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(48)“俳諧の祖・山崎宗鑑が隠棲した観音寺”

 万葉の時代から詠われている和歌は、五・七・五・七・七という形式をとっています。この和歌から、三人以上の奇数の作者が上の句(五・七・五)と下の句(七・七)を交互に読むという連歌が平安時代に誕生しました。連歌は南北朝時代には、二条良基飯尾宗祇によって芸術的に高められましたが、その後次第に形式化し、魅力がなくなっていきました。
 
 その後、室町時代後期になって、山崎宗鑑(やまざきそうかん)が、この連歌のルール(式目)を簡素化し、身近な題材や自由で滑稽味のある庶民的な「俳諧連歌(はいかいれんが)」を始めました。「俳諧」とは「こっけい・おどけ」などを意味し、「俳諧連歌」とは「機知やこっけい味のある連歌」という意味です。

 俳諧の祖といわれる山崎宗鑑は近江源氏の出で、1465年頃、近江国栗太郡志那郷(現在の滋賀県草津市志那町)に生まれました。本名を志那範重(しなのりしげ)といいます。幼い頃、自分と同年齢だった室町幕府9代将軍足利義尚(あしかがよしひさ)に仕え、大変かわいがられたといいます。義尚は、父が京東山に銀閣寺を築いた足利義政で、母が日野富子です。義政が義視を後継者と定めた直後に誕生し、富子が義尚を後継者にしようとしたことが応仁の乱の直接の原因となったことはよく知られています。
 
 義尚は応仁の乱によって凋落した幕府威信の回復をめざし、1487年(長享1年)近江守護六角高頼討伐の軍をおこし、自らも近江に出陣しました。しかし戦果をあげ得ないままに、1489年(延徳1)3月26日近江鉤(まがり)の陣中で25歳のときに病没しました。これを機に志那範重は出家し、宗鑑と号します。

 宗鑑は、摂津国尼崎に3年間ほど住み、その後30年近く、天王山西南山麓の山崎の里に居を構え、題材に大衆的なものを採り入れた人間味の溢れる新しい俳諧連歌の道を築きあげます。この頃、山崎の地に住むことから「山崎宗鑑」と呼ばれるようになり、「犬筑波集(いぬつくばしゆう)」を編集したと云われています。作者は記されていませんがこの中には次のような句があります。
 「さわ姫の 春たちながら尿をして
         かすみのころも すそはぬれけれ」
 「切りたくもあり切りたくもなし
         盗人を捕まえてみれば我が子なり」
 
 しかし、当時室町幕府内は内紛が続き、山崎の里も宗鑑の安住の地とはなりませんでした。宗鑑は戦乱に巻き込まれることを避け、讃岐国豊田郡坂本郷(現在の観音寺市)へ移住します。これは、かねて親交のあった京・東福寺の住僧梅谷が坂本郷の興昌寺住職として帰ったので、それを頼ったとも云われています。
 
 宗鑑は興昌寺の傍に草庵を結び、一夜庵と号しました。庵の入り口には、「上はたち 中は日暮らし下は夜まで 一夜泊まりは 下々の下の客」と記した額を掲げ、文字どおり来訪者は一夜以上泊めなかったと伝えられています。この庵で20年余り居住し、細川京兆家の有力な武将であった安富氏や寒川氏らと交流を持ったといわれています。
 
 讃岐は南北朝時代の初期から細川京兆家の本国地だったことから、地方にしては連歌が盛んな地だったのではないかと思われます。香川郡太田村出身の伴阿弥は、管領細川頼之の推挙で三代将軍足利義満に仕え、周阿といい連歌で世に知られたと云います。
 
 宗鑑は、89歳のとき、「宗鑑はいずくへいたと問ふならば 用が出来たで あの世へといへ」という辞世の句を残して没したと伝えられています。

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(39)“室町幕府管領細川政元を暗殺した讃岐武士”

 文明5年(1473年)、応仁の乱の最中に東軍総帥である細川勝元が亡くなります。これにより息子の政元(まさもと)が細川京兆家の家督を相続し、讃岐のほか摂津、丹波、土佐の守護職を継承します。翌年、政元は山名宗全の息子の政豊と和睦し、これにより応仁の乱は終息します。 

