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(55)“松平定信のブレーンだった讃岐出身の儒学者”

 江戸幕府による封建制にゆるみが見え始めた18世紀末、徳川家斉(いえなり)が11代将軍につくと、田沼意次(おきつぐ)はしりぞけられ、八代将軍徳川吉宗の孫にあたる白河藩主・松平定信(まつだいらさだのぶ)が老中になりました。定信は、賄賂が横行した田沼時代の政治を改めるため、吉宗時代の享保の改革を理想とし、思い切った幕政改革を行いました。これを寛政の改革(1787年~1793年)といいます。
 定信は、質素倹約と文武を奨励し、儒学のうち朱子学を幕府の正学と定め、幕府の学問所である昌平坂(しょうへいざか)学問所では朱子学以外の講義を禁止して武士の思想を統制します。これを寛政異学の禁といいます。また、封建制の建て直しを図るため、商人から借りた借金を棒引きにするという棄捐令(きえんれい)を出して商人の借金に苦しむ武士を救い、都市に流出した農民に帰農令を出して農村の復興を図り、銭湯の男女混浴を禁止するなど風紀をひきしめます。一方では、囲い米令(かこいまいれい)による飢饉対策、足寄場(にん人そくよせば)による浮浪人対策などの社会施策も行います。
 この定信の施策のブレーンとして幕政に大きく貢献したのが、讃岐出身の儒学者である柴野栗山(しばのりつざん)です。

 栗山は、1736年(元文元年)に、讃岐国三木郡牟礼(現在の高松市牟礼町)で生まれました。名を邦彦もしくは彦輔といい、八栗山の近くで生まれたので栗山と号しました。10歳のとき高松藩の儒者・後藤芝山(ごとうしざん)の門に入り、牟礼から高松まで片道8キロの道のりを8年間毎日往復しました。
 そして18歳のとき、江戸に出て昌平黌(しょうへいこう)に入ります。そこは幕府の保護を受けた朱子学の学問所であると同時に、林羅山に始まる林家の家塾でもありました。おもしろいことに、この時、栗山に後れること3日、平賀源内も昌平黌に入ってきています。源内は牟礼の東隣の志度の出身で、栗山より10歳年長でした。
 栗山は昌平黌で12年間儒学を学び、1765年(明和2年)、30歳のとき、さらに日本古来の学問である国学を学ぶため京都に行きます。そして、ここで得た縁故で、1767年(明和4年)から阿波藩に仕えます。阿波藩仕官時代は20年に及び、江戸藩邸で講義したり、京都で塾を開いたりし、しだいに広く名が知られるようになりました。
 この栗山の評判が幕府老中松平定信の耳に入り、1788年(天明8年)53歳のとき、幕府の儒官として登用されることになり、「寛政の三博士」の一人に数えられました。栗山は、定信の政策顧問としても仕え、「寛政異学の禁」はその建議が入れられたものです。寛政の改革は栗山の献策に負うところが多いといわれており、栗山はおぎゅうそらい荻生徂徠室鳩巣(むろきゅうそう)以来の政論家として数えられています。

 しかし、定信の改革は、あまりにも理想を追いすぎたため、多くの人の反感をかい、思ったほどの成果をあげる事無くわずか6年で終わりました 「白河の清きに魚もすみかねて もとのにごりの田沼恋しき」「世の中にか(蚊)ほどうるさきものはなし ぶんぶ(文武)といいて夜も寝られず」という狂歌は定信の改革を皮肉ったものとしてよく知られているところです。しかし、寛政の改革での定信の政策は以後の幕政にも引き継がれていくことになります。

 栗山は、1807年(文化4年)、72歳で病に倒れるまでの約20年間、幕府の儒官として仕え江戸で没します。その墓は東京大塚坂下町の大塚先儒墓所にあります。
 栗山のような大学者が讃岐から輩出されたのは、歴代高松藩主の学問好きがその背景にあったと言われています。初代藩主より頼重(よりしげ)(水戸光圀の兄)は、徳川幕府の儒者・林鷲峯(はやしがほう)の高弟であった岡部拙斎(おかべせつさい)を、また二代目藩主・頼常(よりつね)(光圀の息子)は幕府の儒者・林信篤(のぶあつ)の門人菊池武雅(たけまさ)らをそれぞれ藩儒に迎え、五代藩主・頼恭(よりたか)と六代藩主・頼眞(よりざね)は藩校講道館の建設に力を注ぎ、熱心に学問、教育を奨励しました。



○訪れてみたいところ


 栗山記念館


 八栗寺に向かう表参道の途中に栗山記念堂があります。敷地内には幼稚園もあり、栗山の自筆をかたどった神武陵の詩碑が建立されています。詩碑を眺めると八栗の五剣山八栗山ともいいます。)がその背景に入ります。この山には、空海が修行中に天から降ってきた五振の剣が山の峰となったとの言い伝えがあります。またこの山の南腹8合目付近には四国八十八所第85番札所八栗寺があります。
栗山宅跡
栗山宅跡

記念館
記念館

神武陵の詩碑
栗山記念碑

五剣山
五剣山

進学三喩の碑
 今年(平成18年)12月1日に、柴野栗山200年祭が行われました。この碑は200年祭を記念して建てられたものです。
進学三喩

 


高松藩藩学講道館跡


 江戸時代、高松藩に学館が建てられたのは、元禄15年、二代目藩主より頼つね常の時代です。中野天満宮の南に設置され、当時は講堂(こうどう)と呼ばれていました。この講堂では藩士に限らず町人の子弟も受講することができました。
 講堂での教育は一時中断したこともあり、第五代藩主・頼恭(よりたか)は後藤芝山に再建を計画させましたが、財政難のためなかなか実現できませんでした。その遺志を継いだ第六代藩主・頼眞(よりざね)は芝山の助けを受け、1779年(安永8年)に中野天満宮の北に旧講堂の2倍の規模の学館を建て、講道館(こうどうかん)と名付けました。
 翌年開館し、芝山が初代の総裁に選ばれました。以後、明治維新まで90年間、講道館は高松藩の文化、教育の中心でした。現在の香川大学付属小学校が講堂館のあったところで、校庭には新建大聖廟記の碑があります。




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テーマ : 香川
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はじめまして。
今年は柴野栗山没200年にあたります。
12月1日の200年祭に向けて準備中です。
香川県を上げてお祝いできるようにもりあげてくださいね。
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