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(37)“室町将軍足利義満の宰相となった讃岐守護”

 足利義満(あしかがよしみつ)は、室町幕府の第三代将軍で、父は第二代将軍・足利義詮(よしあきら)、祖父は室町幕府を開いた足利尊氏です。義満は尊氏の死後、丁度100日目の1358年に生まれています。義満が幼少の頃の室町幕府は、南朝との抗争がいまだ続き、また幕府内部でも紛争が続いていました。義満は、父義詮が病により死去すると、11歳で三代将軍となります。このとき、将軍を補佐する管領に就任したのは、宇多津に居を構えていた讃岐守護の細川頼之(よりゆき)です。讃岐には頼之の足跡が現在も多く残っています。
 
 頼之は、鎌倉時代末期の元徳元年(1329年)、細川頼春(よりはる)の長子として三河国細川郷で生まれました。幼名を弥九郎といいます。細川氏は足利氏の一門で、鎌倉時代に三河国細川郷(現在の愛知県岡崎市)へ移住したためその郷名にちなみ細川の姓を名乗っていました。頼之は、父頼春に従い始め阿波の秋月城(現在の徳島県土成町)に入り、讃岐の白峯合戦で清氏に勝利し、ついには讃岐・阿波・土佐・伊予の守護職を占めて四国管領といわれました。その本拠地は讃岐の宇多津にありました。

 正平22年(貞治6年)(1367年)病床にあった二代将軍義詮は、宇多津から京へ頼之を召還します。幼い息子・春王(義満の幼名)の後見役に頼之を起用するためです。義詮は「汝に一子を与えん」として、頼之に義満を託して逝ったといわれています。南北朝時代の動乱を描いた「太平記」は、頼之が管領になったときで終わっています。

 管領となった頼之は、義満に我が子以上の愛情を注ぎ、立派な将軍となるべく教育する一方で、花の御所の造営や半済令を施行するなど、「名執事」として不安定だった室町幕府の基礎固めに取り組みます。また和歌や詩文、連歌など公家文化にも親しみ、詠んだ和歌が勅撰集に入撰したりしており、軍事作法も記しています。

 しかし、すぐれた手腕によって幕府権力の強化に成功するものの、頼之は次第に斯波義将ら諸将との対立を深めます。このため義満は内乱の危機が迫ったため、康暦元年(1379年)、頼之を罷免して有力守護たちの不満を抑えます。これを康暦の政変といいます。

 義満から退去令を受けた頼之は領国の讃岐へ帰国します。途中で出家し「常久」と称します。時に頼之51歳。頼之は京都を出発する時、そのときの心境を「海南行」という漢詩で詠んでいます。「海南」とは讃岐のことです。その後十余年、頼之は宇多津に居を構えます。

 康応元年(1389年)、義満は宮島厳島神社へ参詣します。この参詣は山陽道の武将らに将軍の威厳を示すとともに九州の南朝勢力を牽制し、また頼之に対面するためでした。3月5日、義満は京を出発し、兵庫から船出し海路を宇多津に向かいます。大槌小槌の瀬戸を潮流に揉まれながら6日夜半に宇多津に到着し、頼之と再会します。その頃の宇多津の情景は「なぎさにそって海人の家々連なり、東は山の峰々海中に入り長く見える。海岸には古松の大木、むろの木など立ち並び、寺の軒処々に見える。」と「鹿苑院殿厳島詣記」に記されています。東の山とは聖通寺山のことです。
 
 8日朝、義満一行は宇多津を離れ宮島に向かいます。そして、22日、義満は厳島からの帰り再び宇多津に立ち寄っています。その時は、多度津に上陸し、陸路で青ノ山を越えて宇多津に入ったといわれています。これにより、頼之は義満と和解し、頼之は再び将軍義満に召し出されて京に戻り、幕政に返り咲きます。

 頼之が死去したのは1392年の事です。享年64歳でした。義満は頼之の死をこの上もなく悲しみ、自ら葬送したといわれています。頼之は京の嵯峨の地蔵院に葬られています。南北朝が合体したのは、頼之が死去した年でした。なお義満による金閣寺の完成は頼之没後5年目のことです。

 頼之の功績により、細川一族は8ヵ国におよぶ世襲分国を獲得し、室町幕府において確固たる地位を占めます。特に頼之系統の細川家は京兆家(けいちょうけ)といわれ、京兆家当主は、讃岐・摂津・丹波・土佐の4ヵ国を世襲し、中でも頼之以来、讃岐がその本国的存在で、細川氏の重要な勢力基盤でした。義満の時代は室町幕府の将軍の力が最も強かった時代で、金閣寺に代表される北山文化が花開いたときです。その陰に頼之の功績があり、その頼之の本拠地が讃岐であったということです。細川氏は、勝元とその息子の政元の時代に最盛期を迎えます。なお、勝元は応仁の乱のときの東軍総帥です。

