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(40)“保元の乱に敗れて怨霊となった崇徳上皇”

 平安時代後期の元永2年(1119年)、後に崇徳天皇となる顕仁(あきひと)親王は、鳥羽天皇と中宮璋子(たまこ)の間の子として誕生しました。曾祖父は院政を執っていた白川法皇です。法皇は顕仁を非常にかわいがり、鳥羽天皇は保安4年(1123年)その命によってむりやり退位させられ、わずか5歳の顕仁が崇徳天皇として即位します。しかし、大治4年(1129年)、白河法皇が崩御すると、鳥羽上皇が院政を執り朝廷の主導権を握ります。そして法皇となって、まだ23歳の崇徳天皇を強引に退位させ、わずか3歳の躰仁(なりひと)親王(崇徳の異母弟)を近衛天皇として即位させます。

 さらに近衛天皇が久寿2年(1155年)17歳で崩御すると、崇徳上皇の実弟にあたる後白河天皇を即位させ、しかも、後白河天皇の皇子である守仁親王(のちの二条天皇)を皇太子とします。これにより崇徳上皇は、自分の皇子である重仁親王が天皇になる望みを全く断たれていまい、強い不満を抱きました。このように鳥羽法皇が自分の息子であるはずの崇徳を排斥したのは、実は、崇徳が鳥羽天皇の祖父である白河法皇と中宮璋子の密通によりできた子であるという噂が囁かれていたからです。鳥羽法皇は崇徳を「叔父子」と呼んで忌み嫌っていたといいます。このとき、摂関家でも関白藤原忠通と左大臣藤原頼長の兄弟が争い、忠通は後白河天皇に、頼長は崇徳上皇に接近していました。

 保元元年(1156)年、鳥羽法皇が崩御します。遺言で遺体を崇徳に体面させることを禁じ、弔問さえ受け付けなかったといいます。このため崇徳上皇後白河天皇の対立は深まり、両派はそれぞれ武士を集め、上皇方には源為義、源頼賢、源為朝、平忠正らが、天皇方には、源義朝、平清盛、源頼政、源義康(足利義康)らがつき、父(源為義)と子(源義朝)、兄(源義朝)と弟(源為朝)、叔父(平忠正)と甥(平清盛)がそれぞれ敵味方に分かれて対立し、一触即発の状況でした。なお、源義朝は頼朝と義経の父です。

 鳥羽法皇の死後7日にして保元の乱が勃発しました。7月11日未明、後白河天皇・藤原忠通方の源義朝、平清盛、源義康などの軍勢が、崇徳上皇や藤原頼長らが立てこもる白河北殿を奇襲しました。争いは約4時間で終わり、敗れた崇徳上皇は、仁和寺に逃げ込んだところを捕らえられ、信西(藤原通憲)の強固な主張により、罪人として讃岐に配流されることになりました。天皇の位にあった者が流刑となるのは、奈良時代に淳仁天皇(廃帝)が淡路国に流されて以来約400年ぶりのことで、これまでにない厳しい処置でした。また、長く絶えていた死刑がこの時復活しました。

 天台座主・慈円はその著書『愚管抄』で「保元元年七月二日、鳥羽院ウセサセ給ヒテ後、日本国ノ乱逆ト云コトハヲコリテ後ムサノ世ニナリニケルナリ」と書いています。この乱は、後の平治の乱から源平合戦へと続く戦乱の始まりであり、王朝の貴族文化の終末と武家時代の幕開けを告げる事件でした。

 崇徳上皇は京都から淀川を下って海に出て、須磨・明石を過ぎ、播磨・備前の海岸沿いに瀬戸内海を西へ進みました。途中、直島に滞在した後、8月3日に讃岐国阿野(あの)郡・松山ノ津に到着しました。御所がまだ出来ていなかったため、国府に勤める当地の庁官であった綾高遠(あやたかとう)の邸宅を仮の御所とされ、やがてその近くの長命寺(ちょうめいじ)に移られたと伝えられています。

 その後保元3年(1158年)年、国府のすぐ近くの鼓岡(つづみがおか)の行在所に入られました。その宮は木丸(きのまる)殿と呼ばれています。木丸殿での上皇は、一日中部屋にこもり、書物を読んだりお経を唱えたりしていたようですが、寂然(じゃくねん)という僧が都から訪れて来て上皇と歌のやり取りをしています。寂然は「大原の三寂」兄弟の一人で著名な歌人です。

