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(50)“大師二十二人のうち五人までが讃岐出身”

善通寺

 大師と言えば弘法大師を思い浮かべますが、我が国で平安時代以降、大師の称号をもった高僧は22人をかぞえます。この大師号とは、学徳ともにすぐれた高僧に対して、天皇からおくられる最高の称号です。この22人の大師のうち、讃岐の国からは、弘法大師空海(774~835年)のほか、道興(どうこう)大師実恵(じちえ)(786~847年)、法光大師真雅(しんが)(801~879年)、智証大師円珍(814~891年)および理源大師聖宝(しょうぼう)(832~909年)の5人も輩出しています。
 
 この5人は、“讃岐の五大師”として尊崇されてきました。ただし、5人が朝廷から大師の称号をおくられた時期にはかなり差があり、空海と円珍は没後早い時期におくられていますが、聖宝、実恵、真雅は江戸時代に入ってからです。ちなみに、あとの17人の大師の出身地は、近江(滋賀)と京都から各2人、残りが全国各地から1人ずつだそうです。

 空海、実恵、真雅および円珍は同じ現在の善通寺市の生まれで、佐伯氏の一族です。しかも、真雅は空海の実弟、円珍は空海の姪(おい)(妹の子)です。聖宝だけは佐伯一族でなく塩飽の生まれです。

 空海は中国から真言密教をもたらし日本での真言宗の開祖となった人物ですが、実恵、真雅および聖宝は空海の弟子または孫弟子で、空海亡き後、真言宗の発展に尽くしました。これに対して、円珍は空海の縁者ですが、そのライバルである最澄が開いた天台宗の系統です。

 実恵は空海の一番弟子といわれており、大阪の河内長野市に観(かん)心寺(しんじ)を創建しています。この寺には楠木正成の首塚や後村上天皇の御陵などがあり、南朝ゆかりの寺としても知られています。

 真雅は京都南郊に貞観寺を開き、僧職として初めて輦車(れんしゃ)(車のついた乗り物)に乗って宮中への出入りを許されたというほど、朝廷や公家に重んじられました。

 円珍は唐へ渡り、のち延暦寺第五世座主となり、琵琶湖を望む大津に園城寺(おんじょうじ)を再興し、天台宗寺門派の祖と仰がれています。この寺は天智・天武・持統天皇の産湯に用いられた霊泉があることから、「御井(みい)の寺」すなわち「三井寺」とも呼ばれています。この寺には、室町時代の初め、相模坊道了という僧が修行をしていたとき、ある夜、突如として天狗となって飛び去り、はるか小田原(神奈川県)の大雄山最乗寺に降りたという伝説があります。相模坊天狗は、その後、讃岐五色台白峯に移り、崇徳上皇の霊を守護しているといわれています。

 聖宝は真雅の弟子で、師は犬好きだったのに弟子が大嫌いで、これがもとで子弟間のいさかいがあったという逸話があります。京都伏見の醍醐寺(だいごじ)は醍醐山(笠取山)の山頂上一帯を中心とする「上醍醐」と山麓の「下醍醐」とから成り、豊臣秀吉による「醍醐の花見」の行われた地としても知られ、世界遺産にも登録されている名刹ですが、上醍醐は聖宝が開いたものです。

 桓武天皇が都を平城京(奈良)から長岡京へ移し、さらに平安京(京都)に移したのは794年(延暦3年)ですが、“讃岐の五大師”の生誕年をみると、最初の空海誕生から12年~18年の間隔で連続して生まれています。また、この時代、讃岐からは、この五大師の外に、智泉(789~825年)、道昌(798~875年)、真然(811~891年)、観賢(853~925年)、道雄(?~851年)などの高僧が輩出しており、平安時代初期の9世紀の約百年間は讃岐出身の高僧が活躍した時代といえるでしょう。

 このように讃岐から多くの高僧が輩出したのは、瀬戸内海に臨んでいることから、都の文化あるいは大陸文化との交流が容易で、古くから先進文化を早く受け入れたという背景があったといわれています。
○訪れてみたいところ

善通寺
 空海の生誕地。

金倉寺
 四国霊場第七十六番札所。この寺は円珍誕生の地で、唐から帰朝した円珍が9世紀の中頃に建立したといわれています。この寺には、絹本着色智証大師像(国重文)があります。
 境内南西には円珍が入唐の際に霊験を得たという新羅神社があります。この神社は善通寺市木徳町の新羅神社とともに古く、古代におけるこの地域の朝鮮文化との関わりを推測させます。
 なお、明治時代、旧陸軍第11師団長・乃木希輔はこの寺の客殿を寓居として用いていました。

正覚院
 丸亀市本島の山の上にある寺で、聖宝はここで生まれたといわれています。聖宝は出家前の名を恒蔭王(つねかげおう)といい、父は施基(しき)皇子の子、春日王の子孫にあたる葛聾(くずな)王だといわれています。葛聾王はある罪で権帥(ごんのそつ)として九州・太宰府へ流されました。妃の綾子姫が王を慕って太宰府へ行く途中、瀬戸内海の塩飽の島に船をつけ男の子が生まれたといいます。これが恒蔭王だといわれています。
 正覚院の本尊は鎌倉時代初期に都で作られたという木造観音菩薩像(国重文)です。右に不動明王像、左に毘沙門天像(ともに国重文)を従えています。

沙弥島の理源大師御堂・千人塚
 恒蔭王の母である綾子姫が船で着いたところは沙弥島であるといわれており、この島には「理源大師御堂」があり、綾子姫の墓といわれる「千人塚」があります。なお、坂出市にある聖通寺山は聖宝が通った寺だという言い伝えでその名がつけられたのだともいわれています。

理源大師石像
 高松市の無量寿院にあるそうです。
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聖宝(しょうぼう)理源大師

 真言宗小野流の祖。天長10年(833)生。光任天皇の後裔で、兵部大輔葛声王(くずなおう)の子であるが、出生地については異説が多く、大和の人ともいわれ、承和7年の宣旨による伝記には左京の人とあり元享釈書には讃州の人とある。郷土史には沙彌島(現在の坂出市沙彌島)の人とある。
 始め恒蔭と称して、幼少の頃から、本島の正覚院、聖通寺などで修業したと伝えられている。承和14年(847)の16歳の時、真雅(弘法大師の弟)に従い出家得度して後、真然(弘法大師の甥)について密教を受けた。
奈良の諸寺を遍歴して真言宗の他、華厳宗、三論宗、法相宗等凡ての宗教を学び、当時博学の聞えが高かった。密教の研究については当時の第一人者であった。
 貞寛16年(874)京に醍醐寺を建てて僧正となって仏法を広めた。又,公益事業を興すなどして修験道中興の祖といわれた。
 延喜9年(909)7月6日普明寺で逝去。年77歳宝永4年(1707)東山天皇の御代に理源大師の号を賜った。
 出生地といわれる沙彌島は、その後寛文年中(1661~1672)に溝淵家によって開墾され、後近衛家の許を得てこの島に大師堂を建て理源大師を祭った。
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