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(70)“十七人のうち四人も人間国宝を輩出した讃岐漆器の技”

 漆器(しっき)は、木や竹などに漆(うるし)を塗り重ねて作る工芸品です。英語で漆器はjapanと呼ばれたことからも判るように、欧米では日本の特産品とされています。
 香川の漆器は、江戸時代に藩主の保護と奨励のもと発展しました。寛永15年(1638年)、松平頼重が高松に入封し、漆芸や彫刻技法を奨励しました。以来、高松藩主は茶道・書道に付随して漆器づくりを奨励し、讃岐の漆器が芽生えました。幾人もの名工のなかでも、注目されるのは後に香川漆器の始祖として、後世に多大なる影響を残した 玉楮象谷(たまかじぞうこく)です。

 象谷は、江戸時代後期の文化3年(1806年)、高松城下磨屋町(とぎやまち)の鞘塗師(さやぬりし)、藤川理右衛門の長男として生まれ、幼いときから父に技法を学びました。20歳で京都へ遊学し、塗師、彫刻師、絵師らと交友を深め、やがて、中国の明時代や東南アジアの漆芸技法を幅広く研究し、そこに日本古来の漆芸技法を加味して、存清(ぞんせい)、蒟醤(きんま)、彫漆(ちょうしつ)の漆芸技法を開発しました。
 高松藩の松平頼恕(よりひろ)・頼胤(よりたね)・頼聡(よりとし)の3代の藩主に仕え、今日の香川漆器の基礎となるさまざまな漆芸技法で、数多くの作品を残しました。この功績により象谷は香川漆器の始祖と呼ばれています。明治2年、64歳で亡くなりました。
 象谷の代表作には、「一角印籠(いっかくいんろう)」、堆黒の「松ヶ浦香合」、存清の「古鏡箱」、堆朱の「鼓箱(つづみばこ)」、彩色蒟醤の「料色箱並びに硯箱」があげられます。
 また、高松藩の町奉行の子に生まれた後藤太平は、渋味のある漆塗柄を研究し、下絵についた塵の文様にヒントを得て、のちに「後藤塗り」と呼ばれる新しい漆芸技法を創案しました。
 
 これらの先駆者によって開発された香川の漆芸の伝統は、明治以降も継承・発展し、漆芸分野で人間国宝(無形重要文化財)に指定された工芸家は、現在まで全国で17人ですが、このうち4人までが香川漆器の工芸家です。すなわち、彫漆の故音丸耕堂(1898~1997)と、蒟醤の3人すなわち故磯井如真(1883~1964)、磯井正美(1926~)、太田儔(ひとし)(1931~)です。現在も2人の人間国宝が活躍中で、この2人を筆頭に、数多くの漆芸作家および香川漆器職人が、その技を現代に伝えています。
 高松を中心にした香川の漆器の技は高く評価されており、今でも北海道から沖縄まで販路が広がっています。

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(63)“滝沢馬琴の親友だった高松藩家老”

 「南総里見八犬伝」で知られる滝沢(曲亭)馬琴には、高松藩の家老をしていた木村黙老という親友がいました。

 滝沢馬琴は、明和4年(1767)6月9日、江戸深川で旗本の用人をしていた下級武士の家に生まれました。しかし、主人の扱いに耐えかね、15歳の時にその元を去って放蕩無頼の生活に入ります。やがて24歳の時、名戯作家・山東京伝の弟子にしてもらいます。最初はなかなか売れずに苦しい生活をしていたようですが、次第に人気が出てき、40歳頃には、師である京伝を遙かに凌駕するほどになりました。馬琴は、多くの戯作を書いておりますが、生涯の代表作となる「南総里見八犬伝」は、文化11年(1814)、48歳の時から書き始め28年がかりで書き続けられました。

 木村黙老は安永3年(1774)、高松城下二番町屋敷で生まれました。馬琴より7歳年下で、名は亘(わたる)といいます。祖父季明(すえあき)が高松藩の家老であった家柄であり、黙老も高松藩の七代頼起(よりおき)・八代頼儀(よりのり)・九代頼恕(よりひろ)十代頼胤(よりたね)と四代の藩主に仕えています。文政6年(1823)、50歳のときに黙老は高松藩の国家老となり、文政12年に江戸家老を命じられ江戸屋敷詰になりました。この頃から馬琴との親交が始まったといわれています。

 馬琴は人とのつき合いをあまり好まず、また、自分の書いたものに対する他人の批評はあまり聞き入れない自尊心の強い偏屈な人物だったようですが、伊勢松阪の豪商、殿村篠斎(とのむらじょうさい)と小津桂窓(おづけいそう)、それに黙老の三人とは終始変わらず交遊を続けています。馬琴は新しい作品を書き終えると、この3人にすぐ送って批評を求めたといいます。

 また、黙老自身多くの著作を残しており、中でもとりわけ彼が54歳頃からおよそ20余年間にわたり書き続けてきた「聞くままの記」(正編26冊)及び「続開くままの記」(57冊)は、江戸時代の世相を知る上で大変貴重な史料になっています。その中には、平賀源内久米道賢についても記述されています。

 また、歌舞伎に「研辰(とぎたつ)の打たれ」という演目がありますが、これは讃岐の羽床村で起きた仇討ち事件を黙老が馬琴に書き送り、それを馬琴が「兎園小説拾遺」という本の中に載せたことにより芝居になったものです。桃太郎伝説も、菅原道真公が讃岐国司の時、中笠居(現在の香西)の平賀というところの、住民の伝承を聞いて物語を作ったようですが、それが庶民にまで拡大したのは、江戸時代の高松藩の江戸家老の黙老が馬琴に話したものが、出版されてからだそうです。

 このように黙老は文人としての多くの足跡を残していますが、特に頼恕のもとでは、財政担当の家老として、折からの藩財政逼迫の窮状を改革しています。いわゆる高松藩における天保の改革です。讃岐の砂糖産業の振興や、久米通賢の建議を入れて坂出塩田の開発に取り組ませました。この開発は巨費を要することから藩内には強い反対意見がありましたが、黙老は頼恕に進言し反対派を説得しました。