 このような隠遁生活の中で、上皇は後の世のためを思い、3年がかりで五部大乗経を書き写し、「浜千鳥 跡は都へ通えども 身は松山に 音をのみぞなく」という歌を添えて奉納のため京都に送りました。しかし、信西がこれは後白河院を呪咀するものであるとして反対したため、朝廷は受取りを許否しました。崇徳上皇は朝廷に対する激しい怒りをあからさまにし、「われ魔王となり天下に騒乱を起こさん」と言って、舌の先を食い切り、流れる血で大乗経の奥に誓状を書きつけて、海に沈められたといいます。そしてそれ以後、爪も髪も切らずに、日々凄まじい悪鬼さながらの形相になり、朝廷を恨み続けたといいます。このときの上皇の様子は、「院は生きながら天狗となられた」と都に報告されています。

 配流8年の長寛2年(1164年)8月26日、崇徳上皇は都を偲び配所の月を眺めつつこの地で崩御しました。享年46歳でした。このことは直ちに都に伝えられ、葬儀に関する指示を待つ間、遺体は古来からの霊水と伝えられる野澤井(八十場)の清水に20日間浸されていたと伝えられています。なお、上皇の死については暗殺説もあります。

 都から白峯山に葬る宣旨が届き、9月16日の葬送の途中、高家神社に御棺を安置した際、にわかに風雨雷鳴がとどろき、御棺の台石にした六角の石に、どうしたことか血が少しこぼれていたと伝えられています。荼毘は白峯山上で行われ、その地に葬られました。

 上皇が崩御されてから3年後の仁安2年(1167年)、西行法師が白峯の御陵に詣でています。江戸時代に上田秋成が書いた「雨月物語」では、御陵にやってきた西行法師が読経をし、魂をなぐさめるために和歌を詠むと大魔王のような風をした崇徳の霊が現れて会話をするという場面が描かれています。

 平安時代の頃には怨霊思想というものがあり、人を無実の罪に陥れたり、悪口讒言により死地にいたらしめたり、残酷な危害を加えたりすると、被害者の怨恨が雷や天狗などに化して加害者に報復すると考えられていました。菅原道真の天神信仰はその一つです。保元の乱の後わずか3年にして、平治の乱が起こり信西や源義朝が討たれます。その後平氏の時代となりますが、清盛も熱病に倒れ、さらに源平合戦で平氏一族は壇の浦で滅亡してしまいます。このような一連の出来事は崇徳上皇の怨霊の仕業と考えられていました。

 崇徳上皇の死から約700年後の明治元年(1868年)8月、明治天皇は、父孝明天皇の遺志を継ぎ、京都の堀川今出川東入ルの飛鳥井に白峯神社を造営して、朝廷に仇なすと公言して世を去った上皇の霊を讃岐から京都へ奉還しました。造営の宣命には、皇軍(明治政府軍)に逆らう奥羽地方の賊軍を速やかに鎮定して天下が治まるよう加護願う文面がみられるそうです。これは、明治維新の動乱が上皇の魔力によって引き起こされたものであり、その祟りによって主権者の地位から転落した朝廷が上皇の霊と和解して主権を取り戻したことを暗に示そうとしたものであると云われています。なお金刀比羅宮も明治初期に崇徳天皇を祭神としています。さらに、日米開戦直前の昭和15年、白峯神社は神宮に格上げされたといいます。

 このように、崇徳上皇の霊は近代日本の二大国難期に守護神として崇められており、その力に対する畏敬の念の深さに驚かされます。現在この神社には、その境内が“蹴鞠”の宗家であった飛鳥井家の敷地だったことから、サッカー選手のお参りが絶えないといいます。

○訪れてみたいところ
松山ノ津
 松山ノ津は、海岸から府中の国府に至る重要な場所で、高屋(たかや)と青海(おうみ)の境を流れる青海川の当時の河口にありました。古代には、海岸線が今よりも内陸まで入り込んでいたものと推測され、昭和61年に刊行された「綾・松山史」では、港の自然的な立地条件などを検証した上で、雄山の北東の麓を松山ノ津と推定しています。「綾・松山史」の編纂記念として、現在この地に「松山津」の石碑が建立されています。
松山の津