 1486年(文明18)、政元は室町幕府管領に就任します。そして、1493年(明応2年)、日野富子や赤松政則と結託して将軍義材を追放し、義澄を11代将軍に就けます。こののち、足利将軍家を傀儡化して幕政を牛耳り、幕政を手中に収めたことから、世に「半将軍」といわれました。しかし政元は生涯女性を傍に寄せつけず、また山伏信仰に凝って諸国を放浪するなどの奇行があったといわれています。 

 政元には実子がいなかったため、前関白九条政基の子を養子とし澄之(すみゆき)と名付けます。しかし、細川京兆家の家督を公家が相続することとなるため、内衆や他の細川家からの反発を招きました。そこで政元は分家の阿波細川家から、改めて澄元(すみもと)を養子に迎えます。このように政元が後継者を二人も立ててしまったために、一枚岩を誇った細川京兆家家中は澄之派と澄元派に分裂し、互いにいがみ合う状態になってしまいました。 

 永正3(1506)年、政元は、澄元を摂津国守護とし、その後見を阿波の三好之長に任せます。しかし、このことに山城守護代香西又六元長と摂津守護代薬師寺三郎左衛門尉長忠らは強い危機感を持ちます。永正4(1507)年6月、政元は、自邸の湯殿で行水をしていたところを、警護役の竹田孫七らに襲われ、あえない最期を遂げてしまいます。この事件は、澄之を京兆家の家督相続者として権勢を握るため、香西元長と薬師寺長忠が謀ったものです。香西元長は、京都嵐山の山頂にある嵐山城を本拠とし、政元を暗殺したときも、ここから打って出て都の支配権を握ろうとしたといわれています。これら一連の事件を永正の錯乱といい、栄華を誇った細川京兆家の崩壊の始まりでした。 

 この政元暗殺事件の首謀者である香西元長は香西一族の出で、香西氏は讃岐の代表的な国人です。その祖先は、平安時代の12世紀初めに、讃岐国司となった藤原家成と綾氏の娘との間にできた綾章隆で、綾氏は武殻王(たけかいこのみこと)の子孫であるといわれています。章隆の子孫が次第に勢力をあげて武士団化し、羽床、香西、大野、福家、西隆寺、豊田、柞田、柴野、新居、植松、三野、阿野、詫間などの諸家に別れていきました。これらの国人を讃岐藤家といいます。中でも香西氏は鎌倉時代、承久の変で幕府のために戦い、その功によって香川・阿野郡を支配することになったといいます。そして、勝賀山に城を築き、東山麓の佐料に居館をつくって海陸ににらみをきかせながら発展しました。

 室町時代初期の細川頼之のときに香西氏は細川氏の家臣となり、京兆家から重臣として取り立てられていきました。常に京都にあって内衆として管領を補佐したり、山城国、丹波国の守護代になるなどの活躍をしています。細川勝元のときには、信任を受け、長男は京都にあって勝元を助け上香西とよばれ、次男は讃岐の香西氏をついで下香西と呼ばれていました。しかし、土佐の長宗我部元親の侵攻により初代香西資村(すけむら)以来360年の幕を閉じます。

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(38)“応仁の乱で活躍した讃岐武士”

 室町時代中期、第八代将軍足利義政は、政務を忘れて奢侈と風流の生活を続け、政治を近臣や妻の日野富子に任せっきりにしていました。その結果、幕府の実権は管領の細川勝元や、四職の一人山名持豊(宗全)らに握られ、両者は互いに権勢を競い相反目していました。一方でこの時代は銀閣寺に代表される東山文化が花開いたころです。

 このような中で、管領家の斯波畠山両家で家督争いが起こり、また将軍家でも義政の弟義視(よしみ)と子義尚(よしひさ)との跡継ぎ争いが起こりました。勝元と宗全は、両家のそれぞれの一方を支持して譲らなかったため、ついに応仁元年(1467年)両派は京都の東西に対陣して、戦端を開くにいたりました。世にいわれる「応仁の乱」の勃発です。

 応仁の乱の火ぶたは、畠山正長と畠山義就の合戦から始まりました。勝元は正長を、宗全は義就をそれぞれ助けますが、正長が御霊林の戦いで敗れたため、勝元は大いに怒り、急ぎ16万余の兵を集めて京都の東北に布陣します。一方、宗全は、11万余の兵を集め、京の西南に布陣します。このことから勝元軍を東軍、宗全軍を西軍といいます。