 しかし、多才な活躍をした黙老も、父親が2歳の時に亡くなったり、生涯4回も離婚したり、子供が早世するなど家庭的にはあまり幸せでなかったようです。一人っ子の若死にに悲嘆にくれる馬琴を慰めるために出した手紙の中で、黙老は自分の家庭的な不運について述べています。

 黙老と馬琴との交遊は馬琴が死ぬまで続けられ、馬琴が晩年に目を患い失明が心配されたときには、高松藩の医師に伝わる秘薬を江戸に取り寄せ、馬琴のもとに届けさせたといいます。

 馬琴は嘉永元年(1848)、82歳で亡くなりました。その8年後、黙老は83歳で没しました。それから約1年半後、井伊直弼が大老に就任し、強権をもって将軍継嗣と条約調印の懸案事項を強引に進め、国内は尊皇攘夷で混乱して行きます。


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たかまつ松平藩まちかど漫遊帳

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(58)“伊能忠敬より進んだ測量技術を持った江戸時代の先端科学技術者で塩田の父”

 伊能忠敬(いのうただたか)は江戸後期の1745年(延享2)年に生まれ、下総国佐原村(千葉県佐原市)で酒造、米穀取引などを営む一方、村政にも尽くして名主に命じられ、苗字帯刀も許されていました。  50歳のとき、隠居して江戸へ出、高橋至時(よしとき)に師事して本格的に暦法・天文学の勉学を始めます。その後、その高度な測量技術が幕府に認められ、日本全国の沿岸を測量し、わが国で初めて全国測量地図を作製しました。忠敬とその弟子たちによる測量は、忠敬が55歳から71歳までの足かけ17年間にわたり全国津津浦浦で行われました。

 1808年(文化5年)忠敬は讃岐を測量していますが、その2年前、高松藩では、久米通賢(みちかた)が忠敬と同等の精密な地図を忠敬よりも早く、しかも独自の方法で作製していました。忠敬の影響で全国の各地方でも精密な地図を作製した例はあったようですが、忠敬より前には例がないそうです。

 通賢は、平賀源内が獄死した翌年の1780年(安永9年)、大川郡引田郷馬宿村(現在の東かがわ市引田町馬宿)に、船の舵とりと農業を兼ねる家に生まれました。通称を栄左衛門といい、忠敬より35歳年下です。幼少の頃から利発で器用であったといわれ、7歳のときに大坂の時計屋で、6両もかかる時計の修繕を2両で直して客の困窮を助けたという話が伝えられています。

 19歳(寛政10年)になると大坂の天文学者間重富(はざましげとみ)に入門し、天文・測量学を学びます。間重富と忠敬の師である高橋至時は麻田天文暦学の同門で、通賢と忠敬は兄弟弟子ということになります。

 その後帰郷した通賢は、1806年(文化3年)、27歳のときに高松藩の御用測量方を命ぜられます。測量実施のきっかけは、忠敬の測量を聞いた八代藩主松平頼儀(よりのり)が先手を打ったともいわれていますが定かではありません。通賢は自分で製作した測量器具を携え、助手10人らとともに、領内を東の引田浦通念(つうねん)島から西の土器村へ海岸線に沿って測量を始め、内陸部を折り返し、再び東の国境に至っています。

 その2年後、伊能忠敬が測量のため来讃しました。その測量期間は54日間で、通賢は案内・接待役を務めます。「伊能忠敬測量日記」によると、通賢は西条城下や丸亀城下滞在の忠敬を訪ね、津田村滞在から引田村出立までは日々測量に付き添い、後日徳島領撫養在宿にも訪問しています。言い伝えでは、そのとき通賢が2年前に測量した地図を忠敬に差し出したところ、忠敬はこれを見て感嘆し、通賢の努力を大きくたたえたといいます。

 伊能図と久米図はほとんど同じ水準の正確な地図でしたが、忠敬の測量は旧式技術で、通賢は日本で初めて「バーニア副尺」を取り入れた高精度の新式測量器具を開発し、新式技術で測量していたといわれています。当時の日本では旧式技術の「対角斜線副尺」を使用していましたが、バーニア副尺はヨーロッパで主流だった新式技術で、測量の精度が旧式技術の2倍になりました。日本でバーニア副尺が使われ始めたのは幕末ごろといわれているので、通賢はこれより約半世紀も早く使っていたことになります。このため「通賢はバーニア副尺の原理を理解し、独自の工夫で測量に応用した日本最初の人」とその独創性が高く評価されています。

 また、その後、通賢は測量だけでなく、兵法や銃砲などの武器、揚水機の研究開発にも力を入れています。揚水機については、「養老の滝」と名づけた模型を作って、大坂と江戸浅草で宣伝興業を行っています。

 このように通賢は科学技術者として活躍しましたが、優れた経世家でもありました。1824年(文政 7年)45歳のとき、高松藩の逼迫した財政を立て直すため、経済政策を建白しています。この頃の高松藩は天災などが相次ぎ財政は危機的状況にありました。このためときの第九代藩主松平頼恕(よりひろ)は、難局打開方策について広く意見を求めたのです。建白書の主な内容は、砂糖製造業者の保護や坂出沖の塩田の開発による産業の振興、財政支出の抑制、役人の数の減少、優秀な人材の登用などです。中でも塩田開発については、「もし見込み違い御座候節は、一命を差し出し」と覚悟のほどが記されています。

 しかし、坂出沖塩田の開発には多額の費用が必要であったため、藩内には強い反対意見がありました。通賢はもともと武士の出でなく、藩内測量などの功績が認められて30代中頃に茶道小頭に準じた御茶道並(おさどうなみ)という待遇と「久米」という苗字を与えられた者で、家中には成り上がり者は出しゃばるなという保守的な雰囲気があったのかもしれません。このような中で、頼恕は藩内の反対を押し切り、通賢の建白を採用します。建白をした者の身分を問わず、内容の良いものであれば採用するという頼恕の度量の大きさ・英明さをうかがい知ることができます。

