀にそれぞれ2本線であり、多度津は瀬戸内海定期航路路線の中で圧倒的に重要な地位を占めていました。これは、多度津は、港内が深くて汽船が停泊するのに都合が良く、また金刀比羅宮に参詣する旅客が上陸するのに便利な地であったことによるといわれています。

● 讃岐鉄道の起点―四国の鉄道発祥の地
 天保の湛浦築造から約50年後の明治21年(1888)4月10日、多度津を起点として琴平、丸亀二方面へ向けて香川県内で初めて鉄道の建設が始まります。多度津の景山甚右衛門(かげやまじんうえもん)ほか17名が讃岐鉄道株式会社を設立し、金毘羅参詣客をあてこんで計画したものです。
 甚右衛門は、幕末の安政2年(1855)に、多度津の回船問屋大隈屋の5代目として生まれました。明治11年、血気盛んな二十歳の頃、自家の千石船に乗って上京したとき、新橋~横浜間を走る汽車を目にし、讃岐に鉄道を開設する決意をします。明治18年、29歳のときに計画し、4年かって、多度津を起点とする琴平と丸亀間の15.5キロを明治22年(1889)5月23日に開通させます。この年は、2月11日に「大日本帝国憲法」が公布され、同時に皇室典範、衆議院議員選挙法、貴族院令、議員法なども公布され、我が国が近代国家としてスタートしたときでした。
 天保の湛浦築造により多度津の港は北前船の基地として賑わい、冨を蓄積した多くの豪商が出現していました。景山家もその一つでした。しかし、明治に入ると、北前船は、汽船と汽車の発達による流通の変化や新政府成立による相場の地域格差解消により次第に衰退していきました。実際、明治30年代になると、北前船は全国的に役目をほぼ終えて歴史の表舞台から姿を消しています。多度津で鉄道の建設が計画されたのは、このような時代背景の下、北前船に依存した従来の商売から抜け出して、港を活用した新たな商売への転換をもくろんだことによるのではないかと思われます。
 しかし、この開通はすんなりと進んだわけではなく、岡蒸気が走るという噂が広がると、当時の馬方(うまかた)や人力車夫たちは、生活ができなくなるといって、連日、甚右衛門宅に押しかけ「やめなければ、家を焼き払うぞ」といって脅したといわれています。
 開通時の機関車はドイツのホーヘンオレルン社製のタンクで、客車はマッチ箱のような型をしていました。貨客4両編成で、上、中、下等の3ランクに分かれ、今とは逆に琴平行きが上りになっていました。後には食堂車も走らせ、袴(はかま)をつけた「女ボーイ」が給仕をしたそうです。
 わが国で初めて鉄道が開通したのは、明治5年5月7日(1872)の横浜~品川間ですから、讃岐鉄道の開通はそれから17年後のことでした。なお、これは全国では7番目、四国では松山の伊予鉄道に遅れること7ヶ月で2番目でした。ただし、明治9年8月から明治21年12月までの間、讃岐は愛媛県に編入されていた時代であることを考えると、このことは讃岐の実業家の意気軒昂さを示すものといえるでしょう。
 明治22年に讃岐鉄道が開業した当時の多度津駅は、桜川の河口に近い須賀町の旧多度津藩陣屋の藩士調練場とその周辺だったところに建設されました。現在の多度津町民会館の辺りです。川に面して洋風木造2階建ての本社兼駅が建っていました。鉄道は丸亀線と琴平線の2線が並行して走り、丸亀腺は直線に延びて東方面へ、琴平線は堀江附近から南へカーブして、豊小校の西を通って琴平へ通じていたといわれています。
 また、明治21年から22年にかけて、従来の和船と異なり吃水の深い汽船の出入りをしやすくするため港の浚渫が行われ、この浚渫土砂で、桜川の旧港とその左岸一帯が埋め立てられています。今の桜川沿いの現在の仲ノ町5番10号~東浜1・4・5番辺りで、これによって、港に通じる道路の両側には、旅館・商店等が軒を連ねる繁華街となっていきます。また、東浜と須賀を結ぶ桜川に金刀比羅橋が架かったのは、明治21年の桜川左岸の埋立てのときです。それまで、桜川には港があったので、下流から極楽橋までの間に橋はありませんでした。

● 四国新道の起点
 大阪、神戸と中国・四国・九州を結ぶ定期航路の船が盛んに多度津港に出入りするようになると、陸上交通の整備が唱えられるようになりました。明治17年(1884)、大久保之丞(じんのじょう)は四国新道のプランを提唱します。之丞は嘉永2年(1849)、多度津藩領の三野郡財田上ノ村(現在の三豊市財田町)に生まれました。阿讃にまたがる山道の不便さを熟知しており、地域の経済を発展させるためには道路を建設する必要があるという持論を持っていました。その四国新道の構想は、多度津・丸亀を起点に琴平から猪ノ鼻を越えて阿波池田に入り、高知を経て佐川・須崎に達し、佐川から松山・三津浜に至るという四国を全長約280kmのV字型で貫くという壮大なものでした。その道幅も計画では最大12.6m、最小でも6.3mと、現在と比べて遜色のないものでした。
 明治19年(1886)4月14日、琴平・阿波池田・高知で四国新道の起工式が同時に行われます。しかし、山間部での工事は難渋を極め、なかでも猪ノ鼻峠は最大の難関で、鍬や鶴嘴を使って50mにも及ぶ断崖を掘削しました。また、道路用地にかかった地元住民などの猛烈な反対や資金不足もあり、工事は度々中断したといいます。このとき、県会議員をしていた之丞は反対住民の説得に奔走し、さらに工事のために私財まで提供して大久保家の財産は土塀と井戸を残すのみになったといわれています。
 明治23年(1890)3月に多度津から琴平を経て猪ノ鼻峠間、38.382kmと、丸亀・金蔵寺間6.08kmの香川県分の工事が竣工し、さらに明治27年(1894)5月に8年の歳月をかけて、全面開通となります。
 多度津は四国新道の起点となっており、須賀の大通りから極楽橋を通じて真っ直ぐ南東に進み、桜川を2つの橋で超えて、葛原・金蔵寺方向へ直進する道路が四国新道です。この工事に当たっては、須賀町(現大通り)や鍛冶屋町(現仲ノ町付近)の民家が多数切り取り又は立ち退きになり、当時の須賀町にあった金刀比羅神社も、この道にかかり、現在地に移転されました。
 この新道により人や物資の流れは大きく変わり、阿波側には塩や米、麦が、讃岐側には葉タバコなどが大量に運ばれました。しかし、之丞自身はそれを見届けることなく明治24年12月14日香川県議会中に倒れ、42歳の若さで亡くなります。之丞は四国新道の実現のほか、讃岐鉄道の完成、瀬戸大橋、香川用水の構想を提言し、産業の振興、無医村解消、北海道移民、多度津港の改修など郷土発展に力を尽くしています。

● 香川で最初に設立された私立銀行
 また、明治24年には、景山甚右衛門が中心となって香川県で初めての私立銀行である多度津銀行が設立されています。香川県で初めて設立された銀行は、明治11年に高松で創立した第百十四国立銀行で、次いで翌年、丸亀で第百二十七国立銀行が開業しています。しかし、これらはいずれも官営銀行です。また、明治41年には、多度津に本店を置く二つ目の私立銀行である讃岐銀行が東白方の村井一族によって開設されています。

● 測候所の開業・郵便局
 さらに、明治25年には、香川県で最初の測候所である多度津一等測候所が開業しています。なお、この測候所は平成13年3月に観測業務の無人化により閉鎖されてその長い歴史を閉じました。現在も香川県内の天気状況は高松と多度津の2カ所の観測データが発表されています。
 また、明治26年には、多度津郵便局が一等郵便局に昇格し、四国の各局を管轄することとなります。多度津郵便局は、明治21年に、今の東浜郵便局となっている所に木造二階建洋風のモダン庁舎が建てられました。明治26年11月10日に一等郵便電信局となって、四国一円を監督する最も重要な局となったものです。浜の町には電信伝習所まであったといいます。現在の仲ノ町の庁舎は、昭和27年に新築移転されたものです。

● 県下第一の繁華の地―瀬戸内海航路のターミナル港へ
 鉄道の敷設により、多度津は海上交通と陸上交通の結節点となります。この頃の多度津港は、汽船の出入りが頻繁で、常に煤煙が空を蔽い、汽笛が埠頭に響いていました。また町は船と鉄道に乗降する多くの旅客で賑わい、港近くの旅館や商店街では夕方になるとガス灯が一斉に点灯され、県下第一の繁華の地となりました。多度津小学校の校歌に「汽笛の響きにぎわえる」という節がありますが、その頃の情景を歌ったものでしょう。
 その後、讃岐鉄道は、丸亀から東に向かって延伸されますが、高松まで開通したのは、多度津・丸亀間が開通してから7年3ヶ月後の明治30年(1897)2月21日のことです。さらに岡山・宇野間に鉄道が敷設され、宇高連絡船が就航するのはまだ先の明治43年のことです。
 ちなみに、明治27年の船舶入港数は多度津港30,737隻、高松港3,430隻であり、同37年の船舶入港数は多度津港66,580隻、高松港8,634隻でした。また、明治30年当時、香川県下には、49軒の汽船問屋及び和船問屋がありましたが、このうち約半数の25軒が多度津にあり、残りが高松8軒、坂出1軒、小豆島11軒、丸亀4軒でした。多度津は、「多度津に来れば、どこ行きの船にでも乗れる」といわれる県下最大の港湾を有する瀬戸内海航路のターミナル港であり、また、鉄道を有する交通の結節点でした。
 明治28年から29年にかけては、港内の浚渫土砂で現在の東浜6番辺りが埋め立てられ、水上警察署用地・荷揚場・大雁木(階段)などが造成されています。ここで内港に入れない汽船からの旅客の上陸や、貨物の荷揚げが行われ、日露戦争のときには兵士の乗船場として利用されました。
 讃岐鉄道は山陽鉄道との合併を経て、明治39年(1906)12月、国有鉄道に移管されます。

● 日露戦争の出征港―教科書に載った一太郎やあい
 また、多度津港は日露戦争(明治37年~38年)のときの第11師団出征港でもありました。明治31年12月、四国四県を一管区とした第11師団が善通寺に置かれました。これに伴い、乃木中将が初代師団長として赴任してきました。ときに50歳でした。乃木中将は、明治31年(1898年)10月3日から34年(1901年)5月まで善通寺第11師団長を務め、金蔵寺の客殿を宿泊所としていました。善通寺へは単身赴任でした。
 明治37年(1904年)2月に日露戦争が勃発すると、四国の第11師団にも動員令が下り、多度津港から多くの兵士が出征します。第11師団は第3軍に編成され、旅順攻撃軍に加わります。司令官はかつての第11師団の師団長であった乃木大将でした。明治38年9月5日にポーツマス講話条約が成り、第11師団は、11月14日から翌年2月18日までに帰国の途につき、多度津港に上陸凱旋します。県下の戦死者数は、戦死者1481名、病死368名でした。なお、多度津町の東白方には、乃木将軍の揮毫による日露戦役忠魂碑があります。この碑の真筆は東白方の三宝丸村井家に残されているといいます。
 この出征のとき、多度津港で「一太郎やあい」の美談が生まれました。三豊郡豊田村(現在の観音寺市)の岡田梶太郎(通称一太郎)は多度津港から輸送船で日露戦争に出征することになりました。その母カメは、息子を見送りに腰弁当と草鞋履きで多度津までやってきます。しかし一太郎の好きな氷砂糖を買いにいったため船はすでに岸壁を離れていました。そこでカメは大声で、「一太郎やあい、天子様に御奉公するんだぞー。わかったかー。聞こえたら鉄砲を挙げろ。」と叫び、一太郎はそれにこたえて銃を高くあげたといわれています。この話が軍国美話として国定教科書に掲載され、全国的に有名になりました。多度津山の桃陵公園には、港を見下ろす高台に「一太郎やあい」の像が建っています。なお金蔵寺の境内には、「妻返しの松」の向かいに「一太郎松」と言う松があります。

● 四国の玄関口の座をめぐる高松との競争
 多度津港が県下最大の港湾を有するターミナル港として賑わっていた頃、高松港は設備が悪く、水深も浅かったため、沖合に船を停泊させ、艀(はしけ)を使って波止場まで旅客や荷物の揚げ下ろしをしていました。従来の和船と違って汽船には港が浅かったのです。そこで、高松は、新しい蒸気船時代にあった港の整備が叫ばれ、大型汽船が寄港できるようにするため、丸亀・高松間に鉄道が開通した年である明治30年から港湾の拡張工事に着手します。
 これに対して、多度津も、明治31年から港の拡張計画に取り組んでいます。おそらく、この頃すでに岡山から宇野まで鉄道を延伸して宇野と高松を連絡船で結び、さらに将来高松から松山、高知、徳島までを鉄道で結ぶという構想があったのではないかと思われます。このため、多度津としては、高松と宇野を結ぶ鉄道連絡船が就航すると、将来四国の玄関口としての地位を高松に奪われてしまうという危機感を抱いていたのではないかと思われます。こうしたことから多度津でも港湾の拡張計画の検討が始まったのではないでしょうか。しかし、なかなか工事着手に至らず、その間の明治37年9月に高松港では拡張工事が竣工し、入港船舶、貨客の数を飛躍的に増加させていきます。
 日露戦争後の明治39年11月、多度津はようやく国の許可を受けて港の拡張工事に着手します。その内容は、70年前の天保9年(1837)に造った湛甫の外側に、大型汽船が着岸できるよう、西は嶽下の北方に長さ280間(約510メートル)の西突堤を築き、東は埋立地を造成し、その北方に330メートルの東突堤を築くというものでした。
 しかし、難工事のためや計画の手直しのため工事は遅延し、さらに竣工間際の明治41年11月26日、突然の暴風により大被害を受け、計画の変更と工事費の増加を余儀なくされてしまいます。こうした苦難の末、明治45年(1912)、1月26日、約5年2ヶ月の歳月と巨額の金を費やしてようやく多度津港の拡張工事が竣工しました。
 この頃、明治38年から39年にかけて、港が浚渫され現在の西浜5・6番が埋め立てられています。そして、明治39年から45年にかけて行われた港湾の拡張工事にともない現在の東浜7・8・9・10番と5番の一部、西浜7・8番が埋め立てられています。
 しかし、その間の明治43年、宇野線が開通したことにともなって宇高連絡船が就航し、高松港が多度津港を凌駕するようになります。高松港は、その後も大正11年(1922)から6年の歳月をかけて拡張工事を行い、1700トンの大型汽船も就航できるようになり、四国の玄関となっていきます。ただし、高松を起点とする四国4県の鉄道網が完成し、完全に高松が四国の玄関となるのは、昭和2年に高松~松山間、昭和10年に高松~徳島間と高松~高知がそれぞれ開通するまで待たなければなりませんでした。
 現在、瀬戸大橋の開通により高松も四国の玄関口としての座を失いましたが、明治30年代からその末期において、多度津が高松と張り合って四国の玄関口の座をめぐり港湾の拡張競争を行ったということは、当時の多度津の人間の意気軒昂さを物語るものといえるでしょう。

 五 大正から昭和(戦前)時代

● 暗夜航路に描かれた多度津の情景
 多度津の港がまだ四国の玄関口のとしての存在感を保っていた頃の情景が志賀直哉の小説「暗夜行路」に描かれています。大正2年(1913年)2月、志賀直哉は尾道から船に乗り、多度津港へ上陸し、琴平・高松・屋島を旅行しています。その旅行を基に書かれた小説「暗夜行路」には、当時の多度津の港や駅の様子が次のように描かれています。
 「多度津の波止場には波が打ちつけていた。波止場のなかには達磨船、千石船というような荷物船が沢山入っていた。
 謙作は誰よりも先に桟橋へ下りた。横から烈しく吹きつける風の中を彼は急ぎ足に歩いて行った。丁度汐が引いていて、浮き桟橋から波止場へ渡るかけ橋が急な坂になっていた。それを登って行くと、上から、その船に乗る団体の婆さん達が日和下駄を手に下げ、裸足で下りて来た。謙作より三四間後を先刻の商人風の男が、これも他の客から一人離れて謙作を追って急いで来た。謙作は露骨に追いつかれないようにぐんぐん歩いた。何処が停車場か分らなかったが、訊いていると其男に追いつかれそうなので、彼はいい加減に賑やかな町の方へ急いだ。
 もう其男もついて来なかった。郵便局の前を通る時、局員の一人が暇そうな顔をして窓から首を出していた。それに訊いて、直ぐ近い停車場へ行った。
 停車場の待合室ではストーヴに火がよく燃えていた。其処に二十分程待つと、普通より少し小さい汽車が着いた。彼はそれに乗って金刀比羅へ向った。」
 志賀直哉が多度津にやって来た年の大正2年(1913)12月、多度津から観音寺までの区間に鉄道が開通しています。それは、多度津から丸亀と琴平へ初めて鉄道が開通してから約23年半後、高松まで開通してから約17年後の大正2年(1913)12月のことです。現在のJR多度津駅は、桜川の河口に面する現在の多度津町民会館の位置からこのときに新築移転されたものです。したがって、志賀直哉が見た当時の多度津駅は、移転直前の旧多度津駅だということになります。
 当時、新駅の周辺は民家も無い田圃で、豊津橋から新駅までの間に大きな新設道路(現在の県道多度津・停車場線)だけがあったといいます。旧多度津駅は浜多度津駅とされ、その後、その敷地は国鉄四国病院用地となり、さらに現在の多度津町民会館用地となっています。現在の多度津駅には四国の鉄道発祥の地の碑があります。
 現在の多度津駅が開業した大正2年には、多度津実業会が設立されます。その翌年の大正3年6月28日には、ヨーロッパでサラエボ事件が発生し、第一次世界大戦が勃発しています。

● 四水発祥の地
 香川県内における最初の電灯開始は、明治28年(1895)、高松電灯株式会社による高松市内への供給です。西讃では、それに少し遅れる明治31年4月、西讃電灯株式会社が金蔵寺に設立され、同36年3月初めて多度津で試点灯に成功し、次いで丸亀、善通寺に点灯されました。しかし需要の伸び悩みから経営不振が続き、明治40年、景山甚右衛門が讃岐電気株式会社(旧西讃電灯株式会社)の再建を託されます。
 明治43年、甚右衛門は、社名を「四国水力電気株式会社」と改称し―四水(しすい)と呼ばれました―ます。そして、当時中央電力界の第一人者であった福沢桃介(ももすけ)を懇請のうえ大正元年に社長として迎え入れ、自分は副社長となり経営の刷新を図ります。福沢桃介は福沢諭吉の女婿(じょせい)で、「日本の電力王」ともいわれる実業家です。「日本初の女優」川上貞奴とのロマンスはよく知られた話です。現在、高松市亀井町にある電気ビルのロビーにその胸像があります。
 大正3年(1914年)、四水は、多度津町二ッ橋の桜川畔に、洋風2階建ての社屋を新築し、本社を移転します。現在のNTT西日本多度津電話交換所のあるところです。なお、この年に第一次世界大戦が勃発しています。その後、四水の経営は福沢桃介から甚右衛門に引き継がれます。
 四水は、県内の電灯会社を次々と合併していき、電灯料金値下げ競争の末、昭和5年には高松電灯を吸収合併し、県下の電力供給を一手に引き受ける「四水王国」を築いていきます。また、東讃電気軌道会社(高松~志度)や、高松電気軌道株式会社(高松~長尾)、琴平電鉄株式会社(高松~琴平)など電車部門もその傘下に入れていきます。
 大正8年には、四水は、多度津の堀江に、煉瓦造りの建物と40メートルもの高さの煙突をもつ発電所を建設します。なお、この発電所は昭和39年2月28日に閉鎖されました。
 甚右衛門は、昭和12年83歳で死去するまで30年近く四水の経営に携わり、全国電力業界では「四水の景山」として知られていました。鉄道、電力のほか銀行の創業や経営にもたずさわり、貴族院議員として中央政界でも活躍し、いわゆる地域開発の先覚者といえる人物です。現在の四国電力株式会社多度津営業所前には、四水発祥の地を記念して、景山甚右衛門の胸像が発祥地碑とともに併設され、その遺徳を称えています。
 その後、四水は、四国配電を経て、戦後四国電力となります。こうしたことから、多度津は四国電力発祥の地といえるでしょう。

● 多度津のもったはん
 幕末から明治にかけて大いに繁栄した多度津では、地主や豪商が出現し、「多度津の七福神」と呼ばれるようになりました。そして、彼らによって、大正から昭和初期にかけて大邸宅が次々に建築されていきました。大正元年頃に景山甚右衛門邸(現在は消滅)、大正後期に和風の主屋と洋館2棟からなる合田邸(本通)、大正15年にアメリカ屋の高島司郎(町内出身)が設計したライト風の武田邸、昭和初期に玉突き場を備えた土井邸(栄町)、大正元年に旧楽天堂医院(元木谷歯科、大通り)、昭和元年に山本医院(大通り)などです。
 大正11年には、5年制普通科の旧制多度津中学校が開校しています。5年制普通科の旧制県立中学校の開校としては、明治26年の高松中学校と丸亀中学校、明治33年の三豊中学校と大川中学校の開校以来、5番目でした。当時、西讃に普通科の中学校を造るという県の構想が打ち出されたとき、琴平町などが有力候補地に上がったそうですが、多度津町の有志が土地・建物の資金9万円を全額寄附したことにより多度津に決定したようです。

● 琴平参宮電鉄のオープン
 大正14年(1925)2月26日、現在の東浜の交差点のところに、琴平参宮電鉄の多度津桟橋駅がオープンし、そこから琴平までが開通します。この年の5月5日には、加藤高明内閣によって、25歳以上の男子に選挙権が認める普通選挙法が成立しています。
 琴平参宮電鉄の路線は、すでに大正11年10月に丸亀・善通寺間、その翌年の8月に善通寺・琴平間、さらに翌々年の大正13年10月9日に善通寺・多度津鶴橋間がそれぞれ開通しており、多度津山のトンネル工事竣工だけが残っていました。
 琴平参宮電鉄の多度津桟橋駅は、モダンな洋館で、売店もあり二階はレストランになっていました。この開通で、大阪などからの金毘羅参拝客は船で多度津港に着き、そこから桟橋駅まで歩いて琴平行きの電車に乗ることができるようになり、港から駅までの通りも土産物屋や旅館などで賑わいました。しかし、日帰りの参拝ができるようになったため、宿泊客は逆に減少するようになったともいわれています。
 なお、多度津山のトンネルは、現在、県道丸亀・詫間・豊浜線の桃山隧道となっています。

● 国鉄多度津工場の拡張
 昭和5年(1930)2月、国鉄多度津工場の拡張第一期工事が着手され、翌年1月に鉄筋コンクリートの大建家が竣工します。この工場は、従来から地元の人に「こうきぶ」と呼ばれ親しまれてきもので、現在JR四国多度津工場となっていますが、明治22年の私鉄讃岐鉄道の開業にともないその車両修繕場として発足し、明治39年の鉄道国有化にともない翌年に国鉄広島営業所多度津工場となっていました。明治の発足当初は従業員8人程度の小規模なものでしたが、大正初期には約90人の規模でした。
 昭和に入ると、国の政策で工場の拡張整備が行われることとなります。四国の鉄道網は、昭和2年に多度津~松山間が開通していましたが、まだ、琴平~高知間、高松~徳島間は開通していませんでした。この国の政策に対して、松山、高松、阿波池田が新たな工場の誘致に名乗りを挙げます。このような状況の下、当時の今井浩三多度津町長は、大通りの多度津小学校跡地を国に寄付することを条件に政財界へ陳情を繰り返し、ようやく多度津において拡張整備が行われることとなりました。この拡張整備にともない、昭和2年には、鉄道工場北側海岸約6600平方メートルが埋め立てられています。
 多度津小学校は、明治5年(1872)に宝性寺・西方寺などを借り硯岡(けんこう)小学校として創設され、次いで同10年(1877)に桜川沿いの須賀町へ移転し、同12年には、多度津藩の「自明館」を自明館学校と改め、新町村・堀江村の分教場とします。さらに同21年(1888)に旧多度津藩の陣屋屋敷跡地(現在のJR四国多度津工場の正門から事務所付近一帯)の大通りの地に新築移転し、その38年後の大正15年(1926)に現在の地に新築移転していました。
 昭和5年には、港を浚渫した土砂で、現在の西浜12番にあたる多度津港の内港南側が埋め立てられ、多度津工場内にある貨物駅浜多度津駅をそこに移転し、翌年多度津臨港線が開通しています。これにより、船と貨物列車との間の積みかえ作業がおおいに利便化されます。ちなみに、浜多度津駅は、その後荷揚げ用クレーンなどが設置されましたが、昭和54年に廃止されました。
 その後、四国内の運行車両の増加により、多度津工場は四国の車両基地として拡張整備が続き、昭和16年には、工場北海岸がさらに約8700平方メートルが埋め立てられます。戦時下の昭和17年に「工機部」と改称され、その頃には1300人を超える大工場へと変貌します。

● 桜の名所桃陵公園の開園
 昭和6年(1931)10月には、桃陵公園が開園します。この公園は、御大典記念事業として、町が多度津山に遊園地、展望台、食堂、ドライブウェイを整備したもので、数千本の桜が植えられました。桃陵公園という名は、多度津山の東部一帯を桃山ということからきています。この公園の道路整備は演習の名目で善通寺工兵隊により行われたといわれています。
 また、港を見下ろすところに「一太郎やあい」の銅像が立てられました。この公園がオープンするとほぼ同時期の9月18日には満州事変が勃発しており、我が国は戦争への道を進んで行きます。この像が立てられた背景には、当時の世相があったのかもしれません。
 なお、この公園は昭和22年8月に県立公園に指定されています。