 東軍16万の構成は、細川勝元の領国である讃岐・土佐・丹波・摂津から6万余、残りがその他の国からでした。細川京兆家にとって讃岐は本拠地であったため、多くの讃岐武士が京へ出陣し、東軍の中心となって活躍しています。讃岐から出陣した諸将は、香川・香西・安富・奈良・羽床・長尾・寒川、そして三谷・神内・十河の植田一族らです。中でも香川、安富、香西、奈良の各氏は「細川四天王」と呼ばれ、細川軍の重臣だったようです。いずれも讃岐に領地を持つ者ですが、香川、安富、奈良、由佐など各氏は、細川頼之の時代に讃岐にやって来た東国出身の武士です。一方、香西、羽床、寒川、十河、三谷などの各氏は、細川氏に取り立てられた讃岐の国人(地元はえぬきの武士)です。讃岐では軍勢の通貨のために沿道や航路は甚だしい混乱を招いたといわれています。

 その後も戦乱は続き、文明4年(1472年)5月、香西、安富の2将は、寒川、羽床、長尾、三谷、植田、十河らの諸将を率いて相国寺で大合戦を行い、10月に相国寺は炎上し、安富元綱・同盛継らが戦死します。安富元綱は勝元の寵臣の第一であったといわれ、その死を聞いた将軍義視の悲嘆は大きかったといいます。

 文明5年3月に山名宗全が、5月に細川勝元が相次いで死去し、将軍義政は両軍へ使者を派遣して和平をさせました。11年間にわたる大乱もここに至りようやく終息しました。讃岐の諸将も安富氏に率いられて帰国したいいます。

 しかし、その後、戦乱はおさまることなく日本中に波及し、世は戦国時代となっていきます。讃岐でも、香川、安富、香西、奈良などの各氏が応仁の乱後次第に細川氏から自立していきます。

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(37)“室町将軍足利義満の宰相となった讃岐守護”

 足利義満(あしかがよしみつ)は、室町幕府の第三代将軍で、父は第二代将軍・足利義詮(よしあきら)、祖父は室町幕府を開いた足利尊氏です。義満は尊氏の死後、丁度100日目の1358年に生まれています。義満が幼少の頃の室町幕府は、南朝との抗争がいまだ続き、また幕府内部でも紛争が続いていました。義満は、父義詮が病により死去すると、11歳で三代将軍となります。このとき、将軍を補佐する管領に就任したのは、宇多津に居を構えていた讃岐守護の細川頼之(よりゆき)です。讃岐には頼之の足跡が現在も多く残っています。
 
 頼之は、鎌倉時代末期の元徳元年(1329年)、細川頼春(よりはる)の長子として三河国細川郷で生まれました。幼名を弥九郎といいます。細川氏は足利氏の一門で、鎌倉時代に三河国細川郷(現在の愛知県岡崎市)へ移住したためその郷名にちなみ細川の姓を名乗っていました。頼之は、父頼春に従い始め阿波の秋月城(現在の徳島県土成町)に入り、讃岐の白峯合戦で清氏に勝利し、ついには讃岐・阿波・土佐・伊予の守護職を占めて四国管領といわれました。その本拠地は讃岐の宇多津にありました。

 正平22年(貞治6年)(1367年)病床にあった二代将軍義詮は、宇多津から京へ頼之を召還します。幼い息子・春王(義満の幼名)の後見役に頼之を起用するためです。義詮は「汝に一子を与えん」として、頼之に義満を託して逝ったといわれています。南北朝時代の動乱を描いた「太平記」は、頼之が管領になったときで終わっています。

 管領となった頼之は、義満に我が子以上の愛情を注ぎ、立派な将軍となるべく教育する一方で、花の御所の造営や半済令を施行するなど、「名執事」として不安定だった室町幕府の基礎固めに取り組みます。また和歌や詩文、連歌など公家文化にも親しみ、詠んだ和歌が勅撰集に入撰したりしており、軍事作法も記しています。

 しかし、すぐれた手腕によって幕府権力の強化に成功するものの、頼之は次第に斯波義将ら諸将との対立を深めます。このため義満は内乱の危機が迫ったため、康暦元年(1379年)、頼之を罷免して有力守護たちの不満を抑えます。これを康暦の政変といいます。

