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(67)“高野山、東寺と並ぶ弘法大師三大霊場の一つ善通寺”

  弘法大師空海は、真言密教を中国から日本に伝えた平安時代初期の僧です。宗教家としてのみでなく、一方では満濃池の修築など各地で土木工事を行い、また庶民教育のための学校を設立するなど、非常に精力的な活動をしています。また、書道でも後に嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆と呼ばれています。さらに絵画や彫刻にも優れ、土木、建築、医療、教育、学芸など、あらゆる分野に才能を発揮し、日本全国の津々浦々に「弘法伝説」や「お大師信仰」を残しました。
 
 高野山は弘法大師三大霊場の一つで、弘仁7年(816)に空海が嵯峨天皇から賜り、真言密教の根本道場として開かれた地です。中でも総本山とされている金剛峰寺(こんごうぶじ)は日本宗教界最高の地位に君臨し、日本仏教、政治、文化などで重要な役割を果たしてきました。高野山は平成16年7月7日には、熊野・吉野とともに世界遺産に登録されていま
す。
 
 また、京都の東寺も弘法大師三大霊場の一つで、平安京遷都後まもない延暦15年(796)に国家鎮護の寺として創建され、それから20数年後の弘仁14年(823)に、嵯峨天皇から空海に下賜されました。この時から東寺は国家鎮護の寺院であるとともに、真言密教の根本道場となりました。平成6年12月、「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録されています。

 この高野山の金剛峰寺、京都の東寺と並んで弘法大師三大霊場の一つに数えられている寺が讃岐の善通寺です。善通寺は、正式には屏風ヶ浦五岳山善通寺誕生院といい、真言宗善通寺派の総本山で、四国霊場第七十五番札所となっています。
 
 空海は奈良時代の末期宝亀5年(774)6月15日、現在の善通寺の地で誕生しました。生家の佐伯家は豪族で代々この地に住み、父は佐伯善通(よしみち)、母は玉依御前(たまよりごぜん)といいます。
 
 平安時代の始めの大同2年(807)、唐での留学を終えて帰国した空海は、先祖を祀る氏寺を建立しようと、父の邸跡に、かつて学んだ唐の青竜寺に模して伽藍を建立します。6年の歳月をかけて竣工し、本尊薬師如来を刻み安置しました。創建からちょうど1200年に当たる年が平成18年(2006)です。しかし、境内から出土する古瓦群からすれば、その創立はもっと古く奈良時代までさかのぼり、当初は佐伯氏の氏寺ではなかったかと考えられています。
 
 この寺の山号は西院の背後にそびえる香色山、筆山、我拝師山、中山、火上山の5峰にちなんで五岳山と名付けられました。これらの山が丁度屏風を立てたように並んでいるのでこの辺りを屏風が浦といいます。寺号は父の名をとり善通寺(ぜんつうじ)とされ、院号は大師誕生の地であることから誕生院とされました。
 
 善通寺はこのような古い歴史を持っていますが、戦国時代の永禄年間(1558~1570)には、阿波領主三好実休(じっきゅう)が、天霧城城主の香川之景(ゆきかげ)を討つために本陣を構えたことにより兵火に遭い、堂塔のほとんどが焼失しました。その後再建され今日に至っています。

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(50)“大師二十二人のうち五人までが讃岐出身”

善通寺

 大師と言えば弘法大師を思い浮かべますが、我が国で平安時代以降、大師の称号をもった高僧は22人をかぞえます。この大師号とは、学徳ともにすぐれた高僧に対して、天皇からおくられる最高の称号です。この22人の大師のうち、讃岐の国からは、弘法大師空海(774~835年)のほか、道興(どうこう)大師実恵(じちえ)(786~847年)、法光大師真雅(しんが)(801~879年)、智証大師円珍(814~891年)および理源大師聖宝(しょうぼう)(832~909年)の5人も輩出しています。
 
 この5人は、“讃岐の五大師”として尊崇されてきました。ただし、5人が朝廷から大師の称号をおくられた時期にはかなり差があり、空海と円珍は没後早い時期におくられていますが、聖宝、実恵、真雅は江戸時代に入ってからです。ちなみに、あとの17人の大師の出身地は、近江(滋賀)と京都から各2人、残りが全国各地から1人ずつだそうです。

 空海、実恵、真雅および円珍は同じ現在の善通寺市の生まれで、佐伯氏の一族です。しかも、真雅は空海の実弟、円珍は空海の姪(おい)(妹の子)です。聖宝だけは佐伯一族でなく塩飽の生まれです。