● 戦時中
 昭和16年(1941)12月8日、日本軍がハワイ真珠湾を奇襲攻撃し、太平洋戦争が始まります。わが国の経済は国の統制下に置かれ、海運業については、昭和17年5月に、大坂商船を主体に関西汽船株式会社が設立され、同社を中心にした瀬戸内海航路が運営されます。これにより多度津港にも関西汽船の定期船が就航します。しかし、米軍が瀬戸内海に機雷を多数投下したうえ、航行する船に対しても機銃掃射を加えたため、関西汽船の大阪~多度津航路も昭和20年6月5日をもって運行を休止します。
 一方、電力についても国家管理が行われ、四水は昭和17年3月31日に解散し、電力は四国配電に、電鉄は讃岐電鉄に、ガスは讃岐ガスにそれぞれ分割委譲されます。そして、昭和20年6月、四国配電は本社を多度津から高松市の南新町に移転し、多度津を香川支店とします。しかし、7月4日の高松空襲により焼失し、再び多度津へ戻り終戦となります。

六 昭和時代(戦後)

● 復興
 終戦直後の多度津港は、旧日本海軍の軍用舟艇などが放置されたり、また、善通寺師団に進駐した米軍により砲弾が港内に投棄されるなどしたため、一時期は相当荒廃していたようです。瀬戸内海航路もほとんど途絶状態で、多度津には旧日本海軍の掃海艇の基地が置かれ、機雷の除去作業に従事していました。こうした中、昭和20年12月21日深夜、南海大地震が発生しています。
 大阪・多度津間の定期航路が再開されたのは、翌年の昭和21年4月からです。最初は1日1便でしたが、次第に増設されていき、昭和23年5月21日からは関西汽船の1000トン級大型新造船である「ひかり丸」・「さくら丸」が多度津~阪神間に1日2便制で就航します。これにより多度津港の乗降客も次第に増加していき、昭和21年には196,000余名でしたが、昭和23年には287,000余名となります。また、蒸気機関車燃料石炭、木材、肥料などを運ぶ貨物船や機帆船が多く出入りするようになります。これらは、陸揚げされた後、浜多度津駅から四国各地へ貨車で発送されました。こうして、多度津港は、再び賑わうようになります。
 なお、昭和27年には、町制施行の地としては数少ない商工会議所が設けられています。

● 国鉄城下町
 また、昭和5年から始まる国鉄多度津工場の拡張は、戦前・戦中・戦後を通じて町の経済を支える基盤となります。戦後、国鉄多度津工場で働く人は、復員者などを抱え一時は2000人を超えていましたが、昭和24年の整理で1500人程度となり、昭和32年には1253人となっています。
 香川県で本格的な工業化が始まるのは、昭和39年に始まり51年に完成した番の州埋立て事業からで、昭和40年代頃まで、国鉄多度津工場は、県下でも有数の大規模工場でした。昭和30から40年代にかけては、四国内の鉄道を、蒸気機関車から気動車へ転換するという鉄道近代化を推進した原動力となったところです。
 多度津の町には、国鉄多度津工場に勤務する従業員やその家族がかって多く居住しており、その消費生活活動が、多度津の町の経済的・社会的基盤を支えていました。実際、昭和40年頃までは、多度津小学校に通学する児童の親の4分の1ぐらいまでは国鉄に勤めていたと思われます。また、多度津工場に勤務する職員の中には転勤者も多く、多度津小学校は郡部の学校にしては転校生が多いという特色がありました。多度津は国鉄城下町ともいえる存在でした。

● 交通・産業の町の落日
 一方で、多度津は交通・産業の町としての落日を迎えていきます。まず、最初に現れたのが電力事業の拠点としての役割の終焉でした。
 昭和26年5月1日、四国配電は四国電力株式会社となり、本社は高松へ移転し、多度津には5支店が置かれました。しかし、昭和31年11月、四国電力本社ビルが高松市内町に落成したことに伴い、多度津の香川支店も同7日に移転します。これにより大正3年以来42年間における多度津の香川県下電力事業の拠点としての歴史は幕を閉じます。
 次いで、昭和38年(1963)9月15日、琴平参宮電鉄の多度津・善通寺間が営業を廃止し、約40年間の歴史を閉じます。これは、多度津からの金刀比羅宮参詣客の減少と自動車の普及により、利用者が減少したためです。
 また、昭和39年(1964)11月30日、この日をもって明治17年5月の大阪商船の発足以来80年にわたって多度津と阪神を結んで運行されてきた定期客船航路が完全に廃止されます。これにより多度津は瀬戸内海海運の要所として役割を終え、ローカル航路のみを残すまったくの一小港となってしまいました。これは、鉄道の近代化や、モータリゼーション化などにより、陸上交通を利用する貨客が急速に増加し、これに対して、海上交通を貨客が年を追って減少していったことによります。なお、この年の10月10日には東京オリンピック大会が開会しています。
 国鉄多度津工場の役割も次第に低下していきます。従業者の数は、昭和42年には949人でしたが、昭和52年に659人、昭和62年に257人と、激減していきます。現在は電車と気動車を主体とした車両の検査・修繕・改造を行っています。
 この工場は、昭和63年4月、民営化によりJR四国多度津工場となりますが、JR各社の所管する鉄道工場としては全国で2番目に古い沿革をもっており、鉄道関係の資料が展示されているほか、戦前・戦中の建物・施設が今も残っており、鉄道博物館ともいえる存在です。中でも、戦後移築され現在会食所として使われている旧西条海軍航空隊格納庫は希少な残存軍事関係遺構です。

● 少林寺拳法発祥の地
 少林寺拳法は、昭和21年、宗道臣という人物が多度津町で始めた禅の精神修養と護身を旨とする拳法の流派です。その起りは、遠くインドから中国に伝わり、禅門の行として発生したと伝えられています。宗道臣は、本名を中野道臣といい、現在の岡山県美作市で明治44年(1911年)に生まれます。柔術・剣術家でもあった祖父・宗重遠を頼って当時の満州へ渡り、陸軍の特務工作員の仕事をしながら、河南省の嵩山少林寺で修行し、その法脈を継承したといわれています。
 戦後、宗道臣は中国満州から多度津に引き揚げ、道場を開きます。どのような経緯から多度津に引き揚げてきたのかについてはよく分かりません。最初に多度津町で開いた道場は、現在の仲ノ町の桜川南岸の地です。かって古港だったところで、古い裏通りです。ここが、日本における少林寺拳法発祥の地といえるでしょう。その後、郵便局の東隣に移転し、昭和42年に桃陵公園南麓に本部と錬成道場を新築移転しました。初代宗道臣は昭和55年に亡くなり、現在はその長女由貴が二世を襲名しています。

● 高度経済成長時代―臨海工業地の町へ
 敗戦による荒廃や混乱が収拾して我が国の経済が戦前の水準までに復興するのは、昭和30年(1955)頃だといわれています。そして、その頃から高度成長が始まり、昭和40年(1974)代までの約20年間にわたって飛躍的な経済成長を遂げます。この間、エネルギーは石炭から石油に変わり、太平洋沿岸や瀬戸内海沿岸にはコンビナートが立ち並んでいきました。また、家庭では、テレビ・洗濯機・冷蔵庫が三種の神器と呼ばれ、急速に普及していきました。この当時の風潮は、「巨人・大鵬・卵焼き」に象徴されるように、「大きいことは良いことだ」というものだったといえるでしょう。
 1960年代には東京オリンピックの開催やベトナム戦争、1970年に開催された大阪万博などによる特需があり、1968年には国民総生産(GNP)が資本主義国家の中で第2位に達した。
 わが国が高度成長時代に沸いている頃、多度津では、昭和39年に、新町大栴檀(だいせんだん)地先の測候所海岸一帯の海約66000平方―メートルが埋め立てられます。この埋立地は工場用地としては狭かったため、住宅地として売却され、現在は日の出町となっています。また、この年、天保時代に築かれた旧一文字突堤の南が埋め立てられ、魚市場、青果市場等の用地となっています。
 昭和45年12月から49年2月にかけては、大規模な臨海土地造成事業が行われます。それは、明治45年に築造された外港を東西から包み込むように埋め立て、大工業用地を造成しようというものでした。これにより、東側が約64.4ヘクタール、西側が約119.7ヘクタール、合計184.1ヘクタールが埋め立てられます。この土地造成事業が始まる前まで、天保時代の西突堤はまだ残っていましたが、この工事により壊されました。これにより、天保9年に築造された多度津湛浦は全くその姿を消し、東浜12・13番の北側護岸にその痕跡を留めるのみとなりました。

まとめ

● 天保の湛浦築造以降のまとめ
 天保9年(1838)の湛浦完成以降の歩みについて、マクロ的に多度津の歴史を考えてみましょう。筆者は、天保の湛浦完成から現在までを、次の3期に分けられるのではないかと考えています。
第1期は多度津湛浦完成から宇高連絡船就航(明治43年(1910))までの72年間、第2期は宇高連絡船就航から阪神間定期客船航路廃止(昭和39年(1964))までの54年間、第3期は阪神間定期客船航路の廃止以降です。
 第1期は、さらに明治20年頃を境に前期と後期に分かれます。
 前期は、多度津が湛浦の築造により北前船の基地として大いに繁栄し、冨を蓄積した時期です。海上交通が中心で、交通・輸送手段は船でした。旅客・貨物の輸送は主に船で行われました。陸上交通の交通・輸送手段は徒歩か荷車・馬車程度で、多数の旅客・貨物を運ぶことはできませんでした。
 後期は、北前船が衰退し、それに代わって多度津港が瀬戸内海定期航路のターミナル港として繁栄した時期です。海上交通が中心でしたが、陸上交通の交通・輸送手段として鉄道が登場してきました。しかし、鉄道は交通網の整備が整っておらず、交通体系の中心としてはまだ不十分でした。そして、前期で蓄積された北前船の冨が鉄道事業、銀行事業、電力事業という近代産業への投資に向かって行った時期です。
 第1期は、前期・後期を通じて、多度津港は旅客・貨物が出入りする商業港であり、多度津の町は商業都市でした。この時期は多度津の隆盛時代であり、まさに黄金時代だといえます。
 第2期も、さらに昭和初期の予讃線・土讃線が開通した頃を境に前期と後期に分かれます。
 前期は、鉄道網の整備が整いつつある時期です。しかし、旅客・貨物の輸送はまだ船が中心で海上交通が優勢でした。鉄道は補完的なもので、多度津港はまだ海上交通のターミナル港としての役割は維持していました。この頃は、まだ多度津港は商業港であり、町も商業都市でした。
 後期は鉄道網が整備され、交通・輸送手段が船から鉄道へ移行していった時期です。旅客・貨物の輸送は船から鉄道で行われるようになり、鉄道による陸上交通が中心となって海上交通は補完的なものにすぎなくなります。多度津港は鉄道網の整備とともに急速に商業港としての役割を喪失し、町も商業都市の性格を失っていきます。これと逆比例するように、国鉄多度津工場が拡大・隆盛の時代を迎え、多度津港は鉄道貨物工業港へ、町も鉄道工業都市へと移行していきます。
 第3期は、交通・輸送手段が、鉄道から道路(自動車)へ移行していった時期です。多度津港は商業港としての機能を完全に喪失します。また、国鉄多度津工場も衰退していきます。これにともない、多度津港の鉄道貨物工業港としての機能も喪失していき、鉄道工業都市としての性格も失われていきます。
 このようにマクロ的に多度津の歴史を見ると、「船、鉄道、自動車という交通・輸送手段が交通経路を変え、さらに交通経路の変化が都市の性格を変え、都市を盛衰させる」ということがよく分かります。

● 多度津で近代産業が誕生したわけ
 明治時代、多度津の町では、鉄道・道路・港湾という近代的交通インフラの整備や、金融業・電力産業という近代的産業への取組みが香川県内の他の地域に先駆けて行われました。筆者は、この動きの源泉になったものは、江戸末期から明治初期にかけて活躍した北前船ではないかと考えています。
 多度津は、江戸時代末期天保9年の湛浦築造により、明治初期にかけて北前船の基地として多くの船が出入りしていました。北前船は、今風にいえば移動式スーパーマーケットで、各地の港町を巡りながら商売を行います。この商売は多度津に莫大な利益をもたらすとともに、各地から生きた情報を多度津にもたらしたのではないかと思われます。この北前船からもたらされた冨と情報が明治期における多度津の挑戦につながったのではないでしょうか。
 多度津は、北前船の冨により鉄道を建設し、港と鉄道により、明治時代、海上交通のターミナルとしてさらなる繁栄を遂げます。さらに、電力産業、金融業などの近代産業が出現していき香川の経済をリードしていきます。しかし、その衰退の芽はすでに明治43年の宇高連絡船の就航に見ることができると思われます。明治後期、多度津は高松と四国の玄関口の座をめぐり港湾の拡張競争を演じますがそれに敗れ、以後、衰退の一途を辿ります。それと対照的に宇高連絡船の就航により四国の玄関口としての地位を確立した高松は、以後四国の中枢管理機能を拡張していきます。昭和に入ると、国鉄多度津工場が町の経済を支える基盤となりますが、交通・産業の町としての落日を迎えていきます。

テーマ : 香川
ジャンル : 地域情報

(129)“金毘羅さんと白峯さんとの知られざる因縁”

 金刀比羅宮の本殿から奥社へ行く途中に白峯神社という社があります。この神社では崇徳上皇が祀られており、「白峯」という名称も五色台白峯山にある白峯寺からきています。なぜ金刀比羅宮の境内に白峯神社が鎮座しているのか、今ではこの理由を知っている人は地元でも少なくなっているようです。じつは、これは明治維新にあった神仏分離による廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)に起因するものです。

 6世紀中頃に仏教が伝来して以来、わが国では、それまでにあった神々への信仰と仏教とが融合していきます。これを神仏習合(しんぶつしゅうごう)又は神仏混淆(しんぶつこんこう)といいます。
 8世紀初めの奈良時代初頭から鹿島神宮、賀茂神社、伊勢神宮などの大社において神宮寺を建立する動きが出始め、8世紀後半になると、地方においてもその寺院に関係のある神を寺院の守護神、鎮守とするようになり、数多くの神社に神宮寺が建てられ、寺院の元に神社が建てられていきました。こうして、従来の神祇信仰と仏教信仰とが互いに補い合うわが国独特の宗教風習が作られていきます。
 神仏習合の基になった思想は本地垂迹(ほんちすいじゃく)という考えで、日本の八百万の神々は、実は様々な仏が化身として日本の地に現れた「権現(ごんげん)」であるとするものです。「垂迹」とは神仏が現れることをいい、「権現」とは仏が「仮に」神の形を取って「現れた」ことを意味します。
 ところが、明治維新を迎えると、一千年以上にわたって行われてきた神仏習合の風習に対して大きな逆風が吹きます。新政府は、封建的な割拠体制を打破して天皇を中心とする中央集権体制を樹立するため、王政復古の大号令のもと祭政一致を目指し、神社神道を国家統合の精神的よりどころとします。そして、明治元年(1868)、仏法は外来の宗教であるとして神仏習合の慣習を廃止し、神道と仏教、神と仏、神社と寺院とをはっきり区別するように神仏分離を命じます。
 これをきっかけに全国各地で寺院の廃合、祭神の決定、僧侶の神職への転向、仏像・仏具の取り壊し、仏事の禁止、民間への神道強制などの廃仏毀釈運動がおこり、大混乱となります。それまで僧侶の下に置かれていた神官には混乱にまぎれて寺院を破壊してその土地を接収する者も現れ、また僧侶の中には神官や兵士に転職したり、寺院の土地や宝物を売り逃げする者もいたといいます。現在国宝に指定されている興福寺の五重塔は、わずか25円(2006年現在の価値で約20万円)で売りに出され、蒔にされそうになったといいます。讃岐でも滝宮の法然上人ゆかりの竜燈院ほか61寺が廃寺になっています。

 現在の金刀比羅宮も明治以前は、金光院松尾寺とその守護神である金毘羅大権現との神仏混淆の地で、現在の旭社は薬師堂(金堂)、若比売社は阿弥陀堂、大年社は観音堂というように多くの寺院堂塔からなる一大伽藍地でした。金光院主の差配の下、普門院、尊勝院、神護院、萬福院、真光院という5つの寺の僧侶がお山の事務をとり行っていました。もっとも、こんぴらさんの最初の由来は、初め大物主神を祀り、次いで平安末期に崇徳上皇を合祀した琴平社という純粋の神社であり、琴平の名称は象頭山のたたずまいが琴を連想させることからとか、祭神の大物主神が琴と関係があったからだといわれています。
 明治維新の神仏分離令により、金光院主の宥常(ゆうじょう)は僧侶から神官となり、姓を琴陵に改め社務職を拝命します。そして、仏教名の建物等については神社式に名を改め、多宝堂・鐘楼などは取り壊し、経巻・仏像・仏具などは売却ないし焼却処分して仏教色を一掃したうえ、名も琴平神社と改めます。祭礼・行事・儀式作法もすべて神道式に改めます。要するに、このとき、こんぴらさんは神社としてリニュルアルしたというわけです。その後、琴平神社は事比羅神社と名を変え、さらに明治22年に金刀比羅宮と改称し現在に至ります。

 一方、四国88カ寺81番札所白峯寺の境内には、後白河法皇が崇徳上皇の霊を祀るため平安末期の建久2年(1191)に建立した頓証寺という仏堂があり、白峯寺により守られてきました。ここには、古くから皇室や武家が崇徳上皇の霊を慰めるため夥しい数の什器・宝物類を寄進してきたことから、永徳2年(1382)火災に罹り大半は焼亡したものの、多くの宝物が残っていました。
 ところが、明治元年(1868)、新政府の方針に基づき、それまで頓証寺に祀られていた崇徳上皇の御霊が、京都の今出川に新たに造営された白峯神宮に遷されることになりました。京都から下向してきた勅使が、上皇の御霊代(みたましろ)である御真影と愛用の笙(しょう)を頓証寺から持ち出し、坂出港から京に向かって出航したのは、明治元年8月28日のことです。ちなみに、聖通寺山東中腹にある塩竃神社はかつて西大浜にあったものが現在地に移転されたものですが、その境内にある灯篭は崇徳上皇の霊を京都に奉還した際、沖湛甫に建立されたものです。
 さらに、明治3年、白峯寺は境内を除く土地一切を官に取り上げられます。このため白峯寺の住職は還俗して崇徳上皇陵の番人となり、寺は一時廃寺となってしまいます。廃仏毀釈の嵐は明治4年(1871)頃には収まりますが、仏教や寺が受けた打撃は深刻なものでした。信徒らが県に願い出て白峯寺に再び住職が置かれたのは明治8年(1875)のことです。頓証寺には、崇徳上皇宸筆の「南無阿弥陀仏」の六字名号を御霊代として安置されました。

 ところが、白峯寺復興が緒につきはじめた明治11年、当時の事比羅神社より、政府に対して、頓証寺を神社とし事比羅神社の摂社(末社のこと)にすべきだとの願いが出されます。おそらく、当時の事比羅神社の言い分は、崇徳上皇は讃岐の地に移られてから親しく琴平の宮に参籠されおり、ここには「古籠所」・「御所の屋」という上皇ゆかりの旧跡も残っている。そのようないきさつから、琴平の宮では古くから上皇の御霊をひそかにお祀りしてきた。頓証寺に祀られていた上皇の御霊が京都に還った以上、頓証寺は抜け殻になってしまったのだから琴平の宮が上皇を祀る讃岐の中心でなければならない、というようなものだったのではないでしょうか。
 廃仏毀釈の風潮は依然として強かったものと思われます。政府は十分な調査もせず事比羅神社の願いを承認し、頓証寺は白峯神社と改称されて事比羅神社の摂社となります。これに伴い、頓証寺が長年にわたって皇室や武家から寄進を受けてきた什器・宝物類が事比羅神社に移されました。

 しかし、廃仏毀釈の風潮が沈静化してくると、白峯寺住職と地元信徒らは、頓証寺の復興運動を始めます。その言い分は、白峯寺と頓証寺は、金刀比羅宮と歴史的に何の関係もない。にもかかわらず、金刀比羅宮が頓証寺を自社の末社として古くから頓証寺に伝わる宝物まで管理しているのはおかしい、というものです。それが認められ、県の命令で、白峯神社とされていた頓証寺が、金刀比羅宮から境内・建物の返還を受け、元の仏堂に復することができたのは、明治31年(1897)9月のことです。おそらく、現在金刀比羅宮境内地にある白峯神社の社は、このとき頓証寺が白峯神社で無くなったため、造営されたものではないでしょうか。
 しかし、20年ぶりに金刀比羅宮から独立したものの、頓証寺から金刀比羅宮に移されていた宝物の取扱いについては、当時、相当に紛糾したようです。白峯寺の言い分は、歴史的経緯からいってすべて頓証寺に返還するのが当然だということです。一方の金刀比羅宮の言い分は、明治11年から20年間頓証寺が白峯神社として金刀比羅宮の末社であったことは政府の命令に基づき行われたことであって、すべての宝物を返還する理由は無いということのようです。
 結局、この問題は最終決着がつかず、頓証寺から金刀比羅宮に移された宝物のすべてが返還されなかったようです。元々頓証寺にあった宝物で今も金刀比羅宮で保管されているものの代表例としては、重要文化財の絵巻物「なよ竹物語」があります。
 昭和40年にもこの問題がぶり返し、坂出市の松山青年団から金刀比羅宮に対して、宝物返還の嘆願が出されています。どちらの言い分が正しいかどうかは別として、歴史的な経緯は後世に正しく伝えていく必要があるでしょう。

 なお、この記事を読まれる場合には、次の記事も参考にしてください。
(21)“こんぴらさんはガンジス川のワニ”
(47)“崇徳上皇を偲び来讃した西行法師”
(40)“保元の乱に敗れて怨霊となった崇徳上皇”
(123)“後白河法皇が建て、源頼朝が奉納したといわれる寺”

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(128)“山幸彦と豊玉姫のロマンスがのこる島”

 古事記は、和銅5年(712)に太安万侶(おおのやすまろ)が、稗田阿礼(ひえだのあれ)が暗誦していた帝紀・旧辞を書き記し、編纂した日本最古の歴史書です。また、日本書紀は、養老4年(720)に舎人(とねり)親王らの撰で、神代から持統(じとう)天皇の時代までを扱う日本における最古の正史です。いずれも奈良時代の初期に書かれたもので、両方をあわせて「記紀」といいます。
 記紀には、初代天皇である神武天皇の出生にまつわる山幸彦豊玉姫命(とよたまひめのみこと)の物語が書かれています。その舞台となったところは、一般的には南九州だといわれていますが、讃岐の島にもこの物語が伝わっています。

 記紀に書かれている山幸彦豊玉姫命の物語は若干内容に差異があり、また登場人物の表記にも差異がありますが、おおむねのストーリーは次のようなものです。
 大綿津見神(おおわたつのかみ)は、豊玉彦命(とよたまひこのみこと)ともいい、海底の綿津見神宮に住み海や水を支配する海神です。名前の「綿」は海を意味します。大綿津見神はその娘に姉の豊玉姫命(とよたまひめのみこと)と妹の玉依姫命(たまよりひめのみこと)がいました。
 一方、地上では、邇邇芸命(ににぎのみこと)が木花咲耶姫(このはなさくやひめ)との間にもうけた3人の息子がいました。長兄が火照命(ほてりのみこと)、次男が火須勢理命(ほすせりのみこと)、末っ子が火遠理命(ほおりのみこと)といいます。この3人は、木花咲耶姫が、邇邇芸命との一夜の交わりで身ごもり、そのことを邇邇芸命に疑われ、その疑いを晴らすために産屋に火を放ち、その中で生まれました。
 なお、邇邇芸命は天照大神の孫にあたり、三種の神器と稲穂と榊を持ち日向の高千穂に降り立った天孫降臨の神です。木花咲耶姫は山の神である大山津見神(おおやまつみのかみ)の娘です。
 3人の息子のうち、火照命は海幸彦ともいって、海で漁をするのが上手でした。末っ子の火遠理命は、山での狩猟が得意であったために山幸彦と呼ばれていました。あるとき、山幸彦は兄の海幸彦を説得して、互いの狩りの道具を交換して獲物を捕ることにします。海幸彦の釣り針は山幸彦が持ち、山幸彦の弓矢を海幸彦が持ちました。ところが山幸彦は、漁をしているうちに兄の釣り針を波間で失ってしまいます。山幸彦は仕方なく家に帰り、わけを話して兄に許しを請います。しかし、もともと二人はあまり仲がよくなく、兄は大事な釣り針だから探してくるまで家には入れぬと突っぱねました。しかし、落とした場所は広大な海で探しきれるものではありません。そこで、山幸彦は自らの剣を砕いて千本の釣り針に鋳なおして兄に献上します。それでも兄は許してくれません。
 途方にくれた山幸彦が悲嘆にくれて海辺にたたずんでいると、波間から塩椎神(しおつちのかみ)という老翁が顔を出し、悲しみの理由を尋ねました。それを聞いた老翁は小舟を作り、それに山幸彦を乗せ、波間に押し出しながら、「このまま潮に従って行けば海神(わたつみ)の宮に行けるだろう。着いたら門の脇の桂の木に登って待つといい。そうすれば海神の娘が出てきて相談に乗ってくれるだろう。」と告げます。
 山幸彦は、言われたとおりに海神の宮へ赴き、桂の木に登って待ちます。やがて美しい娘がやってきました。この宮の姫の豊玉姫です。姫は一目で山幸彦の素晴らしい姿に魅せられ、早速父に報告し、その許しを得て山幸彦と結婚しました。
 夫婦となった豊玉姫と山幸彦は、海神の宮で楽しく幸せに暮らしますが、結婚から3年後のある日、山幸彦はふと自分が何をしにここにやって来たのかを思い出し、帰らなければと豊玉姫に告げます。そのとき豊玉姫はすでに彼の子を宿していましたが、父にそのことを話したところ、父も承諾し、海幸彦の釣り針を飲み込んでいた鯛を捕らえて針を取り戻し、さらに呪文と塩満玉(しおみつたま)、塩乾玉(しおひるたま)という2つの宝玉を山幸彦に与えます。こうして山幸彦は豊玉姫を海神の宮に残し、宝物を持って一人地上へ帰っていきます。
 再び大地を踏んだ山幸彦は、兄の仕打ちに対する報復として海神から授かった呪文を使い、兄の国をたちまち貧乏にしてしまいます。これに怒った兄は山幸彦の国に攻めかかりましたが、山幸彦は兄を塩満玉によって溺れさせ、兄が命乞いをすると今度は塩乾玉の力で助けます。これによって山幸彦は海幸彦を服従させ、支配者となります。
 豊玉姫は、間もなく地上の山幸彦のもと行き、「海の国で天津神の子を産むのは畏れおおいので、この国へ来ました」と夫に妊娠していることを告げます。山幸彦は妻のため、海辺に鵜の羽を集めて産屋を造り始めます。しかし、屋根を葺き終わらないうちに産気づき、夫に「決して中を覗いてはいけません」と念を押して産屋に籠もります。
 しかし、それを不思議に思った山幸彦は、中の様子をこっそり覗いてしまいます。すると、そこには身をもがく八尋和邇(やひろわに)の姿があり、驚いた山幸彦はその場を逃げ出してしまいます。(一尋は180㎝ですから、八尋は14.4mになります。また和邇とは鮫のことだといわれています。)このことを出産後に知った豊玉姫はこれを恥じ、産んだ子を地上に残したまま「もう以前のように海と陸とを自由に往来して親しむことはできません」と言い残して海と地上との通路を遮断して海の宮へ帰っていきました。このとき生まれた子が、鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)です。葺草(ふきくさ)の代わりに鵜の羽で産屋の屋根を葺こうとしたが葺き終らないうちに豊玉姫が産気づいたため、「葺き合えず」と名付けられることになったといいます。
 しかし、豊玉姫は、海へと帰った後も山幸彦への恋しい思いと我が子への気がかりから、妹の玉依姫を地上に遣わし、生まれた子の世話を頼みます。やがて成人した鵜葺草葺不合命は、自分の育ての親で、自分の叔母に当たる玉依姫と結婚し、4人の子をもうけます。4人の子のうち、第4子を神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれびこのみこと)といいます。この後、神倭伊波禮毘古命は、日向(ひむか)の国から東の大和の国へ向かい、橿原で日本の初代天皇に即位します。これがいわゆる神武天皇の東征です。つまり、山幸彦の子が鵜葺草葺不合命であり、その子が初代神武天皇だということです。
 したがって、天照大神の孫にあたる邇邇芸命は、神武天皇の曾祖父にあたります。山幸彦は神武天皇の祖父にあたり、豊玉姫は神武天皇の父方の祖母、かつ、母方の伯母にあたります。また、大綿津見神は神武天皇の曾祖父でもあり祖父でもあります。大山津見神は神武天皇の曾祖父にあたります。
 豊玉姫はしばしば浦島太郎の童話で知られる龍宮の乙姫と同一視され、また海の神の娘ということで、雨乞い・止雨の神としての信仰もあり、また孫が神武天皇になったということから子孫繁栄の神としても崇敬されています。また、安産や縁結びの神としても広く知られています。

