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(46)“讃岐にも残る行基にまつわる伝承”

 
 近鉄奈良駅の入口前に、陶製(赤膚焼)の銅像が立っており、奈良ではよく知られた待ち合わせ場所になっているそうです。この像の人物は行基(ぎょうき)という奈良時代(710年~794年)の僧侶で、奈良東大寺の大仏建立をめぐる聖武天皇との物語はよく知られているところです。

 行基は、中大兄皇子が即位して天智天皇となった668年に、河内国大鳥郡(今の大阪府堺市)に生まれました。父は百済系渡来人氏族の末裔西文氏(かわちのあやし)一族の高志(こし)氏才智(さいち)で、母は河内国大鳥郡の蜂田首虎身(はちだのおびととらみ)の娘古爾比売(こじひめ)と伝えられています。15歳で出家して薬師寺に入り、道昭に瑜伽唯識(ゆか・ゆいしき)を学び、さらに竜門寺の義渕に法相(ほっそう)を学びます。もともと非常に俊才で、瑜伽唯識を一読して即座にその奥義を理解したと云われています。やがて山林修行に入り、この間に優れた呪術力を身につけ、37歳の時、山を出て民間布教を始めたといいます。

 奈良時代には官僧以外の人が僧侶として活動することは禁止されていました。しかし、和銅3年(710年)の平城遷都の頃には、過酷な労働から役民たちの逃亡・流浪が頻発し、逃亡民の多くが朝廷の承認なしに出家し僧侶と称する私度僧(しどそう)になったといい、行基は民衆の尊崇を集め、私度僧たちの指導的存在となっていきました。このため、霊亀3年(717年)には朝廷から「小僧行基」と名指しでその布教活動を禁圧されています。

 しかし弾圧にもかかわらず行基の集団は拡大を続け、養老6年(722年)には平城京右京三条に菅原寺を建て、以後、京住の官人層(衛士・帳内・資人・仕丁・采女など)や商工業者などにまで信者を広げていきました。このような中で、神亀元年(724年)聖武天皇が24歳で即位しました。このとき、行基は56歳です。

 行基を慕い付き従う者の数は千人にも達することがあり、行基がやって来ると聞くと、説教を聴こうと人々が群れ集まってきて、村の中には人が誰もいなくなる程であったと云います。天平年間は災害や疫病(天然痘)が多発していたといい、行基は、布施屋を設けて貧民救済事業を行うとともに、交通難所に橋を作り、道を修繕し、溝を掘り、堤を築くなどの大規模な土木事業を畿内中心に行っていきました。これらの事業は民衆の力を結集して行われたといいます。聖武天皇も、始めは民衆を煽動する不穏な者として、行基を奈良の都から追放していますが、しだいに行基への傾倒を深めていき、弾圧も緩められていきました。

 このような中、疫病の大流行や飢饉が襲い、宮廷内の政局も不安定でした。深く仏教に帰依していた聖武天皇は仏教によって人臣の不安を和らげ国家鎮護を図ろうと考えました。こうして聖武天皇は天平13年(741年)に国分寺建立の詔を、天平15年(743年)10月に東大寺毘廬舎那(びるしゃな)大仏造営の詔を発します。しかし、大仏造営は資金難により難行します。

 この危機に際して聖武天皇は、行基の組織(知識)力・行動力に着目し、東大寺の大仏建立の勧進に行基を起用します。そしてさらに、天平17年(745年)には日本で最初の「大僧正」に任命します。その後も大仏造営事業は地震や爆発事故などでなかなか完成せず、天平21年(749年)2月に大仏の完成を見ずに80歳で入滅します。

 大仏が完成し、盛大な「開眼供養会(かいげんくようえ)」が行われたのは、着手から10年後のことです。動員された人員は延べ200数十万人、資材は銅、錫、金、水銀など合わせて15万貫にものぼったと云われています。鑑真が日本に上陸したのは、東大寺大仏開眼の次の年です。

 讃岐では、飛鳥時代にすでに開法寺(坂出市)や妙音寺(旧豊中町)が建立されており、大化の改新によって律令国家の基礎が確立した白鳳時代には17の寺院があったといいます。これが奈良時代になると、31ヵ寺まで増えています。この時代四国では、阿波・伊予が十数か寺、土佐が5ヵ寺で、讃岐の寺院数がいかに多かったかが分かると思います。これは讃岐ではかなり早くから仏教を受け入れられる文化的経済的な豊かさがあったためであろう云われています。