 建白書提出から2年後、通賢は塩田開発の責任者である普請奉行に命ぜられ、寝食を忘れて工事に没頭します。途中、既存の塩業者の反対と資金調達の両面で暗礁にのり上げますが、頼恕の協力で解決します。しかし資金の面では、藩からの提供だけでは十分ではなく、通賢と親戚までも含めた一族の財産を使い果たすほどの協力で、工事の完成を迎えたといいます。こうして総面積 131haという大がかりな塩田開発はわずか3年5か月で完成します。坂出塩田は通賢の企画・実行力と頼恕の決断力によってできたといっても過言ではないでしょう。

 後年、通賢の名声は藩外でも高まり、別子銅山の水抜き工事、大坂の淀川改修工事の設計、遠州新居湊の改修計画を手掛けたほか、「どんどろ付木(つけき)」といわれたマッチの製作と鉄砲への応用を研究しています。しかし通賢は坂出塩田開発事業にすべての財産を使い果たしていたため貧困のうちに1841年(天保12年)、62歳で亡くなりました。

 通賢と頼恕によって築かれた坂出の塩田はその後塩業王国讃岐の基礎となっていきます。このことから通賢はよく「塩田の父」として知られていますが、多才な活躍をした江戸時代の先端科学技術者でもありました。

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(55)“松平定信のブレーンだった讃岐出身の儒学者”

 江戸幕府による封建制にゆるみが見え始めた18世紀末、徳川家斉(いえなり)が11代将軍につくと、田沼意次(おきつぐ)はしりぞけられ、八代将軍徳川吉宗の孫にあたる白河藩主・松平定信(まつだいらさだのぶ)が老中になりました。定信は、賄賂が横行した田沼時代の政治を改めるため、吉宗時代の享保の改革を理想とし、思い切った幕政改革を行いました。これを寛政の改革(1787年~1793年)といいます。
 定信は、質素倹約と文武を奨励し、儒学のうち朱子学を幕府の正学と定め、幕府の学問所である昌平坂(しょうへいざか)学問所では朱子学以外の講義を禁止して武士の思想を統制します。これを寛政異学の禁といいます。また、封建制の建て直しを図るため、商人から借りた借金を棒引きにするという棄捐令(きえんれい)を出して商人の借金に苦しむ武士を救い、都市に流出した農民に帰農令を出して農村の復興を図り、銭湯の男女混浴を禁止するなど風紀をひきしめます。一方では、囲い米令(かこいまいれい)による飢饉対策、足寄場(にん人そくよせば)による浮浪人対策などの社会施策も行います。
 この定信の施策のブレーンとして幕政に大きく貢献したのが、讃岐出身の儒学者である柴野栗山(しばのりつざん)です。

 栗山は、1736年(元文元年)に、讃岐国三木郡牟礼(現在の高松市牟礼町)で生まれました。名を邦彦もしくは彦輔といい、八栗山の近くで生まれたので栗山と号しました。10歳のとき高松藩の儒者・後藤芝山(ごとうしざん)の門に入り、牟礼から高松まで片道8キロの道のりを8年間毎日往復しました。
 そして18歳のとき、江戸に出て昌平黌(しょうへいこう)に入ります。そこは幕府の保護を受けた朱子学の学問所であると同時に、林羅山に始まる林家の家塾でもありました。おもしろいことに、この時、栗山に後れること3日、平賀源内も昌平黌に入ってきています。源内は牟礼の東隣の志度の出身で、栗山より10歳年長でした。
 栗山は昌平黌で12年間儒学を学び、1765年(明和2年)、30歳のとき、さらに日本古来の学問である国学を学ぶため京都に行きます。そして、ここで得た縁故で、1767年(明和4年)から阿波藩に仕えます。阿波藩仕官時代は20年に及び、江戸藩邸で講義したり、京都で塾を開いたりし、しだいに広く名が知られるようになりました。
 この栗山の評判が幕府老中松平定信の耳に入り、1788年(天明8年)53歳のとき、幕府の儒官として登用されることになり、「寛政の三博士」の一人に数えられました。栗山は、定信の政策顧問としても仕え、「寛政異学の禁」はその建議が入れられたものです。寛政の改革は栗山の献策に負うところが多いといわれており、栗山はおぎゅうそらい荻生徂徠室鳩巣(むろきゅうそう)以来の政論家として数えられています。

 しかし、定信の改革は、あまりにも理想を追いすぎたため、多くの人の反感をかい、思ったほどの成果をあげる事無くわずか6年で終わりました 「白河の清きに魚もすみかねて もとのにごりの田沼恋しき」「世の中にか(蚊)ほどうるさきものはなし ぶんぶ(文武)といいて夜も寝られず」という狂歌は定信の改革を皮肉ったものとしてよく知られているところです。しかし、寛政の改革での定信の政策は以後の幕政にも引き継がれていくことになります。

 栗山は、1807年(文化4年)、72歳で病に倒れるまでの約20年間、幕府の儒官として仕え江戸で没します。その墓は東京大塚坂下町の大塚先儒墓所にあります。
 栗山のような大学者が讃岐から輩出されたのは、歴代高松藩主の学問好きがその背景にあったと言われています。初代藩主より頼重(よりしげ)(水戸光圀の兄)は、徳川幕府の儒者・林鷲峯(はやしがほう)の高弟であった岡部拙斎(おかべせつさい)を、また二代目藩主・頼常(よりつね)(光圀の息子)は幕府の儒者・林信篤(のぶあつ)の門人菊池武雅(たけまさ)らをそれぞれ藩儒に迎え、五代藩主・頼恭(よりたか)と六代藩主・頼眞(よりざね)は藩校講道館の建設に力を注ぎ、熱心に学問、教育を奨励しました。



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(41)“和三盆のふるさと讃岐”