 香川県の高松市沖には、南から北に、女木島男木島豊島という島が連なっています。これらの島などには、記紀の物語に登場する山幸彦と豊玉姫にまつわる神社、地名、伝説が数多く残されています。
 その中心舞台が男木島です。この島には、豊玉姫を祀る「豊玉姫神社」と、山幸彦を祀る「加茂神社」があります。山幸彦と豊玉姫は「神井戸」で出会い、「殿山(でんやま)」の東の「御宅(みやけ)」で暮らし、豊玉姫は「こもが浜」でお産をしたといわれています。その場所は現在の男木島灯台の辺りだといわれています。そして、豊玉姫が安産の祈願を願いながら籠もり余生を過ごしたところが「豊玉姫神社」のあるところだといわれています。
 また、女木島には玉依姫を地上に送ったという鰐(わに)を祀った「荒多神社」があります。玉依姫を海の国へ連れて帰るものだと思っていた鰐は、女木島男木島の潮の流れの速い瀬で玉依姫を待っていましたが、姫がいつまでたっても現れないのでそのまま石になってしまったといわれています。
 さらに、「おぎじま」・「めぎじま」という名称の由来は、それぞれ大姉の島ということから大姫島(おぎじま)、姪の島ということから姪姫島(めぎじま)と呼ばれるようになったものだといわれています(豊玉姫と神武天皇の関係でみれば、玉依姫は甥の妻ということから姪になる)。それが「男木」・「女木」と表記されるようになったのは、平安時代に陰陽道の考えが入ってきてからのことだそうです。
 男木島の豊玉姫神社の鳥居は西の方向に向いており、そこから沖合を眺めると、五色台沖にある大槌島と小槌島が鳥居の両側に立つ門柱のように見えます。この二島の辺りは、槌ノ戸(つちのと)といわれる海で、山幸彦が釣針を探しても見つからず思案に暮れていたときに塩椎神(しおつちのかみ)が現れたところといわれています。大槌島・小槌島の間には、龍宮城があると信じられ、その入り口は、亀水の淵(亀水町・下笠居)と考えられていました。
 男木島の北には産業廃棄物の不法投棄事件で全国的にも有名になった豊島(てしま)があります。この島には豊玉姫・玉依姫姉妹の父である大綿津見神すなわち豊玉彦を祀る「豊玉神社」があります。豊島の地名は、室町時代の初めの応永2年(1395)の文書にみえ、延元4年(1339)以上には遡るといいますが、その由来は豊玉彦を祀る島という意味だといわれています。また、この島の西南には、鵜葺草葺不合命が生まれたという伝承の残る「神子ヶ浜(みこがはま)」という海岸があり、その海上にはかって石の鳥居が立っていたそうです。
 また、男木島・女木島から南東の方向に海を渡り四国本土に向かうと、屋島の西側にある新川の河口に行き着き、そこを南に遡っていくと現在の三木町に辿り着きます。そこには「鰐河(わにかわ)神社」と「和爾賀波(わにかわ)神社」という二つの古い神社が鎮座しています。いずれも、豊玉姫を祭神としており、豊玉姫が鰐に乗って川を遡上して来たという縁起が残っています。これらの神社が鎮座する地は、現在ではかなり海から離れたところになっていますが、古代は海岸線がもっと南に後退していたと思われ、川を通じて海との往来も可能だったのではないかと考えられます。

 史実かどうかは別として、記紀によると、神武天皇は九州の日向国から東征に出発されたとされており、また、山幸彦・豊玉姫の物語はそれより前のものですから、この物語の舞台を讃岐の島だとし、神武天皇の出生地を讃岐だと考えることには無理があるように思われます。では、どうして讃岐の島に山幸彦・豊玉姫の物語が伝わっているのでしょうか。
 これは全くの想像ですが、神武東征が史実だとすれば、九州から大和に向かう神武天皇一行の旅は、瀬戸内海を船で東へ進んだものと考えられます。その航海には、航海術や地理に長けた瀬戸内海を支配する海人族の協力が不可欠だったものと思われます。大和へ向かう神武天皇一行は、豊島・男木島・女木島を中心に東備讃瀬戸一帯を支配していた海人族と接触し、その協力を得ることができたのではないでしょうか。そうだとすれば、その時、神武天皇一行が、自分たち一族の正統性を説くために、その出自に関わる物語を、豊島などを根拠とする海人族に語り伝えたとしても不思議ではありません。それを聞いた海人族はその物語を自分たち一族の物語として取り込み同化させていったのではないでしょうか。

 記紀には国生みの物語が書かれています。伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)は、淡路之穂之狭別(あわじのほのさわけ)島から始まり、伊予之二名(いよのふたな)島、隠伎之三子(おきのみつご)島、筑紫(つくし)島、伊伎(いき)島、津(つ)島、佐度(さど)島、大倭豊秋津(おおやまととよあきづ)島、と順番に生んでいきます。現在の淡路、四国、隠岐、九州、壱岐、対馬、佐渡、本州です。これらを総称して大八島(おおやしま)といいます。
 そして次に、吉備児島(きびのこじま)、小豆島(あづきじま)、大島(おおしま)、姫島(ひめじま)、知訶島(ちかのしま)、両児島(ふたごじま)、と6つの国土を生みます。通説では、吉備児島は岡山県の児島半島、小豆島は香川県の小豆島、大島は山口県の周防と屋代島、姫島は大分県の国東半島の北東に浮かぶ姫島、知訶島は長崎県の五島列島、両児島は五島列島よりさらに西の沖にある男女群島の男島と女島を指すと考えられています。
 通説では、最初の吉備児島・小豆島の2島だけは備讃瀬戸にあるにもかかわらず、大島・姫島・知訶島・両児島の4島は突然そこから遠く離れたところになっています。しかし、記紀の著者は物語性を持って書いたものと思われ、そうだとすれば6島はすべて近い距離にあると考えるのが自然ではないでしょうか。東備讃瀬戸で小豆島の次に大きい島は豊島です。しかも豊島は豊玉彦という親の島です。そう考えると、「大島」は親の島という意味で豊島、「姫島」はその娘の島という意味で男木島・女木島のことではないでしょうか。そして、両児島はその形から大槌島・小槌島を指しているのではないでしょうか。さらに、直島神功皇后が三韓征伐の時、吉備の豪族とこの地で待ち合わせたことから古代は真知島(まちのしま)と呼ばれていたといいますから、それが訛って「チカノ島」すなわち知訶島といわれたのではないかとも考えられます。

 真偽のほどは確かめようがありませんが、豊島、男木島、女木島などを中心とした島は、神話の島といえるでしょう。特に、豊島は、今ではごみの島というイメージが定着してしまっていますが、かっては、山の神である大山津見神を祀る大三島の大山祇神社とともに、海の神である大綿津見神を祀る島として瀬戸内海を支配する海人族の信仰の中心だったところではないでしょうか。

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(127)“神戸と讃岐を結ぶ平清盛にまつわる伝承”

 瀬戸内海沿岸には人口100万人を超える政令指定都市が3つありますが、その一つ神戸は、港とともに近代以降に発展した都市といえます。幕末の慶応3年(1868)に兵庫港が開港した当時、神戸の人口は2万人程度だったようですが、約70数年後の昭和16年(1941)には100万人の人口を擁する都市へと発展しています。しかし、その歴史は古く、現在の神戸港は、瀬戸内海航路の物資集散地や大陸との交易の拠点として栄えた大輪田泊(おおわだのとまり)と呼ばれた古代の港に始まります。
 神戸市兵庫区に島上町というところがあります。ここに地元では築島寺(つきじまでら)の名称で親しまれている来迎寺(らいごうじ)という寺があります。本堂正面の上には平家清盛流の蝶の家紋が飾られている平家ゆかりの寺です。この寺の境内には、松王小児(まつおうこんでい)と祇王(ぎおう)・祇女(ぎにょ)姉妹のものといわれる供養塔があります。これらには平清盛にまつわる物語があり、讃岐にもこれらにつながる物語が残されています。

 平安時代末期の二条天皇の御代、平清盛は、宋(中国)との貿易を拡大するため、その拠点となる大輪田泊の大修築を企てます。大輪田泊は旧湊川河口とその西側にある和田岬に挟まれた入江にあり、和田岬が西風を防いでいましたが、旧湊川の氾濫や風波で東北側の堤防がたびたび決壊していました。そこで、清盛は東南の沖合いに強固な人工島を築造して東南の風からの防波堤にしようとしました。なお大輪田泊は現在のJR兵庫駅の東、新川運河の辺りだと考えられています。
 清盛が築造を企てた人工島の大きさは、甲子園球場が7~9つ入るほどの規模だったといわれており、民役5万人を動員して塩打山(塩槌山)を切り崩し、約3キロにわたって海中に突き出す工事を行わせたといいます。しかし、潮流が早いため非常な難工事となり、完成目前に押し流されることが二度に及びました。
 このため、さすがの清盛も逡巡し、今後の方策を当時の陰陽博士、安部秦氏に占わせます。すると、これは竜神の怒りであるから、30人の人柱と一切経を写書した経石を沈めて築くとよい、との言上でした。そこで清盛は生田の森に隠れ関所を構えて往来する旅人から30人を捕らえさせますが、さすがに罪の深さを知り、決行に踏み切ることを躊躇していました。
 このとき、清盛の侍童(じどう)をしていた松王小児という当時17歳の少年がすすみ出て、「30人の身代わりにわたし一人を沈めて下さい」と申し出ました。松王小児は、讃岐の香川郡円座村(現在の高松市円座町)の出身で、その父は中井城主・中井左馬允といい、その祖父は香川郡辺河村(かわなべむら)(現在の高松市川部町)にあった中田井城の城主・中田井民部です。中田井民部のときに居城を辺河から隣接の円座に移し、中井姓を名乗っていました。中井氏は代々、平清盛に仕えてきた家柄で、松王小児も清盛に見出され、14歳のときからその側近として仕えていました。
 なお、現在の高松市仏生山町の法然寺の南側には平池(平家池)というため池があり、この池は高倉天皇の御代の治承2年(1178)、平清盛の命令を受けた阿波民部田口良成(たぐちよしなり)によって築造されたといわれています。当時、この高松の辺りは平氏の支配下にあったのかもしれません。ちなみに、この池には、人柱になった少女の「いわざらこざら」の伝承が残っています。
 松王小児の言葉に大いに感心した清盛は、その意志を入れ、応保元年(1161)7月13日、一切経を写書した経石と松王小児を入れた石櫃が沈められました。こうして、承安4年(1174年)、難工事であった埋立も竣工しました。その埋立地は経文を記した石を沈めて基礎としたので経が島(きょうがしま)と呼ばれ、その上にできた町は経が島の上にできた町という意味から「島上町」といわれるようになりました。ただし、一説には、平清盛は何とか人柱を捧げずに埋め立てようと考え、石の一つ一つに一切経を書いて埋め立てに使い、その後、無事に工事が終わったためにお経を広げたような扇の形をしたこの島を「経が島」と呼ぶようになったともいわれています。経が島は、おおよそ神戸市兵庫区の阪神高速道路3号神戸線以南・JR西日本和田岬線以東の地であるとみられています。
 二条天皇は自ら人身御供(ひとみごくう)になった松王小児に感動され、その菩提を永く弔うため寺を建立しました。その寺が、今の来迎寺だということです。讃岐にも現在の高松市円座町に松王小児の墓が残っています。

 次は祇王と祇女の物語です。
 平安時代末期には、白拍子(しらびょうし)という歌舞が流行していました。これは、水干(すいかん)・立烏帽子(たてえぼし)・緋の長袴を身につけ、蝙蝠(かわほり)と呼ばれる扇子の一種を持って舞う芸能です。この言葉が転じてこれを舞う遊女も白拍子と呼ばれ、その中には身分の高い貴族や武士の屋敷に出入りし、その愛人になった者もいました。その代表的な女性が源義経の愛人だった静御前です。
 平清盛が権勢を振るっていた頃、祇王と祇女という白拍子の姉妹がいました。姉の祇王は清盛の寵愛を受け、その母や妹も面倒をみてもらい何不自由の無い生活をしていました。そこへ、仏という名の白拍子が清盛に目通りを請いに来ました。清盛は最初は全く取り合いませんでしたが、祇王のとりなしでしぶしぶその舞を見ます。ところが、その舞を見て、たちまち仏に心を奪われ、邪魔になった祇王を屋敷から追い出してしまいます。
 涙ながら屋敷を出てもとの貧乏暮らしをしていた祇王らのところに、ある日、清盛から仏御前が寂しそうなので参上してなぐさめよという使いが来ました。祇王は行く気もありませんでしたが、母に諭されてやむなく参上しました。ところが、その扱いは非常に冷淡なものでした。それでも涙を抑えつつ歌い舞い、公卿から侍にいたるまで、見た者はみな感涙に耐えませんでした。しかし清盛の言葉は、冷淡なものでした。
 祇王は、悔しさと悲しさのあまり、妹とともに自害しようとします。しかし、母に諭され思いとどまります。そして、母と2人の娘は、共に剃髪して嵯峨の山里にあった小さな庵に籠もり、そこで念仏三昧の静かな暮しに入りました。
 その後、ある日、その庵に、剃髪して尼になった仏御前が訪れてきました。4人は一緒に庵に籠もり念仏三昧の日々を過ごし、それぞれ往生を遂げました。その庵は今の京都の奥嵯峨にある祇王寺だということです。
 神戸の来迎寺に伝わる話では、祇王と祇女は、奥嵯峨で庵を結んだ後、平家が滅んだため、平家ゆかりの兵庫の寺に住持して一門の菩薩を弔ったということです。
 一方、讃岐に伝わる話では、祇王と祇女は、奥嵯峨に身を隠した後、清盛からもう一度よりを戻したいという誘いを受けましたが、それを振り切り、海を渡って讃岐の安原郷下谷の里に一時落ち着いたとされています。そこは現在の高松市香川町東谷地区の祇園山(標高275メートル)西麓にある専光寺という寺の門前付近だといわれています。そして平家が滅んだ後、姉妹は奥嵯峨に戻ったとされています。
 祇園山はかって「祇王山」と呼ばれ、この寺の山号も祇王山頓乗院といい、姉妹の念仏だったという石仏が本堂に祀られ、寺の記録にも姉妹のことが記されているそうです。また、この寺の近くには姉妹の後を追ってきた仏御前にちなむ「仏坂」という地名も残っているそうです。
 ちなみに、高松市香川町東谷には、祇園座という農村歌舞伎が残されており、この地区が祇園山を仰ぐことから祇園座というようになったといいます。祇園座は、安政年間(1854~1860)には既に行われていたといい、芸能をよしとした祇王・祇女姉妹の隠棲の地にふさわしく、今もその伝統を守り活動が続けられています。

 松王小児や祇王・祇女姉妹の物語が史実かどうかは分かりませんが、神戸と讃岐に平清盛にまつわる同一人物の物語が残っているのは興味深いことです。また、神戸市の西部に位置する須磨海岸には、平安時代初期の仁和2年(886)、在原行平(ありわらのゆきひら)が須磨に流され蟄居していたとき、松風、村雨(むらさめ)という潮汲みの姉妹を愛したという伝承が残っており、この姉妹の出身地は塩飽の本島だといわれています。
 これらの物語は、神戸と讃岐は瀬戸内海で結ばれ、古くから船での往来が頻繁にあったことを示しているのではないでしょうか。

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(126)“讃岐にも残る北条時頼の廻国伝承”

 北条時頼(ほうじょうときより)は、鎌倉幕府第5代執権を務め、幕府政治を磐石なものとした名君といわれる武将です。元寇を戦った執権として知られている北条時宗はその息子です。その政治は質素・倹約を旨とし、弱小御家人の保護や撫民に主眼をおく仁政だったといわれています。隠居後は出家して最明寺入道と名乗り、僧に身をやつして諸国を漫遊し、民の暮らしを視察したという廻国伝承が全国各地に残っています。中でも有名なのが、謡曲「鉢の木」(はちのき)の物語です。この物語は、次のようなものです。
 僧の姿に身をやつした時頼が、大雪で道を見失い、近くの貧しい家に一夜の宿を請うた。時頼であるとは知らずに、家の夫婦は粟飯を振る舞いもてなし、また貧しさ故に十分な薪も無いため、秘蔵の梅、桜、松の鉢の木を炉にくべて暖をとった。時頼が主人の素性を尋ねると、佐野源左衛門常世という武士で、一族に土地を奪われ落ちぶれてはいるが、もしひとたび鎌倉に大事が起きれば、「いざ鎌倉」と一番に馳せ参じる覚悟だと語った。その後、鎌倉に帰った時頼が御家人を召集すると、常世は言葉に違わず一番に馳せ参じてきた。忠節に感激した時頼は、かつての雪の夜のもてなしにちなんで、加賀の梅田、越中の桜井、上野の松枝の各荘を領地として与えた。

 讃岐には、高松市塩江町に「最明寺」という寺があり、この寺の縁起によると、元は如意輪寺と称していたが、行脚途中の北条時頼が再興したことにより寺名をその入道名にちなみ変えたということです。また、小豆島町池田の中山地区には殿川ダムがありますが、その麓近くにある八木家には、「鉢の木」物語に類似した物語が伝わっています。話だけでなく、北条時宗から与えられたという文永2年(1265 )5月10日付けの古文書と刀や、亀女という尼僧の木像を安置した四ッ堂という祠が残っているそうです。その物語とは次のようなものです。
 鎌倉時代中期の正嘉元年(1257)から正元元年(1259)の時代、旅僧姿の時頼は小豆島を行脚中、病のため河山村の四ッ堂という小堂の近くの路傍で倒れてしまった。時頼とも知らずそれをみつけた亀女という女性は、二人の幼い男の子を抱えて貧しい暮らしをしていたにもかかわらず、手厚い看病を施した。1年後、亀女が幕府から呼ばれて鎌倉に出向いたところ、そのとき助けた旅僧が出てきて、驚く亀女に謝礼を述べるとともに、褒美として小豆島の河山村一村を与えると告げた。亀女があまりの広さに恐れ入ってそれを辞退すると、時頼はせめて今の住まいの周辺の土地を末代まで安堵するという保証を亀女にした。時頼が亡くなった後、亀女はその土地を一族の者に騙し取られてしまった。時頼の言葉を思い出した亀女は、再び鎌倉に出向き訴え出たところ、ときの執権時宗は早速調べたうえ、その土地を文書でもって安堵したうえ、改めて父頼時が世話になった礼として刀を亀女に与えた。鎌倉からの帰途、亀女は京都に立ち寄り、出家したうえ自己の姿を木像とし、時頼が倒れていた四ッ堂に祠を建て、そこにその木像を安置した。

 北条時頼が諸国を行脚したという史実は無いようですが、伝承によると時頼は受けた恩を決して忘れずそれに報いるという、義理堅い人情豊かな人物として描かれています。しかし、その執権時代は血みどろの権力闘争に明け暮れた人生でした。
 源頼朝によって建久3年(1192)に開かれた鎌倉幕府は、承久元年(1219)3代将軍源実朝の死により20余年で源氏嫡流が断絶します。その後、公家の九条家から2歳の藤原頼経が4代将軍として迎えられます(これを摂家将軍といいます。)。しかし、その地位は形式的なもので、幕府の実権は、頼朝夫人であった北条政子の父、北条時政を初代とする執権が握っていきます。
 承久3年(1221)に起きた後鳥羽上皇の討幕挙兵を鎮圧したことにより、幕府政権は京都の公家政権に対して優位に立ち、皇位継承についても影響力を持つようになります。これを承久の変(じょうきゅうのへん)といいます。しかし、この時期においては、まだ、執権北条氏が幕府内部で権力を独占していたわけではなく、三浦氏や安達氏といった源頼朝挙兵以来の御家人が北条氏と肩を並べるほどの勢力を持っていました。また、北条一門の間においても得宗家(とくそうけ)と呼ばれる嫡流が絶対的権力を有していたわけではありませんでした。幕府内における北条得宗家の独裁的地位を確立したのが第五代執権北条時頼だといわれています。
 北条時頼は、安貞元(1227)年、北条時氏の子として生まれます。最初の武家の法典として有名な御成敗式目(貞永式目)を制定した第三代執権北条泰時は時頼の祖父です。寛元4年(1246)3月、兄の第4代執権北条経時が病で倒れたためその後を受けて20歳で第5代執権となります。しかし、このとき幕府内部では、北条一門の名越光時が執権職などを巡って得宗家に対して強い不満の念を抱いていました。また、藤原頼経は、成人してから実権を掌握しようとしたため、そのまだ4歳の子である頼嗣に将軍職を譲位させられていましたが、なおも鎌倉に留まって前将軍として影響力を行使しようとしていました。
 閏4月、前執権北条経時が亡くなると、そのどさくさに、名越光時が藤原頼経と謀り、執権の時頼を殺害して幕府の実権を奪おうとしました。しかし、その陰謀を事前に察知した時頼は、機先を制して頼経を京都へ追放するとともに光時を伊豆に流します。これを宮騒動(みやそうどう)といいます。
 しかし、この騒動は、有力御家人である三浦泰村の弟・三浦光村が関わっていたことから、次の争いを生じます。なお、三浦光村は、仁治4年(1243)から讃岐守護を務めており、その被官の長雄(長尾)二郎左衛門が宇多津に置かれた讃岐守護所に代官として赴任していたようです。
 宝治元(1247)年5月以後しばしば三浦一族叛逆の流言が鎌倉で飛び交うようになります。これは三浦泰村に対抗するもう一方の有力御家人である安達景盛の挑発作戦でした。景盛は北条時頼の外祖父にあたり、三浦一族と安達一族はいずれ雌雄を決しなければならないと考え、子の義景や孫の泰盛らに戦いの準備を命じていました。しかし、泰村はなかなか挑発に乗りませんでした。こうした中、時頼が三浦一族の武装解除を条件に泰村の忠誠を認め、泰村がそれに従ったところ、安達一族がその虚を突いて三浦邸に大軍を率いて奇襲攻撃をかけました。騙し討ちされた泰村は、源頼朝の墓所である法華堂に籠もり、頼朝の絵像を前にして一族500余人と共に自害しました。ついで、時頼は、泰村の妹婿である千葉秀胤を攻撃して滅ぼします。これを宝治合戦(ほうじかっせん)といい、ここに北条得宗家の独裁的地位が確立しました。
 さらに、建長4(1252)年、北条時頼は、摂家将軍で反得宗勢力の支持を集めていた5代将軍藤原頼嗣を廃立し、新たに後嵯峨天皇の皇子である宗尊親王を6代将軍に迎えます。以後鎌倉は皇族が将軍に就くことになります。これを宮将軍または皇族将軍といいます。しかし、これにも将軍としての力は全くなく、幼少期に就任し、成人すれば退位させられるという形でした。

 康元元年(1256)、時頼は30歳で執権職を退き、その地位を庶流の北条長時に譲り、出家します。しかし、これは、嫡子の時宗がまだ幼少のため中継ぎとして長時に執権職を譲ったもので、時頼は出家後も幕府内での最高権力者として政治の実権を握り続けます。このときから、執権が北条氏の庶流出身者である場合、その時の最高権力者は執権ではなく得宗だという得宗専制政治が始まったと考えられており、執権と得宗の権力が分化し、得宗が執権の上に立つこととなったといわれています。
 これとともに、鎌倉御家人たちの忠誠の対象も、幕府という組織から得宗家に移っていったのではないでしょうか。全国各地に残る北条時頼の廻国伝説は、得宗家に対する忠誠心を分かりやすく説いたものではないでしょうか。
 弘長3(1263)年、時頼は37歳で亡くなります。吾妻鏡には袈裟を着て、坐禅を組んで、泰然として目を閉じたと記されています。時宗が8代執権に就いたのは時頼死後の文永5年(1268)です。

