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(51)“小豆島に残る南北朝時代の恋物語”

小豆島_寒霞渓
 
 小豆島の東部にそびえる星ヶ城山(817メートル)は、瀬戸内海にある島々の最高峰で、北は岡山、東は淡路・鳴門、南は四国の山々まで一望することができます。

 鎌倉幕府滅亡後の1333年(元弘3年/正慶2年)6月、後醍醐天皇は親政を開始しました。これを建武の新政といい、天皇は朝廷による政治を復権しようとしました。しかし、武士層を中心とする勢力の不満を招き、源氏の嫡流を汲む足利尊氏が離反して政権は瓦解しました。尊氏は新しい天皇を立てて京都に幕府を開き、一方、後醍醐天皇は吉野(奈良県)に逃れ、ここに二つの朝廷が並び立つ状態が生まれました。吉野方を南朝、京都方を北朝といい、この両朝はそれぞれ各地の武士によびかけ、以後約60年間も全国にわたる争乱の時代が続きました。これを南北朝の時代といいます。

 1335年(建武2年)11月、足利尊氏が建武政権に対して反旗を翻した時、備前国(現在の岡山県)児島には佐々木信胤(のぶたね)がおりました。佐々木氏は近江源氏の流れで、先祖の佐々木盛綱が源平合戦における藤戸の先渡の功によって備前国児島を賜り、そこに住む子孫が地名から飽浦(あくら)と名乗っていました。尊氏が反旗を翻した時、信胤は尊氏側につき、讃岐の細川定禅と共に京都攻めにも加わっています。

 ところが、その後、信胤は尊氏の重臣である高師秋(こうのもろあき)と菊亭殿女房お妻(又は、お才)の局をめぐって対立し、師秋が都を離れた折りに彼女を奪って児島に連れ帰りました。お妻の局は当時京都で三人のひとりにかぞえられるほどの美女だったそうです。師秋の恨みを受けて武家方にとどまることができなくなった信胤は南朝に転じました。

 1340年(暦応3年)、信胤は、児島から兵を挙げ、お妻の局を連れて小豆島に渡り、星ヶ城山の山頂に城を築き全島を支配しました。小豆島へ拠ったのは、東は熊野水軍や淡路の沼島水軍と手をにぎり、西は忽那島に迎えられていた征西将軍懐良親王らと提携しながら、北朝方の海上交通を断つことにありました。信胤は全島を支配するとともに、強力な水軍を背景として大いに北朝方を苦しめました。

 しかし、8年後の1347年(貞和3年)、淡路・阿波・讃岐・備前4か国の大軍を率いた北朝側の淡路守護細川師氏により攻撃を受け、まる1ヶ月間の合戦の末、その軍門に下りました。家臣の多くは討死したといわれており、島内にはいくつもの「城崩れ」の神社があるといいます。信胤は討死したともいわれ、許されて小豆島「肥土庄」の領家職を与えられたともいわれています。あるいは落ちのびて1362年(貞治元年)の白峰合戦に南朝方として加わったともいわれています。

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○訪れてみたいところ


星ヶ城  星ヶ城山は、東西両峰からなり、西峰を本城、東峰を詰城とし、西峰に居館趾・鍛冶場跡・空堀・井戸・土塁など、東峰に烽火代・斜面に石塁・土塁の遺構があります。星ヶ城は「方士城」とも言い、地方の士を集めたのでこの名がおこり、その後「方士」を「星」といって星ヶ城と呼び、また山の名ともなったといいます。この城跡は香川県指定の史跡ともなっています。


 寒霞渓  星ヶ城山と美しの原高原の谷間にあり、約1300万年前の火山活動で形成された渓谷です。日本三大渓谷美の一つといわれています。「かんかけい」の語源については、日本書紀に伝える応神天皇来島の際、岩山に鈎(かぎ)をかけて登ったこと、また「かみかけ」という山岳信仰に由来するともいわれています。 寒霞渓には、「ショウドシマレンギョウ」という絶滅危惧種に指定されている非常に珍しい植物が自生しています。高さ1~2m程の落葉の小低木で、4月末から5月上旬に、すこし緑色を帯びたうすい黄色の花が葉とともに開きます。


湯舟の名水  銚子渓の南麓に位置する湯船山(標高400メートル)は大樹が茂る森林で、ハク、スギ、イブキビャクシン、クス等が生えています。「湯舟の水」はこの山の中腹に涌き出ており、昭和60年に環境庁の全国名水百選にも選ばれています。 南北朝時代に、南朝方として戦った佐々木信胤(のぶたね)が、干ばつによる飢饉を救った霊水として仏堂を建立し、この「湯舟の水」を奉り、現世及び後世の冥福を祈ったと言われています。千枚田を潤す灌漑用水や、地元の人の飲み水や共同洗い場の用水としてどんな日照りにも涸れることのない貴重な水源として今も大切に利用され続けています。


 安田城跡  小豆島町(内海町)安田の旧内海町役場を過ぎたJA農業会館前に佐々木信胤とお妻の局が住んだという居館跡があります。付近には“城廻り”、“城の藪”という小字名が残っているそうです。この城は、安田大川を自然の堀とし、南と北に一部の堀跡が残っているそうです。近くには、「お才の局」の墓といわれる五輪塔が遺っているそうです。また信胤の息女、竹成御前を祭祀する祠もあるそうです。


安田踊り  安田踊りは、江戸時代の延宝年間に、当時安田出身の歌舞伎役者嵐璃当が、郷土への贈り物として創作し、以来地元の盆踊りとして伝えられてきました。江戸時代の踊りの型をよく伝えた優雅な踊りとして県指定無形民俗文化財に指定されています。 アヨーイヨイ安田星ヶ城夜風のままにアヨーイヨイお才のかなしい恋物語アヨーイヤサソレソレヤアーヤァトセ昔みやこで三人きりょう ならび聞こえたお才の局忍ぶ人目に妹背のちぎり 連瀬楽しき信胤お才

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