 “讃岐三白”といわれるように、江戸時代中期以降、讃岐を代表する特産物は塩・綿・砂糖でした。このうち砂糖は、寛政2年(1790年)の向山周慶(さきやましゅうけい)の成功に始まり、高松藩の積極的な保護政策を受けて盛んとなったものです。

 江戸時代の初め頃までは、わが国のサトウキビの栽培地は南西諸島に限られており、作られる砂糖も黒砂糖が一般的でした。高級な和菓子や料理に使われる白砂糖は、中国やオランダから輸入された高価なものでした。やがて徳川吉宗の享保の改革において砂糖の国産化が奨励され、高松藩では、五代藩主松平頼恭(よりたか)が甘蔗(さとうきび)の栽培を平賀源内に試作させたのが始まりで、その後を藩医の池田玄丈が引き継ぎました。しかし玄丈も研究なかばで故人となります。

 玄丈の遺志はその門人の向山周慶(さきやましゅうけい)に引き継がれます。彼は延享3年(1746年)東かがわ市白鳥町湊の生まれで、医術を学んでいましたが、白砂糖の製法の研究に没頭します。あるとき周慶は、たまたま病にかかり苦しんでいた四国遍路の人を救います。その人は、関良助(せきりょうすけ)という薩摩の人でした。良助はいったん薩摩に帰りますが、深くその恩を感じて報いるため、数年後国禁を犯して薩摩から甘蔗(さとうきび)の茎を弁当箱に詰めて持ち来り、その製法をも伝えたと云われています。また、周慶が京都へ遊学していたとき、薩摩藩の医学生某と交わり、1788年(天明8年)京都の大火の時この医学生某が災害に遭ったところを周慶が助けたことにより製糖法が伝授されたとも云われています。

 サトウキビから砂糖を製造するには、まず搾り液をアクをすくいながら釜煮し、水分を蒸発させて、白下糖(しろしたとう)という糖蜜を含んだ黄褐色半固体状の原料糖をつくります。これを精製して白砂糖にするには、その表面をおおっている褐色・タール状の糖蜜を除去することが必要ですが、讃岐では、19世紀初期に独自の精製法を完成させています。それは、白下糖を盆の上で適量の水を加えて練り上げて、砂糖の粒子を細かくする「研ぎ」という作業を行った後、研いだ砂糖を綿布製の袋に詰め「押し舟」という箱の中に入れて重石をかけ圧搾し、黒い糖蜜を抜いていくという技法です。この作業を数度繰り返していくと、糖の色が最初は茶褐色であったものが、“三盆白(さんぼんじろ)”といわれるようになり、手触りもさらさらになっていきます。これらの工程の中でも一番大変なのが「研ぎ」という「蜜を抜く」と同時に「砂糖を、より白くする」ための作業で、全くの手作業で行なわれ、相当な熟練の技が要求されます。

  “和三盆”(わさんぼん)とは、主に香川県や徳島県などの四国東部で伝統的に生産されている上質の国産白砂糖のことです。粉砂糖に近いきめ細やかさを持ち、微量の糖蜜が残っていることから色がかかった白さとなります。舐めると、甘いながらも「すーっとする」淡泊な味です。和菓子に多用されますが、その中でも、特に「落雁(らくがん)」にはよく使われています。和三盆の原料となるサトウキビには「竹糖(ちくとう)」という品種が用いられ、その製造工程も非常に手間がかかるものです。「和三盆」という名は、「盆の上で三回研ぐ」ことからついた名前といわれていますが、現在では、昔より白い砂糖が好まれているため、4回~5回は研ぐそうです。和三盆は精糖の作業が複雑な上、寒冷時にしか作ることが出来ず、白下糖から和三盆を作ると全量の4割程度に目減りし、途中で原料の追加もできないため、砂糖としては最も高価なものとされています。東かがわ市の相生の辺りは土質が良いためか天下無比の三盆糖ができ、讃岐砂糖の完成を見るに至りました。

 讃岐の甘蔗作付面積は、寛政2年(1790年)にはわずか1町でしたが、その75年後の慶応元年(1865年)には約3,800町と飛躍的に増大し、1830年代の初め頃、全国中央市場の大坂に集まる白砂糖の60パーセントほどを讃岐産が占めていました。高松の東浜港(現在の城東町)より大阪に向けて出荷され、その当時の"砂糖相場"は高松藩が決めていたといいます。また文化の初め頃、江戸で讃岐の砂糖は、「雪白の如く、舶来品にいささかおとらず」と評判であったともいいます。

 これにより高松藩松平家十二万石は大いに富み、また、正月の雑煮にあん入りの餅を入れる風習ができたといいます。せめてめでたい正月のときには貴重品である砂糖を庶民も口にしてもいいだろうということです。「あん餅雑煮」は高松藩、そして讃岐人の"富"の象徴であったということができるでしょう。

 讃岐の糖業は幕末の慶応年間に最盛期を迎え、明治13年でもその甘蔗生産量は、全国の58パーセントを占め第1位でした。しかし、日清戦争で台湾が日本の領土となり、明治30年代頃から台湾産の砂糖が輸入され始めると、讃岐の砂糖産業の隆盛は急速に終わりを告げ、讃岐平野からも甘蔗の姿が消えていきました。和三盆の生産量も減り、現在の香川県の東かがわ市と徳島県の一部の地域のみで生産されるだけになりましたが、その風味は和菓子の製造に欠かせないため、現在も高級食材として製造されています。

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(33)“東照宮も左甚五郎の墓もある高松”

 東照宮と言えば日光や静岡を思い浮かべる人が多いと思います。しかし讃岐にも東照宮があります。高松市屋島東町の屋島山麓にある“讃岐東照宮屋島神社”です。

 東照宮(とうしょうぐう)とは、江戸幕府の開祖である徳川家康を神格化した東照大権現を祀る神社のことで、江戸時代には日光、久能山をはじめとして500社を超える東照宮が造られました。明治に入って廃社や合祀が相次ぎ、現存するのは約130社といわれています。
 このうち、家康公の遺言により勧請されたものは日光東照宮(栃木県)と久能山東照宮(静岡県)の2社、家康公ゆかりの地で将軍家により勧請されたものは世良田東照宮(群馬県)の1社、御三家により勧請されたものは水戸東照宮(茨城県)、名古屋東照宮(愛知県)、和歌山東照宮(和歌山県)の3社、親藩により勧請されたものは前橋東照宮(群馬県)、忍東照宮(埼玉県)、佐佳枝廼社(福井県)、松江神社(島根県)、屋島神社(香川県)の5社です。