 得宗専制政治は、幕府政治に安定をもたらしたものの、その後、得宗家の私的な家人であった御内人がいつしか執権をも凌ぐ勢力を持ちはじめ、政治に絶大な影響力を行使するようになります。弘安8年(1285)年11月、御内人の平頼綱が安達泰盛を攻撃し、安達一族は500人が自害し又は討たれました。これを霜月騒動(しもつきそうどう)といいます。泰盛は宝治合戦のとき、北条時頼とともに三浦氏を滅ぼし、得宗専制政治の確立に一役かいましたが、今度は自分がつくりあげた得宗専制政治により滅びることになったわけです。
 有力な御家人がいなくなったことで、鎌倉時代中期以後には、北条氏及びその一族が全国4分の3以上の国々の守護職を占めることになります。讃岐守護も、三浦光村の後、北条重時、北条有時、北条守時など北条一門が占めています。

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(125)“その先祖が平賀源内を教えたという菊池寛”

 平成14年、「真珠夫人」というテレビドラマが一躍人気番組となり、またその原作者が文豪の菊池寛だということで話題になりました。菊池寛といえば、「父帰る」、「恩讐の彼方に」など硬い純文学のイメージがあり、このような大衆小説も書いていたことに多くの人が「ヘェー」という意外感を抱きました。菊池寛は大衆小説の執筆だけでなく、文芸春秋社の創設、大映の初代社長になるなど実業家としても活躍しています。また、ジャーナリズムと映画という新しいメディアの創出にも大きく関わり、さらに、昭和10年(1935)には、芥川賞・直木賞を創設し、また小説家協会や劇作家協会を設立するなど、作家の地位向上や新人の育成にも尽力して文壇の大御所と呼ばれました。

 菊池寛は、明治21年12月26日、当時の香川県香川郡高松七番丁(現高松市天神前)に父武脩(たけなが)、母カツの四男として生まれました。本名は「ひろし」と読みます。寛が生まれた明治21年12月は、讃岐が明治9年8月に愛媛県に編入されて以来12年ぶりに第三次香川県として愛媛県から分離独立した年でした。
 寛の実家である菊池家は、江戸時代、高松藩の儒学者だった家柄で、今日でいえば学者の家系でした。しかし、明治維新後に家禄を失い、父の武脩は小学校の庶務係りのような仕事をしていたようで、当時の菊池家は貧しい暮らしを余儀なくされていました。
 寛の祖父は武章(たけあき、号は所(てきしょ))といい、江戸の林家の塾に学んだ後、高松藩の儒者となっています。幕末の禁門の変(元治元年(1864))や第二次長州征伐(慶応2年(1866))にも従軍し、明治3年(1870)に51歳で亡くなります。3代前の曽祖父は武幹(たけもと、号は藻州)、4代前は縄武(つなたけ、号は守拙)、5代前は武保(たけやす、号は室山)といい、同じく林家の塾に学んだ後、高松藩の儒者となっています。縄武の弟には、江戸で活躍した菊池五山がおり、五山は同じく高松藩出身の後藤芝山、柴野栗山に学んだ後、江戸本郷の五山堂に住み、寛政の四大詩人とまでいわれました。
 6代前は武賢(たけまさ、号は黄山)といい、宝暦初年、高松5代藩主の頼恭(よりたか)に才覚を見出されて藩学講堂の儒者となった人物です。黄山は文武両面にわたって優れた人物だったようで、後藤柴山など多くの高弟を育てています。おもしろいことに、日本のレオナルドダビンチといわれる平賀源内も、若い頃、黄山の下で学んでいます。源内も頼恭に見出された人物であり、頼恭は人物の才能を見抜くことのできる名君だったといわれています。

 菊池寛は、高松藩の儒者の家柄に育った所以かもしれませんが、少年時代から作文が得意で、懸賞作文などに入選して文才の片鱗を見せたといわれています。また、高松に初めて図書館が建設されると、月5銭の図書券の第1号を購入し、学校の帰りに毎日通って蔵書2万冊余のほとんどを読破したともいわれています。しかし、神経質な秀才タイプではなく、物事にはあまりこだわらない性格だったようです。少年時代、好きな釣りをしているとき、昼食のおむすびを入れたポケットに釣った魚をそのまま無造作に突っ込み、ミミズの這っているおむすびを気にもせず食べていたというエピソードが残っています。また「もず博士」と呼ばれるほどもず狩りを得意としていたといわれています。
 明治41年(1908)20歳のとき、高松中学校を首席で卒業しますが、家が貧乏なため、学費免除の東京高等師範学校に進みます。しかし、授業料免除という理由だけで入学したこともあり、授業に出ず、放縦不羈を理由に除籍されます。その後、地元の素封家の経済支援を受け、明治大学法科に入学しますがそこも約3か月で退学します。
 その後、徴兵を逃れるため一時早稲田大学に籍のみを置いていましたが、22歳の時、第一高等学校第一部乙類に入学します。そこで出会ったのが、芥川龍之介、久米正雄、松岡譲、成瀬正一、山本有三、土屋文明、倉田百三(ひゃくぞう)などの友人です。
 しかし、卒業を3か月前にして、友人佐野文夫(後年の日本共産党幹部)の窃盗の罪を着て退学となります。俗にいうマント事件です。友人の働きかけで、後に疑いが晴れるものの、前言を翻すのは卑怯だと態度を変えることはなかったといいます。そのときの一高校長は新渡戸部稲造(にとべいなぞう)です。

 大正2年25歳のとき、友人の成瀬正一の実家の援助を受けて、京都帝国大学文学部英文科に入学します。友人たちと同じく東京帝国大学への進学を希望していましたが、入学を拒まれたようです。しかも、旧制高校卒業の資格がなかったため本科に学ぶことができず、選科に学ぶことを余儀なくされました。京都時代は、大学の講義や学生生活にも失望し、東京の友人たちに対するコンプレックスに苛まれた暗い生活だったようです。
 そんなとき、一高時代の友人らに誘われ、第3次「新思潮」の同人となります。さらに、第4次 「新思潮」を芥川・久米・松岡・成瀬・菊池の5人で発行し、後の代表作となる「屋上の狂人」、「父帰る」を発表します。しかし、「鼻」を夏目漱石に激賞され、一躍脚光を浴びた芥川龍之介とは対照的に、寛の作品は注目されることはありませんでした。

 大正5年、28歳のとき、大学を卒業します。しかし、そのまま作家活動に専念するのではなく、東京で時事新報の社会部記者となり、サラリーマンと作家の二束の草鞋を履きます。翌年には同郷の奥村包子(かねこ)と結婚しています。
 そして、大正7年30歳のとき、「無名作家の日記」、「忠直卿行状記」などを発表して文壇に躍り出、続いて翌年に「恩讐の彼方に」を発表して作家としての地位を確立していきます。時事新報社を退職して文筆活動に専念するのは、この年からです。
 その後、「真珠夫人」の連載と「父帰る」の上演の成功により、一躍人気作家となっていきます。「真珠夫人」は、大正9年に大阪毎日新聞、東京日日新聞に連載された小説で、この連載が評判を呼び、両紙の発行部数は大正10年には100万部を突破したといいます。

 菊池寛は、いつも服のポケットに紙幣をクシャクシャにしたまま突っ込み、貧乏な文士を見ると無造作に取り出して与えていたといい、面倒見の良い親分肌の人だったようです。また、東京市会議員を務めたり、落選しましたが衆議院議員にも立候補するなど政治にも関心があり、現実主義的生活観の持主だったようです。後に、菊池寛は、「半自叙伝」の中で、自分は「生活第一、芸術第二」を信条とし、「小説を書くことは生活のためであつた。」「清貧に甘んじて立派な創作を書かうといふ気は、どの時代にも、少しもなかつた」と、述べています。昭和23年3月6日、狭心症の発作で突如息を引き取りました。

 明治中期頃生まれの旧高松藩士の子弟で、その後中央で活躍した代表的な人物といえば、党人政治家として政界で活躍した三木武吉(明治17年生)と文学界で活躍した菊池寛(明治21年生)でしょう。二人とも新政府の官僚とか軍人のような立身出世は目指しておらず、最初、三木武吉は弁護士、菊池寛は新聞記者となっています。
 高松藩は幕末の鳥羽伏見の戦いで朝敵となったため薩長から睨まれ、旧高松藩士やその子弟は新政府の官僚や軍人にはなかなか登用されなかったといわれています。明治期には旧高松藩士の子弟は陸軍士官学校に入学できず、籍をわざわざ大阪に移して受験した者もいたというような話もあったそうです。実際、明治から大正にかけて旧高松藩士出身者で中央の軍、官界で名を成した者はきわめて稀で、陸海軍とも大将はついに出ず大将無しの県といわれたそうです。
 このことと、三木武吉と菊池寛というどちらかといえば在野的な人物が明治期の高松から輩出しているということと何らかの関係があるのかもしれません。ちなみに、二人とも高松藩藩儒の家柄の出です。

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(124)“京焼と讃岐との深い縁”

 
 陶磁器(とうじき)は練り固めた土を焼いて作ったものですが、焼方、用途、生産地などから瀬戸物(せともの)や唐津物(からつもの)などとも呼ばれています。このうち、京都で作られるものは一般的に京焼(きょうやき)と呼ばれています。
 京都が本格的な「やきもの」の生産地となったのは16世紀末、桃山時代末になってからのことで、江戸時代初期に活躍した野々村仁清(ののむらにんせい)という陶工が出て京焼の名を高めたといわれています。仁清はそれまでの唐物茶壺とは趣を異にした金銀彩色絵をふんだんに用いたいわゆる飾り茶壺や香炉等を数多く作ったことで知られており、京焼の租ともいわれています。

 仁清は、丹波国北桑田郡野々村(現在の京都府南丹市)に生まれ、俗名を清右衛門といいます。慶安年間(1648~1652)から延宝年間(1673~1681)の頃に活躍し、元禄7年頃に亡くなったと考えられています。若い頃、京都粟田口や瀬戸で陶芸の修業をし、後に京都に戻り、正保4年(1647)頃、洛西の御室(おむろ)の仁和寺門跡(もんぜき)の知遇を得て、門前に窯を開き、茶陶等を制作しました。仁清の号は仁和寺の“仁”と清右衛門の“清”をとって門跡から与えられたといわれています。仁清の制作した焼き物は始め、“御室焼”、“仁和寺焼”と銘されていましたが、万治3年(1660)になって“仁清焼物”などと記され、仁清の名が高まっていきました。
 仁清は、狩野派や土佐派の画風や漆器の蒔絵などを取り入れ、金銀を使った優美華麗な日本的意匠の絵付を創始したことから、色絵陶器の完成者ともいわれ、茶人の金森宗和の指導のもとに、茶壺、茶入、茶碗、水指(みずさし)など華麗な意匠をもりこんだ数々の茶器を制作しました。それらの作品は貴族をはじめ、大名や京坂の豪商などにひろく愛用されました。金森宗和は、公武の社会との交わりにより、清貧に甘んじた茶人、千宗旦との対比で「乞食宗旦、姫 宗和」と称された人物です。
 中世以前の陶工は無名の職人にすぎませんでしたが、仁清は自分の作品に「仁清」の印を捺したことから、近代的な意味での「作家」・「芸術家」としての意識をもった最初期の陶工だといわれています。現存する仁清の主要作品には、「色絵藤花文茶壺」、「色絵雉子香炉」、「色絵梅月文茶壺」、「色絵桜花文茶壺」などがあります。

 江戸時代、仁清の作品を数多く所持していたのが丸亀京極家です。京極家は色絵茶壷の名品を数多く収集しましたが、それらの名品の多くは、二代藩主京極高豊の時代に集められたものと考えられています。高豊は詩歌や絵を趣味とし、白からも絵筆をとるなど文人でした。また茶人でもあり、元禄元年(1688)には、中津にお茶所を設けています。
 仁清と丸亀藩京極家との関係については明らかでありませんが、一説によると、初代藩主高和(たかかず)に招かれ丸亀で窯を開いたともいわれ、京で本焼きして丸亀で上絵付けをしたともいわれています。晩年、京極家の招きに対して、「我齢80を過ぎ旅は困難なり」といったそうです。6万余石の小藩がこれほどの名品を数多く入手できたのは、ときの藩主の文化的な素養と卓越した手腕によるものといえるでしょう。
 仁清の色絵陶器は、大正時代までその存在が知られておらず、昭和の初めまでその生涯も謎に包まれていました。仁清の作品が世に出るようになったのは、所蔵していた旧大名家らが度重なる金融恐慌で手放していたからだともいわれています。
 平成9年、丸亀市では、丸亀城築城四百年を記念して、「丸亀藩京極家名宝・野々村仁清展」が猪熊弦一郎現代美術館で開催され、京極家が所蔵していたといわれる国宝、重要文化財の色絵茶壷と水指の秀作あわせて7点が展示されました。特に国宝の色絵藤花文茶壷は日本陶磁器の最高傑作といわれている絶品で、これらの名品が一堂に揃うのは京極家の手を離れて初めてのことでした。

 ところで、高松には、仁清が活躍していたのと同じ頃、その作風と類似した陶法が京とから伝わっていました。それは、高松藩初代藩主・松平重が京都粟田口で陶工をしていた森島作兵衛重利を高松に招いて焼かせた御庭焼です。作兵衛の父は、元は豊臣秀頼に仕える武士でしたが、大坂の役後故郷の信楽に閑居して焼物を業としていました。そして父を継ぎ陶工となった作兵衛が京都三條粟田口に出て作陶をしていました。
 正保4年(1647)、作兵衛は、頼重から10人扶持、切米15石を与えられ、名を「紀太理兵衛」と改め、高松藩別邸栗林荘(現在の栗林公園)の北に屋敷を賜って窯を築きます。このことから、この御庭焼は“理兵衛焼”、“高松焼”または“御林焼”と呼ばれ、京焼にも負けない色絵物や安南写などが多く作られました。
 初代理兵衛は、その作風は仁清のものと類似しているといわれ、「古理兵衛」あるいは「高松仁清」と呼ばれました。来讃時に色絵陶を作る使命を帯びていたのではないかともいわれています。明治初期に書かれた田内梅軒の「陶器考」によれば、「高松焼 利兵衛と云もの仁清に陶法を習ふ、是を利兵衛焼と云、作ぶり仁清に似て厚し、安南を写たる茶碗、朝鮮を写たる茶碗など有、土白、薄赤、黄、浅黄。薬白、浅黄」とあり、初代理兵衛は野々村仁清に陶法を学んだのではないかとも考えられています。
 以後、紀太家子孫が高松藩の御庭焼として代々「理兵衛」を襲名し、三代理兵衛以降は、「破風高」と呼ばれる「高」の印を押すようになりますが、一説によると高松藩の高の字を拝領されたともいわれています。
 九代目に至り、いわゆる明治維新で廃藩置県となったため、十一代目が京都に出て高橋道八に学び、名も「紀太理平」と改め、明治33年に現在の栗林公園北門前に「理平焼」として再興し、現在十四代紀太理平まで続いています。
                

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(123)“後白河法皇が建て、源頼朝が奉納したといわれる寺”

 四国八十八カ寺八十一番札所白峯寺は、五色台の白峯山にあります。平安時代初期の弘仁6年(815)、弘法大師が白峯山中に如意宝珠を埋めて井戸を掘り、衆生済度を祈願したところ水が湧き出したのが始まりで、その後、貞観2年(860)年弘法大師の甥にあたる智証大師円珍が海に浮かぶ霊光を放つ流木を引き上げて白峯に運び、千手観音を彫って安置したのが現在の本尊だといわれています。
 2基の「十三重石塔」を右手に見ながら参道を進み、境内入り口の七唐門という山門をくぐると、左側に茶堂、右側の土塀の向こうに本坊、正面に護摩堂があります。さらに進むと参道は左に折れ、その正面に勅額門という門があり、その門の中に堂宇(どうう、格式を備えた寺の建物)があります。またその門の手前右上から石段を登ると、その途上と登り切ったところにも数棟の堂宇が建ち並んでいます。
 参拝者の中には、勅額門の中にある堂宇を白峯寺の本堂と思っている人が多いようです。しかし、この堂宇は、本来白峯寺とは全く別の頓証寺(とんしょうじ)という寺で、平安時代末期の建久2年(1191)、後白河法皇の命により建立されたものです。本来の白峯寺は、勅額門手前の石段を登る途上にある薬師堂・鐘楼堂・行者堂・廻向堂・阿弥陀堂などと、登ったところにある観音堂(本堂)・大師堂などです。

 後白河法皇は鳥羽天皇の皇子で、久寿2年(1155)、近衛天皇の後を受けて第77代天皇に即位しました。保元元年(1156)に起きた乱(保元の乱)で兄の崇徳上皇と争い勝利し、保元3年(1158)には、二条天皇に譲位して院政を開始しました。その後、建久3年(1192)3月、66歳で亡くなるまで、二条天皇、六条天皇、高倉天皇、安徳天皇、後鳥羽天皇の5代34年にわたって院政を続けました。この間、嘉応元年(1169)に出家し、法皇となっています。
 保元の乱から建久3年(1192)7月に源頼朝が鎌倉幕府を開くまでの36年間は、古代から中世への時代の変わり目における我が国の動乱期でした。この間、保元の乱に始まり、平治の乱(平治元年(1159))、平清盛の太政大臣就任(仁安2年(1167))、鹿ヶ谷の陰謀(治承元年(1177))、いわゆる源平の戦いと呼ばれる治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん、治承4年(1180)~元暦2年(1185))、源義経の死(文治3年(1187))と目まぐるしく時勢は移り変わり、多くの皇族、公家、武士などが華々しく歴史の舞台に登場しては消え去っていきました。その中において、後白河法皇は、動乱のこの時代にあって常に主人公の一人として登場しながら、最後までしぶとく生き抜いた人物です。
 後白河上皇は、「今様狂い」と称されるほど今様好きで、敵対関係にあった兄の崇徳上皇からは「文にあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」と評されています。しかし権力抗争には長けた人で、その時々の平氏や源氏の武士勢力を利用しては、その存在が邪魔になると討伐という形で使い捨て、自己の権力基盤の維持を図りました。源頼朝は、法皇が征夷大将軍宣下を認めてくれなかったため、その死まで征夷大将軍就任を待たざるを得ず、法皇を「日本国第一の大天狗」と評したといわれています。

 後白河法皇白峯寺の境内地に頓証寺を建立した経緯は、保元の乱に始まります。この乱は、朝廷内における崇徳上皇と白河天皇との権力抗争に端を発し、これに摂関家藤原氏や源氏・平氏の武家の内部抗争がからみ、それぞれが上皇側と天皇側に別れて戦ったもので、「武者ノ世」が始まる歴史の転換点でした。この乱では上皇側の勢力が敗北し、上皇自身も讃岐に配流となります。讃岐に配流となった上皇は、最初、今の坂出市林田町の中川付近にあったといわれる綾高遠(あやたかとう)の館を仮の御所とし、その後近くの長命寺(ちょうめいじ)を経て、保元3年(1158)、国府のすぐ近くの鼓岡(つづみがおか)を行在所とします。その宮は木丸(きのまる)殿と呼ばれました。
 幽閉の身の崇徳上皇は、父の鳥羽上皇を弔うため全190巻ものお経を書き写して都へ送りますが、この写経には呪いが込められているという理由で受け取りを拒否されます。激怒した上皇は、「われ魔王となり天下に騒乱を起こさん」と言って舌の先を食い切り、その血で誓状を書きつけたお経を海に沈め、以来、爪も髪も切らず、髭も剃らず、柿色の褪せた衣もほころびに任せたまま、日々凄まじい形相となって、後白河上皇らに深い怨みを抱きながら長寛2年(1164)8月に亡くなったといわれています。上皇の遺体は朝廷の指示により白峯山上で荼毘にふされ、その地に御陵が営まれました。都から遠く離れた所に御陵が造られているのは、白峯陵と下関の安徳天皇陵、淡路島の淳仁天皇陵だけです。
 上皇が亡くなったときから3年後、西行が上皇を偲び白峯御陵に参っていますが、このとき、御陵は草に覆われ荒れ放題だったといわれています。

 崇徳上皇の死後、平氏一族があだ花のように栄華を極めますが、その後、源平の戦いが続いて政治の中心は公家から武士に移っていきます。また、飢饉や洪水なども起こり、不安定な世情となっていき、人々はこれを上皇の怨霊のなせる業だと恐れました。このため後白河法皇は、元暦元年(1184)、保元の乱の戦場であった白河殿の跡に粟田宮を営み崇徳上皇を祀りますが、自身も病気にかかり上皇の怨霊に悩まされました。
 崇徳上皇の怨霊に脅えた後白河法皇は、建久2年(1191)、白峯御陵の前に仏堂を建立し上皇の御霊を慰めることによって、自分の病の治癒を願おうとしました。それは上皇が亡くなってから27年後のことです。この任に当たったのは、遠江阿闇梨章実(あじゃりしょうじつ)という僧で、章実は上皇が行宮としていた府中鼓岡(つづみおか)の丸木殿の材木を使用して仏堂を建立したといわれています。後白河法皇が亡くなったのは、その直後の建久3年(1192)3月のことで、その年の7月に鎌倉幕府が開かれました。「頓証寺」という名は、速やかに迷いを断ち悟りを開く供養を行うところから付けられたといいます。

 その後、頓証寺は、多くの公家や武士から尊崇を受け、多く什器・宝物などの奉納を受けています。「十三重石塔」や頓証寺境内にある石燈籠、白峯陵の石塔も源頼朝が奉納したという言い伝えが残っています。室町時代の応永21年(1414)には、将軍足利義持の執奏によって、後小松天皇から頓證寺の勅額を賜ったことにちなんで「頓証寺殿」(とんしょうじでん)と呼ばれ、その勅額を揚げた山門が勅額門と呼ばれるようになりました。この門の左右の随神は、保元の乱で崇徳上皇に仕えた源為義、為朝の武者像です。頓証寺殿宇の構造は紫宸殿に擬して庭前に左近の桜、右近の橘が植えられ、中央に上皇尊霊、左に天狗の白峰大権現、右に御念持仏十一面観世音菩薩が祀られています。
 現在の建物は、頓証寺、勅額門とも江戸時代初期の延宝年間(1673~1681年)に高松藩初代藩主・松平頼重が再建したものといわれており、その後も歴代高松藩主により手厚く保護されてきました。

 讃岐では、源平合戦の一つとして屋島の戦いが行われていますが、それは崇徳上皇が亡くなってから22年後の出来事です。そして、頓証寺が建立されたのは、それから6年後のことです。讃岐は、保元の乱から源頼朝が鎌倉幕府を開くまでの動乱期において、歴史の大きな舞台の一つになったところだといえるでしょう。

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(122)“海を町に変えた塩づくり”

  町はその形成・発展の要因により、城下町、門前町、港町、宿場町などに分類されます。現在の香川県の町も、高松、丸亀は城下町、琴平、善通寺は門前町、多度津、引田、仁尾などは港町として発展しました。このような香川県の町の中でも、坂出塩田の町としてユニークな発展の歴史を持っています。
 坂出市は昭和17年(1942)に香川県で3番目に市制が施行されました。坂出市の中でも東部地域は、かつて讃岐の国府庁が置かれたり、また崇徳上皇にまつわる社寺仏閣、史跡が残るなど古い歴史を持っています。しかし、西を聖通寺山と角山、東南を笠山と金山で挟まれた現在の市街地の辺りは、かつて遠浅の海と砂州だったところで、街として発展していったのは江戸時代後期以降のことです。その歴史は、塩を採るために人々が集まり、海を塩田にし、さらにそれを基に土地造成を行うことにより展開されました。これに伴い海岸線も北へ北へと大きくシフトしていきました。

 鎌倉時代から室町時代を通じて、讃岐の政治文化の中心だったところは、現在の坂出市街と田尾坂を隔てて隣接する宇多津でした。青ノ山の東麓には讃岐の守護所が置かれ、古くから多くの寺院が建立されていました。
 これに対して、現在の坂出市街の地は、江戸時代までは、海岸線が大きく南に後退し、今の坂出高校や笠山の麓辺りが波打ち際でした。また、笠山の南西にあたる現在の福江町二丁目付近まで入江が大きく湾入し、大束川(あるいはその支流)の河口に続いていました。そこに自然の入江を利用した福江の湊がありました。そして遠浅の海を隔てた北側には、現在の市街西側の八幡町三丁目あたりの付け根から洲加(須賀)と呼ばれる長い砂州が東に向かって延びていました。洲加の東端は現在の坂出商工会館裏にある天満宮辺りだと考えられています。さらに洲加の東側には島津(洲)、横洲と呼ばれる砂州が島のように点在し、これらの砂州は、天然の防波堤の役割を果たしていました。ちなみに、横洲は現在の横津町あたりです。
 想像するに、南側の陸地と北側の砂州で囲まれた遠浅の海は、湾が砂州(さす)によって外海から隔てられ湖沼化した潟湖(せきこ)(ラグーン)に近い地形で、東西に長い楕円形をし、北東の方向が沖合いの海に開けていたのではないかと思われます。そして、この楕円の中心点が現在の坂出駅あたりで、JRの線路が楕円の軸になるような形だったのではないかと思われます。
 この辺りは、古くは山本郷といわれたところで、南北朝時代(延元3年:1338)には、京都・崇徳院御影堂の荘園(北山本新荘)が置かれ、福江の湊が年貢の積み出し港として地域の流通機能を担っていました。

