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(59)“幕末に勝海舟と咸臨丸で太平洋を渡った塩飽の水夫”

 幕末の1860年(万延元年)、日本人は自ら操縦する艦船で初めて太平洋を横断しました。その船は咸臨丸です。このとき、西郷隆盛との江戸城無血開城で有名な勝海舟の下、35名の塩飽出身の水夫がともに太平洋を渡っています。

 1853年(嘉永6年6月)、アメリカのペリー提督が、軍艦4隻をひきいて浦賀に来航し、幕府にアメリカ大統領の信書を提出してわが国の開国を強く要求しました。この威力に屈し、幕府は翌年再び来航したペリーと日米和親条約(神奈川条約)」を締結します。1633年(寛永10年)の鎖国令以来、200年以上にわたって泰平の夢を見続けてきたわが国も、これによってようやく海防の重要性をさとり、外交関係を継続していたオランダに依頼して欧式海軍の創設を始めます。

 1855年(安政2年)、幕府は長崎に海軍伝習所を開設し、オランダより贈呈された汽船と派遣された教育隊により、勝海舟榎本武揚ら旗本と各地から徴用した水夫に航海術を修得させます。このとき、塩飽からは30人の島民が幕府に御用水主(かこ)役を命じられ、航海練習に参加しています。咸臨丸は、江戸幕府が海軍創設のためオランダに発注した排水量625トン、長さ49.5m、幅7.2mの木造軍艦で、1857年(安政4年)に長崎に到着し、長崎海軍伝習所で九州近海の練習航海や長崎・江戸間の往復航海にあたっていました。

 1858年(安政5年)、井伊直弼が大老となり、幕府はアメリカ総領事のハリス「日米修好通商条約」を調印します。そしてこの批准書を交換するため、外国奉行の新見豊前守正興を正使、村垣淡路守範正を副使とする総勢84人の遣米使節団がアメリカ軍艦ポーハタン号で派遣されることになりました。このとき、遣米使節を護衛するという任務と、オランダ人の教官に学んだ技術を実際にためす目的で、咸臨丸も一緒に渡航することになりました。長崎海軍伝習所が開かれたから、4年あまり。小型艦の咸臨丸で太平洋を横断するのはかなりの冒険でした。

 咸臨丸には、軍艦奉行の木村摂津守喜毅(よしたけ)、艦長の勝海舟以下総勢96名の日本人が乗り組み、他に日本近海で難破したアメリカ人11人も同乗しました。乗組員には通訳の中浜(ジョン)万次郎や、後の慶応義塾創始者の福沢諭吉もいました。このとき咸臨丸に乗り込んだ水夫50名のうち塩飽の者が35名(本島12人、牛島2人、広島11人、櫃石島3人、瀬居島3人、高見島4人、佐柳島2人)を占めていました。

 1860年2月4日(万延元年1月13日)、咸臨丸は後尾マストに国旗の「日章旗」を掲げて、品川沖を出帆し、浦賀に寄ってアメリカへ向かいます。ときに桜田門外の変が起きる約1ヵ月前の頃です。

 この時代は蒸気船とはいえ、航海中は帆走するのが一般的でした。37日間の航海中、好天の日は数日しかなく、ほとんどが悪天候でした。勝海舟は船酔いで部屋から出られず、温厚な木村喜毅は「勝はふてくされて出てこない」と思ったといわれています。

 3月17日(旧暦2月26日)、咸臨丸は遣米使節が乗船したポーハタン号より12日早くサンフランシスコに到着します。50日余りの滞在期間中、日本から来た最初の船だということで、一行はさまざまの接待饗応を受けました。でも、技術的な事についてはその大規模なのには感心しても知っていることばかりで、それよりも社会制度や風習の違いに大いに驚き、不思議に思ったそうです。しかし、塩飽出身の35人のうち2人が病に倒れ、異国の地に埋葬されました。

 5月8日(旧暦3月18日)、咸臨丸は遣米使節と別れ、一足先に帰路につきます。帰路は天候に恵まれ、ハワイに立ち寄り、6月23日(旧暦5月5日)浦賀に着きます。こうして咸臨丸は日本人が始めて独力で太平洋横断の壮挙をなし遂げました。なお、遣米使節一行は、サンフランシスコから南下しパナマへ行き、地峡横断鉄道で大西洋岸へ出、北上してワシントンへ向かいました。

 この遣米使節と咸臨丸一行が、実際にアメリカの政治制度や社会を見聞したことはその後の日本の近代化に大きな影響を与えたといわれていますが、その裏側には長い伝統に培われた優秀な水主(かこ)の技術と誠実な資質をもつ塩飽水夫35人の活躍があったといえるでしょう。

 その後アメリカでは1860年11月の大統領選挙でリンカーンが当選し、翌年3月4日大統領に就任すると、その年の4月12日に南北戦争が勃発しています。

 なお、1862年(文政2年8月13日)、咸臨丸は本島に寄港しています。この年、幕府は造船、操船などの技術研究のため、わが国で初めてオランダに16名の留学生を派遣することになりましたが、この中には榎本武揚西周らに交じり、塩飽から瀬居島出身の古川庄八と高見島出身の山下岩吉の2名が選ばれていました。その渡欧の折り、留学生を乗せた咸臨丸が本島に立ち寄ったわけです。咸臨丸には古川、山下のほか多くの塩飽水夫が乗船しており、西周はそのときの様子を「咸臨丸のいたるや、島民は端艇に乗りて群り来たり、母は子を認め、婦は夫を認めて歓呼相応ず、その喜び知るべし」と記録しています。

 幕府留学生は3年後帰国しますが、待ち受けていたのは、非情にも薩摩、長州を中心とする討幕のあらしでした。


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○訪れてみたいところ



本島、牛島、広島、櫃石島、瀬居島、高見島、佐柳島
 本島の塩飽勤番所跡には、咸臨丸で渡米した塩飽水夫たちがアメリカから持ち帰ったガラスコップやインクスタンドなどが保管されています。
与島
 日本で初めて太平洋を横断した「咸臨丸」の水夫50人のうち35人が塩飽出身だったことを顕彰する意味を込めて咸臨丸を模した遊覧船を運航しています。

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