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(45)“讃岐に逗留した法然上人”

 京都の東山鹿ヶ谷に知恩院(ちおんいん)という寺があります。現在の伽藍は江戸時代以降に建立されたものですが、ここは法然(ほうねん)上人が後半生を過ごして没したゆかりの地です。法然は浄土宗の開祖で、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍しました。浄土真宗の開祖である親鸞法然の弟子です。法然は一時讃岐に逗留して人々に教えを説いて回っており、讃岐には法然にまつわる伝説や旧跡が数多く残っています。

 法然は、平安時代末期の長承2年(1133年)、美作国久米(現在の岡山県久米郡久米南町)に押領使(おうりょうし)の子として生まれました。諱(いみな)を源空(げんくう)といいます。9歳のときに夜討ちで父を失いますが父の遺言によってあだ討ちを断念し、13歳で比叡山に上り15歳で僧・源光のもとで得度(出家)します。18歳で比叡山でも奥深い山中にある黒谷の叡空(えいくう)に師事し、源光と叡空の名前の1字ずつを取って「法然坊源空」と改名します。そして承安5年(1175年)、43歳の時に「専修念仏」(せんじゅうねんぶつ)の思想に開眼し、浄土宗の開宗を決意して比叡山を下ります。この年が浄土宗の立教開宗の年とされています。「専修念仏」とは、いかなる者も、一心に「南無阿弥陀仏」と念仏を唱え続ければ極楽往生できるとする思想です。

 平安時代末期は末法思想が広まり、戦乱や災害に出会った人々は不安にかられ、欲望や終着にとらわれた眼前の世の中を厭い捨てて西方の極楽浄土に生まれるように願い求める厭離穢土(おんりえど)・欣求浄土(ごんぐじょうど)を説く浄土信仰に魅かれていました。法然の教えは、このような時勢の求めに応じて、庶民はもとより武士や公家にも急速に浸透していきました。しかし、一方で、破戒と他宗誹謗を理由に南都北嶺の旧仏教勢力から激しく糾弾され攻撃の的とされます。このような中で、建永元年(1206年)3月、最大の擁護者である九条良経が急死し、さらに後鳥羽上皇の女房が上皇の留守中に法然の弟子を慕って出家してしまい上皇の逆鱗に触れるという事件が起きます。翌年2月、法然は弟子達の不行状という理由で土佐に、弟子の親鸞は越後に流罪となります。法然75歳の時です。しかし法然は、「かえって遠くの人々に念仏を説くことができる」と逆に喜んだといいます。

 建永2年(1207年)3月京都を離れた法然は、淀川を下り、摂津の経ヵ島(兵庫)から播磨の高砂・室津を経て塩飽諸島の本島に着きます。本島では、地頭の高階(たかしな)入道西忍(さいにん)の館に迎えられ、しばらく滞在したといいます。その後、宇多津あるいは丸亀塩屋に上陸し、善通寺にもうでてから那珂郡小松荘(現在のまんのう町高篠)へ向かったといいます。本島や小松荘に逗留したのは、これらの地が法然の庇護者である九条家の所領だったことによると云われています。法然が讃岐に逗留したのは、源平屋島合戦から22年後のことです。

 小松荘で、法然は生福寺(しょうふくじ)(現在の西念寺)に居住し、仏像を造ったり、布教に努めたといいます。当時、小松には、法然由緒の寺が生福寺のほか真福寺と清福寺の三か寺あって、総称して三福寺と呼んだといいます。建永2年(1207年)12月、法然は赦免の宣旨を受けます。このため土佐へは行かずに京へ戻ることになりました。しかし、入京が許されたのは、4年後の建暦元年(1211年)で、翌年の1月、現在の知恩院の地で80歳で没しました。

 法然の讃岐在国はわずか10ヵ月でしたが、その足跡は大きく、中讃地方には、伝承も含め法然が説法したとされる寺や仮宿など数多くの足跡が残っており、また讃岐の諸方に伝わる雨乞踊りや念仏踊りは法然の振り付けであるといわれています。

