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(89)“日本最初の「洋画家」のコレクションがある金刀比羅宮”

 高橋由一(たかはしゆいち)は、日本で最初に本格的な油絵技法を習得した「洋画家」といわれています。精密で写実的な画風が特徴といわれており、片反身をそいだ塩鮭を描いた「鮭」や、吉原の遊女をリアルに描いた「花魁」などがその代表作です。
 金刀比羅宮には、この由一の油絵が27点もあり、社務所横にある「高橋由一館」で展示されています。これほどの数と質の高いコレクションは、東京芸術大学を除いては存在しないといわれています。

 高橋由一は文政11年(1828)、下野佐野藩士の子として江戸に生まれました。生来病弱のため武芸を諦め、11歳ごろから狩野派の日本画を学びます。20歳まもなくのころオランダの石版画を見て西欧画に魅せられ、34歳のとき幕府の蕃書調所画学局に入り川上冬崖(とうがい)の指導を受け、38歳のとき横浜に住んでいたイギリスの新聞記者ワーグマンに師事します。翌年藩命で上海へ、ついで幕府遣欧使節団の一員として渡欧し、オランダの油彩画に刺激されます。
 1868年40歳のとき明治維新となり、その後下級官吏・教員を1年ずつでやめ、45歳のとき日本橋に私塾天絵楼(しんかいろう、のち天絵舎、天絵学舎)を創設し、後進の指導に当たります。52歳のとき、わが国最初の美術雑誌「臥遊席珍」を創刊し、54歳のとき来日したイタリア画家フォンタネージに油絵を教わります。

 高橋由一と金刀比羅宮との結びつきは、当時の宮司である琴陵宥常(ことおかひろつね)と由一との間に交流があったためです。
 金刀比羅宮は三代将軍徳川家光の時代から明治になるまで幕府の朱印地で、台替わりのたびに幕府に参上して新しい朱印状を拝受していました。宥常は、安政5年(1858)に時の将軍徳川家定に拝謁しています。こうしたことから、宥常は幕末から明治にかけての江戸・東京の文化にも深い関心があったのでしょう。
 宥常は、近代金刀比羅宮の隆盛を築いた人物といわれており、海難救助事業の組織化、博覧会の開催などの社会活動のほか、教育、文化、芸術にも援助を行いました。

 明治11年(1878)、金刀比羅宮では、翌年の遷座祭を記念して開催される琴平山博覧会に向けて、本宮の造営など大規模な工事が行われていました。この年の8月、由一は「二見ヶ浦」と小襖仕立の「貝図」を金刀比羅宮に奉納しており、「貝図」は崇敬講社本部のために描かれたものです。
 そしてこの年の11月、由一は、自ら主催する画塾「天絵舎」の拡張資金融資を金刀比羅宮に依頼し、翌明治12年2月には35点の油絵を奉納して資金200円を受領しています。
 琴平山博覧会は、明治12年3月1日から6月15日まで開催され、会場は機械館、鉱物館、農業館、宝物館、美術館、織物館などから成り、入場者は26万人、出品数は8万2500点に及び大盛況でした。このとき由一の油絵は書院の長押に展示されました。
 翌明治13年12月から14年1月中旬まで約40日間、由一は琴平に滞在して「海魚図」「桜花図」を奉納し、現地で「琴平山遠望」、「琴平山下石淵川の図」、「深見速雄像」、「琴陵宥常像」を描いています。
 なお、この記事については、(21話)“こんぴらさんはガンジス川のワニ”も参考にしてください。

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(87)“志賀直哉の「暗夜行路」に描かれた多度津の港と鉄道”

  多度津の港は古くから良港として栄え、その名の示す通り多くの船が出入りし、江戸時代の中頃には、九州や中国方面からの金比羅詣りの西廻り船が多く来ていました。その頃の港は櫻川の河口港でしたが、五代多度津藩主・京極高琢(たかてる)は、天保6年(1835)から5か年計画で大拡張改修工事を計画し、総工費6200両余という巨費を投じて、内海屈指の港を完成させました。この湛甫(たんぽ)の完成により、金毘羅船はもとより近海の漁船をはじめ五島船や北前船も出入りするようになり、多度津の町はますます活気づきました。
 幕末になると多度津の港は丸亀の港を凌いで、讃岐三白の砂糖や塩、綿を積み込み、西廻り航路で日本海に抜け、越前、佐渡や遠くは北海道まで廻航し、帰りには干鰯、塩鯖、扱苧、鉄、半紙、肥料などを持ち帰って手広く売りさばく北前船の基地となりました。こうして多度津の町は、千石船とともに、廻船問屋、よろづ問屋、干鰯問屋などが集まる商家の町として全盛をきわめました。

