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(44)“2億5千万人を運んだ宇高連絡船”

 海や湖などで隔てられた鉄道の駅間を結ぶ船を鉄道連絡船といいます。日本国内では、青森と函館を結ぶ青函航路、宇野と高松を結ぶ宇高航路(うこうこうろ)、下関と門司を結ぶ関門航路の3航路がありましたが、橋やトンネルの開通によりいずれも廃止されました。

 宇高航路は、岡山県玉野市の宇野港と香川県高松市の高松港の間で運航されている航路で、瀬戸内海における本州と四国を結ぶための主要航路の一つです。この航路には、かつて旧国鉄・JR四国が宇野駅から高松駅間で鉄道連絡船宇高連絡船)を運航していました。

 四国と本州の鉄道を船で結ぶ鉄道連絡船は、1903年(明治36年)に「岡山―高松」と「尾道―多度津」の2航路が開設されたのが始まりです。この前の明治22年には、讃岐鉄道という県内で初めての鉄道会社が開業し、多度津を起点とする琴平、丸亀2方面の路線が開通しています。志賀直哉の「暗夜行路」では、時任謙作が尾道から多度津港に上陸し、浜多度津駅から蒸気機関車に乗り琴平へ向かう場面が描かれています。この頃までは多度津港が県内最大の港湾としての位置を確保しており、明治33年の入港船舶数は多度津港が38,663艘であったのに対し、高松港は9,480艘でした。

 しかし、明治30年頃から始まる高松築港事業や讃岐鉄道の丸亀・高松間の開通により、高松港の出入港数が次第に増加していき、1910年(明治43年)、国鉄宇野線の開通に伴い「国鉄宇高航路」が開設されたことにより四国の玄関は多度津から高松へと名実ともに移りました。就航した船は、「玉藻丸」(224トン、定員146名、速力10.6ノット)と「児島丸」の2隻でした。尾道-多度津航路は廃止され、岡山-高松航路は宇野-高松航路に変更されました。その後、宇高連絡船は、1988年(昭和63年)の瀬戸大橋開通までの78年間、「本四間の大動脈」としての役割を担ってきました。

 この78年の間には、2度の世界大戦があり、宇高連絡船は様々な歴史を刻んできました。第2次世界大戦中、宇高航路は軍事的に重要な路線であったため、空襲などへの防衛として機関銃が連絡船に配備されていたといいます。昭和20年7月24日には水島丸が、8月8日には第五関門丸が米軍の空母艦載機による銃撃を受けて多くの乗員と水兵に死傷者を出しています。また、1955年(昭和30年) 5月11日には、タイタニック号、前年の洞爺丸に次ぐ世界でも第3番目という大きな海難事故が発生しています。

 瀬戸内海では春によく濃霧が出ますが、この日の朝も濃霧注意報が発令され視界200m以下という状況でした。高松港を出港した紫雲丸(1,449総トン)は、午前6時50分、高松港に向かう第三宇高丸(1,282総トン)の霧中信号を聞き応答をし、第三宇高丸はレーダーで紫雲丸を確認して双方とも相手が正面から来ていることを把握しました。この時、双方の距離は約1.5マイル(約2.5km)で、高松港沖の女木島西方海上ですれ違う予定でした。しかし、その6分後、轟音と共に紫雲丸の右舷に第三宇高丸の船首が食い込み、みるみるうちに紫雲丸は沈没していまいました。衝突から沈没までわずか4分、SOSを出す間も救命胴衣を付ける間も無い、あっという間の悲劇でした。事故の原因は、相手が正面から来ていると思われるときはお互いが舵を右に切るべきだったのに紫雲丸が左に舵を切った「謎の左転」であると言われています。このとき紫雲丸には修学旅行の小中学生が多数乗船しており、犠牲者168名のうち100名が児童生徒(男子19名、女子81名)で占められ、多くの人々の涙を誘いました。

 この事件がきっかけとなり、瀬戸大橋の構想が本格化していくことになります。1972年(昭和47年)11月8日にはホーバークラフトが就航し、宇野-高松間をわずか23分で運行しました。

 1987年(昭和62年)4月1日、国鉄が分割民営化され、宇高航路はJR四国の受け持ちになりました。その1年後、1988年(昭和63年)4月9日、瀬戸大橋線が開通し、宇高航路は廃止されました。1910年(明治43年)から1988年(昭和63年)までの78年間において宇高連絡船が運んだ乗客は約2億5千万人と云われています。

 宇高連絡船が廃止されてからの高松港頭地区はサンポート高松地区と称され、新JR高松駅、高松港湾旅客ターミナル、2万トンバース、シンボルタワーなどの再開発事業が展開され、四国の中枢拠点としての機能向上が期待されています。

○訪れてみたいところ
高松市歴史資料館
 在りし日の高松桟橋を中心とした模型が展示されています。縮尺は150分の1です。
瀬戸内海歴史民俗資料館
 高松市と坂出市の境に位置する五色台の中腹に位置し、瀬戸内海に関するあらゆる資料や実物が展示されています。玄関前に讃岐丸の錨と1964年から1996年の32年間宇高連絡船と共に高松港を出入港する船舶を見守ってきた高松港旧赤灯台・白灯台の灯ろう部が常設展示されています。
海の科学館
 海の神様である金刀比羅宮の参道基点に位置する船を中心に扱った博物館です。5階に初代讃岐丸の号鐘が常設展示されています。
高松港旅客ターミナルビル 宇高連絡船記念展示場
 旧国鉄宇高連絡船の埠頭跡地に建つ港湾旅客ターミナルは、連絡船第一桟橋の沖約20~30メートルのかつて海であった場所に建っています。ビルの3階には宇高連絡船記念展示場が設けられており、このスペースには宇高連絡船時代の写真や模型、実際に使われていた備品などが展示されています。また港湾旅客ターミナルビルの南西側(JR高松駅側)出入口には、鉄道連絡船があったことを示すモニュメントとして、連絡船に貨車を積み込んでいた可動橋をイメージして地面にレールが埋め込まれています。また壁面には宇高連絡船の解説文が書かれ、宇高連絡船時代の高松港の地形図が黄色で、現在の高松港の地形図が緑色で描かれています。
連絡船うどん
 JR高松駅構内に瀬戸大橋が出来るまで本州と四国を結んでいた、宇高連絡船内にあった名物の立ち食いうどんがそっくりそのまま再現されています。ダシも同じものを使い、店内は立ち食いのみで食べることができます。列車を待つホーム内からと改札を通らなくても入れる2つの入り口があります。
西方寺境内の「紫雲丸遭難者慰霊碑
 高松市内の西方寺に紫雲丸事故の慰霊碑があります。慰霊碑上部には観音像が事故のあった海域を見つめるように立っています。
紫雲丸慰霊塔


女木港内にある慰霊地蔵尊
 高松港から船で20分の沖にある女木島の港内にも、慰霊の地蔵尊があります。もとは事故現場に近い島南西部にありましたが、風雨によりしばしば損壊したために、改めて港内に建立されたそうです。
女木島南西部女木島灯台付近
かつての事故現場付近を間近に見ることができます。
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