雲井御所之碑
 崇徳上皇が綾高遠の館を仮の御所としていたところは、現在の坂出市林田町中川の綾川右岸にあります。ここで毎日を過ごされていた上皇は、「ここもまた あらぬ雲井と なりにけり 空行く月の 影にまかせて」という歌を詠まれています。この歌にちなんでこの地が雲井御所と呼ばれるようになったと云われています。江戸時代の天保6年(1865年)に、尊皇の志の厚い高松藩九代藩主・松平頼恕(よりひろ)公によって、現在の地に雲井御所之碑が建立されています。頼恕公は水戸藩の出で、烈公・徳川斉昭(なりあき)(徳川慶喜の父)の兄に当たります。
長命寺跡
 綾高遠は、崇徳上皇の仮御所として自邸では不敬があってはならないと思い、すぐ傍の長命寺に上皇を移されたと伝えられています。一説では雲井御所はこの長命寺であったとも云われています。長命寺はその昔、450メートル四方の境内地に仏閣が並ぶ寺院であったとされ、戦国時代末期に土佐の長曽我部元親の兵火により消失したと伝えられています。今は、大正4年に建立された「崇徳上皇駐蹕(ちゅうひつ)長命寺跡」の碑石が、田圃の中に一本まっすぐ建っているだけです。
鴨川
 雲井御所にいる3年の間、崇徳上皇は京都が恋しくて仕方がありませんでした。そこで、前を流れる綾川を京都の川の名をとって鴨川と呼んだと伝えられています。それが地名として今日まで残っています。西山や東山という地名も、崇徳上皇がつけたと云われています。
菊塚・姫塚
 雲井御所に住まわれていた頃、崇徳上皇を気付かった綾高遠は、何かと不便があってはならないと、自らの娘である綾の局に上皇の身の回りの世話を命じたといいます。上皇と綾の局との間に皇子と皇女が誕生しましたが、幼くして亡くなられたと伝えられています。
 上皇は皇子に顕末と名付けられ、菊の紋をつけて綾の局の父・綾高遠に賜り、綾家の跡継ぎにされたと伝えられています。この皇子の墓は、府中町鼓ヶ岡の北にあり、菊塚の名称で呼ばれています。石を積み上げた塚で、現在は民家の庭先に位置しています。
 皇女の墓は長命寺跡の西方の田の中にあり、姫塚と呼ばれています。現在はコンクリート壁に囲まれた中に緑色の石で石碑が建てられています。
鼓岡神社
 鼓岡(つづみがおか)神社は、崇徳上皇行在所のあったところで、崩御の後、小祠を建て祀られたものです。鼓岡という名前は、丘の頂上辺りで地面を叩くと、コツコツという鼓のような音がしたからだと云われています。この神社の境内には、「擬古堂」、「百人一首・瀬をはやみの歌碑」、「ほととぎす塚」、「鼓岡文庫」があります。
擬古堂
 保元3年(1158年)頃、崇徳上皇は雲井御所から府中の鼓岡の木丸殿に移られました。木丸殿とは、木の丸太で造った御所といった意味合いで、御所としては粗末な造りだったと考えられています。大正2年に崇徳院(崇徳上皇)の750年祭に合わせて、鼓岡神社の石段を登った右手に記念建造物が建設されました。かつての木丸殿を偲ぶといったことから、擬古堂と呼ばれ、屋根など古風な造りの外観から、少しでも当時を思い浮かべることができるようにと造られています。
瀬をはやみの歌碑
 崇徳上皇は幼少時より和歌・管絃の道に秀で、数多の名歌を詠んでいます。殊に小倉百人一首の「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ」は有名です。鼓岡神社境内にもこの歌碑が建っています。
ほととぎす塚
 鼓岡神社の石段の右手に小さな五輪塔が2つほどあります。崇徳上皇が鼓岡の木丸殿で過ごされていたころ、ある日ほととぎすの声を聞かれ、都を深く思い出され、「なけば聞く 聞けば都の恋しさに この里過ぎよ 山ほととぎす」と、歌を詠まれました。このためか、ほととぎすでさえ、さえずるのをやめたと伝えられています。その後、鼓岡の周辺ではほととぎすが鳴かなくなったといわれ、昔はこの地をなかずの里と呼んだと云われています。