 空海は中国から真言密教をもたらし日本での真言宗の開祖となった人物ですが、実恵、真雅および聖宝は空海の弟子または孫弟子で、空海亡き後、真言宗の発展に尽くしました。これに対して、円珍は空海の縁者ですが、そのライバルである最澄が開いた天台宗の系統です。

 実恵は空海の一番弟子といわれており、大阪の河内長野市に観(かん)心寺(しんじ)を創建しています。この寺には楠木正成の首塚や後村上天皇の御陵などがあり、南朝ゆかりの寺としても知られています。

 真雅は京都南郊に貞観寺を開き、僧職として初めて輦車(れんしゃ)(車のついた乗り物)に乗って宮中への出入りを許されたというほど、朝廷や公家に重んじられました。

 円珍は唐へ渡り、のち延暦寺第五世座主となり、琵琶湖を望む大津に園城寺(おんじょうじ)を再興し、天台宗寺門派の祖と仰がれています。この寺は天智・天武・持統天皇の産湯に用いられた霊泉があることから、「御井(みい)の寺」すなわち「三井寺」とも呼ばれています。この寺には、室町時代の初め、相模坊道了という僧が修行をしていたとき、ある夜、突如として天狗となって飛び去り、はるか小田原(神奈川県)の大雄山最乗寺に降りたという伝説があります。相模坊天狗は、その後、讃岐五色台白峯に移り、崇徳上皇の霊を守護しているといわれています。

 聖宝は真雅の弟子で、師は犬好きだったのに弟子が大嫌いで、これがもとで子弟間のいさかいがあったという逸話があります。京都伏見の醍醐寺(だいごじ)は醍醐山(笠取山)の山頂上一帯を中心とする「上醍醐」と山麓の「下醍醐」とから成り、豊臣秀吉による「醍醐の花見」の行われた地としても知られ、世界遺産にも登録されている名刹ですが、上醍醐は聖宝が開いたものです。

 桓武天皇が都を平城京(奈良)から長岡京へ移し、さらに平安京(京都)に移したのは794年(延暦3年)ですが、“讃岐の五大師”の生誕年をみると、最初の空海誕生から12年~18年の間隔で連続して生まれています。また、この時代、讃岐からは、この五大師の外に、智泉(789~825年)、道昌(798~875年)、真然(811~891年)、観賢(853~925年)、道雄(?~851年)などの高僧が輩出しており、平安時代初期の9世紀の約百年間は讃岐出身の高僧が活躍した時代といえるでしょう。

 このように讃岐から多くの高僧が輩出したのは、瀬戸内海に臨んでいることから、都の文化あるいは大陸文化との交流が容易で、古くから先進文化を早く受け入れたという背景があったといわれています。

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(47)“崇徳上皇を偲び来讃した西行法師”

 西行は平安時代末期の院政期から鎌倉時代初期にかけての放浪歌人です。2100首余りの歌を残し、鎌倉時代の初期に後鳥羽上皇の命令で藤原定家らにより編集された「新古今和歌集」には彼の歌が94首も入っており、その入撰数は第一位です。
 
 俗名を佐藤義清(さとうのりきよ)といい、1118年(元永元年)の生まれです。もともと佐藤家は俵藤太藤原秀郷を祖とする名門の出で、鳥羽院の北面の武士として出仕し、左兵衛尉(さひょうえのじょう)にまでなっています。23歳のとき妻子があるにもかかわらず突如出家して円位を名のり、後西行とも称しました。出家の動機は「無常を感じて」という説が一般的ですが、一説には白河院の愛妾にして鳥羽院の中宮であった待賢門院璋子への恋着のゆえであったとも言われています。出家の際に衣の裾に取りついて泣く子を縁から蹴落として家を捨てたという逸話が残っています。出家直後は鞍馬などの京都北麓に隠棲し、1145年(久安元年) 頃から高野山に生活の本拠を移し、旅と歌作りに励みました。
 
 西行崇徳上皇が京に居た頃から和歌を通じた交流を持っており、上皇が讃岐に流された後も歌のやりとりをしていたといわれています。なお、崇徳とは没10年後の治承の頃の追号で、当時は「新院」「讃岐院」と呼ばれていました。上皇崩御3年後の1167年(仁安2年)、西行は上皇を偲び、備前児島から讃岐に渡って来ました。源平屋島合戦の18年前、西行の50歳の時です。
 
 西行は坂出の松山ノ津または王越の乃生、あるいは三野津に着いたともいわれていますが、「讃岐に詣でて、松山の津と申す所に、院おはしましけむ御跡尋ねけれど、形も無かりければ」と詞書きして、次の歌を詠んでいます。
 「松山の 浪に流れて こし舟の やがて空しく なりにけるかな」
その後、「白峯と申しける所に、御墓の侍りけるに詣りて」次の鎮魂歌を詠んでいます。「よしや君 昔の玉の床とても かからん後は 何にかはせん」
 
