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(63)“滝沢馬琴の親友だった高松藩家老”

 「南総里見八犬伝」で知られる滝沢(曲亭)馬琴には、高松藩の家老をしていた木村黙老という親友がいました。

 滝沢馬琴は、明和4年(1767)6月9日、江戸深川で旗本の用人をしていた下級武士の家に生まれました。しかし、主人の扱いに耐えかね、15歳の時にその元を去って放蕩無頼の生活に入ります。やがて24歳の時、名戯作家・山東京伝の弟子にしてもらいます。最初はなかなか売れずに苦しい生活をしていたようですが、次第に人気が出てき、40歳頃には、師である京伝を遙かに凌駕するほどになりました。馬琴は、多くの戯作を書いておりますが、生涯の代表作となる「南総里見八犬伝」は、文化11年(1814)、48歳の時から書き始め28年がかりで書き続けられました。

 木村黙老は安永3年(1774)、高松城下二番町屋敷で生まれました。馬琴より7歳年下で、名は亘(わたる)といいます。祖父季明(すえあき)が高松藩の家老であった家柄であり、黙老も高松藩の七代頼起(よりおき)・八代頼儀(よりのり)・九代頼恕(よりひろ)十代頼胤(よりたね)と四代の藩主に仕えています。文政6年(1823)、50歳のときに黙老は高松藩の国家老となり、文政12年に江戸家老を命じられ江戸屋敷詰になりました。この頃から馬琴との親交が始まったといわれています。

 馬琴は人とのつき合いをあまり好まず、また、自分の書いたものに対する他人の批評はあまり聞き入れない自尊心の強い偏屈な人物だったようですが、伊勢松阪の豪商、殿村篠斎(とのむらじょうさい)と小津桂窓(おづけいそう)、それに黙老の三人とは終始変わらず交遊を続けています。馬琴は新しい作品を書き終えると、この3人にすぐ送って批評を求めたといいます。

 また、黙老自身多くの著作を残しており、中でもとりわけ彼が54歳頃からおよそ20余年間にわたり書き続けてきた「聞くままの記」(正編26冊)及び「続開くままの記」(57冊)は、江戸時代の世相を知る上で大変貴重な史料になっています。その中には、平賀源内久米道賢についても記述されています。

 また、歌舞伎に「研辰(とぎたつ)の打たれ」という演目がありますが、これは讃岐の羽床村で起きた仇討ち事件を黙老が馬琴に書き送り、それを馬琴が「兎園小説拾遺」という本の中に載せたことにより芝居になったものです。桃太郎伝説も、菅原道真公が讃岐国司の時、中笠居(現在の香西)の平賀というところの、住民の伝承を聞いて物語を作ったようですが、それが庶民にまで拡大したのは、江戸時代の高松藩の江戸家老の黙老が馬琴に話したものが、出版されてからだそうです。

 このように黙老は文人としての多くの足跡を残していますが、特に頼恕のもとでは、財政担当の家老として、折からの藩財政逼迫の窮状を改革しています。いわゆる高松藩における天保の改革です。讃岐の砂糖産業の振興や、久米通賢の建議を入れて坂出塩田の開発に取り組ませました。この開発は巨費を要することから藩内には強い反対意見がありましたが、黙老は頼恕に進言し反対派を説得しました。

 しかし、多才な活躍をした黙老も、父親が2歳の時に亡くなったり、生涯4回も離婚したり、子供が早世するなど家庭的にはあまり幸せでなかったようです。一人っ子の若死にに悲嘆にくれる馬琴を慰めるために出した手紙の中で、黙老は自分の家庭的な不運について述べています。

 黙老と馬琴との交遊は馬琴が死ぬまで続けられ、馬琴が晩年に目を患い失明が心配されたときには、高松藩の医師に伝わる秘薬を江戸に取り寄せ、馬琴のもとに届けさせたといいます。

 馬琴は嘉永元年(1848)、82歳で亡くなりました。その8年後、黙老は83歳で没しました。それから約1年半後、井伊直弼が大老に就任し、強権をもって将軍継嗣と条約調印の懸案事項を強引に進め、国内は尊皇攘夷で混乱して行きます。


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たかまつ松平藩まちかど漫遊帳

たかまつ松平藩まちかど漫遊帳

○訪れてみたいところ

県歴史博物館
 馬琴は天保10年(1839)ごろから蔵書の売却をはじめ、それらは高松藩家老木村黙老、伊勢松阪の素封家殿村篠斎、豪商小津桂窓ら、馬琴終生の友人たちに渡りました。木村黙老に渡ったものは現在香川県立歴史博物館に残されているそうです。
 「聞くままの記」及び「続開くままの記」の内容は、多岐にわたっており、「高松藩で起きた事件」、「全国の主な事件」、「仇討ち」、「世間の伝承」、「噂・流行」、「病気の治療法」、「めずらしいものの絵」、「食べ物の製造法」、「有名人のこと」などにおおよそ分類することができます。
木村黙老の生誕地と墓
 黙老が生まれた二番町屋敷は現在の県立高松工芸高校校庭の西北隅の辺りだと言われています。また、墓は高松市の峰山墓地にあります。
坂出市・鎌田共済会博物館
 木村黙老の画像があります。
旧綾南町羽床下の「研辰の討たれ」関係の遺跡
 文政10年(1827)、阿野南郡羽床村(現在の綾南町羽床)出身の刀剣研師である辰造は、江州膳所藩(現在の大津市)において、自分の妻と姦通した平井市郎次を女敵討ち(めがたきうち)し、郷里の阿野南郡羽床村(現在の綾南町羽床)に逃げ帰っていました。そこへ、市郎次の弟平井外記と九市の2人が7年間探索ののち、兄の仇として辰造討ちとるという事件がありまた。当時評判となり、歌舞伎「研辰の討たれ」などの名狂言として大正昭和の名優市川猿之助の大当り狂言となりました。
 旧綾南町羽床下には、「研辰の打たれ遺蹟の碑」、「研辰ゆかりの丘と研辰生家の跡」、「浄覚寺」など研辰にゆかりの遺跡が残っています。
琴弾八幡宮
 観音寺市の琴弾山のある琴弾八幡宮は、滝沢馬琴が書いた「椿説弓張月」の舞台となっており、為朝の妻白縫(しらぬい)が当宮に於いて、保元の乱に敗れた夫を平氏に売った家来の武藤太を討ち果たす、という物語の一幕が展開されています。
 為朝を裏切った武藤太は船に乗り九州に向かいますが、途中讃岐に停泊し、琴弾八幡宮に詣でます。そこに忽然と琴の音が聞こえてきて、美しい女が現れます。武藤太はその容色に取り付かれ、勧められるままに酒を飲み、前後不覚となってしまいます。その女こそ為朝の妻白縫で、逃げようとする武藤太を縛りつけ、指を一本ずつ落とし、体に竹釘を打込み、苦痛を与えて殺し、夫の仇を討つというストーリーです。
 なお、「椿説弓張月」には直島や崇徳上皇も出てきます。
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