鼓岡文庫
 崇徳上皇と直接の関係はありませんが、新宮古墳から出土した遺物や国庁の瓦など、付近の重要な遺物などが大切に保管されています。
内裏泉
 近代の大干ばつにも枯れなかったという霊泉で、一般の人には、この水を汲めば目が見えなくなるといって汲まさず、地元の人が大切にしています。上皇が木丸殿に住まわれていた際、飲料用の井戸として供されたと伝えられています。
わん塚
 鼓岡神社の北方、菊塚の北東の畑の中に、大きい一枚の岩に『わん塚』と刻んだ自然石が残っており、ここは、上皇が使用されたおわんを埋めた場所との由来があります。この付近は、古代讃岐の国府が置かれた場所でもあり、発掘調査で当時の日常什器が数多く出土している場所です。
府中町柳田
 崇徳上皇が亡くなった所だと云われ、JR予讃線沿いに小さな石碑が建っています。上皇の崩御について、病死や自殺説以外に暗殺説というのが昔からあります。江戸時代の「讃州府誌」には信西が三木近安という武士を刺客として讃岐に送り、鼓岡木丸殿を襲撃させたと記されています。近安は栗毛の馬、紫の手綱を引き締めて鼓岡から北方に逃げた上皇を追いかけ、襲撃を逃れた上皇が国府域の大きな柳の樹の穴に逃げ隠れた末、その隠れた姿が池の水面に映り発見されて殺害されたということが、語られています。その後、この柳田の地に柳を植えても、枯れるばかりで決して育たなくなり、この辺りには柳の木は一本もないといいます。また、栗毛の馬で白峯へ上がると必ず落馬して厄に遭うといい、府中町では柳・紫・三木姓は嫌われるといいます。
讃岐国司庁跡碑
 讃岐の国司庁は、現在の坂出市府中町に置かれていました。崇徳上皇が在所されていた鼓岡木丸殿のすぐ北東です。その規模はおよそ方6町(約650メートル四方)の地に条坊を区画して、国衙(こくが)を置き、周囲に土塁をめぐらしていました。四辺に四つの門をつくり、望楼を築いてあったといわれ、土塁の内側には重要な官舎や役人の住宅などが建てられていました。現在、その跡地には石碑が立っているだけですが、この一帯は国司庁内を意味する「垣の内(かきのうち)」と呼ばれています。また、南に「南坊」、「塔跡」の地名があり、北西には各種の帳簿を掌る帳調署(ちょうつぎ)から「帳次(ちょうつぎ)」、讃岐国印と鍵を保管していた所から「印鑰(いんやく)」、孔子を祀っていたお堂から「聖堂」、公文書を司る状調署から「状次(じょうつぎ)」や、「正倉」、「大町」、「右兵衛屋敷」、「唐屋敷」など、国司庁にゆかりの地名が残っています。
開法寺塔跡
 国司庁跡の南側、綾川が東に蛇行するあたりの北側の地に開法寺があったといわれています。平安中期に讃岐国司として赴任してきた菅原道真の「客舎冬夜」にもその名が記されています。規模・区域・廃絶の時期などは不明です。
野澤井(八十八場)
 野澤井とは、今の坂出市西庄町八十場(やそば)の清水付近の古い呼び名と云われています。この地は、野澤井・安庭・弥蘇場・八蘇場・八十蘇などいろいろな字が当てられて記されています。上皇のご遺体は、京都からの指示が来るまでこの野澤井に安置され、その後白峯で荼毘にふされます。
八十八場の清水
 この水は、讃留霊王(さるれおう)の悪魚退治伝説に登場する霊水でもあり、悪魚の毒気に倒れた八十八人の兵士が蘇生したことで、八十蘇の水と呼ばれていたとも伝えられています。この地は、今も夏に涼しい場所であり、多くの人が涼を求めて賑わう場所となり、八十場の清水として親しまれています。
白峯宮