 行基は奈良時代の人ですが、讃岐には行基が開いたと伝えられている寺が多くあり、また行基が開湯と伝えられている温泉があります。


○訪れてみたいところ
塩江温泉
 古くは潮江と記されており、江は井(泉のこと)の転訛とみられ、塩気のある泉から塩江となったと云われています。
 渓谷沿いに10軒ほどの旅館が並び、小ぢんまりとした温泉街を形成しています。戦前は塩江温泉鉄道で高松市街(当時の仏生山町)と結ばれ、少女歌劇団もある華やかな歓楽街も見られました。
 現在は保養、湯治向けの閑静な温泉街を形成しており、日帰り入浴施設は一軒、行基の湯が存在しています。温泉街中心部には道の駅しおのえがあります。
長尾寺
 天平11年(739)行基菩薩がこの地を訪れ霊感を得て聖観音菩薩像を刻み、堂宇を建立して安置したのがはじまりといわれます。弘法大師は唐へ渡る前にこの地に止まり、年頭7目の夜に護摩秘法を修めて護摩符を丘の上から人々に投げ与えたといわれます。これが今でも毎年正月行事として伝わっています。また大鏡餅を大三宝に乗せて運ぶ力くらべの行事も行われています。その後数度の兵火により堂宇を焼失しましたが歴代藩主によって再建され、宗派は天海僧上によって真言宗から天台宗に改められたといいます。
旧長尾町の「からぶろ」と行基
 旧長尾町西の稲荷山の麓にある老人福祉センター「行基苑」には、行基が讃岐の国に来たときに、もろ人の病気を治すために造ったと伝わる「からぶろ」があるそうです。この近くに「行基堂」という小さなお堂があるそうです。
極楽寺
 旧長尾町亀鶴公園の北500mにあり、号を紫雲山宝蔵院といいます。天平元年(729年)行基により石田東(旧寒川町)に創建されましたが、その後焼失して弘仁12年(821年)弘法大師により鴨部東山(旧志度町)に再興され、それも14世紀兵火にかかり、現在地に再度再興されたといいます。元あった石田東の地には極楽寺の地名があるといいます。
与田寺
 行基の開基といわれ、後に弘法大師が整備したといわれます。土佐の長宗我部元親の兵火にかかるまでは国内宗学の中心寺院として隆盛していたといわれています。
大窪寺
 四国八十八ヶ所結願寺。行基が創建し、弘法大師が整備したといわれます。
正花寺(しょうげじ)
 高松市西山崎町の堂山の山麓にある寺。天平年間に行基が香川郡山崎の地に建立した松慶寺(しゅけいじ)の塔頭(たつちゅう)で、16世紀に兵火にあい、その後再建されたといいます。本尊として祀られている木造菩薩立像(国重文)は、平安時代初期のもので、唐招提寺講堂の菩薩立像との類似性があるといわれています。
香西寺
 奈良時代に行基により開創され、初め勝賀山のふもとにあり勝賀寺といい、平安初期に僧空海(弘法大師)が再建し現地に移したといわれています。鎌倉時代、この地の豪族香西左近将監資村香西氏の祖)が、堂塔を再建し香西寺と改称しました。
国分寺
 行基菩薩が建てた讃岐の国分寺で、本尊千手観音立像は行基菩薩の作といわれています。境内の正面一段高い松林の中に創建当時の金堂の跡が残っていますが、その広さは東西28m南北14mで、この中に33個の大きな礎石があります。また七重塔跡にも15個の礎石があります。弘法大師がこの地に止まられ、行基菩薩作の本尊千手観音像の損傷個所を補修して第 80番の霊場に定めたといいます。その後長曽我部軍の兵火にかかり堂塔はほとんど焼失しましたが、本堂と鐘楼は難をのがれ、共に国の重要文化財に指定されています。慶長14 年(1609年)高松城主生駒公が梵鐘をかりて城内に運びましたが鐘をつくと「いのう」と鳴るので城主はノイロ-ゼになり、寺ヘ梵鐘を返したという伝説があります。
三谷寺
 旧飯山町東坂元にある真言宗の寺で、天平年間に聖武天皇の勅願による行基の開創と伝えられます。その後、空海が整備し、四条天皇の母や後宇多天皇・北条政子の帰依を受けたといいます。
弥谷寺
 聖武天皇の勅願によって行基菩薩により開創されたといわれています。空海が少年時代にこの岩窟で修行したといいます。さらに唐から帰国した空海が再度この山で修業中、空から五柄の剣が降る霊を感じたので剣五山と改め本尊を刻んで安置し弥谷寺と改号して第71番の霊場に定めたといいます。
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テーマ : 香川
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国分寺の鐘

 この梵鐘は、昭和19年9月5日重要文化財に指定され、総高151.5センチ、口径89.7センチ、口径で厚さ8.3センチである。
 竜頭の海獣蒲牢の頭部は勇ましく、顎のあたりの毛を上になびかせている。それが左右対称でなく、奈良時代の特色を示す。
 撞座は八弁の蓮花文で、奈良時代の軒先丸瓦の文様に似ており、その位置は鐘身の下から41センチのところにあり非常に高い。また撞座と竜頭の向きの関係が古式である。
 製作年代は当寺の創建からあまり隔たらない奈良時代末期かと思われる。音色は温和で、G調すなわちト調の黄鐘調で、余韻も長い。
 もと竜宮にあり、後香川町安原の童洞淵から大蛇が被って出てきたものという伝説をもち、また慶長19年(1614)生駒一正が高松城下の時鐘とするため高松に移したが、城内に怪異があり、一正が病にかかったので病気回復を祈念して元に返したと伝えられている。

国分寺の僧房跡

 讃岐国分寺は律令制度の解体とともに衰退し、鎌倉時代中期に再興され、天正年間に長宗我部の兵火で観音堂(現本堂)・鐘楼を残して焼失しました。再興後は生駒氏の厚い帰依を受けました。
 昭和58年から行われた発掘調査の結果、敷地の周囲を画する築地や大溝、金堂跡、講堂跡、塔跡、僧坊跡が確認され、東西220m、南北240mの寺域を持っていたことが分かりました。その僧坊跡は日本最大級であるといわれています。
 近くには「讃岐国分寺跡資料館」があり、館内には、発掘調査で出土した瓦や土器、20分の1の奈良時代の金堂模型などが展示されています。

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