 坂出で塩田の築造が始まったのは、安土桃山時代の文禄年間(1592~1596)の頃だと考えられています。播州赤穂から「塩焼」という塩づくりの技術をもった民人が移り住み、金山と笠山の北麓にあたる現在の谷町あたりで塩田を造ったのが始めてといわれています。この頃の讃岐の領主は生駒親正で、天正15年(1587)に豊臣秀吉から讃岐一国を与えられました。この頃、引田や高松にも赤穂から塩焼が移住してきており、生駒氏は讃岐にやってくる前は赤穂の領主だったことから、赤穂から塩焼を呼んで塩作りをさせたのではないかと思われます。
 江戸時代に入っても、赤穂からの流民は増え続けていたようで、慶長年間(1596~から1615)から元和年間(1615~1624)にかけて、赤穂の人々が洲加やその付け根の内浜(現在の八幡町三丁目あたり)に移住し、集落を形成したといわれています。また福江から移住してきた人も多く、福江は「本村」と呼ばれていたそうです。
 彼らは次第に埋没して干潟となっていた入江を塩田に変え、塩業を生業としました。当時の文献によると、赤穂から移り住んだ塩焼の子孫は播磨訛りを話し、坂出には多くの塩釜が炊かれ朝夕をとわず煙が出ていたといわれています。ちなみに、「坂出」という地名は、宇多津から田尾坂を越えて出たところにある集落という意味です。この頃、高松城下から丸亀城下に至る丸亀街道は、金山北麓から笠山南麓へ回り込み、福江を経由して川津・津之郷に出るという経路でした。

 寛永19年(1642)、松平頼重が東讃岐12万石を徳川幕府から与えられ、生駒氏の後の高松城に入り、坂出は高松藩の領地となります。元禄時代(1688~1704)になると、洲加と陸地の間の海は埋め立てにより塩田として利用され、洲加の東側に点在する鳥洲・横洲などの砂州にも集落ができ始めたようです。
 そして、元禄2年(1689)、坂出八幡神社が角山北麓の現在の地(八幡町二丁目)に建立されます。この頃、坂出は各地から移住してきた人々が集まってできた単なる集落から、共同体的意識を持ったムラに転化したものと考えられます。八幡神社と教専寺の界隈である内浜と新浜は、坂出村の臍(へそ)のようなところといえるでしょう。
 しかし、まだまだ寒村だったようで、寛文7年(1677)の記録では、人口は約600人程度でした。この頃、丸亀街道の経路は北へシフトし、笠山北麓から西へ真直ぐ延びて教専寺・八幡神社門前を経て田尾坂を越えていました。
 また、洲加と陸地の間の海の埋め立てにより福江にあった港はその機能を失い、それに代わる新たな港が、洲加の北側の海岸沿いに造られました。これにより、現在の地蔵通商店街周辺にあたる中洲加の界隈が、荷揚げ場を控えたところとして賑わいます。享保17年(1732)には、高松藩の舟番所が林田から西洲加に移され、海に突き出した東洲加には灯台が立てられて船着き場とされます。現在、元町四丁目のやや小高くなった路地のあたりが船着き場の跡で、そこには灯台の記憶を伝える幕末の金毘羅灯篭が今も立っています。
 しかし、元禄年間までに拓かれた塩田は、早くも享保7年(1722)に洪水で壊滅状態となってしまいます。荒廃した塩田は、天明6年(1786)、阿河武太夫によって田畑へと切り替えられます。現在でも標高0.5m以下の低い土地が広がる谷町・室町一帯にその名残りを見ることができます。この当時の坂出は、「田少なく、壮者は往々去って四方に餬口(ここう)す。村は蓋し海に瀕し、海潮満ちつれば則ち村居を浸す。退けば則ち平土数里」(坂出墾田之碑)という状態だったようです。

 江戸時代後期、荒廃した製塩業に新たな活力をもたらしたのが、久米栄左衛門(通賢)による坂出塩田の開発でした。当時、洲加と鳥洲の北側(現在の御供所地区から江尻地区にかけて地域)は、まだ遠浅の海浜で残された入江でした。栄左衛門は、文政12年(1829)、ここにその広さ110余町歩、釜数72という広大な東大浜・西大浜塩田を築きます。また塩田中央部を南北に延びる堀割(現在の西運河)に船溜りが設けられ、天保2年(1842)には西大浜の沖にも波止で囲まれた船溜りが造られます(沖湛甫)。この塩田は当時の讃岐の塩田としては最大規模のもので、これを契機に坂出は塩田の町として大きく発展していくことになります。
 海岸線が北にシフトしたことにより丸亀街道の経路もさらに北にシフトし、金山北麓から西へ真直ぐ延びて現在の元町商店街を経由して田尾坂を越えるルートと付け替えられます。そして、それまで坂出の中心として栄えた中洲加は港湾機能が失われたことにより衰退し、東洲加にあたる現在の元町・本町界隈が賑わっていきました。

 明治時代、坂出は塩の生産量日本一を誇るまで栄えます。しかし、明治後半から大正にかけて、坂出塩田は次第に商工業地としての利用が行われるようになり、また、昭和2~26年に3次にわたって行われた坂出築港事業により、坂出港は埠頭や臨港鉄道を備えた近代港湾として生まれ変わります。
 戦後になると、昭和39年(1964)から、沖合の番の州が埋め立てられ、昭和44年に竣工して川崎重工、三菱化成、四国電力坂出火力発電所等の大企業の工場が立地していきます。一方、イオン交換樹脂膜製塩法の導入により塩田は不用となり、昭和47年、東西大浜塩田での製塩が終焉します。そして、昭和50年代以降、塩田跡地は区画整理事業により埋め立てられ、工業地、住宅地、道路などに転用されていきます。
 坂出は、塩を求めて、常に土地造成という自然地形への積極的な働きかけ行ってきたことによりできた町で、いわば塩づくりが海を町に変えたといえるでしょう。

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(121)“紀伊水道から瀬戸内海へ吉野川の水の流れを変えた用水”

 日本三大暴れ川といえば、「坂東太郎」の利根川、「筑紫次郎」の筑後川、それと「四国三郎」の吉野川です。太平洋から北上してきた台風がぶつかる四国山地は日本有数の多雨地域として知られていますが、吉野川は、その四国山地の西部に位置する高知県土佐郡本川村の瓶ケ森(標高1896.2m)にその源を発しています。その水は、四国中央部を四国山地に沿って東に流れ、高知県大豊町豊永から北に向きを変えて四国山地を横断し、徳島県三好市池田町に至って再び東に向きを変えて徳島平野に入り、紀伊水道に注いでいます。その幹線流路延長は194kmに及ぶ日本有数の大河川です。
 ある河川に降水が流入する全域をその河川の流域といい、流域の互いに接する境を分水界(流域界)といいますが、吉野川の流域面積は3,750km²と、四国の面積18,299.04km²の約20パーセントを占めています。なお、吉野川の流域面積の四国四県での割合は、徳島県63%・高知県28%・愛媛県8%・香川県1%で、香川県も徳島県境に接する東讃の一部地域(三木町、さぬき市、東かがわ市の一部)が吉野川流域に属しており、吉野川は文字通り四国四県にまたがる河川です。

 香川県は瀬戸内海気候の下にあり、降水量が少なく、また、大きな河川もないため、古来から日照りが続くと水不足となって、農業や生活に支障をきたしていました。一方、讃岐山脈の南側を流れる吉野川は「暴れ川」と呼ばれ、氾濫を繰り返し、その流域は長年洪水の被害を受けてきました。そこで、讃岐山脈にトンネルを掘り、吉野川の水を讃岐平野にひくべきだというアイデアが明治期に唱えられました。このアイデアを最初に出したのは、明治時代に活躍した大久保之丞(じんのじょう)だといわれています。之丞は讃岐鉄道の完成に尽力したほか、四国と本州を隔てている瀬戸内海を橋で結ぶという、当時では画期的なアイデアを出した人物としても知られています。「笑わしゃんすな、百年先は財田の山から舟出して、月の世界に行来する」という都都逸(どどいつ)風の歌を之丞はよく歌っていたといいます。

 戦後、之丞のアイデアは吉野川総合開発計画として実現されることになります。この計画は、吉野川上流にダムを築造して貯水池をつくり、これによって洪水調節を行うとともに四国四県に対する新規用水の供給及び電源開発など一連の事業を行うというものです。吉野川の水資源を有効に活用しようというプランは、戦後間もない頃の昭和25年(1950)、当時の建設省、農林省、通産省、四国4県、各電力会社によって吉野川総合開発の原案が作られます。しかし、四県の利害得失が複雑に絡み合い、なかなか実現には至りませんでした。こうした中、開発の機運が急速に高まったのは、昭和35年(1960)の四国地方開発促進法の制定でした。昭和39年(1964)には四県の足並みもそろい、ついに原案作成から16年後の昭和41年(1966)に基本計画が決定されました。
 その事業内容は、高知県の吉野川上流域に「早明浦ダム」を建設し、これと並行して、本・支流に池田ダム(徳島)、新宮ダム(愛媛)などを築造し、洪水調節と発電を行うとともに、新たに生み出される年間8億5,600万 の用水を四県の農業、上水道、工業用水の水源として分水するというものでした。また、香川県では、吉野川総合開発の一環として、吉野川の水を導水する「香川用水」の敷設が計画されました。これは、早明浦ダムの年間水量8億5,600万 のうち2億4,700万 を、徳島県三好市池田町に建設された池田ダムの取水工から讃岐山脈を貫く8kmの導水トンネルを経て三豊市財田町まで導水し、ここから県内陸部を東西に貫通する幹線水路98km(一部トンネル、サイホン)を通じて県内各所で、農業用水・水道用水・工業用水として利用するというものでした。
 早明浦ダムは、昭和42年(1967)に着工され昭和48年に完成しました。多目的ダムとしては西日本一の規模、貯水量は全国第4位です。それとともに、香川用水も、昭和43年(1968)から建設が始められました。讃岐山脈をくり貫くトンネル工事は、山脈が安山岩という格別硬い岩でできているため大変な難工事だったといいます。
 こうして昭和49年(1974)6月1日に初めて通水が行われ、今まで紀伊水道に流れていた吉野川の水が備讃瀬戸の海に注がれるようになりました。106kmに及ぶ香川用水幹線水路の全線に通水が開始したのは、着工から10年後の昭和53年6月11日でした。昭和25年の計画発表から実に24年の歳月と、総工費3,200億円(うち香川県負担分1,154億円)という莫大な経費を費やし、わが国屈指の大用水が誕生しました。
 以後、香川用水は、香川県の山間部及び島嶼部を除くほぼ全域に農業用水、水道用水、工業用水を供給しています。農業用水としては農地30,700ha(水田25,100ha・果樹園5,600ha)に供給しており、水道用水としては香川県人口の約80%に給水し、使用量は県内で使用される水道水の約50%を占めています。さらに工業用水としては、香川の中讃地域である坂出・丸亀地区工業地帯に給水し生産活動を支えています。香川用水は、香川の生命線といっても過言ではないでしょう。

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(120)“滝沢馬琴「椿説弓張月」の舞台となった八幡宮”

  江戸時代後期の読本作家滝沢(曲亭)馬琴は、文化4年(1807)から文化8年(1811)にかけて、「椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)」という物語を書いています。この物語は、保元の乱に敗れて伊豆大島に流罪になった源為朝(みなもとのためとも)が琉球に渡り琉球王国を再建するという、歴史を基にフィクションを加えた、現代風にいう冒険活劇ですが、この一説の中で、讃岐の琴弾八幡宮直島白峯が舞台として書かれています。琴弾八幡宮は現在の観音寺市有明の琴弾山にある神社、白峯は現在の坂出市にある白峯寺のあるところです。
 保元の乱は、保元元年(1156)年、崇徳上皇と後白河天皇の対立を軸に勃発した戦いで、上皇方には源為義、源為朝、平忠正らが、天皇方には、源義朝、平清盛らがつき、父(源為義)と子(源義朝)、兄(源義朝)と弟(源為朝)、叔父(平忠正)と甥(平清盛)がそれぞれ敵味方に分かれて戦いました。

 「椿説弓張月」の中での讃岐が舞台になっているところは次のような場面です。
 保元の乱が起きたとき、太宰府の館(やかた)を守っていた源為朝の妻・白縫(しらぬい)は召使い8人とともに、九州から讃岐、琴弾の宮に逃れ、神仏に夫の無事を祈っていました。琴弾の宮というのは、現在の観音寺市にある琴弾八幡宮のことです。
 一方、京では、戦いに敗れ傷ついた為朝が家来の武藤太(ぶとうだ)の家に身を潜めていましたが、恩賞に目がくらんが武藤太により密告されてしまいます。この裏切りで為朝は敵方に捕縛され、再び弓を引けないように肘の筋を断たれて伊豆の大島に流されることになりました。
 しかし、主君を敵方に売った武藤太は、痴れ者(しれもの)として非難され、京に居たたまれなくなって船に乗って九州へ向かいます。その途中、讃岐の室本の港(現在の観音寺市室本町)に流れ着き、武運に縁の深い琴弾の宮に参拝します。武藤太は祈願の言葉の中で密告の恩賞が少なかった恨み言を述べます。そのとき、偶然、白縫がそこに居合わせ、拝殿に祈る男の言葉からその男が夫為朝の仇だと知ります。
 白縫は、「これこそ神の導き」と、ある月の夜、武藤太を酒宴に誘い出します。美しい琴の音が聞こえる酒宴の場と、白縫の容色に取り付かれた武藤太は、何も知らず勧められるままに酒を飲み、前後不覚となってしまいます。気がついた武藤太は逃げようとしますが、縛りつけられ、指を一本ずつ落とされたうえ体に竹釘を打ち込まれて殺されます。夫の仇を果たした白縫は護送される為朝を追って伊豆に向かいます。
 しかし、白縫は為朝を救出することができず、讃岐に流されていた新院(崇徳上皇のこと)を奪還しようと企てますが、そうするうちに京では平治の乱が起こります。新院が瀬戸内の直島の磯に現れるという噂を聞いた白縫は、直島に忍び込み、読経をする新院に会いますが、次の日新院は崩御します。
 それから十年が経過したとき、伊豆の大島に居る為朝に対して討伐の軍勢が押し寄せてきました。逃れた為朝は、讃岐国多度郡の逢日の浦に到着し、新院の葬られている白峯の陵(現在の坂出市)に参詣し、腹を切ろうとします。そのとき、新院や父の為義ら保元の乱で死んだ者たちの亡霊が現われ、その後の行く末を伝え、為朝の自殺を留め、肥後国に向かうように指示します。肥後で為朝は、長い間行方不明だった妻の白縫と再会します。
 その後は、琉球での物語りとなります。

 このように、滝沢馬琴は「椿説弓張月」の中で讃岐を物語の一つの大きな舞台としていますが、これは、馬琴が、主人公源為朝の仕えた崇徳上皇を、為朝が思慕し、また為朝を庇護する人物として描いたことから、上皇が葬られた白峯やその伝承のある直島を舞台としたものと思われます。ちなみに白峯御陵の側に建てられた頓証寺殿(とんしょうじ)の大門左右の随神は源為義、為朝親子の武装像です。
 では、馬琴はなぜ琴弾八幡宮を物語の舞台としたのでしょうか。琴弾八幡宮の由緒は次のようなものだとされています。大宝3年(703)のある日、有明浜一帯に黒雲が立ちこめ3日間暗闇が続き、やがて、光を回復した海上に一艘の船が現れて船中から琴の音が聞こえてきた。民人が近づくと、「われは八幡大菩薩なり、宇佐からきたが、仏法弘布の地によいので止まりたい」と答えた。そこで、日証上人が船に証を求めたところ、海水であったところが竹林に、砂浜が蒼松の林に変わり、再び琴の音が響き渡ったので、驚いた日証上人が里人を集めて船を山上に引き上げ、琴を添えて宝殿に安置して琴弾八幡宮と称え奉った。
 宇佐とは、現在の大分県宇佐市にある宇佐八幡宮のことで、全国にある八幡宮の総本社です。「椿説弓張月」の中で源為朝の妻・白縫は九州から逃れてきたことになっていますが、馬琴は琴弾八幡宮の由緒を知っていたので、そこから琴弾八幡宮を物語の舞台にしたのかもしれません。
 なお、琴弾八幡宮にある「木之鳥居」は、屋島合戦勝利のしるしとして源義経の側近が代わって奉納したものといわれています。


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(119)“讃岐に残る甲斐武田氏にまつわる物語”

 「風林火山」の旗印で知られる武田氏は、甲斐源氏の一族であり、その祖は八幡太郎義家の弟新羅三郎義光といわれています。義光は、平安時代後期に奥州(東北地方)で起きた後三年の役(永保3年(1083年)~寛治元年(1087年))で、兄義家を援けるために奥羽に下向し、常陸国に進出して、その子の義清を那珂郡武田郷に配します。それが武田氏の発祥で、その後、義清とその息子の清光は甲斐国に配流され、そこで土着したと伝えられています。
 武田氏は、戦国時代の晴信(信玄)の代になって、近隣諸国への侵攻を企て、信濃国をはじめとして、上野・飛騨そして、今川義元戦死後の駿河・遠江へとその勢力を広げていきます。この間、多くの戦をしていますが、なかでも、越後の上杉謙信との川中島の戦いはよく知られています。
 元亀3年(1572)10月、信玄は天下に号令するため京都を目指し、大軍を率いて甲府を後にします。そして、浜松城から出陣してきた徳川家康の軍を、遠江の三方ヶ原の戦いで撃破します。このとき、家康は馬で逃走する際に、恐怖のあまり馬上で脱糞したというエピソードはよく知られているところです。しかし、その進撃の途中の翌年4月初旬、信玄は持病が悪化したため、遂に上洛を断念し、帰国の途上、信濃国駒場で病死しました。
 信玄の跡を継いで家督を相続したのが四男の勝頼です。その母は信玄によって討たれた諏訪頼重の娘・由布姫です。諏訪氏は、信濃国上原城城主であるとともに諏訪大社大祝(おおほうり)務めてきた一族で、武士と神官双方の性格を合わせ持っていました。勝頼も諏訪家の名跡を継ぎ、武田家の通字である「信」でなく諏訪氏の当主が襲名してきた「頼」の通字を命名され、諏訪四郎勝頼と名乗っていました。
 信玄が亡くなってから約2年後の天正3年(1575)5月、勝頼の率いる騎馬軍団は、大量の鉄砲と馬防柵(ばぼうさく)を用いた織田信長の画期的な戦法に敗れます。これが長篠の戦いです。
 この戦いの後、甲斐武田氏の勢力は急速に衰えていき、約7年後の天正10年(1582)3月11日、勝頼とその嗣子信勝は、天目山の戦いで、織田信長配下の信忠、家康、氏政連合軍に敗れて親子ともども自害し、ここに武田氏は滅亡しました。

 讃岐には、長篠の戦いや天目山の戦いで破れた武田の一族が逃れてきたという伝承が残っています。
 一つは、高松市東山崎町にある諏訪神社の由緒として残る話です。
天目山の戦いに敗れた後、武田信勝の弟である桃千代丸は、家臣18人、女中7人に伴われ、讃岐の屋島の地に逃れてきて、山田郡元山村領主の大隈備前守方に暫く留まり、再起をはかろうとその地に諏訪明神を勧請したというものです。
 この後、桃千代丸らは、香東郡坂田の室山城主で細川家々臣の坂田権守を頼りそこへ移り住んでいましたが、天正13年、豊臣秀吉の四国征伐により室山城が落城したため、そこを逃れ、再び元山村の地に戻り、掃部屋敷というところに住み、祠職をしていました。ところが、江戸時代の延宝(えんぽう)年間(1673年~1681年)に発覚され、その職を逐放されたといわれています。なお、延宝年間における高松松平藩は、二代目の頼常(よりつね)の時代です。

 もう一つは、高松市御厩(みまや)町の小比賀家に伝わる話です。
小比賀家は、甲斐源氏・武田氏の末裔で、天目山の戦に敗れて秩父山中に逃れ、のち伊予の河野氏を頼って四国に渡り、さらに、讃岐の坂田郷に移り住んで宝山城の城主を務め、戦国時代末期を過ごしたといわれています。
 その後、小比賀姓を称えるようになり、江戸時代初期の慶長年間(1596年~1615年)に今の御厩に居を構え、江戸時代を通じて、この地の大庄屋などを代々務めてきたとされています。

 さらにもう一つは、「全讃史」という江戸時代の中山城山という学者の書いた本に載っている話です。
 武田軍が長篠の戦いで敗れたとき、朝比奈五郎という武田家の家臣が、次男の伊豆八郎信能を伴って讃岐に逃れてきました。そして、内場城主の藤澤新大夫重弘に保護され、安原の奥に住み着きました。さらに、重弘は信能に自分の娘を信能に嫁がせ、所領を与えて厚遇しました。信能はその所領に城を築き、父祖の墓を祀りました。そこで世人はその土地を甲斐股(かいまた)と呼んだということです。現在、高松市塩江町には、「貝股」という地名があります。
 のち、重弘の息子の次郎吉が幼少で藤澤家の家督を継いだので、信能はその補佐をするため内場城に移り、藤澤家の家事を執りました。このため、信能は藤澤八郎と称されました。次郎吉が長じると、信能は藤澤家の家事から退き、別子山に移ります。しかし、このとき、豊臣秀吉の四国征伐があり、屋島に上陸した征討軍が南征し、讃岐の諸子は皆その領地を失い、信能は別子八郎と称して、田猟をもって業としたということです。
 これは「全讃史」に記されていますが、同書は武田勝頼が長篠合戦で討死したと記しており、信憑性には疑問が残るとされています。

 このように、讃岐には甲斐武田氏にまつわる物語が残されていますが、これらの物語がどこまで信憑性を有しているのかについてはまだよく分かっていません。しかし、これらの物語がすべて事実とはいえないまでも、讃岐と甲斐武田氏の間に何らかの関係があったことから、このような物語が残っているのではないでしょうか。
 戦に敗れ逃れる者が頼る先といえば、一般的に考えれば、親類など血の結びつきのある一族でしょう。では、讃岐に甲斐武田氏と血の結びつきのある一族がいたのでしょうか。
 一つ考えられるのは、戦国時代後期、現在の高松市南部を中心に讃岐で勢力を張った十河氏の存在です。
 十河氏は、もともと、景行天皇の皇子・神櫛王を祖とし、讃岐の山田郡の十河城を根拠とする生え抜きの武士です。室町時代の始めに細川氏が讃岐に入国してきたのに伴いその家臣となりますが、応仁の乱後の細川政元暗殺による細川京兆家の没落に伴い次第に自立していきます。一方、阿波では三好氏が主家の阿波細川家を凌駕し、さらに讃岐にも勢力を伸ばし始めてきます。
 三好氏は、阿波からさらに畿内に勢力を及ぼし、三好長慶(大永2年(1522年)~永禄7年(1564年))の時代に絶頂期を迎えます。長慶は天文18年(1549年)から約15年間にわたって室町幕府の実権を握り、その勢力は、山城、摂津、河内、大和、和泉、丹波、阿波、淡路、讃岐の9カ国に及びました。
 讃岐の十河氏も三好氏の勢力化に属するようになり、三好長慶の弟が養子に迎えられて十河氏を継ぎ、一存(かずまさ、天文元年(1532年)~永禄4年(1561年))と名乗ります。これにより十河氏は三好氏と血のつながった関係になります。一存は兄長慶を助けて畿内で奮戦し、その勇猛な戦いぶりから「鬼十河」の異名をとり、また「十河額」と呼ばれる独特の髪型で知られた武将です。
 ところで、阿波の三好氏のルーツは、鎌倉時代の承久の乱のとき幕府方で活躍した信濃の小笠原氏が、阿波守護職に補任されて阿波に入部したことよるといわれています。小笠原氏はその後、阿波三好郡を領地としていたことから三好姓を名乗るようになったものです。
 この小笠原氏は、源頼朝の推挙で信濃守に補任されたことにより信濃で勢力を張りましたが、その発祥は、平安時代、甲斐源氏の加賀見遠光の次子長清が甲斐国中巨摩郡小笠原村に拠り小笠原を称したことによるといわれています。したがって、阿波の三好氏と甲斐武田氏は、同じ甲斐源氏をルーツにするということです。讃岐の十河氏も、一存以降、甲斐源氏の血が入っています。
 阿波にも、甲斐武田氏にゆかりのある者が戦国時代に入っています。武田晴信に甲斐を追放された父の信虎は、その後、京に出て、男子をもうけたといわれていますが、その子は後に武田信顕と名乗って阿波へ行き、三好氏に取り立てられて脇城主になったということです。しかし、信顕はその後長宗我部の侵攻に遭い、讃岐に逃れ果てたといわれています。その供養の墓碑が現在の東かがわ市の東照寺にあるといいます。
 また、長篠の戦いや天目山の戦いの敗戦により、武田信玄の弟の信綱が讃岐を経由して阿波貞光に入り、その後を追って、信玄の孫の信豊、信玄の弟の信基らも讃岐を経由して阿波に入り住んだといわれています。
 このように、甲斐武田氏にゆかりのある者が阿波に入っていったのは、ルーツを同じくする三好氏がいたからだと思われます。ひらたくいえば、血のつながった親戚を頼っていったということです。
 讃岐の十河氏も三好氏を通じて甲斐源氏の血が入っていますから、甲斐武田氏にゆかりのある者が頼って来るということは十分考えられます。このようなわけで、讃岐に残る甲斐武田氏にまつわる物語も全くの出鱈目とはいえないように思われます。