 屋島神社は、慶安5年(1652年)、徳川家康の孫で水戸光圀の兄に当たる高松初代藩主松平頼重が香川郡宮脇村(旧地名)の本門寿院境内に社殿を建立して東照宮の神霊を奉斎したのが始まりです。以来山王社として歴代藩主により崇敬されてきましたが、八代高松藩主松平頼儀(よりのり)が、風光明媚な屋島烏帽子ケ岳山麓の地に社殿の造営を行い、文化12年(1815年)に移転させて屋島東照宮と称しました。その造営費は当時の金額で約十四万余金と言われています。
 その後明治4年には冠獄神社と改称され、さらに明治7年屋島神社と改称されました。昭和48年2月12日思わぬ不慮の災害に会い本殿、拝殿等を全焼しましたが、唐門は焼失を免れ、翌年11月に権現造り社殿が再建されて現在に至っています。
 屋島神社の彫刻などは、唐門が3分の2を占めており、江戸時代の粋を極めた美術工芸品は見事なものです。左甚五郎の六世、五代目の左利平忠能が父の名跡を継いで高松藩松平家の客分棟梁となり、藩命を受けて完成させたものです。中でも正面上部にある鳳凰の鳥、御門の両側の柱にある上り龍、下り龍などは格別のできばえです。

 左甚五郎(ひだり・じんごろう)は、桃山時代後期から江戸初期にかけて活躍したといわれる宮大工、彫物師で、伝説の名匠です。その代表作は日光東照宮の「眠り猫」の彫刻です。奥社の手前にある坂下の回廊頭上のところで上を見上げると「眠り猫」の彫刻を見ることができます。日光東照宮の数ある彫刻の中でも有名な彫刻です。この他にも京都・知恩院の七不思議の一つ「忘れ傘」を初めとし、その作品といわれるものは全国各地に残されていま
す。
 甚五郎は、文禄3年(1594年)、明石(兵庫)に生まれ、母方の郷里の飛騨で修業を積み、さらに京の伏見で修行した後、江戸へ出て、宮大工・宮彫として活躍し、日光東照宮や上野寛永寺にその腕を振るったといわれています。しかし江戸城内の秘密の地下通路の建設に携わり、その秘密を知ったことで抹殺されそうになったため高松へ落ち延び、生駒家へ大工頭として仕えたといわれています。
 寛永年間に記された高松・生駒藩の家臣名簿『生駒候分限録』には「大工頭 甚五郎」の名が記されており、7人いた大工頭のなかでも筆頭格だそうです。生駒家が改易となった後、一旦江戸に帰って師の名跡を継いでから、再び高松松平家の客分棟梁としてこの地に移住し、没したということです。左家は、彫刻家の家系として現在に至っているということですが、左甚五郎が実在の人物なのかどうかは、未だによくわかっていないそうです。
 高松には、屋島神社のすぐ東隣接の四国村に甚五郎のものといわれる墓があります。この墓は元々市内の地蔵寺にありましたが、道路拡張に伴い四国村に移設されました。


 




 


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(30)“日本三大庭園より立派といわれる栗林公園”

 水戸の「偕楽園」、金沢の「兼六園」、岡山の「後楽園」は、日本三大庭園といわれています。しかし、大正9年文部省発行高等小学読本巻一には、「我が国にて風致の美を以て世に聞えたるは水戸の偕楽園、金沢の兼六園、岡山の後楽園にして之を日本の三公園と称す。然れども高松の栗林公園は木石の雅趣却つて批の三公園に優れり。」と書かれています。

 これらは、いずれも大名庭園と呼ばれるものです。江戸時代、大名は国許の城内や下屋敷(しもやしき)、あるいは江戸の上屋敷(かみやしき)・下屋敷などに数千坪から十数万坪におよぶ広大な庭園を所有していました。これらの庭園の多くは、大きな池を海にたとえて中心にすえ、その周りに起伏に富んだ地形をもって山・谷・平野を表現して、池の周りを散策できるように整備された池泉回遊式(ちせんかいゆうしき)と呼ばれる庭で、「儀礼」と「社交」の場として用いられました。

 そのためのさまざまな趣向が加えられており、一種のワンダーランドでした。広大な庭園には、樹木や草花などが随所に植えられ、さらに花壇や鉢植棚が設けられて観賞用の花や木が栽培されていました。この栽培技術をもとに薬草園も設けられていました。さらに「御庭焼(おにわやき)」と呼ばれる陶磁器も生産され、大名の趣味的なやきものばかりでなく、殖産興業を目的としたやきものの 試験場的な役割もありました。

 現在、大名庭園は全国に38ヵ所残っています。本県ではこのうち栗林公園と丸亀の中津万象園の2庭園が残っています。38庭園のうち特別名勝に指定されているものは、全国で8庭園のみで、栗林公園は大正11年に「名勝」に指定され、昭和28年に「特別名勝」に指定されています。名勝は我が国の優れた国土美の代表として学術的価値の高いもので、そのうち価値の特に高いものが特別名勝です。特別名勝は価値の特に高い有形文化財が国宝とされているのと同じ取り扱いです。栗林公園が“お庭の国宝”と呼ばれる所以です。

 栗林公園以外で特別名勝に指定されている大名庭園は、東京都の「浜離宮恩賜庭園」・「小石川後楽園」・「六義園(りくぎえん)」、金沢市の「兼六園」、福井市の「一乗谷朝倉邸跡庭園」、京都市の「二条城二の丸庭園」それと岡山市の「後楽園」です。日本三大庭園の一つの「偕楽園」は史跡・名勝に指定されていますが、特別名勝には指定されていません。

