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(58)“伊能忠敬より進んだ測量技術を持った江戸時代の先端科学技術者で塩田の父”

 伊能忠敬(いのうただたか)は江戸後期の1745年(延享2)年に生まれ、下総国佐原村(千葉県佐原市)で酒造、米穀取引などを営む一方、村政にも尽くして名主に命じられ、苗字帯刀も許されていました。  50歳のとき、隠居して江戸へ出、高橋至時(よしとき)に師事して本格的に暦法・天文学の勉学を始めます。その後、その高度な測量技術が幕府に認められ、日本全国の沿岸を測量し、わが国で初めて全国測量地図を作製しました。忠敬とその弟子たちによる測量は、忠敬が55歳から71歳までの足かけ17年間にわたり全国津津浦浦で行われました。

 1808年(文化5年)忠敬は讃岐を測量していますが、その2年前、高松藩では、久米通賢(みちかた)が忠敬と同等の精密な地図を忠敬よりも早く、しかも独自の方法で作製していました。忠敬の影響で全国の各地方でも精密な地図を作製した例はあったようですが、忠敬より前には例がないそうです。

 通賢は、平賀源内が獄死した翌年の1780年(安永9年)、大川郡引田郷馬宿村(現在の東かがわ市引田町馬宿)に、船の舵とりと農業を兼ねる家に生まれました。通称を栄左衛門といい、忠敬より35歳年下です。幼少の頃から利発で器用であったといわれ、7歳のときに大坂の時計屋で、6両もかかる時計の修繕を2両で直して客の困窮を助けたという話が伝えられています。

 19歳(寛政10年)になると大坂の天文学者間重富(はざましげとみ)に入門し、天文・測量学を学びます。間重富と忠敬の師である高橋至時は麻田天文暦学の同門で、通賢と忠敬は兄弟弟子ということになります。

 その後帰郷した通賢は、1806年(文化3年)、27歳のときに高松藩の御用測量方を命ぜられます。測量実施のきっかけは、忠敬の測量を聞いた八代藩主松平頼儀(よりのり)が先手を打ったともいわれていますが定かではありません。通賢は自分で製作した測量器具を携え、助手10人らとともに、領内を東の引田浦通念(つうねん)島から西の土器村へ海岸線に沿って測量を始め、内陸部を折り返し、再び東の国境に至っています。

 その2年後、伊能忠敬が測量のため来讃しました。その測量期間は54日間で、通賢は案内・接待役を務めます。「伊能忠敬測量日記」によると、通賢は西条城下や丸亀城下滞在の忠敬を訪ね、津田村滞在から引田村出立までは日々測量に付き添い、後日徳島領撫養在宿にも訪問しています。言い伝えでは、そのとき通賢が2年前に測量した地図を忠敬に差し出したところ、忠敬はこれを見て感嘆し、通賢の努力を大きくたたえたといいます。

 伊能図と久米図はほとんど同じ水準の正確な地図でしたが、忠敬の測量は旧式技術で、通賢は日本で初めて「バーニア副尺」を取り入れた高精度の新式測量器具を開発し、新式技術で測量していたといわれています。当時の日本では旧式技術の「対角斜線副尺」を使用していましたが、バーニア副尺はヨーロッパで主流だった新式技術で、測量の精度が旧式技術の2倍になりました。日本でバーニア副尺が使われ始めたのは幕末ごろといわれているので、通賢はこれより約半世紀も早く使っていたことになります。このため「通賢はバーニア副尺の原理を理解し、独自の工夫で測量に応用した日本最初の人」とその独創性が高く評価されています。

 また、その後、通賢は測量だけでなく、兵法や銃砲などの武器、揚水機の研究開発にも力を入れています。揚水機については、「養老の滝」と名づけた模型を作って、大坂と江戸浅草で宣伝興業を行っています。

 このように通賢は科学技術者として活躍しましたが、優れた経世家でもありました。1824年(文政 7年)45歳のとき、高松藩の逼迫した財政を立て直すため、経済政策を建白しています。この頃の高松藩は天災などが相次ぎ財政は危機的状況にありました。このためときの第九代藩主松平頼恕(よりひろ)は、難局打開方策について広く意見を求めたのです。建白書の主な内容は、砂糖製造業者の保護や坂出沖の塩田の開発による産業の振興、財政支出の抑制、役人の数の減少、優秀な人材の登用などです。中でも塩田開発については、「もし見込み違い御座候節は、一命を差し出し」と覚悟のほどが記されています。

 しかし、坂出沖塩田の開発には多額の費用が必要であったため、藩内には強い反対意見がありました。通賢はもともと武士の出でなく、藩内測量などの功績が認められて30代中頃に茶道小頭に準じた御茶道並(おさどうなみ)という待遇と「久米」という苗字を与えられた者で、家中には成り上がり者は出しゃばるなという保守的な雰囲気があったのかもしれません。このような中で、頼恕は藩内の反対を押し切り、通賢の建白を採用します。建白をした者の身分を問わず、内容の良いものであれば採用するという頼恕の度量の大きさ・英明さをうかがい知ることができます。

 建白書提出から2年後、通賢は塩田開発の責任者である普請奉行に命ぜられ、寝食を忘れて工事に没頭します。途中、既存の塩業者の反対と資金調達の両面で暗礁にのり上げますが、頼恕の協力で解決します。しかし資金の面では、藩からの提供だけでは十分ではなく、通賢と親戚までも含めた一族の財産を使い果たすほどの協力で、工事の完成を迎えたといいます。こうして総面積 131haという大がかりな塩田開発はわずか3年5か月で完成します。坂出塩田は通賢の企画・実行力と頼恕の決断力によってできたといっても過言ではないでしょう。