 この時の物語は、その後、室町時代に謡曲松山天狗」としてうたわれ、この中で日本八大天狗の一つといわれる相模坊天狗が上皇の守護者として描かれています。また江戸時代に、国学者であり歌人の上田秋成により怪奇小説「雨月物語」中の一篇「白峰」として仕立てられています。この中で上皇の霊は、青白い陰火の中で、長い髪をふり乱し、やせ衰えた恐ろしげな形相で、手足の爪は獣のように長くのびた姿として描かれており、数々の恨みを訴える上皇の霊と鎮める西行の対話が物語として書かれています。
 
 この後白峯を下りた西行は、弘法大師の跡を慕って善通寺で庵を結び、数年間住んだといいます。この間、讃岐の各地を巡り、「山家集」には、松山・白峯・善通寺・曼陀羅寺・塩飽・三野津などで詠まれた20首ほどの歌が収められています。

 その後西行は讃岐から高野山に戻りますが、60余歳の頃源平の戦乱を避けて伊勢へ移り、69歳のときに東大寺再建の勧進を奥州藤原氏に行うために再び陸奥に下っています。この途次に鎌倉で源頼朝に面会しており、頼朝に弓馬の道のことを尋ねられて一切忘れ果てたととぼけたという話や、拝領の純銀の猫を通りすがりの子供に与えたという逸話があります。

 「願わくは花の下にて春死なむ その如月の望月の頃」の歌のとおりに、1190年(建久元年)陰暦2月16日、釈尊涅槃の日に河内弘川寺(大阪府河南町)で73歳の生涯を終えました。西行は藤原俊成とともに新古今の新風形成に大きな影響を与えた歌人と言われており、宗祇・芭蕉にいたるまで後世に大きな影響を与えています。


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(42)“陰陽師安部晴明は讃岐生まれ”

 夢枕獏の小説や岡野玲子のコミックマンガなどで一躍脚光を浴びた安部清明は、実在の人物で、平安時代中ごろ活躍した陰陽師です。晴明は寛弘2年(1005年)に85歳で没したと云われており、平将門と藤原純友の乱が収束して再び平和の世が訪れ、藤原氏の摂関政治の展開が進んでいた時代の人物です。「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月(もちづき)の 欠けたる事も 無しと思へば」という歌を詠んで権勢を誇った藤原道長は、康保3年(966年)から万寿4年(1028年)まで生きた人物で、晴明の次の世代といえるでしょう。

 陰陽師が専門とする陰陽道とは、万物の生成・消滅などの変化は、陰(日陰を意味する)と陽(日向を意味する)の相対する2つの気が和合・循環することで起こり、森羅万象は木(もく)・火(か)・土(ど)・金(ごん)・水(すい)の5つの要素で成り立っているという古代中国の「陰陽五行説」の思想を基にしており、これが日本の律令制国家体制の中に取り込まれる過程を経て、わが国特有の文化的要素なども加えながら体系化されていったものといわれています。

 晴明が活躍した時代には、陰陽師の性格も国家に仕えるだけでなく、吉凶の判断や占いなどで有力公家の私的生活や精神生活の一部にまで食い込むとともに、陰陽道思想の一般化が大いに進んだ時期でした。晴明は、天文・暦法・占術などの学問的なものから呪術・祭祀などに至るまでを司り、朱雀帝から一条帝までの6人の帝に仕え、宮中において活躍したと云われています。

 今昔物語集には、晴明が賀茂忠行陰陽道を習ったことや忠行の牛車の供をしていた時に鬼の姿を見て忠行に報告したことで事なきを得たこと、晴明の異能を見抜いた忠行が自分の術のすべてを「瓶の水を移す」ように伝えたことが記されています。また大鏡には、天文から花山天皇の退位を予見したということが記されています。他にもさながら霊能者のような数々の伝説に彩られています。今も晴明の屋敷跡に建つ京都・一条の清明神社には多くのファンが訪れるほどです。

 晴明の生まれは謎に包まれていますが、その出生地のひとつとして讃岐が数えられています。大日本史料「讃岐国大日記」によれば讃岐国香東郡井原庄、また丸亀藩の公選地誌「西讃府志」によれば讃岐国香川郡由佐がその生まれだとされています。「井原」という地名は古代讃岐の郷の一つで、現在の高松市香南町辺りです。「由佐」という地名は現在も香南町にあり、そこは室町時代に由佐氏という武将が領有していたところです。

