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(56)“讃岐に残る日本武尊の弟と息子の物語”

  綾川の流域、古くは讃岐国阿野郡(あやぐん)と呼ばれていた地方には、悪魚退治伝説と呼ばれる次のような古代の物語が伝えられています。
 
 第12代景行天皇の頃、それは1世紀の頃ではないかと考えられていますが、土佐の海にエビのような姿の大魚が現れて、船や人を飲み込み、暴れていました。それを知った天皇は息子の日本武尊にその悪魚の退治を命じました。しかし尊は自分の息子の武殻王(たけかいこおう、武鼓王、武卵王、建貝児王とも書かれる)にその役目を命じるように天皇に勧めます。武殻王は尊が吉備武彦の女(むすめ)・吉備穴戸武姫(あなどのたけひめ)と結婚して生まれた第5皇子で、このときの年齢はわずか15歳でした。

 悪魚退治を命じられた皇子はさっそく土佐に向かいます。ところが大魚はすでに阿波の国鳴門に移りさらに讃岐国槌途(つちのと、槌戸とも書き、大槌、小槌付近の海)で暴挙の限りを尽くしていました。 皇子は讃岐まで大魚追いかけ、綾歌郡綾川の上に陣をしき、80余人(88人ともいう)の兵を軍船乗せ、大魚に戦いを挑みます(①)。

 しかし大海を自由に泳ぎ回る大魚に、皇子と兵は船もろともたちまち大魚に呑まれてしまい、兵は大魚の毒気に皆倒れました。この危機の中、皇子は隠し持った道具で火を炊き、火に焼かれてもがき苦しむ大魚の腹を切り裂きついに脱出に成功します。そして皇子の乗った大魚の死骸は海岸に流れ着きました。しかし魚の毒気にあてられた兵は死人のようでした。そこへ白峰の方より雲に乗って一人の童子が現れ(②)、水の入った壺を持って兵たちに飲ませるとたちまち蘇生しました。童子は横潮大明神という神様(③)で、兵士達80人が蘇ったということで、その清水は八十場(八十蘇)の清水と名付けられました(④)。

 大魚の亡骸は、それが流れ着いた浜に魚御堂が建てられて供養されました(⑤)。そこには大魚の腹部が地上に埋め残されていたので、この浦を腹江転じて福江といい(現在の坂出市福江町の県立坂出高校付近)、尾が海まで続いたのでその尾のあたりを江尻というそうです。更に、里人たちが皇子の成功を祝して、お供を献じたところが御供所だということです。景行天皇に大魚退治を認められた武殻王は、褒美として、讃岐の土地を与えられ、城山に館を構え、讃岐に留まる霊王という意味から讃留霊王(さるれおう)と呼ばれました(⑥)。讃留霊王は124歳まで長生きし、その子孫が綾氏だといわれています(⑦、⑧)。

 以上が中讃地域に残る武殻王の悪魚退治伝説ですが、この物語は東讃にも残っており、さぬき市志度には、悪魚のたたりを封じたというお堂(⑨)や、「えの魚」の口を葬ったことに由来するといわれる「江の口」という地名が残っています。

 また、悪魚退治物語の主人公は神櫛王(かんぐしおう)であるともいわれています(⑩)。神櫛王は、父が第12代景行天皇で、母が稚武彦命(わかたけひこのみこと)の娘である五十河媛(いかわひめ)です。稚武彦命は讃岐国平定で先陣を切り、桃太郎のモデルになった人物ともいわれており、神櫛王の祖父に当たります。また景行天皇には別の女性との間に既に生まれた日本武尊がおりましたので、神櫛王日本武尊の異母弟に当たります。したがって、神櫛王武殻王は系譜上叔父、甥の関係に当たります。神櫛王は讃岐の国造(くにのみやつこ)の始祖とされており、その子孫が分かれて三木、神内、植田、十河、三谷、由良、池田、寒川、村尾等の諸氏が生まれ、主として山田、三木、寒川の諸郡で繁栄したといわれています。神櫛王の伝承は東讃が中心ですが(⑪、⑫)、中讃にも残っています(⑩、⑬、
⑭)。

 これらの伝承を裏付ける歴史的記述はありませんが、桃太郎伝説とともに、大和勢力による黎明期の讃岐統一の物語の一つといえるかもしれません。


 