 栗林公園の歴史は古く、今から約400年前、豊臣秀吉の家臣であった生駒氏の時代まで遡ります。生駒家の家臣佐藤道益(みちます)がこの地に屋敷を構えたのが始まりといわれています。「浜離宮恩賜庭園」、「小石川後楽園」、「六義園」、「兼六園」、「二条城二の丸庭園」、「後楽園」はいずれも江戸時代に入って築かれた庭園ですから、栗林公園の方が古いといえます。「一乗谷朝倉邸跡庭園」は室町時代の庭園ですが、埋没していたものを発掘復元した遺跡です。

 栗林公園の地は、御林(おはやし)また栗の木が植えられていたので栗林と呼ばれていました。また旧香東川の川筋に当たり伏流水が豊かで、紫雲山を借景としていることから、庭園の立地条件として最適の土地でした。生駒氏の後を受け継いだ松平氏は別邸(栗林荘と呼ばれていたようです。)として築庭を続け、庭園としての完成をみたのは五代頼恭(よりたか)のときです。延享元年(1744年)に大改修を行い、儒学者の中村文輔に命じて、湖、岡、島などに名称を記させました。現在呼ばれている名所地の名前はこのときつけられたものです。初代頼重から五代頼恭(よりたか)までじつに約百余年間にわたる整備によってようやく完成したのです。

 明治4年7月廃藩置県によって栗林荘は高松県の所有となり、その後、明治8年3月16日、「栗林公園」という名称で公開されました。しかし、英語では「park」よりも「garden」という語の方がイメージに合っていると思われます。「公園」という名称が用いられたのは、明治初期における文明開化の新時代の風潮を意識してのことかもしれません。



 栗林公園ホームページ





 




 


 


 


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(28)“最後の高松藩主は最後の将軍徳川慶喜の従兄弟”

 松平頼聰(よりとし)は安政8年(1861年)に第十一代高松藩主となります。一方、徳川慶喜は慶応2年(1866年)12月に第十五代将軍となります。頼聰は最後の高松藩主で、慶喜は江戸幕府最後の将軍です。また彼らは従兄弟どうしです。頼聰の父である第九代高松藩主・松平頼恕(よりひろ)は、慶喜の父である第九代水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)の実兄に当たり、頼恕と斉昭の父は第七代水戸藩主・徳川治紀(はるとし)です。

 慶応3年(1867年)10月14日、将軍徳川慶喜は朝廷に大政奉還の上奏を行い、朝廷は翌15日にこれを受理します。これにより徳川幕府は形式上その幕を降ろします。しかし、大政奉還は徳川家の政治生命の断絶を告げるものではなく、新政府に徳川家も加わることでその力を温存するという狙いがありました。しかし、岩倉具視や薩摩藩・長州藩は、新国家に徳川家の勢力が残されることを嫌い、密かに討幕を企てていました。

 12月9日、朝廷は王政復古の大号令が発します。その日の夜、宮中の小御所(こごしょ)で三職による会議が開かれます。この会議では、岩倉・薩摩藩・長州藩を中心とする倒幕派と、旧幕府を含めた諸藩連合を目指す土佐藩・越前藩らの公議政体派とが対立します。結局討幕派が公議政体派を押さえ込み、徳川慶喜を新たな政府の高官から除外し、官位も領地も没収するという徳川家を排除した宣言が出されます。これは討幕派によるクーデターでした。この会議は「小御所会議」と呼ばれています。12日、討幕派との衝突を恐れた慶喜は大阪城に退きます。

 一方、江戸市街では、薩摩藩士による挑発的な破壊工作が行われます。このため慶喜の周囲では「討薩」を望む声が上がり、旧幕府側の会津・桑名・姫路・松山・大垣藩らの兵約1万5千が大阪城を出発し、京へ向かって進軍します。このとき、高松藩大阪藩邸には家老の小夫兵庫・小河又右衛門の指揮のもとに藩兵が駐屯しており、銃手八小隊(約350人)が旧幕府軍の一翼として従軍しています。

 慶応4年(1868年)年1月3日の夕方、ついに旧幕府軍と薩摩・長州・土佐兵による官軍が下鳥羽付近で軍事的衝突を起こし、伏見でも衝突して戦端が開かれます。これが鳥羽・伏見の戦いです。この戦いでは高松藩兵も薩摩・長州藩兵と交戦し、重軽傷者5人を出します。

 旧幕府軍は兵力で新政府軍に勝っていましたが、その装備は旧式のものがほとんどであり、新型の洋式銃で武装した新政府軍に思わぬ苦戦を強いられます。さらに翌日4日に、官軍であることを示す「錦の御旗」が新政府軍に掲げられると、旧幕府軍のほとんどが戦意を喪失してしまいます。

 大坂城に構えていた徳川慶喜は「逆賊」の汚名を着せられることを恐れ、追討令が出た報を聞くと、7日には多くの兵士を置き去りにし、僅かな側近らと共に密かに城を脱し、大阪湾に停泊中の幕府軍艦・開陽丸で江戸に退却します。このため多くの藩が旧幕府軍を見限り、この戦いは旧幕府軍の全面敗北となりました。高松藩も、小夫兵庫・小河又右衛門の両家老が敗兵を率いて大坂から高松へ逃げ帰ります。

 江戸に戻った慶喜は上野の寛永寺で謹慎し、天皇に反抗する意志がないことを示そうとします。しかし、薩摩藩・長州藩を中心とする新政府軍は、鳥羽・伏見の戦いに参戦したことを理由に、旧幕府とともに高松藩・松山藩・大垣藩・姫路藩などを朝敵とし、徳川慶喜以下その藩主の官位を剥奪します。

 四国内では、11日、朝敵となった高松と松山藩を征討すべしとの朝命が土佐藩に対して下ります。土佐藩はすぐに朝敵追討の軍を起こし、まず松山・松平家を帰順させ、予讃の国境を越えて、讃岐に入ります。