 義満から退去令を受けた頼之は領国の讃岐へ帰国します。途中で出家し「常久」と称します。時に頼之51歳。頼之は京都を出発する時、そのときの心境を「海南行」という漢詩で詠んでいます。「海南」とは讃岐のことです。その後十余年、頼之は宇多津に居を構えます。

 康応元年(1389年)、義満は宮島厳島神社へ参詣します。この参詣は山陽道の武将らに将軍の威厳を示すとともに九州の南朝勢力を牽制し、また頼之に対面するためでした。3月5日、義満は京を出発し、兵庫から船出し海路を宇多津に向かいます。大槌小槌の瀬戸を潮流に揉まれながら6日夜半に宇多津に到着し、頼之と再会します。その頃の宇多津の情景は「なぎさにそって海人の家々連なり、東は山の峰々海中に入り長く見える。海岸には古松の大木、むろの木など立ち並び、寺の軒処々に見える。」と「鹿苑院殿厳島詣記」に記されています。東の山とは聖通寺山のことです。
 
 8日朝、義満一行は宇多津を離れ宮島に向かいます。そして、22日、義満は厳島からの帰り再び宇多津に立ち寄っています。その時は、多度津に上陸し、陸路で青ノ山を越えて宇多津に入ったといわれています。これにより、頼之は義満と和解し、頼之は再び将軍義満に召し出されて京に戻り、幕政に返り咲きます。

 頼之が死去したのは1392年の事です。享年64歳でした。義満は頼之の死をこの上もなく悲しみ、自ら葬送したといわれています。頼之は京の嵯峨の地蔵院に葬られています。南北朝が合体したのは、頼之が死去した年でした。なお義満による金閣寺の完成は頼之没後5年目のことです。

 頼之の功績により、細川一族は8ヵ国におよぶ世襲分国を獲得し、室町幕府において確固たる地位を占めます。特に頼之系統の細川家は京兆家(けいちょうけ)といわれ、京兆家当主は、讃岐・摂津・丹波・土佐の4ヵ国を世襲し、中でも頼之以来、讃岐がその本国的存在で、細川氏の重要な勢力基盤でした。義満の時代は室町幕府の将軍の力が最も強かった時代で、金閣寺に代表される北山文化が花開いたときです。その陰に頼之の功績があり、その頼之の本拠地が讃岐であったということです。細川氏は、勝元とその息子の政元の時代に最盛期を迎えます。なお、勝元は応仁の乱のときの東軍総帥です。

 詳しくは「細川頼之と讃岐」をお読みください。

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(36)“乃木希典大将の先祖が討死した南北朝の合戦”

 1336年、足利尊氏は、北朝の光明天皇を擁立して征夷大将軍の宣下を受け、室町幕府を開きます。しかし、室町時代の初期、幕府権力はまだ弱体で、南朝側も強い勢力を持っており、幕府内部でも守護大名達が抗争を繰り広げていました。この時代を南北朝時代ともいいます。

 1358年(延文3年)4月30日尊氏が没し、足利義詮(よしあきら)が二代将軍の座につくと、細川清氏(きようじ)がその執事に就任します。清氏は、足利一門である細川一族筆頭の家柄の出で、足利尊氏とその弟の足利直義が争った観応の擾乱では、常に尊氏方として戦い、伊賀守護・若狭守護・評定衆・引付頭人と幕府内における地位を高めていました。

 しかし、その急速な勢力拡大と強引な性格から、清氏は幕府内の諸将と対立し、1361年(康安元年)、恨みを抱いていた佐々木道誉(どうよ)に讒言(ざんげん)され、義詮から謀反の疑いをかけられてしまいます。佐々木道誉は近江源氏の出で、丸亀京極家の祖先です。当時、婆娑羅(ばさら)大名と呼ばれていた人物です。

 義詮に京を追われた清氏は分国若狭へ逃れますが、国人たちに背かれ、北朝方から南朝方に走ります。その後、清氏は、かつて父・細川和氏(かずうじ)の分国であった阿波へ渡り勢力を回復しようとします。しかし阿波はすでに細川頼之(よりゆき)の勢力が及んでいたため讃岐に移り、まず三木郡白山の麓に陣を置き、次いで今の坂出市林田の地にある白峯雄山の高屋に城を構えて兵を募ります。そして、西長尾城(現在の満濃町長炭)に籠もる南朝方の中院源少将と連携を図ります。