 由佐氏は、藤原秀郷の後裔といい、そもそもは常陸国(現在の茨城県)益戸(下河辺)の城主だったといい、建武の争乱に際して、足利尊氏に従って活躍し、讃岐国香東郡井原庄の荘司職を与えられたといいます。その後、讃岐守護となった細川氏に従い、東に香東川、西に沼地が広がる要害の地に居館由佐城を築いて代々の本拠としたと云われています。

 おもしろいことに、晴明の生誕地については、由佐氏の出身地である常陸国であるという説もあります。「ほき抄」所収の「由来」によると、常陸国筑波山麓の猫島、現在の茨城県真壁郡明野町猫島というところで生まれたとされています。猫島の旧家である高松家の敷地には誕生に由来する晴明神社があり、また、高松家には宝永8年(1711年)頃にまとめられた「晴明伝記」が蔵されているそうです。由佐氏と安倍晴明には何らかの関係があるのかもしれません。

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(40)“保元の乱に敗れて怨霊となった崇徳上皇”

 平安時代後期の元永2年(1119年)、後に崇徳天皇となる顕仁(あきひと)親王は、鳥羽天皇と中宮璋子(たまこ)の間の子として誕生しました。曾祖父は院政を執っていた白川法皇です。法皇は顕仁を非常にかわいがり、鳥羽天皇は保安4年(1123年)その命によってむりやり退位させられ、わずか5歳の顕仁が崇徳天皇として即位します。しかし、大治4年(1129年)、白河法皇が崩御すると、鳥羽上皇が院政を執り朝廷の主導権を握ります。そして法皇となって、まだ23歳の崇徳天皇を強引に退位させ、わずか3歳の躰仁(なりひと)親王(崇徳の異母弟)を近衛天皇として即位させます。

 さらに近衛天皇が久寿2年(1155年)17歳で崩御すると、崇徳上皇の実弟にあたる後白河天皇を即位させ、しかも、後白河天皇の皇子である守仁親王(のちの二条天皇)を皇太子とします。これにより崇徳上皇は、自分の皇子である重仁親王が天皇になる望みを全く断たれていまい、強い不満を抱きました。このように鳥羽法皇が自分の息子であるはずの崇徳を排斥したのは、実は、崇徳が鳥羽天皇の祖父である白河法皇と中宮璋子の密通によりできた子であるという噂が囁かれていたからです。鳥羽法皇は崇徳を「叔父子」と呼んで忌み嫌っていたといいます。このとき、摂関家でも関白藤原忠通と左大臣藤原頼長の兄弟が争い、忠通は後白河天皇に、頼長は崇徳上皇に接近していました。

 保元元年(1156)年、鳥羽法皇が崩御します。遺言で遺体を崇徳に体面させることを禁じ、弔問さえ受け付けなかったといいます。このため崇徳上皇後白河天皇の対立は深まり、両派はそれぞれ武士を集め、上皇方には源為義、源頼賢、源為朝、平忠正らが、天皇方には、源義朝、平清盛、源頼政、源義康(足利義康)らがつき、父(源為義)と子(源義朝)、兄(源義朝)と弟(源為朝)、叔父(平忠正)と甥(平清盛)がそれぞれ敵味方に分かれて対立し、一触即発の状況でした。なお、源義朝は頼朝と義経の父です。

 鳥羽法皇の死後7日にして保元の乱が勃発しました。7月11日未明、後白河天皇・藤原忠通方の源義朝、平清盛、源義康などの軍勢が、崇徳上皇や藤原頼長らが立てこもる白河北殿を奇襲しました。争いは約4時間で終わり、敗れた崇徳上皇は、仁和寺に逃げ込んだところを捕らえられ、信西(藤原通憲)の強固な主張により、罪人として讃岐に配流されることになりました。天皇の位にあった者が流刑となるのは、奈良時代に淳仁天皇(廃帝)が淡路国に流されて以来約400年ぶりのことで、これまでにない厳しい処置でした。また、長く絶えていた死刑がこの時復活しました。

 天台座主・慈円はその著書『愚管抄』で「保元元年七月二日、鳥羽院ウセサセ給ヒテ後、日本国ノ乱逆ト云コトハヲコリテ後ムサノ世ニナリニケルナリ」と書いています。この乱は、後の平治の乱から源平合戦へと続く戦乱の始まりであり、王朝の貴族文化の終末と武家時代の幕開けを告げる事件でした。