 高松藩内は混乱し、帰順か抵抗か、藩論は容易に決まらず、三日三晩にわたって城中で評定が続けられますが、ついに朝廷に御赦免を願い出るという恭順説に衆議は決まります。当時の激論を続けた藩内の情景を、高松出身の作家菊池寛は、「時勢は移る」と題して発表しています。18日の夕刻、鳥羽伏見の直接の責任者であった家老の小夫兵庫・小河又右衛門に切腹が命じられます。兵庫は三番丁の正覚寺、又右衛門は浜の丁の弘憲寺で切腹しました。二人の首は、その時姫路まで下っていた征討軍総督の陣営へ届けられます。

 19日には3千に余る大軍の土佐藩兵が丸亀城下に到着し、その日の夜、藩主松平頼聰は城を出て浄願寺に入り謹慎します。この土佐軍の参謀兼大隊司令は、板垣退助でした。20日、丸亀・多度津藩兵250人が先鋒として高松城下に入り、その日の夕刻、錦御旗を先頭にした土佐藩兵が大手門から高松城に入り、高松藩は土佐藩征討軍の占領下となります。

 高松藩が許されて土佐藩征討軍の高松占領が終了したのは約1ヵ月後のことです。江戸城が無血開城されたのは、その後の4月11日のことです。

 しかし家老の二つの首だけでは高松藩は許してもらえず、免罪のため、12万両を新政府の要求に応じて献納させられています。松平家は重宝を売り払って2万4千両を第3回分として上納したといいます。

 この年の9月8日、年号が慶応から明治に改められます。また、9月22日には白虎隊で有名な会津戦争が終結します。この戦では高松藩兵約500人が官軍として従軍しています。

 高松藩は朝敵となったことにより藩閥政府からにらまれ、明治期には旧高松藩の子弟は陸軍士官学校に入学できず、籍を大坂に移して受験した者もいたといいます。明治から大正にかけて香川県人で中央の軍、官界で名をなした者が極めて少ないのは、この事件が長く影を落としたためともいわれています。

 明治2年6月17日、版籍奉還が行われ、高松藩では松平頼聰が藩知事となります。しかし、新政府は、明治4年7月14日に廃藩置県を行い、それまでの藩を廃止して、地方統治を中央管下の府と県に一元化し、さらに藩知事の職を解き東京移住を命じます。頼聡もこれを受け出港しようとしますが、農民たちは蓑笠(みのかさ)を着て頼聡の上京を阻止するために立ち上がるという事件、「蓑笠騒動」が起きています。

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(27)“井伊直弼と徳川斉昭との板挟みにあった高松藩主”

 高松松平藩は、初代藩主が徳川御三家の一つ水戸藩の初代藩主・徳川頼房(よりふさ)の長男である松平頼重(よりしげ)、また2代藩主が頼重の実弟である水戸2代藩主・徳川光圀(水戸黄門)の息子・頼常(よりつね)であり、さらに水戸3代藩主が頼重の息子・綱条(つなえだ)ということもあり、水戸藩とは非常に深い関係にありました。
 水戸7代藩主・徳川治紀(はるとし)には、長男・斉脩(なりのぶ、寛政9年(1797)生)、次男・頼恕(よりひろ、寛政10年(1798)生)、三男・斉昭(なりあき、寛政12年(1800)生)の3人の息子がいました。
 長男の斉脩は、文化13年(1816)、治紀の後を継いで水戸8代藩主に就任します。次いで、次男の頼恕は、高松8代藩主・松平頼儀(よりのり)の長女倫姫(みちひめ)と結婚し、文政4年(1821)に高松9代藩主となります。このとき、頼儀には道之助(後の松平左近頼該(よりかね)と貞五郎(後の松平頼胤(よりたね))の2人の息子がいましたが、弟の貞五郎を次の高松10代藩主とすることとし、兄の道之助を廃嫡とします。
 文政12年(1829)、水戸藩では斉脩が亡くなり、三男の斉昭が水戸9代藩主となります。これにより、その後約13年間、幕府初期における松平頼重と徳川光圀の関係と同じように、高松藩主が兄、水戸藩主がその弟という関係が続きます。

 天保13年(1842)、高松藩では、水戸出身の頼恕の後、斉昭の義理の甥にあたる松平頼胤が10代藩主になります。
 弘化元年(1844)、徳川斉昭は、藩政改革の行き過ぎを幕府に咎められ隠居処分を受けます。斉昭のあとは13歳の慶篤(よしあつ)が継ぎ、高松藩主の松平頼胤が守山・宍戸両藩主とともに幕府の意向を受けて、水戸藩を後見することになります。水戸藩の混乱は尊王攘夷を説く斉昭派とこれに反発する保守派の対立が原因でしたが、頼胤が保守派と提携を強めていったため、水戸の尊王攘夷派は頼胤に対して強い反感を抱くようになります。