 二条天皇の宣下により、上皇を祀るため八十場の地に白峯宮が造営されました。この神社は、「野澤井宮」とも「明の宮(あかりのみや)」とも呼ばれ、当時の社は、上皇の御殯柩が野澤井の水に浸されて白峯にて荼毘に付される間、毎夜、付近の霊木に神光があったといわれる場所に設けられたと伝えられています。このことから、明の宮とも呼ばれたと云われています。上皇崩御の後、高倉天皇は讃岐院と呼ばれた上皇に崇徳天皇と追謚され、稲税を納めたと伝えられ、また源頼朝も稲税を納めて、下乗の立礼を立てたとされる社ですが、残念ながら当時の社は天正年間に焼失してしまったと伝えられています。現在の社はその後に再建されたもので、今も周辺の人々から手厚く祀られ、「天皇さん」の名称で親しまれています。
高家神社(血の宮)
 五色台登山口東の高屋村阿気という地にあり、往古ここに高家首の一族が居住し、遠祖の天道根命を奉斎して氏神としたと伝えられています。里人には森の宮とも奉称されています。崇徳上皇の御葬祭の後、村人が上皇の神霊を当社殿に合祀し、また、血のしたたった台石も社内に納めたと伝えられています。俗に血の宮と称される理由です。また、朱(あけ)の宮ともいわれています。地名の阿気(揚)も、そこから出たともいわれています。崇徳上皇の他に、天道根命・待賢門院・合祀祭神・大鞆和気尊が祭神です。
青海神社
 崩御された崇徳上皇の玉体は白峰山で荼毘に付されましたが、その時紫煙が降りて文字になり、消失した後に一霊の玉が残ったといいます。そこで、その地に福家安明宮殿を造営して上皇の霊を奉斎したと云われています。後に氏神として崇敬をあつめるようになりました。
白峯寺
 空海を開祖とし、860年(貞観2年)、円珍(智証大師)が山中の霊木を先手観音に刻み本尊としたと伝えられています。現在の建物は、生駒親正により1599年(慶長4年)に再建されたものです。白峯寺の境内に崇徳上皇ゆかりの白峯陵と頓証寺があります。
白峯御陵
 崇徳上皇が葬られている御陵で、白峯寺の境内、頓証寺の裏にあります。陵は、積み石の方墳であったと云われていますが、都から遠く離れた地の御陵であったため、江戸時代には荒廃してといいます。初代高松藩主頼重、五代頼恭、十一代頼聡らにより、修復が重ねられ、参拝口を現在の南面に改めるなど、今日見るように整備されました。陵域約1ヘクタール。歴代天皇の御陵で地方にあるのは、淳仁帝の淡路陵、安徳帝の下関阿弥陀寺陵とこの白峯陵の3ヵ所だけです。
頓証寺殿(とんしょうじ)
 この寺は白峯寺の境内にあります。後白河法皇は、保元の乱の戦場であった白河殿の跡に粟田宮を営崇徳上皇を祀りましたが、建久2年(1191年)病気にかかり怨霊に悩まされたため、頓証菩提のために、白峯御陵の前に建立しました。この任に当たったのが僧章実で、鼓岡木丸殿の材木を使用して建立したといわれています。応永21年(1414年)、後小松天皇から頓證寺の勅額を賜ったのにちなんで、頓証寺殿と呼ばれ、また勅額を揚げた山門を勅額門と呼ぶようになりました。現在の建物は、頓証寺、勅額門とも延宝年間(1673~1681年)高松藩初代藩主・松平頼重公の再建と云われています。境内には、「よしや君 昔の玉の 床とても かからむのちは 何にかはせむ」という西行が崇徳上皇を偲んだ詠った歌の碑があります。また、寺の参道には、鎌倉時代後・末期の作といわれる2基の「十三重石塔」があります。
直島
 崇徳上皇が讃岐へと流される途中、直島に立ち寄られ、島民の純真素朴さを賞賛して「直島」と命名したと伝えられています。直島の東側に泊が浦という漁港があり、近くの丘に崇徳上皇を祀る崇徳天皇神社があります。直島では、上皇は直島の行在所に3年間滞在されたと伝えられており、上皇にまつわる「恋忘れ貝」、「姫泊山」、「琴弾の浜」の物語などが残っています。
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【坂出市】バスで巡る崇徳天皇伝承地巡り