 崇徳上皇は京都から淀川を下って海に出て、須磨・明石を過ぎ、播磨・備前の海岸沿いに瀬戸内海を西へ進みました。途中、直島に滞在した後、8月3日に讃岐国阿野(あの)郡・松山ノ津に到着しました。御所がまだ出来ていなかったため、国府に勤める当地の庁官であった綾高遠(あやたかとう)の邸宅を仮の御所とされ、やがてその近くの長命寺(ちょうめいじ)に移られたと伝えられています。

 その後保元3年(1158年)年、国府のすぐ近くの鼓岡(つづみがおか)の行在所に入られました。その宮は木丸(きのまる)殿と呼ばれています。木丸殿での上皇は、一日中部屋にこもり、書物を読んだりお経を唱えたりしていたようですが、寂然(じゃくねん)という僧が都から訪れて来て上皇と歌のやり取りをしています。寂然は「大原の三寂」兄弟の一人で著名な歌人です。

 このような隠遁生活の中で、上皇は後の世のためを思い、3年がかりで五部大乗経を書き写し、「浜千鳥 跡は都へ通えども 身は松山に 音をのみぞなく」という歌を添えて奉納のため京都に送りました。しかし、信西がこれは後白河院を呪咀するものであるとして反対したため、朝廷は受取りを許否しました。崇徳上皇は朝廷に対する激しい怒りをあからさまにし、「われ魔王となり天下に騒乱を起こさん」と言って、舌の先を食い切り、流れる血で大乗経の奥に誓状を書きつけて、海に沈められたといいます。そしてそれ以後、爪も髪も切らずに、日々凄まじい悪鬼さながらの形相になり、朝廷を恨み続けたといいます。このときの上皇の様子は、「院は生きながら天狗となられた」と都に報告されています。

 配流8年の長寛2年(1164年)8月26日、崇徳上皇は都を偲び配所の月を眺めつつこの地で崩御しました。享年46歳でした。このことは直ちに都に伝えられ、葬儀に関する指示を待つ間、遺体は古来からの霊水と伝えられる野澤井(八十場)の清水に20日間浸されていたと伝えられています。なお、上皇の死については暗殺説もあります。

 都から白峯山に葬る宣旨が届き、9月16日の葬送の途中、高家神社に御棺を安置した際、にわかに風雨雷鳴がとどろき、御棺の台石にした六角の石に、どうしたことか血が少しこぼれていたと伝えられています。荼毘は白峯山上で行われ、その地に葬られました。

 上皇が崩御されてから3年後の仁安2年(1167年)、西行法師が白峯の御陵に詣でています。江戸時代に上田秋成が書いた「雨月物語」では、御陵にやってきた西行法師が読経をし、魂をなぐさめるために和歌を詠むと大魔王のような風をした崇徳の霊が現れて会話をするという場面が描かれています。

 平安時代の頃には怨霊思想というものがあり、人を無実の罪に陥れたり、悪口讒言により死地にいたらしめたり、残酷な危害を加えたりすると、被害者の怨恨が雷や天狗などに化して加害者に報復すると考えられていました。菅原道真の天神信仰はその一つです。保元の乱の後わずか3年にして、平治の乱が起こり信西や源義朝が討たれます。その後平氏の時代となりますが、清盛も熱病に倒れ、さらに源平合戦で平氏一族は壇の浦で滅亡してしまいます。このような一連の出来事は崇徳上皇の怨霊の仕業と考えられていました。

 崇徳上皇の死から約700年後の明治元年(1868年)8月、明治天皇は、父孝明天皇の遺志を継ぎ、京都の堀川今出川東入ルの飛鳥井に白峯神社を造営して、朝廷に仇なすと公言して世を去った上皇の霊を讃岐から京都へ奉還しました。造営の宣命には、皇軍(明治政府軍)に逆らう奥羽地方の賊軍を速やかに鎮定して天下が治まるよう加護願う文面がみられるそうです。これは、明治維新の動乱が上皇の魔力によって引き起こされたものであり、その祟りによって主権者の地位から転落した朝廷が上皇の霊と和解して主権を取り戻したことを暗に示そうとしたものであると云われています。なお金刀比羅宮も明治初期に崇徳天皇を祭神としています。さらに、日米開戦直前の昭和15年、白峯神社は神宮に格上げされたといいます。

 このように、崇徳上皇の霊は近代日本の二大国難期に守護神として崇められており、その力に対する畏敬の念の深さに驚かされます。現在この神社には、その境内が“蹴鞠”の宗家であった飛鳥井家の敷地だったことから、サッカー選手のお参りが絶えないといいます。

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(26)“今昔物語にも出ている日本最大のため池”