 嘉永6年(1853年)6月ペリーが浦賀に来航し、翌年幕府は日米和親条約を締結して下田・函館の2港を開きます。しかし、米国総領事ハリスは、幕府に対してさらに通商条約の調印を迫ります。この問題について、幕府主流派は開国・通商条約締結の方針をとりますが、斉昭をはじめとする攘夷派はこれに強く反対し、国内は開国論と攘夷論に分かれ容易に収束しない状況となります。これに対して幕府は、条約調印について朝廷の勅許を受けるということで事態の打開を図ろうとします。
 折から、将軍家定の継嗣をめぐる対立が政治問題化します。幕政の改革と発言力の強化を求める雄藩藩主らは、徳川斉昭の子で英明と噂されていた一橋慶喜(よしのぶ)(後の徳川慶喜)を支持し、一橋派と呼ばれていました。これに対して、系統重視の幕府主流派は紀伊藩主・徳川慶福(よしとみ)(後の徳川家茂)を推し、南紀派を形成していました。
一橋派は、徳川斉昭のほか、福井藩主・松平慶永(よしなが)、薩摩藩主・島津斉彬らです。一方の南紀派は、彦根藩主・井伊直弼(なおすけ)のほか、会津藩主・松平容保、高松藩主・松平頼胤ら江戸城溜間詰(ためりのまづめ)の大名が中心でした。溜間詰は老中と列座する幕政の中枢で、中でも彦根井伊家、会津松平家、高松松平家は常溜(つねのたまり)という上位の家格でした。
 さらに、高松松平家では、頼胤の実姉が直弼の兄直亮(なおあき)の前夫人であり、また頼胤の世子である頼聰(よりとし、頼恕の息子)の正室に直弼の娘・弥千代姫を迎え、彦根井伊家とは同じ常溜の家として厚い親交関係にありました。ちなみに、この縁で昭和41年8月15日に彦根城と高松城とは全国で始めて姉妹城縁組が結ばれています。
 このような関係もあり、高松藩は彦根藩とともに開国・南紀派の幕府主流派を形成していました。しかし、一方で、頼胤の義理の叔父にあたる水戸の斉昭は幕政を非難してその改革を要求する攘夷・一橋派のリーダーであり、頼胤は板挟みにあう関係にありました。
 かくて将軍後継問題と外交問題がからんで政治情勢は複雑怪奇なものとなり、両派と攘夷派志士たちは入り乱れて奔走しました。

 条約調印について孝明天皇の勅許が不承認となった直後の安政5年(1858年)4月、開国・南紀派井伊直弼が大老職に就任します。直弼は任命されると政務を専断し、6月に日米修好通商条約の調印を断行し、徳川慶福(家茂)を将軍継嗣(けいし)と決定します。
 徳川斉昭らは違勅調印を激しく非難し、尾張藩主・徳川慶勝、松平慶永らとともに不時登城を行い、直弼を詰問します。これに対して7月直弼は彼らに対して隠居謹慎などの処分を下します。このため、頼胤と斉昭の関係も極めて険悪となり、水戸では頼胤が水戸藩主の地位を狙っているという噂まで流れます。
 8月に入ると、幕府が無断で条約に調印したことに激怒した孝明天皇が水戸藩に勅書を下します。しかしそれは、前例のない藩への直接降下でした(これを戊午の密勅といいます)。大老井伊直弼はこれを水戸藩の幕府転覆の陰謀と考え、密勅降下に関係した者、及び政敵である一橋派の徹底弾圧にのりだします。これが安政の大獄の始まりです。弾圧されたのは尊王攘夷派及び一橋派の大名・公卿・志士らで、連座した者は100人以上にのぼりました。橋本左内、頼三樹三郎、吉田松陰らもこのとき死罪となっています。高松藩でも長谷川宗右衛門、速見父子が連座しています。

 これにより井伊直弼は、特に水戸藩から強い恨みをかい、万延元年(1860)3月3日、登城途中の江戸城桜田門で水戸藩の浪士から襲撃を受け暗殺されます。これが桜田門外の変です。直弼以外にも御供8人が死亡し、13人が負傷しました。斬奸状の中には頼胤の名も含まれていました。桜田門外の変のとき、頼聰は舅である直弼登城の行列に加わっていましたが辛くも難を逃れます。翌年、頼胤は病を理由に隠居し、家督を頼聰に譲ります。
 井伊直弼が暗殺された事により弾圧は収束しますが、さらに文久2年(1862)水戸浪士は坂下門外で老中安藤信正を襲撃します。相次ぐテロにより幕府権力は衰退に向かい、薩摩・長州など西南雄藩が中央に進出し、かつて直弼に退けられた一橋慶喜が将軍後見職に、松平慶永が政事総裁職に任じられるなど幕閣では一橋派が復活します。また将軍家茂と和宮の婚儀が成立して公武合体路線が進められます。
 逆に井伊家と親しい高松藩では頼胤に蟄居が命ぜられ、頼聰も自ら請うて30日の閉門に服します。さらに翌年、頼聰は直弼の娘である千代姫を離婚して実家に戻し、井伊家との絶縁を宣言します。頼聰は最後の高松藩主で、二人が再び夫婦になったのは明治になってからのことです。

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(9)“柳沢吉保と讃岐高松藩との名刀をめぐる確執”

 柳沢吉保といえば、元禄時代、五代将軍徳川綱吉の側近として権勢をふるった人物といわれています。この吉保と高松藩二代藩主・松平頼常(よりつね)(水戸光圀の実子)は、名刀“真守”(さねもり)をめぐって暗闘をくりひろげています。

 高松松平家には、“真守”という名刀がありました。この太刀は平安時代中期頃の名工真守の作で、初め源義光が帯刀していたものです。源義光は新羅三郎(しんらさぶろう)といい、前九年・後三年の役で活躍した八幡太郎・源義家の弟です。

 “真守”は、義光の子孫である甲斐武田氏に代々伝えられ、武田信玄も帯刀していました。武田氏が織田信長に滅ぼされた後、“真守”は徳川家康の手に渡り、家康からその末子である水戸藩初代藩主・徳川頼房(よりふさ)へと伝えられました。

 水戸藩では“真守”を家宝としていましたが、二代藩主・徳川光圀のときに、高松松平家へ譲られました。これは、高松藩初代藩主である松平頼重(よりしげ)が光圀の兄に当たり、光圀は水戸藩を本来継ぐのは兄の頼重であるという思いによるものでした。

 吉保は、自分は武田の出であるから一見させてほしいと、頼常にから“真守”を借り受けました。ところが返さず、そのまま自分の持ち物としてしまいました。 頼常は光圀の子らしく、側近政治を好まず、吉保との仲もよくなく、当時高松藩国替えのうわさもあったといいます。このため頼常は幕府の実権を握った吉保に屈し、泣く泣く“真守”を贈りました。

 将軍綱吉の死去によって吉保が権力の座からしりぞけられた後、高松松平家は柳沢家に“真守”の返却を申し入れました。しかし柳沢家がこれを拒んだので、ついに三代水戸藩主・徳川綱条(つなえだ)(頼重の実子)が柳沢家に命じて、高松松平家に返却させました。

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