 一方、義詮は、清氏追討の令を細川頼之に対して発します。清氏と頼之は同じ細川一族で、従兄弟どうしに当たり、幼い頃は一緒に遊んだ仲でした。このとき頼之は中国管領として備中の国に渡り、山陽道一帯の南朝方の反乱を鎮圧しているところでした。頼之は急いで宇多津に戻り、現在の丸亀と宇多津の間にある青ノ山に陣を張って備前の兵の応援を求めます。しかし、佐々木信胤が小豆島の星ヶ城を拠点として瀬戸内海の海上権を押さえていたため、備前からの増兵は困難な状況でした。

 頼之と清氏は宇多津と高屋で睨み合いを続けますが、形勢は頼之に不利でした。そこで頼之はまず母の禅尼を清氏のところに遣り和議の交渉を行います。頼之の母は清氏の義理の叔母に当たり、昔からの熟知の間柄だったからです。頼之は日を延ばしてその間に兵力を増強します。

 兵の増強を図った後、頼之は家臣の新開真行(まさゆき)と謀り陽動作戦に出ます。まず、真行が一部の兵を率いて西長尾城へ向かい、中院源少将を夜討ちするようにみせかけます。清氏はこれに驚き、高屋城の兵の大部分を西長尾城の救援に向かわせてしまいます。頼之はこの虚をついて兵が少なくなっていた高屋城を急襲します。清氏も自ら城を飛び出し戦いますが、あえなく味方の36人とともに討ち死にしてしまいます。頼之と真行の作戦は、清氏の自信と蛮勇を知ったうえでの策略だったといわれています。この戦を白峯合戦といい、「太平記」でも描かれています。1362年(正平17年/貞治元年)の出来事です。

 白峯合戦では頼之の家臣で乃木備前次郎という人物が討ち死にしています。日露戦争のときの旅順攻略で有名な乃木希典大将はその子孫です。明治時代、乃木大将は、善通寺におかれた陸軍第11師団の師団長を務めていましたが、赴任中にこの合戦のあった地を夫人と共に訪れ弔しています。

 敗れた清氏は三木郡白山の麓に葬られたといいます。白山の麓の畜産試験場の横に小さな祠があって五輪塔が建っているそうですが、この塔は、清氏のものと伝えられており、毎年8月には供養祭が行なわれているとのことです。

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(14)“九州で島津軍と戦った讃岐武士”

 天正14年(1586年)12月12日、讃岐武士は九州豊後の戸次川(へつぎがわ)(現在の大分市内)で薩摩の島津軍と戦っています。これを戸次川(へつぎがわ)の戦いといいます。

 天正13年(1585年)7月、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の命により、仙石(せんごく)秀久(ひでひさ)以下の四国征討(せいとう)軍と長宗我部(ちょうそがべ)元親(もとちか)との間に和議が成立し、元親は土佐一国に追いやられます。その後、讃岐は秀久に与えられ、うち山田郡2万石は古くからの讃岐国人である十河存保(そごうまさやす)の知行地とされました。秀久は奈良氏の後の聖通寺山城に入りました。

 天正14年4月、豊後の大友(おおとも)宗麟(そうりん)は薩摩・島津氏の侵攻に対抗するため秀吉に助けを求め、これを受け秀吉は島津氏に攻撃を中止するように命じました。しかし、鎌倉以来薩摩守護職の家柄を誇る島津氏はその命を無視しましたため、秀吉は、中国の毛利氏に島津征伐を命ずるとともに、四国勢にも同年10月、豊後出陣を命じました。秀吉軍は仙石秀久を四国勢の目付とし、讃岐からは存保ら3千人が戦陣に加わり、土佐からは元親とその嫡子信親らが加わりました。四国の総勢は5千余人で、塩飽や直島の水軍が兵の運送に携わりました。

 天正14年12月12日、仙石秀久率いる四国勢と島津勢は戸次川(へつぎがわ)で対陣しました。一旦は島津勢が退却し始めたので、秀久は勢いに乗じて一気に渡河して追撃しようとしました。これに対して、十河存保長宗我部元親は敵の計略で伏兵がいることを察して形勢をみて進撃するよう秀久に進言しました。しかし、功にはやる久秀はこれを無視して無謀にも渡河を決行しました。存保と元親はかって戦った間で、このとき、存保は、敵だった元親の意見に賛同するわけにも行かず、負けることを十分承知の上で仕方なく秀久に同意したといわれています。