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○訪れてみたいところ


 ①宇夫階(うぶしな)神社  丸亀市に隣接する宇多津町西部の小高い山頂にあり、その北側はかって海だったところで山裾が波打ち際でした。ご神体は高さ約5.5m・直径約4mの巨石で、古くはこがらす小烏大明神とも呼ばれていたそうです。この神社の由来は、武殻王があや阿野・う鵜た足郡を船で巡視中暴風雨に遭い、宇夫志奈大神に祈念したところ、白いこがらす小烏が現れ、その導きで本島(現在の丸亀市本島)のとまり泊に難を免れることができ、本島にほこら祠が、そのこがらす小烏が次に導いた宇多津の津野郷に遙拝所(現くず九頭たつ龍神社社地)が建てられ、807年(大同2年)、現在の地に遷座されたと伝えられています。


 ②稚児ノ滝  八十八水を持って皇子に献じた童子が飛んできた山が坂出市の白峯児ケ嶽です。この山の白峰寺崇徳御陵の下側には、落差100Mの県内最大の滝である稚児ノ滝があります。普段は水が流れておらず、まとまった雨の後しか見られない幻の滝です。


 ③横潮神社  坂出市福江町にあり、悪魚の毒気にあてられた武殻王と80人の兵に清水を与えた横潮大明神を祀ります。


 ④やそば八十場の清水  八十蘇水、蘇場の水、八十八の水、弥蘇場水とも書き、坂出市西庄町の白峯神社の近くにあります。八十蘇の水には、1164年(長覚2年)8月26日、崇徳上皇が鼓岡で崩御されたとき、京都へ奉問の使者を送り指示が来るのを待つ間、遺体が損なわれるのを防ぐためこの水に浸していたという伝えがあります。その後二条天皇の宣によりこの地に崇徳天皇社が建立されました。


 ⑤魚御堂の碑  伝説によれば、大魚は死して遂に白骨となりましたが、その魂が骨にとどまり化け物となって、多くの人々を悩ましました。そのため聖武天皇の時代、布教のため諸国を廻っていた行基が福江を訪れ、人々の難儀を救うため、白骨に火をかけ、その灰で「薬師如来像」を造り一寺を建立したと伝えられています。この寺が法軍寺また魚御堂です。この魚御堂も、長曾我部軍の兵火で焼失し、慶長14年(1609年)に再建されました。しかし明治34年4月県立商業高校が建設されたことにより、建物は横潮神社へ移され現在に至っています。なお魚御堂の跡(現坂出高校内)には、明治40年6月建立の「魚御堂の碑」があります。


 ⑥讃留霊王(猿王)神社-(さるれおう)  丸亀市飯山町下法軍寺西尾にあり、武殻王を祀ります。地元の人からは、「さんのうさん」「さんなはん」と呼ばれています。武殻王の亡骸が境内にある前方後円墳におさめられ、それが御神体とされ讃留王大明神として祀られています。


 ⑦法勲寺(ほうくんじ)  讃留霊王神社のすぐ近くにある大正年間に創建された浄土真宗の寺です。この寺の境内周辺は7世紀後半の白鳳時代に創建されたという旧法勲寺の廃寺跡です。旧法勲寺は綾氏の氏寺として創建された可能性が高いといわれています。 晩年の讃留霊王は、海の見える館に住むことがいやになり、城山から矢を放って、海の見えない新しく館をたてる場所を探したそうです。矢が突きたったのは、東に城山、南に象頭山の山並、西に善通寺の山々、北に飯野山のある、広々とした、讃岐平野の真ん中でした。しかし矢の突きたったところはまだかすかに海が見えていました。そこでその矢の突きたった場所から少し北によった所に新しい館を構えることにしました。その場所が古代寺院法勲寺跡と伝えられています。矢の突きたった石はその後矢塚と呼ばれ、現在は讃留霊王神社境内に移されています。 旧法勲寺は室町末期の15世紀中頃までは存続していたようですが、その後衰退し、寺宝類は島田寺に移されたといいます。さらに旧法勲寺は江戸時代の初め、生駒親正の息子一正によって父親正を葬った墓石の地(現在の高松市)に移されました。


 ⑧弘憲寺  生駒一正によって高松に移された旧法勲寺は、その息子の一正によって、親正の法名にちなんで弘憲寺と称されました。この寺には江戸時代の作ですが、讃留霊王を描いた絹本の掛け軸が伝わっています。