 では、天正3年(1575年)の長篠の戦い以降の讃岐の情勢はどのようだったのでしょうか。
 永禄11年(1568年)織田信長が足利義昭を奉じて入洛した後、畿内の三好勢力は信長に駆逐されていきます。讃岐でも、長篠の戦いの頃、十河一存を継いだ存保(まさやす)は信長に降り、讃岐の諸氏も信長の勢力下に入ります。後に兄である三好長治が討たれると、存保は実質上の三好宗家の当主となり、讃岐と阿波で勢力を及ぼします。
 天正10年(1582年)3月11日に天目山の戦いがあった後、その年の6月2日に本能寺の変が起こり、6月13日に山崎の戦いで秀吉軍が光秀軍を撃破します。この頃讃岐では、土佐の長宗我部元親の軍による侵攻を受け、8月には香西氏がその旗下に下り、また、山田郡の十河城が包囲されます。さらに、阿波でも、十河存保が中富川の戦いと勝瑞城の戦いで長宗我部に敗れ、存保は讃岐の虎丸城に追い詰められます。こうした中、9月に、豊臣秀吉の命を受けた仙石秀久が小豆島より渡海し、存保を救うため長宗我部軍と戦いますが、攻めきれず退きます。
 天正11年(1583年)4月、仙石秀久は再度讃岐に上陸しようと引田で長宗我部軍と戦いますが、これも失敗します。そして、翌年の6月、ついに十河城は長宗我部軍の攻略により落城し、十河存保は秀吉を頼って讃岐から大坂に逃亡します。これにより讃岐は長宗我部の支配下となります。
 しかし、天正13年(1585年)4月、豊臣秀吉は四国を平定するため、弟の秀長を大将に阿波、讃岐、伊予の三方面から大軍を送り込み、讃岐には宇喜多秀家を総大将とする蜂須賀正勝、黒田孝高、仙石秀久らの軍が屋島に上陸します。最初に攻撃の目標となったのが喜岡城(旧高松城)で、全員が討死にしました。
 戦局不利とみた長宗我部は秀吉と和議を結び、長宗我部は元の土佐一国の領主とされ、天正13年(1585年)7月、仙石秀久が豊臣秀吉から讃岐国を与えられて入部します。また、十河存保は四国征伐に協力したことにより旧領を復され、2万石の大名として再び十河城に入ります。
 しかし、翌年の天正14年、豊臣秀吉の九州攻めが始まると、十河存保は、秀吉から九州攻略の軍監とされた仙石秀久の指揮の下に四国勢の一軍として島津軍との戦いに従軍し、このとき、功を焦った仙石秀久の無謀な作戦に巻き込まれて戸次川の戦いにおいて戦死します。
 この敗戦により、仙石秀久は秀吉から讃岐を没収され、その跡には生駒親正が入部してきます。十河存保には千松丸という男子が残され、生駒親正によって養育されていましたが、天正17年(1589年)7月、15歳のとき何者かによって毒殺されます。ここに神櫛王を祖とする十河氏直系の血は絶え事実上その系譜を閉じます。
 讃岐には、甲斐武田氏の残党が逃れてきたという物語が残っていますが、詳しいことはほとんど分かっていません。これは、その庇護者であった十河氏が中世から近世への変革期に滅んでしまったことによるのかもしれません。

 さらに、興味深いことには、武田信玄の軍師であった山本勘助(勘介)は讃岐生まれではないかという説もあります。この説は、勘介研究家の渡辺勝正氏が「歴史街道」2月号で、唱えられているものです。
 山口県には次のような伝承が残されているそうです。山本勘介は讃岐の六カ村(ろっかそん)の庄屋に生まれ、少年時代から猪狩が得意であったが、猪と格闘して独眼になり、足も不自由になった。勘介は長じて山口に来て、大内義隆(よしたか)に仕えた。
 渡辺氏は、毛利文書「閥閲録(ばつえつろく)」を基に、この伝承について次のような推理を展開されています。
 勘介が若い頃、讃岐は山口の大内氏と同盟関係にあった。讃岐に生まれた勘介は山口の大内氏に仕え、安芸武田攻めなど幾多の合戦を経験し、軍師としての勘と能力を身につけた。しかし、その後、家族を山口に残して出奔(しゅつぽん)し、浪人者となった。紆余曲折の後、勘介は51歳のとき、甲斐武田に仕官した。
 勘介は自分の前歴を語らなかったため、その前半生は不明であるが、それは、大内領を脱して他国の主君に仕えていることが分かれば、山口に残してきた家族が国外に追放されてしまう恐れがあったからだ。また、勘介が並みいる武田武将たちの中で頭角を現すことができたのは、大内氏の下で、多くの実戦経験を積んでいたからだ。
 勘介は「三州牢人(浪人)」と言われ、「三河(三州)」出身とされているが、「サン州」とは「讃州」のことではないかと、いうことです。
 讃岐の六カ村がどこなのか、分かりませんが、山本勘助が讃岐生まれであるという説があるのは事実です。

 江戸時代に入ると、人は幕藩体制の下、土地に縛り付けられ、ほとんど移動することは無かったようですが、戦国時代には、かなり遠方の間でも、ダイナミックな人の移動があったのではないでしょうか。

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テーマ : 香川
ジャンル : 地域情報

(118)“綿の産地だったチョウサの町”

 18世紀後半にイギリスで始まった産業革命の発端は、綿布の大量生産にあるといわれています。イギリスは、奴隷をアフリカから西インド、アメリカへ輸出し、そこから原料の綿花をイギリス国内に運び、綿製品に加工してアフリカやアメリカに輸出しました。こうして綿布を大量に生産するための技術の改良がイギリスで進展し、産業革命の発端になったということです。
 日本に棉(植物としてのワタは「棉」と表記されます。)の種が渡来したのは、今から約1200年前の延暦18年(799)、三河に漂着した崑崙(こんろん(インド))人青年によるといわれています。しかし、わが国で綿作が始まったのは、ずっと下って、室町時代の明応3年(1494)の頃ではないかと考えられています。さらに、綿織物が庶民の普段着として用いられるようになったのは江戸時代以降のことで、それまで衣類といえば、上流階級の間では絹が使われ、庶民は麻(あさ)、苧(からむし)、楮(こうぞ)、葛(くず)などの繊維から作られたものを主に使っていたようです。
 江戸時代初期までは、綿作も自家用にとどまっていたようですが、綿は麻などに比べ、柔らかくて温かく、吸湿性が高いうえ、染色が簡単で、衣料として優れていることから江戸時代中期になると需要が増加し、東北・北陸の寒冷地を除いて全国に綿作が広がっていきました。
そして、生産過程が分業化していき、綿繰り屋・綿打ち屋・綛(かせ)屋・染め屋・機屋など専門の生産者が現れ、中には人を雇って生産を行う者も出てきました。一方では生産者と消費者とを結ぶ買い占め商人が発生し、幕末にはかなり大規模に織物生産を行う者も現れました。

 讃岐における綿作の始まりについては、豊臣秀吉の命により文禄の役に出兵した生駒親正が、朝鮮から綿の種子を持ち帰り、それが普及していったという伝承があります。また、観音寺市豊浜町には、鎌倉時代に関谷兵衛国貞という人物が、現在の豊浜関谷地区を開墾して棉の木を植えたという伝承が残っているそうです。
 讃岐は気候温暖で雨が少ないことから綿作に適しており、西讃地域を中心に砂質土壌のところで栽培が行われました。すでに、丸亀藩では、元禄8年(1695)に城下での夜間の綿打ちを禁止するお触れが出されるほど綿の生産が盛んだったようです。綿打ちとは、実綿(みわた)から核を取り除いた繰綿(くりわた)を綿打弓(わたうちゆみ)で打って柔らかくし、不純物を取り除いて生綿(きわた)にする作業のことですが、夜間での騒音公害になるほど綿打ちが盛んに行われていたということです。
 文化4年(1807)頃には、「木綿売り代より外、他国より銀入り候義は御座(ござ)無く」と、綿が丸亀藩第一の特産になっていたようで、讃岐三白の一つに数えられるようになりました。丸亀繁盛記によると、幕末の天保年間(1830~43)頃の様子が、「国々へ積み出す雪綿(ゆきわた)は、大与がかどさきに山をなし、夕陽に照らされれば、ひらの高根を争う景色」と記されており、当時の丸亀城下での綿取引の賑わいぶりをうかがうことができます。「大与」とは、綿の大問屋大坂屋与十郎のことです。また、和田浜(現在の三豊市豊浜町)の港は、近くで栽培された綿の取引のために諸国の船が出入りして活況を呈したといいます。高松藩でも、丸亀藩ほどではありませんでしたが、藩内の西部地域で綿作が行われていました。

 この綿の産地であった豊浜や観音寺などの西讃地域では、今でも、五穀豊穣や豊魚などを祈願し平穏を感謝する秋祭りにおいて、「チョウサ」と呼ばれる太鼓台を繰り出して賑わっています。太鼓を打ち鳴らしながら、御輿(みこし)のお供をしてお旅所まで行き、さらに町内を練り歩きます。
 この太鼓台は中央に大きな太鼓を積み、方形に柱を建てた上には逆四角錐台状に布団を置き、柱の周りの壁に当たるところに金糸銀糸のきらびやかな刺繍をした幕を張り、大きな軸木を2本ないし4本通して太鼓の前後をそれぞれ20~30人の若者たちが担ぐというものです。「チョウサ」の語源は定かでありませんが、「長竿」と書き、元は太鼓台の前を先導する幟(のぼり)をつけた長い竹竿のことをいい、これが太鼓台そのものを指すことになったともいわれています。所によっては「サンマショ」とか「サァシマショ」と呼ばれているそうです。
 「チョウサ」は、香川県では、各地域で祭りに彩りを添えていますが、西へ移るほど大きなものとなり、特に観音寺市豊浜町のちょうさは、高さが5メートルを超え、全国的にも最大規模ではないかといわれています。豊浜町は約1万人の小さな町ですが、新調すると数千万円以上もかかるというものを20台以上も保有しているそうです。布団が敷かれることから「布団チョウサ」とも呼ばれます。

 太鼓台という山車(だし)は、近畿地方から瀬戸内海沿岸にかけての西日本を中心に、港町、漁師町、あるいは大きな川の輸送拠点に多く分布しているといわれており、讃岐でも豊浜周辺の三豊地方のほか小豆島や坂出のものが賑やかだといわれています。それぞれの地方の太鼓台の名称は様々ですが、その源流は、京都の祇園祭、あるいは、安土桃山時代、大阪、堺の豪商が作らせた山車(だし)が、瀬戸内海の海上交通を通じて伝わり、江戸時代後期の文政年間(1818~1830)の頃、現在のように布団を積み重ねた形に変わり、地方によってその形が変形され、伝承されていったのではないかと考えられています。そして、明治中期以降、地域経済が発達するにつれて急速に巨大化していったものと考えられています。
 ちなみに豊浜のちょうさが現在のような豪華絢爛なものになったのも、明治中期以降といわれており、その大きくしかも勇壮壮麗なチョウサは、綿で栄えた豊浜の街の象徴ともいえる存在だったのでしょう。

 しかし、明治時代に入って紡績産業、中でも綿工業が盛んになると、外国から安い原綿が大量に輸入されるようになり次第に日本棉は栽培されなくなっていきました。戦後は、高度経済成長の中、輸入綿が出回って綿作農家は激減し、日本棉の多くの品種が絶滅していきました。
 豊浜でも、江戸時代から昭和の初め頃までは綿作が盛んに行われ、綿打ち職人が腕をふるっていましたが、現在では、綿の栽培は全く行われなくなってしましました。しかし、豊浜には今なお製綿工場が集まり、現在も、布団など綿製品の生産量は四国一であり、国道11号には「わたの街通り」という看板が立っています。

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(117)“草鞋を履いて阿讃の峠を越えた牛”

 「東男に京女」という言葉があるように、四国には「讃岐男に阿波女」という言葉があります。この言葉は、一般的には働き者の讃岐男に美人の阿波女という意味にとられているようですが、嫁をもらうなら働き者の阿波の女性からという説もあります。なお、おもしろいことに、古事記でも阿波の国は女性の大宜都比売(おおげつひめ)の国、讃岐の国は男性の飯依比古(いいよりひこ)の国と記されています。また、古代、讃岐の国の開拓は、讃岐忌部氏が阿波忌部氏の力を借りて行われたといわれています。
 このように、讃岐と阿波は、東西に横たわる標高500~700mの讃岐山脈(阿讃山脈)を越えて、古くから交流がありました。その一つが借耕牛(かりこうし)という独特の風習です。

 平地に恵まれない阿波の山村では、広い水田を作ることができないため稲作が不振で、米が不足がちでした。しかし、草生地が多いことから畑地に飼料が作られ、水田の面積に比べて耕牛が多く飼育されていました。
 一方の讃岐は、平地が広く稲作が盛んでしたが、飼料の問題などから牛が不足していました。そこで夏の田植えの6月と秋の11月の麦蒔きの年2回の耕作時には耕牛が不足しました。このような事情から双方の利害が一致し、農繁期の間、阿波から讃岐に牛を借入れるという風習が生まれました。これが借耕牛(かりこうし)です。讃岐の農家は、この借耕牛を飼って田の代掻きや田畑を耕したり、処では砂糖締めの臼を廻す動力に利用しました。砂糖締めに使われる牛は、砂糖締め牛(しめうし)と呼ばれたそうです。
 このような風習が始まったのは、江戸時代の中期の文化年間(1804~1818)の頃からといわれており、徳島県の美馬郡、三好郡を中心に供給された牛たちは、阿讃の国境の峠を越えて讃岐へと向かいました。東から五名口、清水口、岩部口、塩入口、猪ノ鼻口、野呂内口、曼陀口です。その総数は、昭和5~10年頃の最盛期には夏、秋合わせて年8,000頭以上にも及んだといわれています。中でも、財田、仲南方面へは主に、猪ノ鼻越えや東山からのルートが使われ、猪ノ鼻越えをしたものだけでも約1,600頭にも及んだといわれています。
 まだ夜も明けきらぬうち、飼主に曳かれて阿波を発った牛たちは、暗く細い山道を上り下りし、午前中には讃岐に着いたといいます。牛の足には、険しい山道で蹄が傷まないように草鞋(わらじ)が履かされ、背には替えの草鞋が乗せられていたそうです。
 借耕牛の到着した現在の三豊市財田町戸川やまんのう町仲南の山脇、塩入などには取引所が設けられ、賑わいました。対価は約1月働いて米1石が相場で、牛を貸してかわりに米1石をもらって行くことから米取り牛(こめとりうし)ともいわれたそうです。牛の背に米を乗せて返したといいます。

 このように牛も草鞋を履いて越えた讃岐と阿波の間の様相が一変したのは、四国新道の開通でした。四国の道路革命とも呼べるこの新道のルートは、多度津・丸亀を起点に琴平から猪ノ鼻を越えて阿波池田に入り、高知を経て佐川・須崎に達し、佐川から松山・三津浜に至るという四国を全長約280kmのV字型で貫く壮大なものでした。その道幅も計画では最大12.6m、最小でも6.3mと、現在と比べて遜色のないものでした。
 この新道のプランは、明治17年(1884)に大久保之丞(じんのじょう)が提唱したものです。之丞は嘉永2年(1849)、多度津藩領の三野郡財田上ノ村(現在の三豊市財田町)に生まれ、阿讃にまたがる山道の不便さを熟知しており、地域の経済を発展させるためには道路を建設する必要があるという持論を持っていました。之丞は四国新道の実現のほか、讃岐鉄道の完成、瀬戸大橋、香川用水の構想を提言し、産業の振興、無医村解消、北海道移民、多度津港の改修など郷土発展に力を尽くしています。
 明治19年(1886)4月14日、琴平・阿波池田・高知で四国新道の起工式が同時に行われました。しかし、山間部での工事は難渋を極め、なかでも猪ノ鼻峠は最大の難関で、鍬や鶴嘴を使って50mにも及ぶ断崖を掘削しました。また、道路用地にかかった地元住民などの猛烈な反対や資金不足もあり、工事は度々中断したといいます。このとき、県会議員をしていた之丞は反対住民の説得に奔走し、さらに工事のために私財まで提供して大久保家の財産は土塀と井戸を残すのみになったといわれています。
 明治23年(1890)3月に多度津から琴平を経て猪ノ鼻峠間、38.382kmと、丸亀・金蔵寺間6.08kmの香川県分の工事が竣工し、さらに明治27年(1894)5月に8年の歳月をかけて、全面開通となりました。しかし、之丞自身はそれを見届けることなく明治24年12月14日香川県議会中に倒れ、42歳の若さで亡くなりました。

 この新道により人や物資の流れは大きく変わり、阿波側には塩や米、麦が、讃岐側には葉タバコなどが大量に運ばれました。中継点にあたる猪ノ鼻峠では、馬車曳きも必ず休憩し、飲食店を兼ねた旅館や運送屋が十数軒建ち並び、また、香川県側の登り口にあたる財田の戸川では、宿屋や料理屋から絶えず三味線の音が聞こえてくるほどの賑わいであったといいます。さらに、大正8年(1919)には、琴平~池田間で自動車による旅客運送も始まりました。
 しかし、その後、昭和4年(1929)に鉄道が猪ノ鼻トンネルを貫いて阿波池田まで延伸されると、猪ノ鼻峠の賑わいは徐々に失われ、宿屋や茶店も減っていきました。
 四国新道香川・高知間は、昭和27年(1952)、国道32号に制定され、名実とも讃岐と阿波・土佐を結ぶ幹線となります。そのような中、借耕牛もトラックに乗せて運ばれるようになり、耕耘機の普及に伴い、昭和30年代後半から姿を消していきました。
 四国新道は、昭和34年から41年にかけて大改修工事がなされ、猪ノ鼻隧道(827m)をはじめとしたトンネルが開通し、香川・池田・高知を結ぶ四国内の大輸送路となります。しかし、平成4年(1992)1月30日の四国横断自動車道(川之江JCT~大豊IC開通)開通により、四国新道香川・高知間は約100年にわたる主役の地位を譲りました。

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(116)“石松も犬も代参した金毘羅参詣”

  「江戸っ子だってね」、「神田の生まれよ」、「食いねえ、食いねえ、すし食いねえ」のやりとりは芝居などでよく知られていますが、これは森の石松金毘羅代参での旅をうたった浪曲、「石松代参三十石船」の中でのセリフです。場面は、清水次郎長の代わりに金毘羅参りを無事に済ませた森の石松が、30石船に乗って大阪から京都へ向かう途上での話です。30石船は、淀川を大阪天満橋付近から京都の伏見までを往復していた船です。
 清水次郎長には長兵衛という恩人がいましたが、長兵衛は八尾ケ獄宗七(久六)の密告により捕われ牢死します。そこで次郎長は、日頃信仰する讃岐の金毘羅さんに祈願した後、首尾よく仇討ちを果たし、長兵衛の怨を晴らします。そのお礼参りの代参に森の石松を讃岐に差し向けました。万延元年(1860年)のことだといわれています。このとき、本宮へ向かう途中で旭社を見た石松は、その荘厳さのあまり本宮と勘違いして代参を終えてしまったというエピソードが残っています。金刀比羅宮宝物館には、次郎長が石松に奉納させたといわれる備前国忠良の一刀が今も残っているそうです。
 しかし、石松は、清水への帰路、近江草津の御幸山鎌太郎親分から先年病死した次郎長の妻への香典として預かった25両を狙われ、遠州浜松の都鳥吉兵衛三兄弟に閻魔堂で殺害されてしまいます。

 江戸時代後期になると、金毘羅信仰が庶民の間にも広がり、金毘羅様に参拝しようという人は全国からやって来ました。しかし、中には旅の途中で疲労や病気で倒れ、旅の継続を断念して地元に帰るような人たちも大勢いました。そこで、当人に代わり参拝する仕組みができていきました。一般に行われたやり方は、同じ目的地に行く別の人に旅費と初穂料を渡し、自分の代わりにお参りして欲しいと依頼することでした。これが代参で、代わりに参拝する人を代参人といいました。その頼まれた人が倒れるとまた別の人に託して、次々とリレーされていきました。
 この代参の方法は、森の石松のように人間による代参が普通でしたが、犬の代参、流し樽の代参、流し木の代参というような変わった方法もありました。

 犬の代参は、人の代わりに犬の首に旅費と初穂料をくくりつけて、自分の代理として参拝させるという方法です。犬が主人の代わりに首に往復の費用とお供えのお金などと住所氏名をかけて行くと、人がリレーで運んでくれるというものです。この犬が「代参犬」で、「こんぴら狗(いぬ)」と呼ばれていました。
 流し樽は、瀬戸内を航行する船が金毘羅様にお参りしたいけれども上陸できないときに行われた代参の方法です。船が讃岐の沖を通過するときに、樽に「奉納金比羅大権現」という幟(ノボリ)を立て、船の名前と航海安全を祈る祈祷文、そして初穂料を入れた樽を海に流します。すると、海でそれを発見した船は「福がある」として代わりに金毘羅さんまで必ず届けてくれ、また、岸に流れ着いた樽は地元の人が拾って神社に届けてくれました。
 流し木は、自分の名前を記した材木を流してリレーで金毘羅さんまで届けてもらうという方法です。

 このような”金毘羅代参”は、見知らぬ人に対する信頼がなければとても成り立たない仕組みであり、現在では到底考えられないことです。金毘羅信仰が漁民や航海関係者の間に深く浸透していたということの証左でしょう
 現在、犬の代参と流し木は全く無くなったようですが、流し樽は年数件が金毘羅宮に届けられるようです。

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(115)“文人、剣士、勤王家もいた丸亀の女性“

 丸亀京極家は、宇多源氏の後裔で、伝統的に和歌をよくし、歌人も輩出した家系です。このようなことからか、丸亀藩では文芸が盛んで、女流の文人も出ています。その代表が京極伊知子井上通女(つうじょ)です。また、女性ながら父の仇討ちをし、当時全国に名をはせた尼崎里也(りや)という剣士もいます。さらに、幕末には女性勤王家の村岡箏子(ことこ)が活躍し、中央で活躍していた若江薫子(におこ)が後年丸亀に来ています。
 
 京極伊知子は江戸初期の人で、「涙草」の著者として知られています。
 伊知子は、丸亀初代藩主・京極高和の従兄弟(いとこ)にあたる女性で、万治元年(1658)京極家が播州竜野から丸亀へ転封になったとき一緒に来ました。その2年後の万治3年に伊知子は亡くなっていますので、実際に活躍したのは丸亀に来る前の時代です。
 高和の前の京極家当主は忠高といい、伊知子はその娘です。忠高の時代、京極家は出雲松江藩26万4千石を領有していましたが、忠高が嗣子の無いまま急死したため領地没収の憂き目に遭います。しかし、幕府の特別のはからいで、忠高の甥である高和が京極家を相続し、播州竜野に6万石を与えられました。
 ところが、高和にも嗣子が無かったため、お家断絶をおそれた京極家では、伊知子の一子である高房を高和の養嗣子と決めました。伊知子は家老多賀常良に嫁しており、高房はその間に生まれた子です。
 このため、伊知子は高房が5歳のとき、別れなければなりませんでした。伊知子が江戸に向かう高房との別れの様子を綴った手記が「涙草」です。この手記には、子のこの上ない出世を喜ぶ気持ちと、離別の情という相反する気持ちが込められているといわれています。
 それ人の親の子を悲しむ道は、思ふにも余り、言ふにも言葉足らざるべし。山野のけだもの、江河のうろくづ、空にかけるつばさ、土に生るるたぐひまで、凡べて生きとし生けるもの、形はことなりといへども心ざしは変るべからず。況んや人として、上がかみ下がしもまで、子を思ふ心の闇はひとしかるべし。

 井上通女は文武をかねそなえた江戸時代の女流作家として知られています。
 通女は、京極伊知子が亡くなった年の万治3年(1660)、丸亀藩士・井上儀左衛門本固(ぎざえもんもとかた)の娘として丸亀に生まれました。通女は、幼いときから聡明で、和漢の学に秀でたばかりでなく、清流薙刀(せいはなぎなた)の免許皆伝を受けるなど文武両道に達し、藩内でも評判の才女でした。
 22歳のとき、高和の未亡人で二代藩主・京極高豊の母である養性院に召されて江戸に向かいます。その丸亀から江戸までの見聞を「東海紀行」としてしたためています。
 天のやはらぐ始のとし、霜をふみて、かたき氷にいたる比ほひなれば、年ふる丸亀を舟よそひして、あずまのかたにおもむく。難波へとこぎ出づ。
 江戸に約9年間滞在し、養性院の侍講として仕えますが、その間に、室鳩巣、貝原益軒、新井白石など著名な学者たちと交遊し、その才名は江戸市中になりひびきました。鳩巣は「才女にて男子に候はば英雄とも相成るべきに惜しき事に候」と言い、益軒は「有智子内親王以来の人」と評しました。
 通女は養性院の死後丸亀に帰ります。このときの旅行記を「帰家日記」といい、「東海紀行」や在府中の「江戸日記」とともに通女の「三日記」と呼ばれ江戸文学の秀作とされています。
 帰郷後、三田宗寿に嫁して3男2女をもうけ、当時藩中から良妻賢母の鏡と称えられ、元文3年(1738)、79歳で死去しました。

 尼崎里也は、自ら剣で父の仇を討ったヒロインとして知られています。
 延宝年間の中頃、二代藩主・京極高豊のとき、丸亀城下の風袋町に、尼崎幸右衛門という弓組の足軽が、妻のあや、それに2歳になる娘の里也と一緒に住んでいました。ところが、同僚の岩淵伝内があやに横恋慕し、幸右衛門が不在のときに、あやに言い寄ろうと家に忍び込んできました。あやと伝内がもみ合っているときに幸右衛門が帰宅し、喧嘩となって幸右衛門は伝内に斬り殺されてしまいます。
 その後、あやは病死し、里也は叔母夫婦に育てられます。18歳のときに父の恨みをはらそうと決意し、江戸に出ます。江戸で、当時剣客として名高い旗本永井左源次の家に奉公しながら剣術修行に励み、剣の腕を上達させます。そして、江戸市中の武家屋敷を転々としながら仇の伝内を探索します。
 それから10年以上経ち、里也はようやく伝内を見つけ出します。丸亀藩の立会いのもと、伝内と果し合いをし、みごとに伝内を討ち取ります。その仇討ちの場所は、現在の東京都港区芝白金台あたりとみられています。宝永2年(1705)のことです。
 この仇討ちは、江戸市中はもとより全国で評判になったといわれています。その後、里也は丸亀藩に召し出され、永井の局と名を改め、文武両道はもとより女性の鏡として尊敬されました。宝暦5年(1775)、79歳で死去しました。