 香川県には、現在およそ1万6千を超える溜池が存在し、小さなものまで含めると2万~2万5千存在するともいわれています。溜池の総数では兵庫県、広島県についで全国第3位ですが、県の面積が全国で一番小さいため1km2当たりの溜池数(7・8ヵ所)は全国一です。農業用水のかつては7割、現在でも約5割は、このため池の水で賄われています。その中でも満濃池は、金倉川の流れを阿讃山脈山麓の台地に形成された浸蝕谷の端でせき止めた池で、周囲およそ20km、総貯水量1,540万t、農業用溜池としては日本一のスケールです。

 満濃池では、「ゆる抜き」の神事が毎年6月13日に行われます。ゆる抜きは、讃岐地方に田植えの始まりを告げる行事です。満濃池を流れ出た水は、網の目のように張りめぐらされた用水路を通り、田へ、あるいは下流の子池、孫池へと供給されます。その受益面積は現在でも4,600haに及んでいます。

 満濃池の歴史は古く、今から約1300年前の大宝年間(701年~704年)、国守道守朝臣(みちもりあそん)により築造されたというのが最初の記録です。古代の讃岐平野は、温暖な気候に恵まれ、稲作に適した地域として早い時期から条里に基づく水田開発が進んでいました。

 しかし、満濃池は何回か決潰しており、中でも弘仁9年(818年)の大決潰によりこの地方一帯は泥海になったといいます。このため朝廷は翌々年、築池使路浜継(ちくちしみちのはまつぐ)を派遣して修築工事に当たらせますが、なかなか完成することができません。そこで国司から改めて空海に工事監督をしてほしいという要請願書が朝廷に出されます。空海は3ヵ月あまりの間、壇を設け夜を徹して祈祷するかたわら農夫を指導し、弘仁12年(821年)に修築工事を完成させます。空海の数限りない社会事業の伝承の中でも代表的な史実として伝えられています。

 平安時代の中ころに書かれた「今昔物語」巻二十の第一に、「竜王、天狗のために取られたる物語り」として満濃池が描かれています。「今は昔、讃岐国、多度の郡に、万能の池と云ふ極て大きなる池有り。其池は、弘法大師の其国の衆生を哀(あわれ)つるが為に築(つき)給へる池也。池の廻(めぐ)り遥に広(ひろく)して、堤を高(たかく)築き廻したり。池などは、不見(みえ)ずして、海とぞ見えたり。池の内底ひ無く深ければ、大小の魚共(ども)量(はかり)無し。亦竜の栖(すみか)としてぞ有ける」で始まるその物語は次のようなものです。

 池に住む龍は小さな蛇の形に身をやつしているとき、近江国比良の山に住む鳶に身を替えた天狗にさらわれました。比良の山奥の狭い洞穴に置かれた龍は、近くに水が一滴もなく、元の姿に戻ることが出来ず途方にくれておりました。そこに比叡山からさらわれてきた僧侶がやってきました。ちょうど僧侶は手を洗おうと水瓶(すいびょう)を持っているところをさらわれたため、残っていた一滴ばかりの水を龍にかけてやることができました。蛇となっていた龍はみるみる元の龍王の姿となり、空を翔けて僧侶を比叡の山に帰し、やがて天狗に報復しました。助かった僧侶はこの話を広め、龍のために常にお経を詠み、そのため龍は命を永らえることができました。

 しかし、満濃池は、その後も決潰と修築を繰り返し、元暦元年(1184年)の決潰からは修復されることもなく、鎌倉時代、室町時代の中世を通じた約450年間、池は消滅して元の池地には池内村という集落まで存在していました。

 これを復活させたのは、生駒藩時代の西島八兵衛です。藩主の命により、寛永5年(1628年)10月から同8年(1631年)2月までの2年余の歳月をかけ復興しました。このとき甦った満濃池は、今日の姿にかなり近いものでした。今から約380年ぐらい前のことです。

 しかし、当時、堤に埋設された樋管(ひかん)や櫓(やぐら)などの取水構造は木製で耐用年数に限度があったため、十数年に一度交換工事を行わなければならず、その度に多額の費用と労力が必要でした。工事にかり出された農民は「行こか まんしょか(やめようか) 満濃普請(まんのうぶしん) 百姓泣かせの池普請」とうたったといいます。

 そこで嘉永年間(1848年~1854年)に朽ちない石材を組み合わせた底樋管に交換されましたが、石材接合技術に問題があり、また強い地震が重なり、同7年(1854年)7月、約220年間持ちこたえた堤がついに決潰してしまいました。折しも幕末から明治維新という混乱時に当たり、池は16年間も途絶のまま放置されました。池が再び甦ったのは明治3年(1870年)6月のことです。