 明治時代に入ると、多度津から香川県内で初めて鉄道の建設が始まりました。多度津の景山甚右衛門(かげやまじんうえもん)ほか17名が讃岐鉄道株式会社を設立し、金毘羅参詣客をあてこんで建設したものです。
 甚右衛門は、幕末の安政2年(1855)に、多度津の回船問屋大隈屋の5代目として生まれました。明治11年、血気盛んな二十歳の頃、自家の千石船に乗って上京したとき、新橋~横浜間を走る汽車を目にし、讃岐に鉄道を開設する決意をします。明治18年、29歳のときに計画し、4年かって、多度津を起点とする琴平と丸亀間の15.5キロを明治22年5月23日に開通させました。
 しかし、この開通はすんなりと進んだわけではなく、岡蒸気が走るという噂が広がると、当時の馬方(うまかた)や人力車夫たちは、生活ができなくなるといって、連日、甚右衛門宅に押しかけ「やめなければ、家を焼き払うぞ」といって脅したといわれています。
 開通時の機関車はドイツのホーヘンオレルン社製のタンクで、客車はマッチ箱のような型をしていました。貨客4両編成で、上、中、下等の3ランクに分かれ、今とは逆に琴平行きが上りになっていました。後には食堂車も走らせ、袴(はかま)をつけた「女ボーイ」が給仕をしたそうです。
 わが国で初めて鉄道が開通したのは、明治5年5月7日(1872)の横浜~品川間ですから、讃岐鉄道の開通はそれから17年後のことでした。なお、これは全国では7番目、四国では松山の伊予鉄道に遅れること7ヶ月で2番目でした。ただし、明治9年8月から明治21年12月までの間、讃岐は愛媛県に編入されていた時代であることを考えると、このことは讃岐の実業家の意気軒昂さを示すものといえるでしょう。

 一方、多度津港は、明治期に入り、大型船の入港ができるようにするため、浚渫、港内改築が行われました。明治27年の船舶入港数は多度津港が30,737艘であったのに対し、高松港は3,430艘であり、多度津港は県内最大の港湾でした。なお、日露戦争(明治37年~38年)の時に「一太郎やーい」の美談が生まれたのもこの港です。
 多度津港はその後も絶えず改修が重ねられ、特に明治40年の頃からは町営事業として桟橋工事、突堤築造、浚渫(しゅんせつ)、埋立て工事等が行われて有数の良港となり、大阪商船や関西汽船等が出入りしました。
 こうして多度津は明治43年に宇高連絡線が開通するまで、港と鉄道によって四国の玄関としての地位を占めました。

 また多度津は香川県の電力事業の拠点でもありました。明治40年、景山甚右衛門は、需要の伸び悩みから創立以来10年間も無配で経営不振だった讃岐電気株式会社(旧西讃電灯株式会社)の再建を託されます。明治43年、甚右衛門は社名を「四国水力電気株式会社」(四水(しすい)と略称された。)と改称し、当時中央電力界の第一人者であった福沢桃介(ももすけ)を懇請のうえ大正元年に社長として迎え入れ、経営の刷新を図ります。福沢桃介は福沢諭吉の女婿(じょせい)です。大正3年(1914)、四水の本社は多度津に設けられています。
 その後、四水の経営は福沢桃介から甚右衛門に引き継がれ、県内のほとんどの電灯会社をつぎつぎと合併して県下の電力供給を一手に引き受ける「四水王国」を築いていきます。また、東讃電気軌道会社(高松~志度)や、高松電気軌道株式会社(高松~長尾)、琴平電鉄株式会社(高松~琴平)など電車部門もその傘下に入れていきます。
 甚右衛門は、昭和12年10月19日83歳で死去するまで30年近く四水の経営に携わり、全国電力業界では「四水の景山」として知られていました。鉄道、電力のほか銀行の創業や経営にもたずさわり、貴族院議員として中央政界でも活躍し、いわゆる地域開発の先覚者といえる人物です。

