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(5)“海音寺潮五郎も書いた生駒騒動”

 海音寺潮五郎の著作の一つに「列藩騒動禄」があり、その中に「生駒騒動」の物語があります。これは、寛永17年(1640)四代高俊(たかとし)の時、生駒家がお家騒動により讃岐を召し上げられ、出羽矢島1万石に左遷された話です。 元和7年(1621)、生駒家では三代目藩主正俊(まさとし)が36歳で急死したため、3歳(あるいは11才とも)の高俊が藩主を襲封することになりました。


 このとき高俊が幼少のため、津藩主藤堂高虎(とうどうたかとら)が監国(監使)として藩政を補佐することになりました。 高虎の養女が正俊に嫁いでおり、高虎は高俊の外祖父に当たりました。このとき高虎はすでに66歳の高齢であったため讃岐へは下向せず、実務は家臣の西島八兵衛らを派遣して讃岐の「仕置」をさせました。また、高虎は生駒家一門で生え抜きの国家老・生駒将監の力を抑えるため、生駒家では外様の家臣である前野助左衛門石崎若狭を江戸家老に加えさせました。


 このため生駒藩では江戸と国元の二元的政治の傾向が強まり、両派の対立が起こり始めました。 寛永7年(1630年)に高虎が死去すると、息子の高次(たかつぐ)が津藩二代藩主になるとともに生駒藩の監国になりましたが、前野助左衛門と石崎若狭は高次の意向を背景に権勢を振るい、寛永10年(1633年)に生駒将監が死ぬと藩政を牛耳るようになりました。しかし藩主の高俊は男色趣味を持ち美少年を集めて舞わせる遊び(世人はこれを「生駒おどり」と呼んだそうです。)に興じ、藩政をかえりみませんでした。高俊の正室の父に当たる幕府の老中首席土井利勝が厳しく諌めましたが高俊は行跡は一向に収まりませんでした。


 寛永12年(1635年)、生駒家は幕府より江戸城修築の手伝い普請を命じられ、江戸の材木商の木屋から借金をしましたが、前野と石崎はこの返済のために石清尾山の松林を伐採させました。しかしこの山は親正が高松城を築いたときに要害として伐採を禁じた土地であったため家中の者たちは憤慨し、寛永14年(1637年)7月、生駒帯刀が江戸へ出て高次や土井利勝らに前野と石崎の非違を記した訴状を差し出し、生駒藩の御家騒動が表面化しました。 その後藩内での決着も試みられましたが解決できず、ついに、寛永17年5月、前野・石崎派の家臣300人以上が鉄砲や刀槍で武装して国元を立ち退き、また江戸藩邸でも一味の者たちが立ち退くという大騒ぎになりました。 


 7年間にわたる家臣間の抗争の結果、ついに幕府の評定に上がりました。その結果、帯刀派については、生駒帯刀は主人に対して忠心あるとして出雲国松江にお預け、その他の者も諸大名家へお預けとなりましたが、前野・石崎派については死罪となりました。高俊は家中不取締りであるとして讃岐を没収され、出羽の矢島に堪忍料として1万石を与えられるのみとなりました。ここに讃岐での生駒氏の治世は四代54年間で終わります。


 




 

○訪ねてみたいところ


弘憲寺  法泉寺  香川県歴史博物館  高松市歴史資料館

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法泉寺 了応和尚の雨乞い

法泉寺 了応和尚の雨乞い

 法泉寺(ほうせんじ)の了応和尚が,雨乞いをした話である。その年は非常な旱魃(かんばつ)で,せっかく植えつけた稲も枯れてしまうと大変なさわぎ。飲み水にも不自由するありさまに,高松藩主は,城下の法泉寺了応和尚に雨乞いをするように命じた。了応和尚は,雨乞いの方法を知らないから許して欲しいと断ったものの,藩主のたっての願いなのでお受けすることにした。
「船頭衆,さあいそいでくだされ。大雨にならない間に帰らなければなるまいで。」 

 と,言う。船頭さん,空を見あげてにやりと笑う。雨だと,大雨だと,何処に雨雲があるというのだと,和尚のことばを鼻のさきで笑いとばして船足を進めようとはしない。

 「さあ,早く,早く。」

 了応和尚は気が気でない。舟子たちはのんびりと,あわてるふうもない。空はあくまで晴れ渡って百日余りも雨知らずの海である。

 すると,どうであろう白峰山のあたりからふっと雲が現われた。みるみる空をおおいつくした黒雲から一粒,二粒雨が落ちはじめた。一天にわかにかき曇りとはこのこと,沛然(はいぜん)と雨が降りしきる。車軸を流す勢いで降りしきる。おどろいたのは舟子たち,全速力で船を香西沖へまわしたが,東西南北識別できないほどの大降り。船頭も舟子もぬれねずみ,了応和尚も濡仏となってしまった。やっと,出発地点の東浜へ着いたときは,へとへと。
「愚僧の言うことを聞かぬからこのありさまじゃ。ひどい目にあったわい。」

 と,了応和尚は上陸。それから,雨は三日間も降り続いたという。藩主も住民も大よろこび。枯死しかかった稲もいきいきとよみがえった。

 さて,一体,了応和尚は,どうして雨を降らすことができたのかと聞いてみた人がいた。

 「いや,なに,龍神さまに一筆つかわしたからじゃ。」

 「龍神さまにお手紙を,何と書かれましたか。」

 いっぴつけいじょういたしそうろう さんしゅうだいかんにてくにじゅうなんぎそうろうあいだ
  『一筆致啓上候,讃州大旱にて国中難儀候間
     あめふりそうろうようなられべくそうろう ごしょうち
     雨降り候様可被成候,御承知
      これなくそうらえばわれらそこもとへまいりそうろうてごたいだんもうすべくそうろう
       無之候得ば我等其元へ参候て御対談可申候。
                    りゅうじんどの
                    龍神殿   』

 と書いたという 讃岐は大旱で国中が難儀していますから,雨が降るようにしてください。もし,ご承知がいただけないのなら,私が直接参ってお話し申しあげます。というのだった。

 この了応和尚に,帰依(きえ)する者がにわかに多くなったと伝えられている。


 了応和尚,さてどうすればよいかと考えた。そして,翌朝,大きな船に和尚を乗せて大槌・小槌の間の槌の門へ連れていって欲しいと言う。藩主は,大鯨船を用意したという。舟子は16人,これも腕達者を乗りこませて出発。槌の門は潮の流れの早いところ,この槌の門へさしかかったとき了応和尚は何やらを海へ投げこんだ。
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