(49)“長宗我部元親が四国制覇の野望をいだいた山”
1573年(天正元年)、織田信長は第十五代将軍・足利義昭を追放し、これにより室町幕府は消滅しました。この2年後、四国では、長宗我部元親が土佐一国を統一しています。そして、その翌年、元親は大歩危・小歩危を越えて阿波池田の白地城(はくちじょう)を攻略し、四国制覇の第一歩を踏み出します。
白地城は四国の辻といわれ、馬路川に沿って境目峠から伊予へ、猪の鼻峠や曼陀峠を越えて讃岐へ、吉野川沿いに阿波の中心部へそれぞれ進出することができる位置にあります。四国制覇の野望を抱いていた元親は、ある日、白地城の北にそびえる雲辺寺山頂に近従を従えて登ったといいます。この山頂からは眼下に西讃岐の平野と瀬戸内の海が大きく開け、東には阿波の吉野川平野と剣山、西には東伊予から石鎚山まで見渡すことができます。
山頂には弘法大師が開いたという雲辺寺が建ち、ここで元親は、住職の俊崇坊(しゅんすうぼう)に「伊予、讃岐を平定しようと思うが如何」と四国平定の野望を告げたといいます。これに対して、崇坊は「おぬしは四国を治める器ではない、土佐一国が精一杯じゃ。それは茶釜の蓋をもって水桶の蓋をするようなもの」と元親をいさめたそうです。
1578年(天正6年)夏、元親は讃岐侵攻を開始します。この頃の讃岐は十河存保(そごうまさやす)を通じて阿波の三好氏の勢力下にありました。元親はまず豊田郡に入り藤目城主・斉藤下総守を計略により降伏させその支配下におきます。しかし、存保の命により讃岐勢に奪回されたため、激戦のすえ再び奪い返します。また三野郡の本篠城主・財田和泉守常久を攻略します。
翌年(天正7年)春、九十九城の細川氏政、仁保城の細川頼弘など西讃の各城を次々と攻略していきます。そして西讃において最も大きな勢力を持つ天霧城の香川信景と和議を結び、次男の親和を女婿として香川氏に入らさせ、西讃をその勢力下に治めます。香川氏が元親と戦わずその勢力下に入ったのは、十河氏に対する反目があったからともいわれています。次いで、中讃へ兵を進め、羽床城の羽床伊豆守資載を下し、西庄城の香川民部少輔を敗走させます。次いで、翌8年春には、鵜足郡長尾に進出して長尾大隅守を降ろして西長尾山に新城を築きます。
このような中で、1582年(天正10年)、織田信長が元親の動きを抑えようとします。しかし、同年6月に本能寺の変が起きると、元親はすかさず讃岐進攻を再開します。7月には鵜足郡宇多津の聖通寺山城主・奈良太郎左右衛門を敗走させ、さらに本陣を国分寺に進め、翌月、佐料城・藤尾城の香西佳清を攻め降し、和議を結びます。ここに鎌倉時代以来360年続いた香西氏も元親の配下となりました。
次いで、この年の8月、元親は十河存保の名代・三好隼人佐が守る十河城を包囲します。同じ頃、阿波の中富川の戦いで十河存保を破り、さらに勝端城を攻め落とし、9月に存保を大内郡の虎丸城へ走らせます。翌年も虎丸城を攻撃し、羽柴秀吉の命により存保救援の命を受けた仙石秀久と引田で戦います。1584年(天正12年)6月、虎丸城はついに落ち、ここに讃岐は親元の手中に帰しました。