 明治・大正の初めにかけて、多度津は香川県の近代産業の中心として栄えました。多度津には「多度津の七福神」と呼ばれた大地主あるいは実業家が居住し、大正時代には大邸宅が多く建てられました。

 大正2年(1913年)2月、志賀直哉は尾道から船に乗り、多度津港へ上陸し、琴平・高松・屋島を旅行しています。その旅行を基に書かれた小説「暗夜行路」前編の第2の4には、当時の多度津の港や駅の様子が次のように描かれています。なお、当時の多度津駅は桜川の河口に面する現在の多度津町民会館の位置にありました。
 「多度津の波止場には波が打ちつけて居た。波止場のなかには達磨船、千石船といふやうな荷物船が沢山入つて居た。
 謙作は誰よりも先に桟橋へ下りた。横から烈しく吹きつける風の中を彼は急ぎ足に歩いて行つた。丁度汐が引いてゐて、浮き桟橋から波止場へ渡るかけ橋が急な坂になつてゐた。それを登つて行くと、上から、その船に乗る団体の婆さん達が日和下駄を手に下げ、裸足で下りて来た。謙作より三四間後を先刻の商人風の男が、これも他の客から一人離れて謙作を追つて急いで来た。謙作は露骨に追ひつかれないやうにぐんぐん歩いた。何処が停車場か分らなかつたが、訊いてゐると其男に追ひつかれさうなので、彼はいい加減に賑やかな町の方へ急いだ。
 もう其男もついて来なかつた。郵便局の前を通る時、局員の一人が暇さうな顔をして窓から首を出してゐた。それに訊いて、直ぐ近い停車場へ行つた。
 停車場の待合室ではストーヴに火がよく燃えてゐた。其処に二十分程待つと、普通より少し小さい汽車が着いた。彼はそれに乗つて金刀比羅へ向つた。」

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(72)“砂糖と醤油で栄え、我が国で初めてハマチ養殖に成功した町”

 大坂湾から船で西に進み明石海峡を抜けると瀬戸内海の播磨灘(はりまなだ)に至ります。ここは、東西南北を、それぞれ淡路島、小豆島、四国、本州で囲まれた瀬戸内海東部の海域です。ここには現在でも近畿地方から中国地方・四国地方・九州地方方面への重要な航路が横断しています。
 播磨灘に面する市町村は、淡路島側に兵庫県の3市(南あわじ市・洲本市・淡路市)、本州側に兵庫県の7市1町(明石市・播磨町・加古川市・高砂市・姫路市・たつの市・相生市・赤穂市)、小豆島側に香川県の1町(小豆島町)、四国側に香川県の2市(さぬき市・東かがわ市)と徳島県の1市(鳴門市)があります。

 播磨灘に面する東かがわ市引田町は香川県の一番東端にある町です。引田湾に突き出た標高82mの半島が北西の風を防ぎ、天然の良港となっていました。このためこの地は室町期から江戸期を通じて港町として物資の集散地となり、日用品や穀物・紙・綿などを扱う商家が軒を並べ、町は活気にあふれていました。
 この地方は干ばつの被害が大きいため、江戸時代、高松藩主が稲作にかえて砂糖黍の生産を奨励しました。それにより、この地方ではサトウキビの栽培や製糖法が生み出されました。これが今、引田の特産品となっている「三盆糖」です。糖業の隆盛とともに豪農があちこちに出現し、門構え、白壁の練塀を巡らした豪邸が多く建っていったといいます。しかし、明治期に急激に衰退しました。
 また、この地方は古来より、良質の塩の産地でした。引田の塩造りは、藻塩焼、自然浜の時代を経て揚浜式塩田へと発展し、生駒親正が讃岐の領主になってからは、殖産業として塩業を振興し、塩屋から安戸浜さらに松原浜へと広がり、安戸には塩庄屋が置かれるほど発展しました。
 この良質の塩と海運の便を生かし、引田では元禄の頃に醤油の醸造が始まったといわれています。元録11年(1698)に原料の小麦・大豆を備前と高松で大量に買いつけ、引田浦で荷揚げしたことが藩への届出に残っているそうです。その後、引田の醤油屋は米屋、井筒屋の2軒が順調に発展し、池田屋、花屋も創業し、寛政末(1790)から文化・文政期(1804~29)にかけて急速に発展しました。
 町中には大庄屋といわれる日下家、醤油屋の井筒屋(佐野家)と岡田屋(かめびし屋)の岡田家などの、かっての御三家がそのまま残っていて、古い伝統的な商家が軒を連ね、白壁の土蔵、白壁の土塀など江戸時代の景観を残しています。