 存保と元親の進言どおり、戸次川を越えたところに島津軍が待ち構えており、四国勢は大敗を喫します。存保は信親と共に壮烈な戦死を遂げました。この戦いにより、四国勢は1千余人が討死し、讃岐武士も十河存保のほか香川民部少輔(しょうゆう)、安富肥前守、羽床弥三郎らが打ち死にして古来からの名族が多く絶えたといい、ここに讃岐の中世は名実ともに終わります。島津氏は、この戦いには勝利しましたが、翌年5月には大軍をもって九州入りした秀吉に降伏しています。

 一方、無謀な作戦が裏目に出て大敗を招いた仙石久秀は諸将の軍を差し置いて逃げ帰り、これに激怒した秀吉から讃岐を没収され高野山へ追放されます。その後徳川家康のとりなしで小田原征伐に加わり、きらびやかな鎧に鈴を一面につけるという際立つ格好をして奮戦したといい、それが箱根の仙石原の名の由来だといいます。これにより、秀久は信濃・小諸に5万石を得て大名として復帰しました。

 また久秀は、関ケ原の戦いでは徳川方につき徳川秀忠とともに中山道ルートで関ヶ原に向かいます。このとき秀忠の遅参に激怒した家康への謝罪に努めたため、秀忠が将軍に就任してから特に重用されています。ちなみに、秀久には伏見城で石川五右衛門を捕らえたとの伝説もあります。


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(13)“賤ヶ岳の合戦があった同じ日に讃岐であった合戦”

 天正11年(1583年)4月21日は賤ヶ岳(しずがだけ)の合戦があった日です。この戦いは、現在の滋賀県伊香郡の賤ヶ岳附近で行われた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)と柴田勝家との戦いで、秀吉はこの戦いに勝利することによって、織田信長の作り上げた権力と体制の継承者となり、全国統一の基盤を築きました。「賤ヶ岳の七本槍」の話がよく知られています。同じ日、讃岐では、長宗我部元親(ちょうそがべもとちか)と秀吉の家臣である仙石秀久(せんごくひでひさ)の軍が引田で戦っています。

 天正6年(1578年)夏から始まった長宗我部元親の讃岐侵攻により、天霧城の香川氏、勝賀城の香西氏など讃岐の緒将はことごとく降伏し、元親に抵抗する勢力は虎丸城に籠もる十河(そごう)存保(まさやす)のみになっていました。苦境に立たされ存保は、山崎の戦いによって織田信長の後継者としての地盤を固めつつあった秀吉に救援を求めました。秀吉は柴田勝家との対決が迫っていたため自ら動くことができず、淡路国洲本にいた仙石秀久を救援軍として讃岐に派遣しました。

 天正11年(1583年)春、長宗我部元親は阿波の白地城(現在の池田町)より2万の大軍を率い讃岐に攻め入り、虎丸城に迫りました。田面(たづら)山に布陣して十河方の食糧を窮地に陥れる作戦を実行に移しはじめていました。一方、仙石秀久は、2千の兵を率いて海路から引田浦へ上陸して港の北側にある引田城に入りました。引田城は、引田湾に面した城山(標高81m)の山頂にあり、舟が直接着岸できるため隠密裏に行動できるという利点がありました。

 長宗我部軍と仙石軍は、引田の西の入り口で衝突しましたが、兵力に勝る長宗我部勢が圧勝しました。仙石勢は幟を取られるという失態を見せ、森権平(ごんべい)という若者が討死を遂げています。なお、それを悼(いた)んだ権平祠が城に立てられています。この戦いを引田合戦といい、賤ヶ岳の合戦があった同じ日にありました。

 秀久は引田城へ退却し、長宗我部勢もそれを追撃して引田へ入り、翌朝より引田城への総攻撃を開始しました。仙石勢は既に多くの兵を失っていたために戦意を失っていたとみえて、あっけなく落城し、秀久も舟で城を脱出しました。仙石勢の敗北により、虎丸城十河存保は孤立無援の窮地に立たされ、勝ち目なしと見た存保は、開城と国外退去することを条件に元親に降伏を申し入れました。その後、長宗我部元親は伊予の河野氏を降して、天正13年(1585年)の春、ついに四国を平定します。