 村岡箏子(ことこ)は、幕末に活躍した女性勤王家として知られています。
 箏子は文化12年(1815)、高松藩内の香川郡円座村(現在の高松市円座町)の小橋家に生まれました。小橋家は勤王家として知られ、箏子の兄弟には小橋安蔵、木内順二、小橋橘陰がいます。箏子は17歳のときに丸亀藩の村岡藤兵衛のもとに嫁ぎます。村岡家は丸亀御城下の魚屋町に住む名字帯刀を許された商家だったようで、藩の銀札出納管理の仕事をしており、後には醤油製造業を営んでいます。
 箏子とその息子の宗四郎は、勤王の志士を自宅に潜伏させ保護するなど、大いに勤王に尽くします。司馬遼太郎の「世に棲む日日」には村岡宗四郎も登場しており、丸亀に逃げてきた高杉晋作を、長州人と知らぬまま、3日間泊めたといいます。明治3年(1870)7月、56歳で亡くなりました。

 若江薫子(わかえにおこ)も女性勤王家として知られています。
 薫子は、京都の伏見宮家に仕えた若江量長(かずなが)の娘として生まれます。学問を好み、幕末期には、高畠式部、太田垣蓮月とともに京都の三大女流歌人として称された人です。
 33歳のとき、明治天皇の皇后選びの際に意見を求められ、左大臣一条忠香の姫君のうち妹君を推挙したことで知られています。しかし、明治3年(1870)には、東京遷都など新政府の政策を批判していたため危険視され、2年間幽囚の身となります。岩倉具視には「手のつけられぬ女」といわれたそうです。幽囚を解かれた後、丸亀に渡り、かねて知り合いの岡田東州の私塾に落ち着き、漢学などを教えていましたが、明治14年(1881)10月11日、47歳の生涯を終えました。著書に「和解女四書」があります。
  大君のめぐみに報ふ道しあらばをしみはせじな露の玉の緒

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(114)“源義経を偲び讃岐で亡くなった静御前”

 寿永4年(1185) 、下関「壇ノ浦」の戦いで源義経は平家を滅ぼします。しかし、その後、今度は義経が兄の源頼朝に追われる身となります。
 義経は愛妾の静御前を連れて吉野山に逃れようとしますが、女人禁制の山のため同行することができず、静と別れざるを得ませんでした。このとき、義経は静に形見として、"初音"という名器の鼓を与えています。この鼓は、重源僧上が唐から持ち帰って天皇に献上され、その後、後白河法皇より平清盛に下賜されて平家の家宝となっていましたが、屋島合戦のとき檀の浦の波間に漂っているところを伊勢の三郎が見つけて義経に献上したというものです。
 義経一行と別れた静は京都へ戻る途中で捕らえられ、鎌倉へ護送されて義経の行く先を厳しく問い質されますが、頑として応じませんでした。静が鶴岡八幡宮において奉納舞を懇請され、頼朝を初め多くの武将が居並ぶ中で、義経を恋い慕う歌を唄いながら舞ったというエピソードはよく知られているところです。
  吉野山峰の白雪ふみわけて  入りにし人の跡ぞ恋しき
  しづやしづ賎のおだまきくり返し  昔を今になすよしもがな
 このとき静は懐妊6が月の身で、その後義経の男児を産みますが、その日の内に命を断たれます。
 讃岐には、屋島合戦があったことから義経についての多くの物語が残されていますが、静御前とその母の悲しい後日物語も残されています。

 静御前の母は磯禅師(いそのぜんじ)といい、その生まれは現在の東かがわ市大内町丹生(にぶ)小磯で、この地の豪農、長町庄左衛門の娘イソだといわれています。当時、この辺りは貴族の荘園であったことが縁で、12歳のときに京都に上がって舞の道に入り、藤原道憲(ふじわらのみちのり)に従って舞楽の一種を極め、禅師の称号を授けられました。
 その舞いは、蝙蝠(かわほり)と呼ばれる扇子の一種を持ち、立烏帽子(たてえぼし)、白い水干(すいかん:当時の下級役人の普段着)に長袴で、太刀を腰に差した男装で舞うもので、白拍子(しらびょうし)の始まりといわれています。
 この磯禅師の娘が静で、母に似て美しく、幼少より舞を修めました。13歳で宮中節会(せちえ)に奉仕することを許され、後白河法皇から神泉苑での雨乞いの舞を日本一と賞賛されました。
 義経は、一の谷の合戦に勝利して京都へ凱旋した頃、後白河法皇から静を与えられます。このとき彼女は16歳でした。それからほぼ1年後、義経は少数の軍勢にもかかわらず、電撃作戦により屋島の戦いで平氏を打ち破ります。義経が未知の地で勝利を得ることができたのは、屋島へ向かう途中の丹生が静御前の母、磯禅師の出身地であったことから、この地が義経の情報蒐集基地になっていたのではないかと言う人もいます。

 静は、文治2年(1186)9月中旬、鎌倉から京都へ帰ることを許され、傷心のうちに母と共に法勝寺の一室に一時身を寄せますが、その後、翌年の春から夏にかけての頃、母と共に母の故郷讃岐の国へと向かいます。
 讃岐へ帰ってからの静は母の生家、長町家の屋敷でしばらく静養していたようですが、すでに母の両親は他界しており、母と共に寺社遍歴の旅に出ます。お遍路の旅に出た親子は、志度寺八栗寺屋島寺六万寺など屋島合戦ゆかりの寺々などで、義経の戦いの跡を偲ぶとともに、そこで亡くなった将兵たちの菩提を弔ったといいます。
 そして、文治4年(1189)3月20日、長尾寺(四国霊場第八十七番札所)にお参りしたとき、9代住職の宥意和尚から「いろはうた」などによって世の無常を諭さされ、母とともに得度を受け、髪を下ろして尼となります。母は磯禅尼、静は宥心尼と名乗ります。この後、義経からもらった形見の鼓を煩悩の種と思い切って川へ捨てたといいます。
 それからの静は母の縁者がいたといわれる現在の三木町井戸中代(なかだい)に行き、鍛冶池(かじいけ)という池の畔にささやかな草庵を結びます。その後、静と母は、京都から追ってきた静の侍女であった琴路(ことじ)と共にひたすら念仏三昧の月日を送ります。
 建久元年(1190)11月、母の磯禅尼は長尾寺からの帰りに、井戸川のほとりで倒れ、69歳で亡くなり、1年余りの後、静も母の後を追い24歳でこの世を去ります。静が亡くなってから7日目の夜、琴路もまた後を追うように鍛冶池に入水して相果てたといいます。


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(113)“自民党を創った高松生まれの政党政治家”

 昭和58年(1983)、「小説吉田学校」という映画が公開されました。これは戦後の被占領下から吉田内閣辞任までの日本政治の世界を描いた戸川猪佐武(とがわいさむ)の同名小説を映画化したもので、森繁久彌が扮する吉田茂と芦田伸介が扮する鳩山一郎の抗争が描かれています。この中で、鳩山の盟友で、吉田を総理大臣の座から引きずり下ろそうとする着流し姿の老人が登場しています。若山富三郎が扮するこの人は、三木武吉(みきぶきち)という高松生まれの政治家で、昭和30年(1955)、自由民主党の結党による保守合同を成し遂げた最大の功労者といわれています。
 武吉は大臣などの公職には就かず、「ヤジ将軍」とか「策士」、「寝業師」、「影の実力者」、「政界の大ダヌキ」などと呼ばれていたことから闇の政治家のようなイメージをもたれているようです。また、旧制高松中学時代のうどん食い逃げ事件にはじまり、数々のエピソードが語られています。選挙中の立会演説会において、対立候補から愛人を3人も囲っていると批判されたところ、次に演壇に立ち、「先ほどの候補は3人と申しましたが、正しくは5人であります。それも今は年を取り役にたちませぬがこれを捨てるに忍びず、今まで誰一人捨てた事がありませぬ」と反論し、その率直さが逆に選挙民の好感を呼んだとか、また、「女3人も喧嘩させずに御せないで一国の総理になれるか!」と言ったとか、松子・竹子・梅子という松竹梅といわれた3人の愛人を囲っていたとか、愛人に神楽坂で待合茶屋を持たせていたとか、枚挙にいとまがありません。
 しかし、武吉は、戦後の活躍だけでなく、戦前、藩閥政治に対抗して政党政治の確立に努めて大正デモクラシーの時代に活躍した生粋の政党政治家でもあります。議会選挙で多数派を占めた政党が政権の座につくという原理を政党政治といい、この原理は今では当然のことと考えられています。しかし、明治維新以降、わが国では、薩長土肥(さつちょうどひ、薩摩・長州・土佐・肥前の4藩)、特に薩長両藩の出身者が中心となった藩閥勢力が、官僚組織や軍部など国家機関の要職を掌握し、長きにわたって政治の実権を握っていました。これが終焉し、憲政の常道として政党内閣の慣行が生まれたのは、大正13年(1924)に誕生した護憲三派内閣以降のことです。武吉はその実現に大いに寄与しています。また、武吉は、戦時中、軍部に対抗して翼賛選挙を非推薦で当選し続けた数少ない自由派党人の一人でもあります。
 その波乱万丈に富んだ人生は、日本の政党政治の歴史そのものといえるでしょう。

 三木武吉は、明治17年(1884) 8月15日、父三木古門、母あさの長男として高松旧城下の外磨屋町(現在の番町3-31)に生まれました。この当時、現在の香川県は愛媛県に統合されており、愛媛県から独立するのは明治21年12月のことです。
 三木家は松平藩の藩儒の家柄でしたが、維新後に家禄を失い、武吉が生まれた頃には生活もかなり困窮していたようです。父の古門は書画の鑑定にかけては高松随一との定評があり骨董屋を営んでいたといわれていますが、実際は売り喰いの生活だったようで、一家の生計を支えていたのは母あさでした。武吉が生まれた4年後の明治21年には、同じ旧高松城下の七番丁(現高松市天神)で菊池寛が生まれています。

 武吉が生まれるより前の明治前期には、板垣退助らによる民撰議院設立建白書の提出(明治7年(1874))に始まり、藩閥政治に反対して国民の政治への参加を要求する自由民権運動が全国的に広がっていきました。政府内部でも早期国会開設論の大隈重信と漸進的開設論の伊東博文らが対立します。結局、政府は、明治14年(1881)、大隈重信を追放するとともに天皇の名で10年後の明治23年(1890)を期して国会を開設することを約する勅諭を発します。これが明治14年の政変です。
 国会開設が約束されると、板垣退助の自由党、大隈重信の立憲改進党などの政党が結成され、自由民権運動の組織的な展開が進みます。しかし、政府の弾圧と懐柔策により民権運動は分裂するとともに過激化し、福島事件・秩父事件などが鎮圧されるなかで、自由党は解散、立憲改進党は大隈重信が脱党するなど、しだいに衰退していきます。

 明治22年(1889)2月11日、武吉が4歳のとき、大日本帝国憲法が発布され、翌年には、最初の衆議院議員の総選挙が行われて帝国議会が開かれます。総選挙の結果、立憲自由党(自由党の後身)や立憲改進党などかつて自由民権運動を進めてきた人たちが議員の多数を占め、藩閥政治のやり方を激しく攻撃しました。この勢力は「民党」と呼ばれました。これに対して、政府は、政党の動向に制約されることなく、超然として独自に政策実現を図るとの方針を打ち出し、政党勢力の伸長を抑制して政党内閣も認めない超然主義政治を推し進めます。しかし、それにもかかわらず政党は衆議院で次第に勢力を伸ばしていき、藩閥政府も政党勢力との妥協・提携の道を探るようになっていきます。
 武吉は、5歳のとき、漢学塾の葆真学舎(ほうしんがくしゃ)に通い四書五経を学んでいます。なお、この頃、高松藩は幕末に朝敵になったことから藩閥政府からにらまれ、旧高松藩の子弟は陸軍士官学校などを受験してもなかなか受からず、籍を大坂に移して受験した者もいたといいます。

 明治27年(1894)、武吉が9歳のとき、日清戦争が始まり、翌年には日本勝利のもとに下関条約が調印されます。尋常小学校から高等小学校を経て、武吉は、明治32年(1899)、15歳のとき、高松中学(現、香川県立高松高等学校)に入学します。しかし2年生の7月の時、「うどん食い逃げ事件」の首謀者として退学処分を受けます。この事件は、同級生数人がいたずら半分に夜鳴きうどんの食い逃げをやったときに、たまたまその場に居合わせた武吉が巻き込まれてその首謀者にされてしまったもので、冤罪だったといわれています。しかし、武吉はいっさい言い訳をしなかったそうです。その後、武吉は京都の同志社中学(現、同志社高等学校)の2年に編入しますが、胃腸衰弱でやむなく休学して療養のために高松に帰郷します。京都の水は武吉に合わなかったのでしょう。

 病が癒えたあと、明治34年(1901)6月、武吉は17歳のとき、父の友人であった川口万之助弁護士の紹介で横田千代之助のつてを頼り、当時東京市会議長をしていた星亨(ほしとおる)の書生になることとなり上京します。
 星亨は、貧窮の中で英学を学び、各地で英語教師をつとめる一方、維新後、横浜税関長を経て英国に留学し、日本人初の英国法廷弁護士資格を取得した人物です。帰国後司法省附属代言人となりますが、自由党に入党して自由民権運動に加わり、明治20年(1887)には保安条例で横浜へ退去させられ、翌年投獄もされています。その後、明治25年(1892)、衆議院議員に当選し議長にまでなり、伊藤博文と結んで立憲政友会に勢力を張って第4次伊藤内閣では逓信大臣に就任しています。
 しかし、武吉が一時落ち着き先の神田猿楽町の下宿屋から星家に移る日の前日、星亨は東京市会の議事堂で刺殺されてしまいます。このため、武吉は神保町の駄菓子屋の2階3畳間を月1円で借り、印刷屋の手伝いなどをしながら神田の大成中学に通います。武吉は星亨の世話になろうとしていたことから、この頃、すでに弁護士を経て政党政治家への道を志していたのかもしれません。
 そして、父の友人である中野武営(たけなが)の紹介で、当時、早稲田の校長をしていた高田早苗に身の振り方を相談し、その年の明治34年(1901)9月、18歳のとき、早稲田大学の前身である東京専門学校に入学を許されます。
 中野武営は、高松生まれの旧高松藩士で、版籍奉還後、県庁の役人を経て中央政府の官僚となり、明治14年(1881)大隈重信らの立憲改進党の創立にも参加し、明治23年(1890)の国会開設以来、高松を地盤に衆議院議員に連続当選していました。この時には、衆議院議員のほか、東京商業会議所副会頭、東京株式取引所理事長も務めていました。武営は、その後、明治38年(1905)から12年間、渋沢栄一の後を継いで東京商工会議所会頭を務めるとともに、大正3年(1914)から東京市会議員、議長を務め、大正7年(1918)、70歳で亡くなっています。
 東京専門学校での武吉の同学年には大山郁夫や永井柳太郎がおり、武吉は法律の勉強や野球に懸命に取り組んだといいます。また、後に夫人となる天野かね子とのなれそめもこの頃だといわれています。

 明治37年(1904)2月、日露戦争が始まり、武吉はその年の9月、満21歳のとき早稲田大学専門部法律科を卒業し、一時、早稲田大学の図書館創設の仕事に就きます。そして、その翌年1月、当時早稲田で教えていた鈴木喜三郎の世話で日本銀行に入り、門司支店配属となります。鈴木喜三郎はその後、政友会総裁となった人物です。
 その年の明治38年(1905)9月、アメリカの斡旋でポーツマス条約が締結され、日露戦争が終結します。しかし、この戦争でわが国は多くの犠牲を払ったにもかかわらずロシアからの賠償額が少なかったことから、日露講和に反対する日比谷焼き討ち事件が発生し、全国各地でも屈辱講和反対の大会が開かれます。このとき門司でも講和反対の大開が開かれましたが、武吉は生来からの性分でしょうか、そこに飛び入り参加して反政府の大演説をぶってしまいます。このため日本銀行を免職されます。
 その後、武吉は東京に戻り、高等文官試験司法科試験を受けることを決意して猛勉強の日々を送ります。そのかいあって、明治39年(1906)7月、満22歳のとき試験に合格して東京地方裁判所の司法官試補となります。しかし、武吉はもともと裁判官という宮仕えの官僚をやる気はなかったのでしょう、7ヶ月で辞め、弁護士に転じます。この頃、武吉は政治の道に入ることを明確な目標としていたものと思われます。

 明治45年(1912)、28歳のとき、武吉は、政治家を目指し、初めて衆議院議員選挙に東京から立候補します。しかし、このときは次点で落選します。この年の大正元年(1912)12月には、藩閥の桂太郎が陸軍・官僚勢力を後ろ盾に第3次内閣を組織しますが、立憲政友会の尾崎行雄や立憲国民党の犬養毅らの政党人や新聞記者、商工業者などが中心となって、「閥族打破・憲政擁護」をスローガンに掲げ、桂内閣打倒を目指す運動を起こします。後に第一次護憲運動といわれるものです。翌年の2月10日には、数万人の民衆が議会を取り囲み、さらに警察署や交番、御用新聞の国民新聞社などを襲撃したため、桂内閣はわずか2ヶ月足らずで倒れます。いわゆる大正政変です。
 武吉は、大正2年(1913)、今度は牛込区議会議員に立候補して当選します。翌年の大正3年(1914)7月には、オーストリア・ハンガリー帝国がセルビアに宣戦布告し、第一次世界大戦が勃発しています。続いて、大正5年(1916)、武吉は憲政会に入党し、翌年、満32歳のとき衆議院議員に初当選し、国政の場に躍り出ます。以降、昭和6年(1931)まで連続6回当選を果たしています。

 第一次世界大戦も末期になると、わが国では物価が上昇し始め、地主の売り惜しみと大商人の買占めにより特に米価が戦前の4倍まで急騰して庶民の生活を圧迫します。こうした情勢の下、大正7年(1918)7月、富山の漁村の主婦たちによる米屋襲撃事件に端を発し、全国各地で米騒動が起きます。これに対して、時の藩閥内閣である寺内内閣は、前年にロシア革命が起こっていたこともあり、米騒動に対して厳しい弾圧を加えます。しかし、この処置は世論の激しい非難を受け、寺内内閣は9月に退陣し、衆議院第一党を占めていた立憲政友会の総裁である原敬に組閣の大命が下ります。こうして原敬を首班とする日本最初の本格的な政党内閣が誕生します。この年の11月には第一次世界大戦が終結します。
 このとき、武吉は野党側にあり、蔵相の高橋是清が「陸軍は10年、海軍は8年」と海軍予算案を説明していると、「ダルマは9年」とヤジったといいます。高橋是清のあだ名がダルマだったからです。武吉は舌鋒鋭く政府を批判して「ヤジ将軍」といわれ、次第に頭角を現していきます。
 原敬は平民宰相といわれ、組閣当初は国民的人気がありましたが、財政負担を国民に求めて批判が高まり、汚職事件も発覚していったため、大正10年(1921)に暗殺されます。
 この頃の武吉は、大正11年(1922)年6月、東京市議会議員にも立候補して当選しています。当時は衆議院議員と東京市議会議員を兼ねることが可能でした。こうした中、大正12年(1923)9月1日、関東大震災が起きます。

 原内閣の後、同じ政友会の高橋是清が組閣しますが、政友会内部の不一致ですぐに倒れ、その後、軍人の加藤友三郎や山本権兵衛と、政党に関係のない内閣が続き、大正13年(1924)年1月には貴族院・官僚勢力の後押しを受けた清浦奎吾に組閣の大命が下ります。
 これに対して、憲政会、政友会、革新倶楽部のいわゆる護憲三派は、この内閣を立憲政治に背を向けた特権階級による超然内閣として攻撃します。これは後に第二次憲政擁護運動といわれています。このとき、武吉は、衆議院当選2回、39歳の若さで憲政会幹事長に抜擢され、大正13年5月の総選挙を陣頭指揮します。
 この選挙では護憲三派が圧勝し、憲政会が第一党となります。その結果、6月7日に清浦内閣は総辞職し、憲政会総裁の加藤高明を首班とし、政友会総裁の高橋是清、革新倶楽部党首の犬養毅も入閣した護憲三派内閣が成立します。武吉は、大蔵大臣として入閣した浜口雄幸の下で大蔵参与官に任命されます。戦前における武吉の絶頂期でした。
 以後、昭和7年(1932)の五・一五事件で犬養内閣が倒れるまでの足掛け8年間、衆議院に勢力を占める政党の党首が内閣を組織するという政党政治が「憲政の常道」とされ、政党内閣の時代が続きます。
 護憲三派内閣は、大正14年(1925)に、長年にわたる国民の要求に応え、25歳以上のすべての男子に選挙権を与えるという普通選挙法を制定します。しかし、一方では治安維持法を制定して社会秩序維持の強化を図ります。

 昭和2年(1927)、武吉は、浜口雄幸を代表とする立憲民政党に参加します。また、東京市会では、東京市政浄化を主張して市政革新同盟を結成して政友会系の新交会と対決します。後に同志となる鳩山一郎は新交会で、東京市政をめぐるこの時点では武吉の政敵でした。なお、この年の3月には、金融恐慌が起きています。そして、武吉は東京市会で重きをなしていき大御所的存在となります。
 ところが、この頃、武吉には大きな落とし穴が待っていました。昭和5年(1930)、46歳のときに、東京市会の京成電車疑獄事件に連座したのです。そして、7年にわたる裁判の結果有罪が確定し、これにより武吉は失脚して政界を引退します。

 この当時は、昭和4年(1929)10月24日木曜日のニューヨーク株式市場での株価の大暴落に端を発した世界恐慌が拡大しているという暗い世情でした。国内では、昭和5年(1930)1月に浜口雄幸内閣の大蔵大臣である井上準之助が行った金解禁が、「嵐の中で雨戸を開けっ放しにする」という結果になり、日本経済は深刻な打撃を受けて恐慌状態に陥っていました。一方、昭和6年(1931)9月には、軍部の独走により満州事変が起きています。
 続いて、昭和7年(1932)には、海軍将校らが五・一五事件を起こし、犬養毅首相が暗殺されます。これにより大正13年(1924)から始まった政党政治の時代はついに終焉を迎えます。さらに昭和11年(1936)には、青年将校が3日間にわたり帝都中枢を武力制圧するという二・二六事件が勃発します。
 この二つの事件によって、軍部が政治上の有力な勢力となり、わが国はファシズムと戦争への道を突き進んでいきます。昭和13年(1938)4月には、国家総動員法が公布され、さらに昭和15年(1940)には、ナチス・ドイツをまねて一国一党の強力な全体主義的国民組織をつくりあげるという新体制運動が提唱されます。そして、社会大衆党が真っ先に解党してこの運動に加わり、立憲政友会各派、立憲民政党などの既成政党や諸団体がつぎつぎと解散し、近衛文麿を総裁とする大政翼賛会が発足します。こうして政党の存在によって成り立つ自由主義的議会制度はまったく形骸化、無力化します。
 昭和16年(1941)12月8日、真珠湾攻撃により大東亜戦争が始まります。日本軍が緒戦で勝利を収め、国内は熱狂的興奮の中に包まれ、政府・軍部に対する国民の支持が一時的に高まったことにより、東条英機内閣は、この機会をとらえて、昭和17年(1942)4月、衆議院議員選挙を実施しようとします。この選挙は、形式的には自由立候補制でしたが、実際のところは政府の支援を受けた団体が定員一杯の候補者を推薦するといういわゆる翼賛選挙でした。
 武吉は、政界を引退した後、実業界に身を置き、朝鮮鶴翼金山の経営や、昭和14年には報知新聞社の社長を務めたりしていましたが、この総選挙に打って出ます。選挙区を以前の東京から郷里の高松に移し、非推薦候補として出馬したのです。58歳のときです。若い頃から藩閥政治に対抗して政党政治の実現に力を注いできた武吉からすれば、軍人政権が主導する翼賛選挙など認めるわけにはいかなかったのでしょう。このときの非推薦候補者の中には、武吉のほか、尾崎行雄、鳩山一郎、芦田均、片山哲、中野正剛ら経験豊かなかつての政党政治家も名を連ねていました。
 選挙の結果、当選者466名のうち80%以上の381名が推薦を受けた翼賛候補者でしたが、武吉と彼らは見事に当選を果たします。こうして政界に復帰した武吉は、翌昭和18年(1943)、鳩山一郎、中野正剛らと組んで反東条運動を展開します。しかし、敗退して東条に狙われる存在となり、郷里の高松に引き籠もります。このとき、武吉は、従来政敵であった鳩山一郎と強く政治的に結ばれ、他の非翼賛議員らと敗戦後のわが国の政治の再建を約して東京を去ったといわれています。

 敗戦後、非翼賛議員らが中心となって政党の再建が始められます。昭和20年(1945)10月、武吉は東京に戻り、11月、鳩山一郎と呼応して自由党結成に参画し、総裁に鳩山一郎、筆頭総務に武吉が選ばれ就任します。そして、鳩山首相・三木衆議院議長の体制による日本政治の再建が約されます。昭和21年(1946)年4月、戦後初めての新選挙法による第22回衆議院議員総選挙が実施され、鳩山も武吉も当選を果たして自由党が第一党となり、鳩山首相・三木衆議院議長が現実化の一歩前となります。武吉62歳のときです。
 ところが、組閣準備が進められているとき、鳩山はGHQによって公職追放されてしまいます。このため鳩山は英米強調派の外務官僚である吉田茂に総理・総裁の地位を一時任せ、危機を乗り越えようとします。鳩山と吉田との間には、鳩山が追放解除になったらいつでもその地位を譲るという約束が交わされていたといいます。こうして鳩山に代わって吉田が自由党総裁となり、第一次吉田内閣が発足します。
 武吉は衆議院議長に就任することとなっていましたが、吉田内閣成立の2日後の昭和21年(1946)5月24日に、戦前、新聞経営に携わったことにより、公職追放を受けます。武吉は淡々として郷里の香川に戻り、小豆島で悠々自適の隠棲生活を送ります。小豆島では濤洋荘という旅館に住んで読書三昧の生活を送り、地元の青年に「老子」など中国古典を教えたりしていたといいます。