 また、引田の安戸池(あどいけ)は我が国で初めてハマチの養殖に成功したところとしても知られています。引田の網元の三男として生まれた野網和三郎(1908(明治41年)~1969(昭和44年))は、1927年(昭和2年)から安戸池でかん水(海水)による養殖実験を開始しました。当時は、魚の養殖といえば、ウナギやコイといった淡水魚に限られていて、海の魚を飼うなどというのは人知を超えることと笑われた時代でした。
 和三郎は試行錯誤の末、1928年(昭和3年)ハマチの餌付けに成功し、本格的なハマチ養殖事業を開始します。その後、香川のハマチ養殖は順調に伸び、今では全国屈指の生産量を誇ります。ハマチは、成長するにつれて、モジャコ、ツバス、ハマチ、ブリと名前が変わる出世魚としても知られ、香川県の県魚にも指定されています。

 砂糖については、(41)「和三盆のふるさと讃岐」をお読みください。
 また、引田は江戸時代の科学者である久米通賢の生誕地です。このことについては、(58)「伊能忠敬より進んだ測量技術を持った江戸時代の先端科学者で塩田の父」をお読みください。
 さかのぼって、戦国時代、引田で豊臣秀吉と長曽我部元親の戦がありました。このことについては、(13)「賤ヶ岳の合戦があった同じ日に讃岐であった合戦」をお読みください。
 なお、引田の西隣りの白鳥には、白鳥神社という大社があります。このことについては、(19)「讃岐に残る日本武尊の白鳥伝説」をお読みください。


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(53)“世界最初に固定翼型飛行原理を着想した地”

 京都の八幡市に“飛行神社”という航空の先覚者と航空殉難者を祀る神社があります。この社は、天磐船に乗って空を翔けたという饒速日命(ニギハヤヒノミコト)を祭神とする奈良県生駒郡の矢田大宮から分詞して、二宮忠八(にのみやちゅうはち)が自ら神主となって創建したものです。
 1903年(明治36年)12月17日、アメリカのライト兄弟が人類史上初めて有人飛行に成功しましたが、忠八はそれに先立ち動力付き有人飛行機を着想したことで知られています。

 忠八は、1866年(慶応2年)、現在の愛媛県八幡浜市に商家の四男坊として生まれました。12歳のときに父が亡くなり家が困窮したため、町の雑貨店や印刷所の文選工、薬屋などで働く一方、物理学や化学の書物を夜遅くまで読み耽けっていたといいます。また、生計の足しに自ら考案した凧を作って売り、この凧は「忠八凧」と呼ばれて人気を博したそうです。この経験が後の飛行機作りの原型になったともいわれています。
 1887年(明治20年)、徴兵され、香川県の丸亀歩兵第12連隊第1大隊に入隊します。そして、1889年11月のある日、野外演習の休憩で昼飯を食っているときに滑空しているカラスを見て、羽ばたいていないのに気付き、翼で向かってくる風を受けとめることができれば、空を飛ぶことができるのではないかと考えました。当時までの飛行研究は鳥の羽ばたきに重点をおいており、この着想は画期的なものでした。その場所が、まんのう町追上の樅(もみ)ノ(の)木(き)峠です。
 これを基に忠八は、カラス型の模型飛行機を作成し、1891年(明治24年)4月29日、3mの滑走の後10mを飛行させて、日本初のプロペラ飛行実験を成功させました。さらに2年後の10月には有人飛行を前提にした四枚翼飛行機「玉虫型飛行器」の模型を作成しました。

 その後、日清戦争時に衛生卒として赴いた忠八は、戦場での飛行機の有効性について考え、有人の「玉虫型飛行器」の開発を上司に上申しました。しかし、「戦時中である」という理由で却下されました。
 軍は乗り気でないと感じた忠八は退役して製薬会社に入社します。ところが、そこで経営手腕を大いに発揮して業績を挙げ、ついには大阪実業界で重きをなすまでになります。経済的余裕のできた忠八は、会社の経営のかたわら、再び飛行機研究に没頭します。
 しかし、1903年(明治36年)12月17日、ついにライト兄弟が有人飛行に成功します。このニュースはすぐには日本に伝わらなかったようですが、その成功を知ったとき、忠八は愕然とし、動力源以外すでに完成していた飛行機の開発を取りやめてしまいました。
 