 その後、昭和15年(1940年)から同34年(1959年)にかけて行われた6mの嵩上げ工事により現在の堤防が築造されて貯水量が倍増して今日の姿になりました。

 満濃池は1300年に及ぶ讃岐人の英知と汗の結晶ともいえる存在で、その規模と役割の大きさにおいて、いまだに讃岐の米づくりに揺るぎない位置を占めています。

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(20)“讃岐の国司を務めた菅原道真”

 菅原道真は今から約1160年前の承和12年(845年)に生まれました。道真は10代にしてすでに和歌や文章の才能で評判となり、難関の式部省試に18歳で合格して文章生(もんしょうせい)となります。さらに25歳で方略試という国家試験に合格します。これは230年間で合格者がわずか65人という超難関試験です。後に道真が合格祈願の神様として称えられる所以です。そして道真は33歳で式部少輔と文章博士という学者としての最高位まで登りつめます。

 仁和2年(886年)、道真は讃岐の守を任じられ赴任します。41歳のときです。これは他の学者たちが道真一派の勢いを恐れて彼を京からひき離そうとしたためともいわれています。しかし、当時讃岐国は大国に次ぐ上国でその国司には「四位」で任じられるのが通常でしたが、この時の道真の位は「従五位上(じゅうごいじょう)」というランク的には中級で、讃岐守に任命されたのは大抜擢だったようです。

 道真が讃岐に赴任した当時、綾南町の滝宮神社の境内になっている辺りには行基が開創といわれる龍燈院(りゅうとういん)という寺がありました。道真は、龍燈院の一角にあった官舎に住んだと伝えられています。道真が赴任した当時、龍燈院の一角には讃岐一国の氏神を祀る祠があり、寛平元年(889年)、その祠に道真と龍燈院主とが祇園から牛頭天皇(ごずてんおう)を勧請(かんじょう)して社殿を創建し、それが後の滝宮神社になったと言われています。しかし、明治維新の神仏分離策により滝宮神社は残り、龍燈院は廃寺となってしまいました。その後龍燈院の建物は焼失して今は神社境内に跡地の記念碑が残されているのみです。

 道真が赴任した時には道真にとって讃岐での生活は寂しかったようで、初めて秋を迎えたときに次のような七言律詩を詠んでいます。



  涯分浮沈更問誰
   [涯分(がいぶん)の浮沈(ふちん)更に誰にか問はん]
  秋来暗倍客居悲
   [秋よりこのかた暗(ほのか)に倍(ま)す客居の悲しみ]
  老松窓下風涼処
   [老松(おいまつ)の窓の下(もと)に風の涼(すず)しき処(ところ)]
  疎竹籬頭月落時
   [疎竹(そたけ)の籬(まがき)の頭(ほとり)に月の落つる時]
  不解弾琴兼飲酒
   [琴(きん)を弾(ひ)き兼ねて酒を飲むを解(さと)らず]
  唯堪讃仏且吟詩
   [唯(ただ)仏を讃(たた)へ且(か)つ詩(し)を吟(ぎん)ずるに堪(た)
   ふるのみ]
  夜深山路樵歌罷
   [夜深く(よるふかく)して山路(さんろ)に樵歌(せうか)罷(や)む]
  殊恨隣鶏報暁遅
   [殊(こと)に恨むらくは隣鶏(りんけい)の暁(あかつき)を報(ほう)
   ずることの遅きことを]
[意味]
 身の程の浮き沈みを改めて誰に尋ねようか。秋になってから知らぬ間に募ってくる旅住まいの悲しさ。年老いた松に近い窓辺に涼しい風が吹く場所。まばらな竹の垣根のそばに月が沈む時。(私には)琴を奏でつつ酒を飲むのは分からない。ただ御仏を誉め讃えまた詩を口ずさむことができるだけだ。夜も更けて山道に(響く)木こりの歌も止んだ。とりわけ恨めしいのは近隣の鶏が夜明けを告げるのが遅い(なかなか夜が
明けない)ことだ。

 

 また、讃岐の海や山に生きる人々、さまざまな生業を営む当時の人々の姿を、冬の寒さをもっとも早く感ずる貧しい人たちへの思いこめて、「寒早十首(かんそうじゅっしゅ)」という漢詩を残しています。