 昭和25年(1950)6月25日、朝鮮戦争が勃発し、この年の7月、武吉は約4年間の郷里での隠遁生活に終止符をうち、再び上京します。66歳のときです。そして翌年6月、武吉は鳩山一郎とともに公職追放を解除され、自由党に復帰します。この年の9月、わが国は、吉田内閣のもと、サンフランシスコ講和会議で平和条約に調印するとともに、米国との間で日米安全保障条約を締結しています。そして、翌年の昭和27年(1952)4月28日、7年間に及んだ連合国による日本占領が終了します。
 武吉は、昭和27年(1952)の総選挙で当選して政界への復活を果たし、自由党総務会長に就任します。しかし、自由党は、終戦直後の結成当時は戦前からの政党政治家が中心でしたが、鳩山や武吉が公職追放を受けている間に、吉田が池田勇人・佐藤栄作といった戦前からの若手官僚を大量に抜擢したことにより、親吉田派の議員が多数を占めて主流派を形成していました。彼らが俗に言う「吉田学校」の生徒です。また、鳩山が復帰したら総裁を譲るという約束も事実上反故にされていました。このため、自由党内は官僚出身者からなる吉田支持派と、戦前からの政党政治家からなる鳩山支持派が対立します。そして、武吉はかねてからの念願であった鳩山内閣の実現に向け、あらん限りの智謀を傾けて、反吉田の先頭に立って激しい権力抗争を繰り広げます。武吉は、戦前には藩閥の官僚・軍人政治家たちと戦ってきた根っからの党人政治家であり、吉田ら官僚から政治家に転身した者とは肌が合わなかったものと思われます。
 昭和29年(1954)年11月、武吉は、鳩山一郎、河野一郎、岸信介らとともに、吉田に不満を持つ自由党内の同志や野党の改進党などの他の保守系政党と大同団結を図り、日本民主党を結成します。そして、総裁に鳩山一郎、幹事長に岸信介、総務会長に武吉が就任し、12月には吉田内閣がついに総辞職します。ここに武吉が悲願としてきた鳩山内閣(第1次)が成立します。しかし、武吉の仕事はここで終わりませんでした。
 昭和30年(1955)2月に行われた総選挙の結果は、民主党185議席、自由党112議席、左派社会党89議席、右派社会党67議席などで、左派社会党が躍進し、保守政党や経済界では社会主義勢力の台頭を危惧する念が強くなっていきます。こうした情勢の下、この年の4月13日、武吉は保守政党の結集を呼びかけ、そのために鳩山内閣が障害となるなら内閣総辞職も辞さないと発表します。武吉は以前から、社会主義勢力の台頭に対抗するためには保守合同を実現する必要があると考えていました。このとき、武吉は癌を患っており、医者から余命わずかと宣告されていたようです。しかし、病身の身を押し、保守合同に向けて、党内外の合意の取り付けのため政治の裏舞台で東奔西走します。
 昭和30年(1955)10月13日、右派と左派に分裂していた社会党が統一し、続いて、11月15日、困難と思われた保守合同が実現し、自由民主党が結成されます。いわゆる55年体制の始まりです。
 しかし、合同を果たしたものの保守勢力間の溝は深く、総裁人事がまとまらなかったため、自由・民主両党の総裁と総務会長であった鳩山、緒方、三木、大野伴睦の4人による総裁代行委員体制として始まり、鳩山が総裁に就任したのは5ヵ月後の昭和31年(1956)4月でした。
 保守合同を成し遂げた後、武吉は自民党について「10年持てば」と言っていたそうです。そして、その翌年の昭和31年(1956)7月4日、自分の役目が終わったことを自覚していたかのように静かに息を引き取りました。享年72歳でした。


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(112)“走水の海で日本武尊の身代わりになった讃岐媛”

 4世紀前半頃、第12代景行(けいこう)天皇の御代、日本武尊は、九州で熊襲の反乱を鎮圧して大和へ帰ると、まだ疲れも癒えないうちに、今度は東国の乱を鎮めるよう父の天皇から命令を受けて出発します。この東征には妃の弟橘媛(おとたちばなひめ)が同行していました。
弟橘媛は、今の善通寺市にある大麻神社の神主・穂積氏忍山宿弥(ほづみのうじおしやまのすくね)の娘として讃岐に生まれたといわれています。

 日本武尊は、まず伊勢神宮に参拝し、そこで天叢雲(あめのむらくも)の剣を授けられます。その剣は、神話の中で、スサノオの命(みこと)が八岐の大蛇(やまたのおろち)を退治したときに、その尾から現れたと伝えられるものです。
 相模国(今の神奈川県)に至ったとき、武尊は相模の国造に騙され、野原の中に入ったところを火をつけられ、あやうく焼き殺されそうになります。そこで剣を出して草を薙ぎ払い、逆に火をつけて、敵を破りました。ここからこの剣は草薙(くさなぎ)の剣と呼ばれ、八咫の鏡(やたのかがみ)・八坂瓊の曲玉(やさかにのまがたま)とともに、やがて「三種の神器」として歴代の天皇に受けつがれる皇位のしるしとなったということです。

 さらに旅を続け、日本武尊は、相模の国から走水(はしりみず)の海を船で渡り対岸の上総の国(今の千葉県)に行こうとします。走水の海とは、東京湾の浦賀水道のことで、三浦半島の横須賀市辺りを船出し房総半島の木更津辺りを目指したと考えられています。
 しかし、武尊の軽はずみな言動に怒った海神が荒波を起こしたため、船は木の葉のように翻弄されて今にも沈没しそうになります。
 このとき弟橘媛命は、海の神の怒りを解くため、武尊の身代わりとなって海に身を投げました。そのとき媛が詠った歌が次のものです。
  さねさし 相模(さがむ)の小野(その)に 燃ゆる火の
  火中(ほなか)に立ちて 問ひし君はも
 (相模国の、あの野原の燃えさかる火の中で、私の身を案じてよびかけてくださったあなたさまだったことよ)
 するとそれまで荒れ狂っていた海も次第に静まり、難行した船も無事に上総の国に上陸することができました。彼女が持っていた櫛は、7日後、海岸に流れ着いたということです。

 この後、日本武尊は、東方の乱れを鎮めて大和へ帰る途中、箱根の碓氷の坂で、東の走水の海の方向を臨んで、弟橘媛のことを偲び、「吾妻(あづま)はや」(ああ、我が妻よ)と嘆きました。それから箱根より東の方を「東(あづま)」と呼ぶようになったということです。
 やがて武尊は、都への帰途、剣をもたないで、伊吹山(いぶきやま)(滋賀県をと岐阜県の境)に登り、山の神の祟りにあって、ついに伊勢の能褒野(のぼの)(三重県鈴鹿市)で病気が重くなり、亡くなってしまいます。人々がその場所に陵(みささぎ)をつくって、尊を葬ると、尊の魂は大きな白鳥となって都をさして飛び立ったということです。

 大麻神社は讃岐忌部(いんべ)氏と阿波忌部氏が協力してこの付近を開拓して麻を植え、祖先神の天太玉命(あまのふとだまのみこと)を祀ったのが起源だと伝えられており、延喜式内讃岐国24社の一つです。祭神の天太玉命は、天照大神が岩戸に隠れた折り、大神を誘い出すべく色々な飾りものを作った神様で、天下りをした後四国に来ていたと伝えられています。
 当時、朝廷は全国から才媛の女性を官女として毎年のように徴用しており、弟橘媛もこうして徴用された官女の一人で、それが日本武尊の目にとまり妃となったのではないかと考えられています。二人の間に雅武彦王命(わかたけひこのみこと)が生まれています。
 今でも、大麻神社の本殿左わきには弟橘媛を祀った祠があり、媛が讃岐出身だったことを偲ぶよすがとなっています。

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(111)“与謝蕪村、小林一茶も訪れた讃岐路”

 江戸時代後期の18世紀半ばから19世紀半ばまでの約100年間は、「化政文化」が花開いた時代といわれています。「化政」というのは、この期間の中心であった文化年間(1804-18)と文政年間(1818-30)から1字ずつとって名づけられたものです。化政文化の特色は、江戸の町の経済的発展にともない町人文化が最盛期を迎え、都市の繁栄、交通の整備、寺社参詣の流行、教育・出版の普及、商品流通の発達などにより、中央と地方との文化交流が進み、中央文化が地方に波及して、文化の内容も多種多様化したことといわれています。
 讃岐にも化政文化を代表する江戸、京、大坂などの文人や画家が多く訪れ作品を残しています。また、讃岐に来ていなくても、讃岐を舞台とする作品を残しています。主なその人物を列挙すると、次のとおりです。(括弧内は生没年)
 与謝蕪村     (享保元年(1716)-天明3年(1784))
 円山応挙     (享保18年(1733)-寛政7年(1795))
 上田秋成     (享保19年(1734)-文化6年(1809))
 小林一茶     (宝暦13年(1763)-文政10年(1828))
 十返舎一九    (明和2年(1765)-天保2年(1831))
 滝沢馬琴(曲亭馬琴) (明和4年(1767)-嘉永元年(1848))
 歌川広重(安藤広重) (寛政9年(1797)-安政5年(1858))
 このうち、与謝蕪村小林一茶十返舎一九、歌川(安藤)広重は実際に讃岐に来ており、円山応挙については讃岐に来たかどうかについて諸説があるようです。上田秋成と滝沢(曲亭)馬琴は讃岐に来ていませんが、讃岐を舞台にした物語を書いています。
 讃岐の中でも彼らが題材として採り上げた地で多いのはやはり金毘羅さんです。その他では白峯の崇徳上皇と観音寺の琴弾八幡宮が題材とされています。

 与謝蕪村は、江戸俳諧の巨匠の一人で、写実的で絵画的な発句を得意とし、また俳画の創始者で、池大雅とともに日本南画の先覚者といわれています。
 京都に住んでいた与謝蕪村が初めて讃岐を訪れたのは、宝暦12、13年(1762~3)頃だといわれていますが、明和3年(1766)の春頃、51歳のときにもやって来て、夏の6月にいったん京に帰り、この年の冬、再び讃岐に戻っています。
 その経路は、阿波から讃岐に入り、引田・白鳥・三本松・長尾を通って、高松城下に入ってきたと考えられています。高松城下では、豪商の三倉屋方でしばらく旅宿りをしています。しかし、他国者の長逗留は御法度に触れるため、遠慮して城下はずれの別荘に移ったといい、ここで、「 水鳥や 礫にかはる 居り所 」の句を残しています。そして、「 炬燵(こたつ)出て 早あしもとの 野河(のがは)かな 」の句を残して香東川の渡し場を渡り、丸亀に向かっています。
 一泊二日の旅をして丸亀城下に入ったときは、乞食のような姿で、妙法寺(みょうほうじ)の門前に立っていたと伝えられています。丸亀城下から目的地の金毘羅に向かい、土地の俳人らに歓迎されます。そこでは、造酒屋(つくりさかや)主人の金川屋左平太の宅を寓居とし、その世話を受けて金毘羅で年越しをしています。金川屋左平太は俳人でもあり、その号を菅暮牛(かんぼぎゅう)と称していました。蕪村はこのとき「 象の眼に 笑ひかけたり 山桜 」の句を残しています。
 明和4年(1767)の春3月、再び京に帰りますが、蕪村はよほど讃岐での生活が気に入ったのか、その年の秋、また讃岐に戻っています。このときも暮牛の家に滞在して金毘羅で年越しをし、翌年の4月23日、丸亀湊から京に帰っています。
 このような明和3年の春から明和5年の春までの2年間は蕪村の讃岐時代といわれており、絵筆の旅の仕上げのときであったといわれています。丸亀の妙法寺は蕪村寺ともいわれており、今も蕪村が描いた「蘇鉄図(そてつず)」などが残っています。

 円山応挙は、京都に住み、遠近法を取り入れた立体感のある作品を描き、近代日本画の基礎を築いた画家といわれています。金毘羅宮の表書院の襖(ふすま)に虎の図や鶴の図・山水の図・滝の図・七賢之図などを描いています。しかし、実際に讃岐に来たかどうかについては説が分かれているようです。

 上田秋成は、歴史や伝説を素材とした伝奇読本を現しました。讃岐には来ていませんが、その著書の一つ「雨月物語」の中で、讃岐の白峯を舞台にした崇徳上皇と西行の物語を書いています。

 小林一茶は信濃柏原の人で、農村の生活感情を詠んだ句を残したことでよく知られています。一茶は、寛政4年(1792)3月、郷里の信濃を出発して諸国を遊歴しながら、その年の夏過ぎに讃岐に来ています。讃岐では豊田郡下市浦(現在の観音寺市)にある専念寺の性誉和尚(せいよおしょう)を訪ね、ここでしばらく滞在します。性誉和尚は俳号を五梅(ごばい)といい、その師は一茶と同じく竹阿門でした。観音寺は室町時代に山崎宗鑑ゆかりの一夜庵があり、俳句が盛んな地でした。一茶は観音寺から伊予に入り、さらに九州に渡っています。
 寛政6年(1794)、一茶は再び讃岐を訪れ、翌年の3月まで専念寺に滞在しています。そのときは、金毘羅や高松、小豆島まで足をのばしています。
 寛政6年(1794)4月11日、金毘羅参詣をしたとき、その出立に際して、「 御ひらひら 蝶も金毘羅 詣りかな 」の句を詠んでいます。また、寛政7年(1795)正月、専念寺で、「 元旦や さらに旅宿と おもほへず 」の句を詠んでいます。

 東海道中膝栗毛でよく知られている十返舎一九も、いつの頃か定かでありませんが、若い頃讃岐に来て、金毘羅参詣をしています。一九はこの体験をもとにして、文化年間に「金毘羅参詣膝膝栗毛」と「方言修業(むだしゅぎょう) 金草鞋(かねのわらじ)」を著しています。金毘羅参詣続膝栗毛の初編序の冒頭にも「予、若年の頃、摂陽浪速にありし時、一とせ高知に所用ありて下りし船の序(ついで)に、象頭山に参詣し、善通寺、弥谷(いやだに)を遊歴したりしが、秀異勝景の地多くして、その感情、今に想像するに堪えず。」と記しています。
 金毘羅参詣続膝栗毛は、好評を博した「東海道中膝栗毛」の弥次郎兵衛・喜多八(この本では北八)のコンビによる金毘羅詣の話で、相変わらずすべてのことを笑いとばすこの二人の滑稽譚がエネルギッシュに語られています。方言修業金草鞋は、狂歌師鼻毛の延高、千久良(ちくら)坊の二人が主人公で、日本全国を巡り歩く形となっており、その中に讃州金毘羅が描かれています。

 「南総里見八犬伝」で有名な戯作者滝沢馬琴(曲亭馬琴)も、讃岐には来ていませんが、讃岐を舞台にした読本(よみほん)を何点か残しています。
 一つは「椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)」です。この物語は、崇徳上皇とともに保元の乱(ほうげんのらん)に敗れ、伊豆大島に流罪になった源為朝が琉球に渡り、危機に立つ王女を助けて賊軍を平定し、琉球王国を再建するという勧善懲悪の伝奇ものです。この中で、馬琴は源為朝が讃岐の白峯に赴き、かつての臣として崇徳院と対面する場面を描いています。また、観音寺の琴弾の宮で、為朝の妻白縫が夫の仇討ちをする場面を描いています。
 馬琴は「西遊記」をアレンジした「金毘羅船利生纜」(こんぴらぶねりしょうのともずな)という物語も書いています。金毘羅に向かう船中、旅人が同乗客に金毘羅の本地を語り始めるという設定で、火の神・軻偶突智(かぐつち)が、生まれた時にその火で母を死なせたため、父の伊弉冊(いざなぎ)に斬られ、その血が固まって二つの石となったのを父が遠くへ投げ打ったところ、一つが讃岐の国象頭山となり、もう一つが辺无量国(へんむりょうこく)の方便山に落ち、その山の石が、数万年後おのずから裂けて石折神(いわさきしん)となり、これが天狗を従えて乱暴狼籍の限りを尽くすので釈迦如来が大磐石を載せて懲らしめる、という奇想天外なストーリーです。
 また、歌舞伎や浄瑠璃でも有名な田宮坊太郎の仇討ちの話「金毘羅利生記」を、舞台を足利幕府の頃に置き換え、幼い坊太郎が剣術を磨きに瀬戸の海を渡るのを、象頭山の天狗が助けるという筋立てで書いています。
 馬琴は高松藩江戸家老の木村黙老(もくろう)と懇意だったことから、黙老を通じて讃岐の歴史や文化についてよく知っていたのかもしれません。

 浮世絵の「東海道五十三次」でよく知られている安藤広重(歌川広重)も、時期は不明ですが、讃岐に来て金毘羅参詣をしています。「六十余州名所図会」というシリーズ物の一枚として、象頭山を金毘羅街道より遠望した風景を描いています。なお、二代安藤広重は鼠島という小さい島を描いています。この島は子供の神様で知られる津島神社のある島です。

 江戸後期、化政文化を牽引した文化人にとって、金毘羅さんは興味のある題材だったのでしょう。なお、このほかにも、金毘羅参詣のため讃岐には多くの著名人も訪れています。
 例えば、雷電為右衛門は、寛政6年(1794)に多度津湊に上陸したらしく、元金毘羅多度津街道の鶴橋付近にあり現在は桃陵公園の登り口に移されている大鳥居の奉納者の中にその名前が見られるといいます。また、農政家として知られる二宮金次郎は文化7年に、「日本外史」を著した頼山陽は文化12年に、適塾を開いた医学者・緒方洪庵は文久2年(1862)にそれぞれ金毘羅を訪れています。

 また、化政文化の裾野は、文人や画家などの文化人だけでなく、町人など一般庶民にも広がり、今日の観光ガイドブックともいえるいわゆる名所図会が多く出版されています。金毘羅についても、弘化4年(1847)に、浪花の代表的な人気作家である暁鐘成(あかつきのかねなり・寛政5年(1793)~万延元年(1860))が、「金毘羅参詣名所図絵」を名所図会シリーズ第二作目として著しています。これは地誌としての色合いの濃いもので、地名、名所旧跡の説明も細かく、絵も精緻に描かれています。
 金毘羅には、森の石松が清水次郎長の名代で金毘羅参りをして刀を納めたという浪曲があります。江戸後期、金毘羅さんは町人や農民など一般庶民向けの芸能の題材にもなっていたということでしょう。ちなみに、「江戸っ子だってねぇ」「神田の生まれよ」と石松が江戸の商人と交わした会話のくだりは、金毘羅参りの帰り、大阪・八軒屋から伏見へ渡す船の中での場面です。
 「金毘羅船々 追手に帆かけて シュラ シュシュシュ 回れば四国は 讃州那珂之  郡 象頭山 金毘羅大権現 一度回れ・・・・・」という民謡は、江戸後期より大繁盛をみせた金毘羅船による参詣のにぎわいぶりをよく示しています。

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(110)“元寇の頃、甲斐国から讃岐に来た武士が建てた寺”

 13世紀の初め、アジア・ヨーロッパ大陸にまたがる大帝国をつくりあげたモンゴル民族は、チンギスハンの孫のフビライのとき、国号を元と改め、朝鮮半島の高麗を征服した後、日本に使者を派遣し朝貢を求めてきました。しかし、その時の鎌倉幕府執権・北条時宗はこの要求をすべて拒絶します。文永11年(1274)10月、元と高麗の連合軍が対馬・壱岐を襲った後博多湾の沿岸に上陸し、日本軍と激戦となりました。ところがその戦いの最中、暴風によって元軍は大打撃をうけ、博多湾から引き揚げていきました。これが文永の役(ぶんえいのえき)です。
 その後も、フビライは執拗に日本に朝貢を求めてきましたが、時宗は頑強にこの要求を拒絶します。弘安4年(1281)5月、元軍は新たに江南軍(中国の南宋の軍)も加え、朝鮮と中国本土の2方面から、ふたたび北九州へ攻め寄せてきました。しかし、日本軍はゲリラ的戦法で積極的な反撃を行いました。折りしも、元軍らが再度攻撃の機をうかがっていた閏7月1日、大暴風雨がこの地方一帯を襲い、元軍船は壊滅します。これが弘安の役(こうあんのえき)です。この二度にわたる日本侵略が元寇(げんこう)です。

 一方、元寇が来る少し前の頃から、東国では、日蓮(にちれん)による新しい仏教の動きが起こっていました。日蓮は、貞応元年(1222)、安房国(千葉県)の漁師の子に生まれ、16歳で出家し、鎌倉・比叡山(ひえいざん)などで学んだ後、法華経こそ釈迦(シャカ)の真の精神を伝える教えであると確信し、建長5年(1253)、故郷に帰って法華宗を開きました。次いで、鎌倉に出て辻説法を行い、天変地異の続くのを見て「立正安国論」を著し、国難を主張して執権北条時頼に直訴します。これが幕府政治を批判するものと受け取られ、伊豆(静岡県)や佐渡(新潟県)に流されます。
 後に許され、甲斐国の身延山(みのぶさん)に籠って弟子の育成にあたりましたが、病を得て療養に赴く途中、弘安5年(1282)に亡くなりました。
 日蓮は、法華経の教えに基づかない他の宗派の教えを批判したので、他宗派から迫害を受けましたが、その教えは東国の武士や農民を中心に広がっていきました。

 二度にわたる蒙古襲来を経験した鎌倉幕府は、中国大陸や朝鮮半島からの攻撃に備えて、西国の守りを固めるために、多くの東国御家人を西国に転封させるという政策を講じます。甲斐国巨摩(こま)郡秋山を本領としていた秋山氏も西国へ移住した東国御家人の一族です。
 秋山氏は甲斐源氏の流れで、甲斐源氏は河内源氏三代目・源義家(八幡太郎義家)の弟の源義光(新羅三郎義光)の子・源義清(武田冠者義清)のときに武田姓を名乗り、甲斐に土着した武士団です。戦国時代に活躍した武田信玄はその子孫です。
 秋山氏は、甲斐国に在住していたとき、一族のほとんどが日蓮あるいはその弟子の日興(にっこう)に帰依していました。
 日興(1246~1333)は、甲斐国の人で、日蓮が「立正安国論」を著すときにそれを助けた弟子です。日蓮六老僧の一人です。正応3年(1290)、富士山南麓に大石寺(だいせきじ)を開き、日蓮正宗など富士門流では、日蓮唯一の正統な後継者と見なしています。ちなみに大石寺は富士五山のひとつです。

 弘安年中(1278~88)、秋山光季は、幕府の命によって、西讃10か所の郷邑を領することとなり、孫の孫次郎泰忠とともに、一族を引き連れて讃岐国へ移住し、三野郡高瀬郷に居を構えます。そして、泰忠は自ら帰依していた日蓮の教えを広めるため、日興にしかるべき導師の派遣を懇願します。
 こうして、正応2年(1289)、日興の直弟子である寂日房日華(にっけ)(1252~1334)が讃岐へ派遣され、泰忠は、日華を迎えて那珂郡柞原郷田村(今の丸亀市田村町)に菩提所を建立しました。現在の田村番神がその旧跡だという伝承があります。
 ところが日華は布教に努めている途中で病にかかったため甲斐国に帰り、その後は老齢のため大石寺に留まりました。そこで、泰忠は日華の代わりの導師の派遣を日興に願い、その弟子の百貫房日仙(にっせん)(1262~1357)が讃岐に来ることとなりました。日仙は日華とともに、本六(ほんろく)といわれる日興の第一の本弟子6人のうちの一人です。
 しかし、折り悪くも田村の拠点が争乱に巻き込まれて灰となってしまったので、泰忠は三豊郡高瀬郷内の地を寄進し、正中2年(1325)に日仙を迎えて今の高永山本門寺が建立されました。

 鎌倉後期においては、讃岐の守護は執権北条氏の一門が代々務め、秋山氏も来讃当初はその配下に組み込まれていました。しかし、高瀬郷に本門寺が開かれて間もなく鎌倉幕府は滅亡し、建武の中興を経て激動の時代を迎えます。
 建武2年(1335)年、讃岐では足利尊氏側の細川氏が、当地の国人らを率いて宮方に対して挙兵しています。秋山氏もその傘下に入り、従来通り所領を安堵されます。讃岐は細川京兆家の本国地とされ、西讃岐は守護代の香川氏の支配するところとなり、秋山氏はその配下に入ります。
 その後、細川氏の衰退とともに、地元勢力である香川氏の勢力が強くなり、秋山氏は香川氏の家臣団に組み込まれて、戦国時代を過ごしていきます。

 一方、本門寺は、2世日仙の後、3世日壽、4世日山が大石寺から派遣されてきますが、5世日門以後は秋山家出身者が本門寺住職となります。文安3年(1446)までの100年間に本門寺では6箇寺ができ、本門はこれら六坊に対して、大坊と呼ばれました。これにより高瀬郷一帯の人々はそのほとんどが法華経に帰依するところとなります。

 天正6年(1578)、長宗我部元親が土佐から讃岐支配を目指して進出してくると、香川氏は元親の次男親和を娘婿に迎え入れ、その勢力下に入ります。これにより秋山氏も長宗我部に従うことになります。
 ところが天正13年(1585)、四国に侵攻してきた豊臣秀吉の勢力により長宗我部は土佐に追いやられ、その後、秀吉の命を受けた仙石秀久が讃岐の領主として入ってきました。これにより、香川氏の勢力は讃岐から一掃され、秋山氏も鎌倉時代以来約300年領有していた高瀬郷などすべての所領を没収されてしまいます。
 その後、江戸時代初期の生駒藩時代、四代藩主・高俊のときに、秋山氏は生駒家に仕官します。しかし、寛永17年(1640)の生駒騒動により、高俊が出羽矢島1万石へ転封されるにともない在地に帰農し、武士としての命脈を終えます。

 京都における法華宗のはじめての布教活動は、永仁2年(1294)、日蓮の弟子の日像(にちぞう)が教えを広めるために京都へ入り、皇居の東門前で東山に昇る日輪に向かって題目を唱え第一声をあげたときといわれています。当時の京都では古くから各宗派の勢力が強く、新興宗派であった日蓮宗の布教には様々な迫害がありましたが、元享元年(1321)、京都における日蓮宗最初の寺院として妙顕寺(みょうけんじ)が建立されます。その後、上方では町人を中心に法華宗が広がっていきます。
 讃岐は弘法大師空海をはじめ五大師を輩出した地で、古くから仏教の盛んなところです。このような讃岐に、東国生まれの新興仏教であった法華宗が、当時日本の中心であった京都よりも早く伝わったというのは非常に興味深い出来事です。

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