 その後、1919年(大正8年)、忠八は同じ愛媛県出身の白川軍中将を知り、かって軍に却下された研究書類を手渡します。白川がそれを専門家に諮ってみると、その飛行原理は正しく、しかもライト兄弟より前に発見、設計製作もされていたことが分かりました。こうして忠八が飛行機を考案してから30年の後、ようやくその飛行原理の真価が認められ、忠八の物語は国語の国定教科書にも載せられ、その名は全国に知られるようになりました。 忠吉はその後、大正4年に自宅の邸内に飛行神社を創建し、1936年(昭和11年)、71歳で亡くなりました。



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(43)“善通寺の師団長を務めた乃木希典”

 東京に乃木坂というところがありますが、これは近くに乃木神社があることからそう呼ばれるようになったものです。乃木神社は、明治時代に活躍した軍人の乃木希典将軍を祀った神社で、東京以外では、京都市・下関市・函館市・室蘭市・栃木県那須郡・滋賀県蒲生郡にもあり、それと弘法大師空海の生誕地で知られる本県の善通寺市にもあります。

 乃木希典は、幕末の嘉永2年(1849年)11月に禄高80石馬廻格の長府藩士の子として生まれました。のち松陰の叔父にあたる萩藩の玉木文之進の指導を受け、つづいて萩藩校の明倫館で学んでいます。明治2年には彼は伏見親兵兵営に入り、ここでフランス式の軍事訓練を受け、職業軍人として歩み始めます。明治10年、29歳のときには第14連隊長心得として西南の役に出陣しますが、熊本城攻撃の最中に連隊旗を失うという失態をしています。明治27年に日清戦争がはじまると第1旅団長として参戦しています。

 日清戦争後、陸軍が従来の7個師団から13個師団に増師されるのに伴って、明治31年12月、四国四県を一管区とした師団が善通寺に置かれることになりました。第11師団は、丸亀歩兵第12連隊・徳島歩兵第43連隊・高知歩兵第44連隊以下、野砲・輜重(しちょう)・工兵・騎兵隊などで編成されていました。これに伴い、乃木中将が初代師団長として赴任してきました。ときに50歳でした。乃木中将は、明治31年(1898年)10月3日から34年(1901年)5月まで善通寺第十一師団長を務め、金蔵寺の客殿を宿泊所としていました。善通寺へは単身赴任でした。

 明治37年(1904年)2月に日露戦争が勃発すると、四国の第11師団にも動員令が下り、多度津港から出征しました。第11師団は第3軍に編成され、旅順攻撃軍に加わりました。司令官はかつての第11師団の師団長であった乃木大将でした。しかしロシア軍のコンクリートと機関銃で固めた要塞は容易に陥落せず、日本軍は3度にわたる総攻撃で多大の死傷者を出しながらも前進することができませんでした。司令官が児玉源太郎に交代し、攻撃目標を203高地に切り替え、ようやくこれを占領して旅順を陥落させることができました。その後、奉天の会戦、日本海海戦で日本軍は勝利し、明治38年9月5日にポーツマス講話条約が成り、第11師団は、11月14日から翌年2月18日までに帰国の途につき、多度津港に上陸凱旋してきました。県の発表によれば、県下の戦死者数は、戦死者1481名、病死368名でした。

 明治44年9月13日(1912年)、明治天皇が崩御しました。このとき乃木将軍は「うつし世を神去りましし大君の御あと慕いて我は逝くなり」の辞世の句を残して自決し、静子夫人もまた夫のあとを追って自害しました。ときに64歳です、終生敬愛した明治天皇の死に殉じたものでした。乃木夫妻のこの事件は日本中に衝撃を与え、新聞各紙は乃木大将夫妻の死を悼み、また賛美し、世間も大いに感動したといいます。夏目漱石はその著「こころ」の中で主人公をして「死のう死のうと思って生きていた年が苦しいか、又、刀を腹へ突き立てた一刹那が苦しいかと私は考えました」と書き継いでいます。殉死により、乃木将軍は“乃木さん”として人々の崇拝の対象となり、京都の桃山御陵(明治天皇の墓)の近くに乃木神社が初めて建立され、その後、ゆかりのある全国の各地でも建てられていきました。