 詳しくは「細川頼之と讃岐」をお読みください。
○訪れてみたいところ

岡屋形(館)跡周辺
 延文2年(1357年)頃、頼之は香川郡岡(現在の香南町岡地区)に居館を行業城の側に築き住んだといわれています。これを「岡屋形(館)(おかのやかた)」といいます。岡屋形は現在の天福寺の麓の小丘上にある岡城跡の東とえ考えられています。岡城跡の微高地に続く東の高まりは、ほぼ南北に走る2mの段差で東端になっており、この辺りが岡ノ館跡で、「キタダイ、ヒガシキタダイ」の小地名が残る辺りにあったのではないかといわれています。

立善寺
 高松市香南町にあり、頼之の菩提寺といわれています。

冠櫻神社
 頼之は岡屋形にいたとき、それまで宝蔵寺という寺と一体の祠にすぎなかったものを、日頃から信仰する京都石清水八幡宮の冠を請うて納め、自ら供奉するかわりとし、それから「冠尾(かむりお)八幡宮」と呼ぶようになったといわれています。「尾」は「緒(お)」=「ひも」の意味だということです。なお、冠櫻神社と呼ぶようになったのは、明治以降のことです。頼之は、貞治2年(1363年)、伊予の河野氏を討っていますが、このとき冠尾八幡宮(現在の冠櫻神社)に戦勝を祈願して大勝したので社殿を壮麗にしたといわれています。
 なお、冠櫻神社には陰陽師の安部清明が祭られており、清明は讃岐の出身だといわれています。

石清尾神社
 讃岐守護となった頼之は、清氏追討の際、伊予の河野通盛が将軍の命令に応じなかったことを責めて、貞治3年(1364年)の9月、伊予に侵攻を開始します。出陣にあたって頼之は石清尾神社に参詣し、戦勝を祈願しています。石清尾神社では、5月の2、3日に「市立祭(いちたてさい)」が催されますが、これは頼之が伊予の河野氏を討ったとき、石清尾八幡宮に立願成就を感謝して始まった祭りと言われており、頼之の名が右馬頭であるところから市の名がついたと言われています。また、9月4日に「蜂穴神社例祭(はいあなじんじゃれいさい)」が催されますが、これは頼之が合戦のおり、お参りしたところ祠の穴から数百匹もの蜂が飛び出し敵方の兵を襲い頼之は戦に勝つことができたという言い伝えによります。頼之は社殿を拡築し武具を奉納しております。
 なお、石清尾神社の起こりは、平安時代、延喜18年(918年)八幡大神が赤塔山(現石清尾山)に現れ、これをお祭りしたとも、また時の国司が京都の石清水八幡宮の御分霊を戴き、祭ったとも言われています。石清尾八幡宮の社名は、社殿を造った赤塔山が亀ノ尾山(亀命山)の山裾にあたり、石清水と亀ノ尾をひとつに併せて、「石清尾」となったと言われています。

細川将軍戦跡碑

宇多津の多聞寺と円通寺の辺り
 宇多津の守護所は、青ノ山の北西の麓と大束川に挟まれた現在の多聞寺とその南の円通寺の辺りがその跡地といわれています。円通寺には頼之公お手植えの松がありましたが、残念ながら枯れてしまいました。宇多津は鎌倉時代から讃岐守護の居城となっており、生駒氏が高松に築城するまで讃岐の中心的な城下町として栄えています。

海南行の碑
 宇多津の大束川東岸に海南行の碑があります。

田潮八幡宮・駒ヶ林
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テーマ : 香川
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田潮八幡神社

 丸亀市土器町の青の山の西麓にある。この神社の祭神は誉田別命。由緒は室町時代の武将細川頼之が青の山に陣して、同神社に武運を祈願したところ、海潮が満ち、田畑を没し、敵の追っ手をはばみ大勝したので、それ以後この神社を田潮八幡と呼ぶようになったという。毎年10月14,15日が秋の大祭である。御輿をお旅所土器川の川原(今は河川敷利用の公園)から川中に舁ぎ込み水中で大あばれをするので有名である。

石清尾八幡神社

 高松市の石清尾山のふもとにある。祭神は応神天皇、仲哀天皇、神功皇后の三柱をまつる。例祭は10月14~15日。
 延喜18年(918)香川郡箆原荘亀尾山頂に山城石清水八幡宮の分霊を勧請創祀し、石清水と亀尾山の名をあわせて石清尾社といった。
 貞治年間(1362~67)細川右馬頼之は戦勝を祈願して社殿を改築し、武具を寄進した。
  天正15年(1587)生駒親正が讃岐の国主となるや神域を拡げ社領24石余を寄進してから、高松の鎮守の社となった。
 寛永21年松平初代藩主頼重は社殿を山頂から現在の地に移し社領202石余を寄進した。宝永2年(1705)三代藩主頼豊は社殿を改修。
 明治5年(1872)から昭和21年までは県社であった。

大河ドラマの主人公も狙える程の人物だと思います。
宮尾登美子あたりが書いてくれると現実化しそうに思えますが・・・
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