みふぃ:来月23日(日)坂出駅からバスで巡る崇徳天皇伝承地巡りがあるそうです。申し込みは、坂出観光ボランティア会0877-45-4522(大峯)へ。香川は崇徳上皇と縁の深いところです。讃岐の風土記 by 出来屋  (40)“保元の

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薬王寺・弁天神社(重仁親王廟)

重仁親王は、崇徳院の長子で、母は大蔵郷行宗の娘の兵衛佐の局である。兵衛佐の局は、親の死により一人さびしく暮らしていたのを崇徳院が不憫に思い、女御とし、やがて重仁親王が生まれた。保元の大乱後、鼓岡の木の丸殿に御父崇徳院が配流の身となり、京に残された重仁親王は平治年間行脚僧の姿で讃岐に渡り、木の丸殿の父君ののとを訪ねた。しかしながら、院は公儀への思惑から、綾高遠に親王を託し、高遠は親王をその支族綾某氏に託し、檀紙の薬王寺に入らせ、寺僧とともに起居し生涯を終えたとあります。
さらに、万治年間、高松藩松平頼重公檀紙村視察の折、薬王寺は大変な人だかりだった為、以前の経緯を聞き、地元に多大な信仰のある大刹として、親王廟とともに宮脇村に遷されました。

神仏分離により大打撃を受けた白峯寺

 明治維新のとき、神仏分離により、中世以来の神仏習合は否定され、仏教や儒教は外来思想であるとして激しく批判・排撃されました。その勢いのおもむくところ排仏毀釈へと拡大し、その運動は1870~71年に頂点に達した。
 平安末期、崇徳上皇が讃岐に配流されて没したとき、白峯寺の北西方に葬られて御陵が営造されました。そのとき院の近侍・遠江の阿闍利章実という僧が、頓証寺を建立して菩提を弔いました。その後、この崇徳天皇の御廟所頓証寺は、御陵とともに連綿として伝えられてきました。
 ところが、明治維新になったとき、御陵は宮内省の管轄に移され、御廟すなわち崇徳上皇の御神霊である宸筆僧形上皇影像と笙は京都へ奉遷せられ、頓証寺は神仏分離の際、一時無住の寺となってしまいました。頓証寺は多くの宝物を持っておりましたが、明治元年に頓証寺の本尊が京都へ奉遷せられたのをはじめ、明治ll年には金刀比羅宮の境外摂社となり、敷地・社殿・宝物等が同宮へ引き渡されました。
 明治31年に至り、敷地・社殿は白峰寺へ返納復旧されましたが、かって持っていた多くの宝物のうち現に存するものはその一部分となってしまいました。

白峰宮と八十場(やそば)

 坂出市西庄町にある。崇徳天皇は保元の乱後(保元元年8月)この地に配流され、長寛2年(1164)8月26日、市内府中の鼓が岡木の丸殿で没した。上皇の崩御の後、京都からの勅命を待つ間、夏の暑さをさけて玉棺を西庄の野沢井の水上に安置し、同年9月18日、遺詔によって綾松山白峯で荼毘に付した。
 野沢井(八十場)には、日本武尊と皇子武鼓王にまつわる悪魚退治の伝説があり、悪魚の毒気にあたった多くの兵土が蘇ったので、ここを八十蘇場と呼ぶようになったという。
 八十場はこのように霊跡である故に、二条天皇は同年10月社殿を造営し、崇徳天皇の御霊を奉斎したのがこの神社の起りであるといわれる。
 以来、歴代天皇の尊崇も厚く、安元3年(1177)高倉天皇は稲税千束を捧げ、建久4年(1193)には源頼朝も旧例によって稲税を捧げ、社地を安堵した。また後嵯峨天皇は社殿を再建し、御宸筆の御願文に御手形の朱印を加え社領を寄せている。
 しかし,戦国争乱の戦火にあい、古記録、古文書等の多くを失い、そののち再建されたが、旧観には及ばないという。
 維新まで毎年御料が下賜され、明治5年8月県社に列せられた。

坂出市林田町

 鎌倉時代に波以多(はいた)、波夜之院(はやしだ)などと呼ばれていたものがなまって林田になったといわれています。
 綾北1万石の名を生んだ穀倉地で、いまも条里制の跡が残っています。
 崇徳上皇ゆかりの綾高遠の館(雲井御所)、細川清氏と同族細川頼之合戦の地など史跡に満ちています。

他にもあるエピソード

崇徳院の霊代は慶応4年(明治元年、1868年)8月、坂出に勅使を迎え、京都に奉遷されました。その時の奉遷を記念して坂出港に5メートルほどもある立派な「勅使燈籠」が建立されました。しかし、港の拡張に伴いその燈籠は、昭和43年、五色台を望む塩竃神社境内に補修再建されました。
昭和39年9月21日、白峯御陵と頓証寺で崇徳上皇の八百年祭が営まれた当日の未明、にわかに激しい雷鳴が御陵周辺に響き、同時刻頃、白峯の麓の林田小学校の校舎が火災で全焼したそうです。地元の人の間では、これらは上皇の怨霊のたたりだと囁かれているそうです。
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