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(29)“三度目の正直でやっとできた全国最後で最小の県”

 香川県の古い国名は、“さぬきうどん”の“讃岐”です。この呼び名は、「古事記伝」によると、飯依比古(いいよりひこ)の国を賜った手置帆負命(たおきほおいのみこと)が矛竿(ほこさお)をつくり貢ぎ物としたので、「竿調国(さおつきのくに)」といい、それがちぢまって「さぬき」になったといいます。また、東西に細長く、南北に短い地形から 「狭貫(さぬき)」と書いたともいわれています。

 明治2年6月の版籍奉還により、高松藩知事には松平頼聰(よりとし)、丸亀藩知事には京極朗徹(あきゆき)、多度津藩知事には京極高典(たかまさ)がそれぞれ就任しました。しかし、多度津藩は同4年(1871年)2月に倉敷県に併合され、続いて同年4月10日丸亀県が置かれ、さらに同年7月14日の廃藩置県により高松藩が廃止されて高松県が置かれました。そして、同年11月15日、高松県と丸亀県および倉敷県に併合されていた旧多度津藩領を合わせて、香川県が誕生しました。「讃岐」が一つの統治地域になったのは、生駒藩以来約360年ぶりのことです。

 「香川」という県名は、このとき初めて用いられ、その由来は、香東川からきているといわれています。江戸時代に書かれた南海通記によれば、「この川の上流、樺川(かばかわ)に香木あり、水清く、西風に匂いきてこの河水に、薫ずる故に、香川と云う」とあります。高松市の南、徳島県に向かう途中の香川郡塩江町安原上東に「樺川」というところがあります。ここから流れるのが、今の「香東川」です。

 しかし、香川県が始めて誕生してから1年3ヵ月後の明治6年2月、政府の府県広域化政策により、香川県は名東県(みょうどうけん、現在の徳島県と淡路島)に併合されます。県庁は徳島に置かれ、旧香川県庁は高松出張所と改称されます。

 ところがこの第一次香川県は、県会が開かれると、吉野川治水費をめぐり、租税負担金が多いにもかかわらず讃岐の受ける恩恵は少ないと、讃岐側議員が猛烈に反対し、3日間の激論でも解決しませんでした。このようなことで、政府は讃岐住民の抵抗を無視できず、2年7ヵ月後の明治8年9月、再び香川県の設置を認めました。

 しかし、この第二次香川県も1年と続きませんでした。政府は3度目の府県統合を実施し、明治9年8月に讃岐国はまたもや愛媛県に編入されたのです。四国では名東県(徳島県)も高知県に併合されています。讃岐を合わせた愛媛県庁は松山に置かれ、高松はその支庁(後に出張所)となります。以来12年余り、讃岐では愛媛県時代が続くことになります。

 中央では、これに先立つ明治7年(1874年)、板垣退助らによって民撰議院設立建白書が提出され、議会開設を求める自由民権運動が活発になっていました。讃岐でも、同8年、高松の豪商達によって民権思想や新しい文明を移入する目的で設立された新聞雑誌の展覧所博文社(舎)(はくぶんしゃ)が設立され、その後、純民社高松立志社丸亀立志社翼賛社興民社などの民権結社が設立されています。

 明治15年(1882年)、高松立志社の人々が中心となって「讃豫分離ノ檄文」(さんよぶんりのげきぶん)が発せられ、愛媛からの分県独立運動は民権運動と深くかかわって展開します。同21年、高松の改進党系グループらの熱心な活動により、政府もようやくこれをとりあげ、同年11月6日「香川県設置之件」が閣議にはかられ、同年12月3日付で、第三次香川県設置の勅令が公布されました。全国で最後の置県でした。当時の香川県の人口は、665,036人でした。念願のかなった讃岐の人ことに高松市民は「有頂天なり、殆んど商売も手に就かざる有様」で、花火を打ち上げて香川県の成立を祝賀したといいます。

 香川県は全国の47都道府県の中で最も県土面積の小さい県です。人口も平成17年度現在1,019,718人、47都道府県中第40位です。しかし、人口密度は高く、京都府に次いで47都道府県中第11位です。

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