⑨地蔵寺  さぬき市志度町にある真言宗の寺です。この寺はうお魚みどう霊堂ともいい、武殻王が退治した悪魚のたたりを封じているといわれています。


⑩櫛梨神社  飯野山と象頭山を直線で結んだほぼ直線上の金倉川東岸に標高158mの如意山(与北山)があり、その南麓に神櫛王を祭神とする櫛梨神社があります。この社は讃岐国の延喜式内24社の一です。櫛は具志で酒の意ともいわれているそうです。 社伝によれば、景行天皇の時代、神櫛王が勅を受けて大魚を討つために讃岐国に来たとき、船を櫛梨山に泊め(当時はこの辺りまで海だったということです)、祓戸神を祀ったことから船磐大明神というそうです。船磐は、本殿前の道路を北へ300mほど進み東に入った所の民家へ続く脇道の門にあります。この山麓に船のとま苫を干した苫干場、櫂屋敷、船頭屋敷の地名が今も残っているそうです。神櫛王は、悪魚征討後、城山に城を築いて讃岐国の国造に任じられ、120歳まで生きたといいます。 言い伝えでは、神櫛王の墓は古来如意山山頂にあったそうですが、戦国時代に宇多津聖通寺山に居を構える奈良備前守元吉が山頂部に出城の櫛梨城を築く際平坦に整地したため、破壊されたといいます。 なお、神櫛王は小烏の先導で讃岐入りし、讃岐国造の祖となったという伝承があり、これをもとに「善通寺五岳太鼓」が創られたといいます。


⑪牟礼の王墓  神櫛王の墓といわれ、高松市牟礼町の国道11号線南側、牟礼川沿いにあります。この陵墓は、かつて大墓あるいは青墓と呼ばれていたところを、明治3年5月に高松藩知事松平頼聡公が朝廷に奏請して造営したものです。県内では白峯御陵とともに宮内庁管理となっています。伝承によれば、神櫛王は山田郡宮処里(現在の高松市前田)に官舎を営み、屋島の向かいの海岸に別殿を建てて政務を行っていたといい、亡くなった後、別殿の東にある丘すなわち現在の王墓の地に葬られたといいます。


 ⑫清水神社(しみずじんじゃ)の甕塚(かめづか)と上御盥跡(かみたらせき)  高松市由良町に神櫛王を祭神とする清水神社があります。この神社の境内にあるかめ甕塚には2口の水甕が埋納されており、日照りが続くとその甕を掘り出し、神社近くにある上御盥跡(かみたらせき)で神水を汲み、その水で甕を洗い清め降雨を祈るという行法が行われてきたといいます。雨乞いが終わると甕はまた地中に埋め戻されたそうです。この甕は神櫛王ゆかりのもので、その昔ご神酒を作ってお供えしていたと伝えられています。


 ⑬城山神社  元は城山の上にありましたが、現在は城山の東麓にあります。延喜式内24社の一つで、神櫛王を祀ります。


 ⑭綾歌町栗熊東の四十三神社  祭神は神櫛王とその臣下の42神で、神櫛王とその部下42人が宇閇地方に移り住んで、この土地を拓いた徳を称えて祀ったと伝えられています。

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御供所町

 景行天皇の御代、武殻(たけかいこ)王が管内を巡視中、聖通寺山ふもとで病気になりましたが、里人が差し上げた麦酒で元気を取り戻したといいます。その里人を家来に取り立てたのが由来と伝えられます。当地には明治時代まで麦酒を作る風習が残っていたといいいます。

イザナギ神・イザナミ神が降臨した伝説の残る雄山・雌山の近くには、日本最古の三間造りといわれ国宝に指定されている延喜式内社『神谷神社』や『総社』・『西鴨神社』・『東鴨神社』・延喜式内社名神大『城山神社』もあり、古来讃岐の中心だった名残りが多いですね。

林田町に東梶・西梶という部落名があり、僕が子供の頃祖父から教わったには、昔大きな船が林田の地に接岸し、その船はあまりに大きい船だったので二つの舵がついていて、その接岸時東側にあった舵の位置を東梶・西側にあった舵の位置を西梶となったと聞きました。
また、雄山・雌山にはそれぞれ男の神様女の神様が降臨したことからその名が付いたと聞きました。

城山神社を城山の山頂から麓に遷したのは、私、細川頼之です。
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