 しかし、元親の四国統一はつかの間に終わってしまいます。同年6月16日、秀吉は畿内周辺が大体片付いたため、四国侵攻を開始します。四国征討軍は秀吉の弟・秀長を総大将として総勢11万余人という大軍で阿波・讃岐・伊予の3方面から一斉に攻撃しました。讃岐では宇喜多秀家・黒田孝高の2万3千が屋島に上陸し、高松・香西・牟礼の諸城が陥落します。当然ながら存保もこの攻撃軍に加わっています。

 この時落城した高松城は屋島南山麓にあった城で喜岡城ともいい、もともとはこの城の辺りが“高松”という地名で、その後生駒氏が現在の地に高松城を築いてから“古高松”と言われるようになったものです。

 四国征討軍の圧倒的な兵力のまえに長宗我部氏はついに秀吉に降伏し、阿波・伊予・讃岐の3ヶ国を没収され、土佐一国の領有のみを許されることになりました。


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(12)“三月三日に雛祭りをしない町”

 荘内半島の付根に位置する三豊市仁尾町では、男の子の成長を祝う「八朔(はっさく)の節句」に、雛人形(ひなにんぎょう)を同時に飾り女の子の成長を一緒に祝うという全国にも珍しい風習があります。仁尾では、平成10年から毎年、八朔の節句に近い毎年9月の下旬に、秋のひな祭り「八朔人形まつり」が開催され、民家の玄関や座敷、商店内、会社倉庫などを展示場にして歴史上の武将の話やおとぎ話の人形と共に「御殿飾り」と呼ばれる独特の雛人形が飾られます。この祭りは、平成14年度「第7回ふるさとイベント大賞最高賞(総務大臣表彰)」を受賞しています。
八朔まつり

 八朔(はっさく)とは八月朔日の略で、旧暦の8月1日のことです。この頃、早稲の穂が実るので、農民の間で初穂を恩人などに贈る風習が古くからあり、このことから田の実の節句ともいいます。この「たのみ」を「頼み」にかけ、日頃お世話になっている(頼み合っている)人に、その恩を感謝する意味で贈り物をするようになりました。もともとは室町時代の頃、「憑(たの)み」などと称して、武家が心に頼み思う人に馬などを進物するようになったのが始まりともいわれています。

 そうした武家社会の儀礼が一般化され、香川県の西讃地方では八朔を馬節供といい、新しく男の子が誕生した家では子供の成長を祈って、餅米で作った"団子馬"を飾る風習があります。昭和30年代の初め頃までは、西讃地方ではどこの家でも男の子が生まれると八朔に"団子馬"を作り近所に披露していました。もちろん餅米で作ったものですから、披露した後は食べていました。しかし、"団子馬"の風習も核家族化や住宅事情の変化により徐々に廃れていきました。

 この西讃岐地方の風習に加えて仁尾には、もう一つ特異な風習があります。仁尾では3月3日に雛祭りを行わず、男の子の節句である八朔の日に女の子の雛節句も一緒に祝います。これには次のような歴史的背景があります。

 戦国時代、西讃の仁保・吉津・比地中村の地域は、細川頼弘公が永禄年間から領し、仁尾城を居城としていました。しかし、仁尾城は、天正7年(1579)3月3日、土佐の長曽我部元親の侵攻を受けてあえなく落城し、頼弘公は自刃して果てました。今から約420年前のことです。以来、仁尾では細川頼弘の命日にあたる3月3日には雛祭りを行わず、八朔の日に雛節句も一緒に行うようになったといわれています。店鋪や座敷に舞台を設けて石、砂、草木などで箱庭風の山川渓谷を作り、人形を置いて人々に広く知られている歴史上の物語やお伽噺の名場面を再現するという風習が出来上がり、各家が工夫を凝らした舞台と人形を競い合っていました。

 仁尾は、古くから港町として栄え、江戸末期の頃には、酒・醤油・酢・油・茶などの商家が軒を並べていました。この頃仁尾は「千石船見たけりゃ仁尾へ行け」とうたわれるほど繁栄しました。細く入り組んだ路地、どっしりとした商家の構え、「辻の札場」といわれる高札場などが往時の姿を今に留めています。なお仁尾城跡は現在覚城院の境内地になっています。




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