 道真が讃岐にやってきて2年目の仁和4年(888年)、讃岐はひどい旱魃に見まわれました。そこで、道真は自ら府中の城山(きやま)神社で七日七晩祈願しました。7昼夜の祈祷の満願の日、空がにわかに曇り、三日三晩大雨が降り続いたといいます。喜び勇んだ農民は滝宮神社(当時は牛頭天皇社)の前に集まり、神に感謝して道真公の徳をたたえて踊ったといいます。その後300年を経た頃、讃岐に来た法然上人がこの踊りを見て振り付けを改め、現在の「念仏踊」のスタイルになったといいます。この踊りは綾上、綾南の11地区に伝わる五穀豊穣(ほうじょう)を願う年中行事として今も受け継がれており、綾南町の滝宮神社と滝宮天満宮で奉納されています。この踊りは、鉦(かね)と太鼓の鳴り響く中、陣羽織に羽織袴(はかま)の踊り手が「ナムアミドーヤ」の念仏を唱えながら、大うちわを振って飛び跳ねるように舞います。

 4年間の讃岐での任期を終えて京に戻った道真は、宇多天皇のひきあげで蔵人頭、参議、遺唐大使と昇進し、ついに54歳のとき右大臣となり、左大臣の藤原時平と肩をならべて政治の最高位にまで達します。この右大臣昇任は、律令制における門地主義からみて異例のことでした。

 しかし、藤原時平は、宇多天皇と道真の親密な仲に強い懸念を抱き、まず宇多天皇を若くして隠居させ上皇とし、まだ年少の醍醐天皇を即位させます。そして「道真は上皇をあざむき天皇との仲を裂いて権力を我がものにしようとしている」という難癖をつけて道真を九州の太宰府へ追いやります。その後道真は903年に失意のもとにこの世を去ります。

 ところが、道真の死から6年後、藤原時平が39歳の若さで急死し、それと重なるように天皇家では相次いで皇子が死去し、また天変地異が相次ぎ、疫病が流行します。さらに御所清涼殿での儀式の最中、落雷が藤原家の者たちを直撃して即死させるという事件などが起きます。これらを藤原家の人々は「道真公の怨霊の祟り」と恐れおののきました。そして、その怨霊を鎮めるために道真の身分を右大臣に戻し、また神として祭るため京都に「北野天満宮天神」を建立し、神号を「天満大自在天神」としました。それでも怒りはおさまらないと恐れた者たちは、道真の死から90年後に太政大臣という最高官位を授けました。

 やがて道真の「怨霊」が鎮まると、学問の神様としての天神信仰として天満宮が全国に広まっていきました。讃岐では、天暦2年(948年)に、龍燈院の僧空澄が前年北野天満宮が創建されたことから、道真の霊を鎮めるためにその官舎跡に祠を建て、それが起源となって現在の滝宮天満宮になったと伝えられています。讃岐は道真ゆかりの地でもあることから、本県には滝宮天満宮をはじめ天神様が235社あります。

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(2)“真田幸村の先祖は讃岐人”

 平安時代中期、中級公家だった藤原純友は、都での出世は望むべくも無く地方官となり、当初は伊予掾(いよのじょう)として、瀬戸内に跋扈(ばっこ)する海賊を鎮圧する任にありました。伊予掾というのは伊予国府の三等官です。しかし、純友は、任期が終わっても京都にもどらず、宇和海沖の日振島を根拠地に、1500の軍船と2500人の配下を指揮する海賊の首領となり、周辺の海域を荒らし、やがて瀬戸内海全域に勢力をのばして各地の官衙(かんが)(当時の官庁)などを襲います。


  讃岐でも讃岐国府が襲撃され放火略奪が行われています。純友とほぼ同時期に関東では平将門が朝廷に対して反乱を起こしています。後にいう承平天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)です(935~941年)。 結局、純友は、配下の寝返りなどで次第に追いつめられ、博多(福岡県)の太宰府で官軍に敗れます。 この乱において、讃岐国三野郡の綾高隼(あやのたかはや)は純友側につきました。三野郡というのは、今の三豊郡のうちの三野、高瀬、詫間町の辺りです。


  しかし後、彼は賊軍に協力したことを後悔し、京に上り朝廷に罪を陳謝しました。朱雀天皇(すざくてんのう)はこれを憐れみ彼を信州小県に住まわせ真田村を与えたということです。綾氏は後に姓を真田と改め、その子孫が真田幸村というわけです。幸村が活躍した大坂夏の陣は慶長20年(1615年)ですから、幸村の先祖が讃岐を出たのは、幸村の時代から600年以上前のことだということになります。 


  一方、讃岐を去った高隼の領地は一族の綾高親(あやのだかちか)に与えられ、その後、讃岐の綾氏は姓を郡名の三野に改めました。その子孫は雨霧城主香川氏に仕えました。 朝廷は純友追討のために追捕使長官小野好古(おののよしふる)を派遣し、彼は功をあげたことにより西讃に領地を与えられました。西讃に小野姓が多いのはこのためであるといわれています。


 


 




 

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