(7)“讃岐高松二代目藩主は水戸黄門の息子”
高松藩二代目藩主は松平頼常(よりつね)といい、水戸黄門すなわち徳川光圀の息子です。 高松藩の初代藩主は松平頼重(よりしげ)で、光圀のお兄さんです。頼重と光圀のお父さんは徳川家康の末っ子の十一男・徳川頼房(よりふさ)です。頼重と光圀はお母さんも同じ人で、名を久子という家臣・谷重則の娘です。
頼房は水戸藩の初代藩主となり、頼重はその長男、光圀はその三男として生まれました。生まれた順番からすれば、長男の頼重が頼房の後を継いで二代目水戸藩主となるべきはずです。ではなぜ、三男の光圀が水戸藩主となったのでしょうか。これには次のような事情があったといわれています。
頼房が久子に頼重を身ごもらせたとき、頼房の兄に当たる尾張・紀伊の両徳川家にはまだ嫡男が生まれておりませんでした。このため頼房は、二人の兄に遠慮して始末させようとしたところ、家康の側室で頼房の養母である英勝院の計らいで頼重が誕生したといわれます。頼重は隠し子としと公家に預けられました。その後、やがて頼房の二人の兄にも子が生まれた後、光圀が生まれたため、頼房は光圀を嫡男として幕府に届け出ました。
頼重は京都天龍寺の塔頭慈済院で育ち、出家する筈でしたが、英勝院が将軍家光に拝謁させ、寛永十六年には常陸国下館五万石の大名に取り立てられ、寛永十九年五月には生駒家のあとの東讃岐に高松十二万石を与えられ、ここに水戸連枝親藩として高松藩が成立しました。高松の内高は十六万石とも言われ、紀伊連枝、尾張連枝各藩が二~三万石であるのに比べ破格でした。これは、家光が本来長男でありながら水戸藩主になれなかった頼重を気にかけためだったといわれています。
同じ母から生まれながら兄頼重をさしおいて水戸徳川家を継いだ光圀は、兄を差し置いて水戸藩を継いだことを心苦しく思い、兄頼重の子に水戸藩を継がせて徳川綱条(つなえだ)とし、自分の子に高松藩を継がせて松平頼常(よりつね)としました。後にも両藩はそれぞれから藩主を迎えており、深い関係でした。高松藩主の江戸城での詰所は黒書院溜りの間で、この部屋は御三家・前田家らに次ぐ老中待遇の席次だったといいます。
光圀は名君として知られていますが、頼重も、大干魃を契機に、溜め池四百余を築いたり、海岸の埋め立てで新田を干拓するなど農村経営の安定に努め、高松城下町を整備して上下水道を敷設したり、侍屋敷を拡充し、高松城普請を行うなどして高松藩体制を確立した名君でした。また理兵衛焼や保多織(ぼたおり)を創始させ、千利休の曾孫で武者小路千家の租となった千宗守を召抱えるなど茶道に精通し、和歌もたしなむ文化人でもありました。
○訪ねてみたいところ
香川県歴史博物館
廣昌寺
この寺には水戸黄門の生母の墓があります。水戸黄門は初代高松藩主松平頼重の実弟に当たります。兄弟の父は徳川家康の11男で初代水戸藩主の徳川頼房で、生母は靖定(せいてい)夫人(久子の方)といいます。寛文元年11月14日(1681)、水戸藩の江戸上屋敷で靖定(せいてい)夫人が亡くなられたとき、頼重と光圀の兄弟は相談して、法華経で生母の菩提を弔ってもらうために、高松に廣昌寺を建立して卜しました。
霊源寺(れいげんじ)
この寺には徳川光圀(水戸黄門)の側室親量院の墓があります。正式には臨済宗妙心寺派紫雲山親量院といい、本尊は子安観音です。この寺は僧雲厳の開創といわれ、初めは香川郡坂田郷(紫雲山の麓)にあって千光寺といったそうです。松平頼重が娘婿の菩提を弔うため延宝4年(1676)現在地に移し、霊源寺と改称しました。
元禄10年(1697)高松二代藩主松平頼常(水戸黄門の息子)のとき、綾歌郡長炭村佐岡寺山より観音像が出土したので、頼常は生母である親量院の発願により、元禄12年(1699年)堂を建て安置しました。これが子安観音です。
頼常は光圀と親量院との間にできた子供です。親量院は光圀の側室だった女性で、光圀亡き後、頼常が高松に呼び寄せ面倒をみたというわけです。
この寺は同14年(1701)、頼常から親量院の号と寺領百石を与えられました。
高松市歴史資料館
高松城
栗林公園
仏生山法然寺
高松市仏生山町にあり、本尊は法然上人作と伝えられる阿弥陀如来です。寺の前身は那珂郡小松庄(仲多度郡まんのう町東高篠)にあった生福寺です。建永2年2月浄土宗開祖の法然上人が讃岐に流され、初め塩飽本島に送られましたが、のち小松庄に移られ生福寺を布教道場としました。
その後江戸時代に入り、寛文8年(1668)高松初代藩主松平頼重が寺の衰微を惜しんで香東郡百相村(仏生山町)に移し、新たに伽藍をいとなみ、江戸小石川伝通院(浄土宗、徳川家菩提寺)の前住真誉相関をよんで、生福寺の中興とし、同時に寺号を法然寺、山号を仏生山と改め、来迎院となりました。
寺の完成とともに、松平氏歴代の菩提所と定め、将軍家に願い朱印地300石をいただき、住持相関は宮中から紫衣をたまわる光栄にあずかりました。
来迎堂の背後にある「般若台」には2代と9代を除く歴代藩主とその一族の墓があります。
なお、(45)“讃岐に逗留した法然上人”もお読みください。
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