○訪れてみたいところ
本島
 法然を迎えた地頭の高階入道西忍は、帰依して草庵を建て念仏道場としたといいます。現在の専称寺(せんしょうじ)や来迎寺(らいこうじ)がその遺跡であると云われています。
城山
 高階入道西忍は本島の東山に館を構えていたと云います。東山とは峠の東側の山で、城山ともいいます。ここには、中世塩飽水軍時代の笠島城跡が残っています。
専称寺
 笠島にあります。境内には、国指定の史跡である吉田彦右衛門の墓があります。
来迎寺
 本島の泊にあります。ここには鎌倉~室町時代の絹本着色阿弥陀如来図・絹本着色阿弥陀如来二十五菩薩来迎図・絹本着色阿弥陀浄土変相図・木造阿弥陀如来立像があります。
正宗寺(しょうしゅうじ)
 丸亀市塩屋町にある寺で、法然が本島から上陸した地と云われています。本島から着船の折、法然が舟の櫂で岸を掘ると真水が湧出したという伝承があり、この境内には「法然上人櫂堀(かいほり)の井」という石碑が立っており、その自然石の表面には、「ほうねん上人かいの水 南無(なむ)は船阿弥陀(あみだ)のかいで堀(ほる)清水(しみず)末の世までも仏仏(ふつふつ)とわく」とあります。法然が去った後、弟子の成阿坊が残り草庵を守り教えを広めたと云われています。
善通寺法然上人逆修塔(ぎゃくしゅとう)
 善通寺五重塔の東南に尊氏利生塔と並んでその西側に安置されている高さ145センチの五輪の石塔です。逆修供養は生前に自ら後世の菩提を祈るために営む法要で、法然上人は深く善通寺を崇敬せられ「一度この地に詣でなんともがらは一佛浄土の友たるべし」と申されて、善通寺に参詣した折、生前に自らの菩提を祈らんがため、また、多くの人の法縁を結ばんがため、逆修供養の宝塔を建立されたと伝えられています。
琴平広谷墓所
 金刀比羅宮から、伊予土佐街道へ向かう途中にある金比羅大権現当時の古い墓地が琴平町にあります。ここには法然上人真蹟石塔が遺っています。
円光林
 琴平町には、法然の大師号に因んだ円光林があるそうです。
西念寺
 旧満濃町大字羽間にある浄土宗の寺で、ここには小松荘に居た法然が寓居した生福寺という寺があったと云われています。生福寺は三福寺の一つです。
 江戸時代初期の頃までには、生福寺は荒廃して小庵だけとなっていましたが、寛文6年(1666年)に高松初代藩主松平頼重公が、法然の遺徳を偲び高松城下近く(現在の高松市仏生山)へ移転復興し、法然寺と改称して菩提寺としました。そして生福寺の跡地には、現在の岸上あった真福寺を移し、さらにその後丸亀の中津より西念寺が移転されて現在に至ったと云われています。
 西念寺には、「水鏡の御影」、「法然水」、「立華の松(法然上人御手植えの松)」など法然名残のものが残されているそうです。御手植えといわれる松は昭和56年5月に松喰い虫の被害を受けて枯死し、現在のものは2代目だそうです。また寺の裏山には法然の遺廟と石塔があることから新黒谷と呼ばれていたといいます。
 法然は、次のような歌を詠んでいます。
   『おぼつかな誰が言いけん小松とは 雲を支うる高松の枝』
  (訳)この松を、小松とは誰が言ったのであろうか、おぼつかない
    ことである。
     雲を支えんばかりの高く大きな枝ぶりなのに。
 この歌が詠われた地は、四国へ配流された際に住んだ小松荘(現在の西念寺)とも、晩年を過ごした京都の小松殿(現在の京都市東山区の小松谷正林寺)とも云われています。
法然堂(満濃町)
 香川用水の北西側にあり、法然上人が生福寺から宮田法然堂へ行く時に休んでいた所と云われているそうです。
清福寺跡の法然堂
 三福寺の一つ清福寺は現在の旧満濃町四条にあったといいます。現在その跡地には法然堂と呼ばれる集会場が建っているそうです。
真福寺跡の五輪塔
 三福寺の一つ真福寺も旧満濃町にあったといいます。現在その跡地には石を積み上げた五輪塔が建っているそうです。
円浄寺
 旧満濃町にある浄土真宗興正派の寺。開基は古く、寺号は菅原道真公が讃岐守として在任中に選んだものと云います。建永2年(1207)に、法然上人がこの地に入って念仏の教えを説かれてから浄土宗寺院となり、大永年間(戦国時代)に、沙門了専が浄土真宗に転じ、寺号を円浄寺と改めました。天正の兵火で焼失して法燈が絶えようとしていた時、美濃国の千葉親常が(仏門に入り了常と改める)再建し今日に至っています。法然上人のお手植えの松があると云われています。
熊谷次郎直実の墓
 旧満濃町には熊谷次郎直実のものといわれる墓があるそうです。これには熊谷次郎直実がお坊さんとなって法然に従って高篠にやって来て、一緒に京都に帰ったという伝承があり、その後、熊谷次郎直実が京都で亡くなったことを高篠の人が聞いて、お墓をたて供養したと伝えられています。
宮田法然堂西光寺・腰掛け石
 旧仲南町宮田西にあり、法然上人像を安置する本堂には法然堂と扁額が懸かっています。村人が都へ帰る上人を慕い上人像を頂き安置したと云われており、今も宮田法然堂と親しまれているそうです。
 また、旧仲南町宮田には、法然が足繁く布教に通う途中に休憩したという腰掛石が遺っているそうです。
仏生山法然寺
 高松市仏生山町にある浄土宗本派で、仏生山来迎院といいます。本尊は法然上人作と伝えられる阿弥陀如来です。この寺の前身は那珂郡小松庄(旧満濃町東高篠)にあった生福寺で、小松荘に移られた法然が生福寺を布教道場にあててから浄土宗になったといいます。その後戦乱で荒廃しましたが、江戸時代初期の寛文8年(1668年)、高松初代藩主松平頼重が寺の衰微を惜しんで現在の仏生山の地に移転し、江戸小石川伝通院(徳川家菩提寺)の前住真誉相関を呼んで生福寺を復興しました。同時に寺号を法然寺、山号を仏生山と改め、来迎院となりました。寺の完成とともに、松平氏歴代の菩提所と定め、将軍家に願い300石の朱印地としました。来迎堂の背後にある「般若台」には2代と9代を除く歴代藩主とその一族の墓があります。本堂には法然自作の阿弥陀如来像と法然の真影が安置されています。寺宝に、十王像、観世音功徳図、源氏図、後深草天皇宸翰御消息(ともに重要文化財)などがあります。

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法然上人逆修(ぎゃくしゅ)塔

 善通寺五重塔の東南に尊氏利生塔と並んでその西側にあり、高さ145センチの五輪の石塔で、鎌倉時代の石造建築物です。逆修供養とは生前に自ら後世の菩提を祈るために営む法要で、一説によれば当山に参詣する諸人の菩提を上人が祈るための逆修供養とあります。
 善通寺は天笠八塔の士を敷き建立せられた霊場であるため、上人は深く崇敬せられていました。法然上人は鎌倉初期の人で弥陀の本願により往生の可能な事を悟り浄土宗を開立しました。しかし旧仏教の弾圧が強く建永2年讃岐に流されましたが、その折善通寺に参詣して建立されたものです。
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