 後年、通賢の名声は藩外でも高まり、別子銅山の水抜き工事、大坂の淀川改修工事の設計、遠州新居湊の改修計画を手掛けたほか、「どんどろ付木(つけき)」といわれたマッチの製作と鉄砲への応用を研究しています。しかし通賢は坂出塩田開発事業にすべての財産を使い果たしていたため貧困のうちに1841年(天保12年)、62歳で亡くなりました。

 通賢と頼恕によって築かれた坂出の塩田はその後塩業王国讃岐の基礎となっていきます。このことから通賢はよく「塩田の父」として知られていますが、多才な活躍をした江戸時代の先端科学技術者でもありました。

○訪れてみたいところ

久米通賢生家跡
 東さぬき市引田町の讃岐相生駅の北西約1kmにあります。現地には墓と元東大総長南原繁氏の筆による顕彰碑があります。

四国村(四国民家博物館)
 屋島南麓にあり、引田から移築された久米通賢の生家があります。
四国村久米栄佐衛門旧宅

仏生山法然寺
 歴代高松藩主の墓所があります。

塩竃神社(しおがまじんじゃ)
 第九代高松藩主松平頼恕(よりひろ)が坂出墾田の守護のために中湛甫北西隅(現在の築港町1丁目)に建立した神社で、現在は聖通寺山中腹にあります。境内には通賢の銅像が建立されています。また元大蔵大臣津島寿一の銅像も建立されています。

坂出市役所
 玄関に通賢の胸像があります。

阪出墾田之碑(さかいでこんでんのひ)
 坂出商工会館の裏にある天満宮境内にあります。1828年(文政11年)に松平頼恕が、久米通賢の坂出墾田の業績をたたえ、書は楷書日本一とうたわれた加賀藩士の市河米庵(いちかわべいあん(三亥(さんがい))に依頼し、江戸の名工の広瀬群鶴(ぐんかく)・群亀(ぐんき)父子に彫らせて、江戸から海路運んで建立したもので、その経緯を記しています。

鎌田共済会郷土博物館
 坂出市本町にあり、建物は大正時代に建てられたものです。中に久米通賢が高松藩に提出した地図の下絵といわれる遺品展示室が設けられています。通賢が測量に用いた機器、研究製作した鉄砲類の武器、御内御用測量下図、揚水機の模型などが保存展示されています。
 通賢が測量に用いた機器は次のようなもので、ほとんどのものに栄左衛門の銘が入っています。
 「地平儀(ちへいぎ)」:ある地点から目標物に対する方位角を測るための器具。目盛に詳細な値を得ることができるバーニア副尺が用いられており、その応用例としては国内初。
 「象限儀(しょうげんぎ)」:地形の高低や天体の高度を測るもの。
 「ヲクタントフ」:八分儀。象限儀と 同じ原理の携帯用測量器。
 「星眼鏡(ほしめがね)」:天体望遠鏡です。
 通賢が研究製作した鉄砲類の武器は次のようなものです。
 「生火銃(せいかじゅう)」:銅、真鍮などで作った管の中に爆薬が点火するための薬品を詰めて使用する銃。
 「必勝剣(ひっしょうけん)」:脇差しそっくりの銃。
 「百目玉筒『百敵砲』(ひゃくめだまづつ・ひゃくてきほう)」:持ち運びのできる大砲。一人で百人の敵を倒すことができるという意味。
 「翻傘(ほんさん)」:合図花火。打ち出すと中から傘が飛び出す。
 「諸葛弩(しょかつど)」:矢が次々に飛び出し、泥棒を追い払うための武器 。
 通賢が高松藩に提出した地図の下絵といわれる「御内御用測量下図」は、2002年9月に発見されました。複数の和紙で作成され、合わせると縦約1・8メートル、横約4・7メートルにもなるものです。
 揚水機の模型は、通賢が大坂と江戸浅草で養老の滝と名付けて宣伝興業を行った揚水機の模型です。「自然水(じねんすい)」ともいい、水力を用いた永久機関です。

塩業資料館
 坂出市大屋冨町にあり、古代から現代までの塩田・製塩関係資料が展示されています。

元塩田だった坂出の街
 坂出市街の東の江尻地区から西の御供所地区、南の福江地区の一帯はかって遠浅の海浜でしたが、通賢の開発により広大な塩田となり、第2次世界大戦前には生産量日本一を誇っていました。これらの塩田は戦後次々と区画整理事業により埋め立てられ、工業地、住宅地、道路などに変貌しました。現在でも東大浜、西大浜など塩田だった頃の地名が残っています。
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坂出市の塩竃神社

 坂出市常磐町にある塩竃神社の祭神は大綿津見神。文政11年(1828)久米通賢が藩主松平頼怨の命により、坂出墾田の安全繁栄を祈願するため、中堪甫西北隅の地におまつりし、天保8年現在の地に奉遷した。境内に坂出神社がある。天保年間の創建で、事代主神をまつる。後、藩主松平頼怨及び久米通賢を配祭した。毎年10月25日が祭日である。

坂出の名の由来

 慶長(1596~1615)中期、津ノ山(新浜町)ふもとから、東坂に広がる遠浅海岸に塩浜が設けられ、赤穂などからやってきた浜人が塩づくりを始めました。驚いた宇多津住民が「坂(田尾坂)を出ると、いつの間にかあちらこちらに家が建ち、寄り州に村ができている」といったことから坂出と名付けられたといいます。

記事の補正

 歴代高松藩主の墓所は仏生山法然寺にありますが、二代藩主松平頼常(よりつね)と第九代藩主松平頼恕(よりひろ)の墓所だけはさぬき市志度町の霊芝寺(れいしじ)にあります。この二人は水戸徳川家から高松松平家に入った殿様です。
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