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(62)“建武の動乱と秀吉の四国進攻で二度も落ちた城”

 鎌倉幕府が滅亡して建武の新政が成ってから約2年後の建武2年(1335年)7月、旧幕府勢力が北条高時の遺児時行を擁して信濃で挙兵しました。これを中先代の乱といいます。北条軍は一時鎌倉を占拠しますが、京から向かった足利尊氏に撃破されます。しかし、鎌倉を奪回した尊氏はそのまま動こうとせず、後醍醐天皇の上洛命令を拒絶して建武政権に対して反旗をかかげます。このため、尊良親王を大将とした新田義貞の軍が尊氏追討のため京から鎌倉に向かい、尊氏軍と新田軍は箱根の竹下で衝突しました。そして尊氏はこの戦いに勝利し、京に攻め上がります。

 この頃、讃岐では、細川定禅(じょうぜん)が尊氏に呼応して反宮方として鷺田荘(現在の高松市鶴尾地区)で挙兵をしています。定禅は鶴岡八幡宮の別当をしていた人物で、鎌倉幕府の残党を押さえるために讃岐に派遣されていましたが、詫間・香西氏らの讃岐武士とともに屋島近くの高松城に在った宮方の讃岐守護・高松三郎頼重(舟木頼重)を攻撃します。頼重は屋島の麓に打ち出て兵を集めようとしましたが、定禅らが機先を制して夜討ちをかけたため、高松氏一族の多くは討死し、落城しました。そして、定禅はさらに反宮方の四国勢を結集し、宇多津で兵船を整えて児島に上陸し、京に攻め上がります。

 定禅に率いられた四国勢は中国勢と合流して播磨の赤松範資と共に新田軍を破って入京し、ちょうど関東から攻め上がった尊氏軍と共に三井寺、賀茂河原、糺河原などで奮戦しました。しかし、尊氏ら反宮方勢は北畠顕家の軍に大敗し、海路九州へ逃れます。定禅も讃岐へ戻り、再挙を図ります。

 九州で巻き返しを図った尊氏は、建武政権に不満を持つ武士を糾合して、大軍を率いて京に海路向かいます。讃岐にいた定禅も500余りの軍船と500騎の兵を率いて再び尊氏軍と合流します。5月25日、ついに尊氏軍は摂津の和田岬に上陸し、新田義貞楠木正成の軍と衝突しました。これが湊川の戦です。楠木正成はこの戦いに敗れ、弟正季とともに自刃しています。定禅率いる讃岐武士はこのときも尊氏軍として活躍しています。

 その後、117日、尊氏は京・室町に幕府を開き、1221後醍醐天皇は吉野に逃れ、ここに南北朝時代が始まります。

 高松城が落城してから250年後の天正13年(1585年)4月、この城は再び歴史の上に登場します。前年の6月から、讃岐は土佐から進出した長宗我部元親の支配下となっていました。豊臣秀吉は四国を平定するため、弟の秀長を大将に阿波、讃岐、伊予の三方面から大軍を送り込みます。讃岐へは宇喜多秀家を総大将として、蜂須賀正勝、黒田孝高、仙石秀久らの軍が屋島に上陸します。最初に攻撃の目標となったのが高松城でした。

 このとき、城主の高松左馬助(頼邑)をはじめ、香西より援軍にきていた唐渡弾正(からとだんじょう)、片山志摩(かたやましま)以下200人余の兵は防戦に努めましたが、全員城を枕に討死にしました。これにより讃岐の戦国時代は終わりを告げ、近世の幕が開きます。また、この戦いは讃岐国内での最後の戦でした。天正15年(1587年)生駒親正の讃岐入封によって、翌年、篦原(のはら)(今の高松市街地)に城が築かれ、東の高松の地名をとって高松城とし、城下町高松が誕生しました。これによりそれまでの高松は古高松といわれるようになりました。

 屋島とその近くには、古墳時代に築かれた神櫛王の墓といわれる王墓、飛鳥時代に築かれた朝鮮式山城の屋島城、奈良時代に開かれた鑑真和上ゆかりの屋島寺、古代から中世への過渡期にあった源平合戦の古戦場、そして、建武の動乱と中世から近世への過渡期に戦のあった高松城と、それぞれの時代において歴史の舞台となっています。

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○訪れてみたいところ

旧高松城
 細川定禅が攻めた屋島近くの城は、高松郷(現在の高松市街地の東にあたる古高松町一帯)に在ったことから高松城と呼ばれており、別名喜岡城ともいいます。現在玉藻公園になっている高松城とは全く別のものです。
 「高松」という地名の名の起こりは、昔この地に松の大木があって、高くそびえて遠くからも目立ち、松の枝や葉が繁茂して木蔭が六町四方にも及んでいたことから、里人らが高松と呼んだといわれています。しかし、ある説によると、外人帰化の地であることから高松と呼ばれるようになったといいます。地名に「高」の字をつけるのは古代、中国や朝鮮半島から渡ってきて帰化した民族の住んでいたところが多く、漢民族は木へんに公と書いて松というように「松」を群木の中の王であり、めでたい木としているそうです。また高松郷に在る帰来という地名も帰化の意だといいます。
 高松三郎頼重は美濃の出の武将で、舟木頼重といいます。建武の中興のときの功により朝廷側から讃岐国の守護に任じられ、高松の地名をとりいれ姓を高松と名乗りました。定禅に落ちた旧高松城は、その後、頼重の子孫によって修復され香西氏に属しました。
 現在、旧高松城の跡地には喜岡寺が建っています。寺の東にある権現社のところが本丸跡だといわれており、寺の境内には、高松左馬之助、唐渡弾正、片山志摩、三将の墓が残っています。



《付近の地図》


http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=34%2F19%2F55.156&lon=134%2F6%2F54.945&layer=1&sc=3&mode=map&size=s&pointer=on&p=&CE.x=324&CE.y=241

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屋島寺の「加持の水」

四国八十八ヵ所第八十五番札所屋島寺に,「加持の水」というところがある。
むかし,弘法大師が屋島山へ登ろうと中腹まで来られてひとやすみなさった。水を飲もうにも付近にも水場もなく,人々は,不自由していた。お大師様が加持祈祷をされると岩の間から清水が湧き出した。

 よろこんで人々は,それを加持の水と呼び大切に使った。

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