スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

(36)“乃木希典大将の先祖が討死した南北朝の合戦”

 1336年、足利尊氏は、北朝の光明天皇を擁立して征夷大将軍の宣下を受け、室町幕府を開きます。しかし、室町時代の初期、幕府権力はまだ弱体で、南朝側も強い勢力を持っており、幕府内部でも守護大名達が抗争を繰り広げていました。この時代を南北朝時代ともいいます。

 1358年(延文3年)4月30日尊氏が没し、足利義詮(よしあきら)が二代将軍の座につくと、細川清氏(きようじ)がその執事に就任します。清氏は、足利一門である細川一族筆頭の家柄の出で、足利尊氏とその弟の足利直義が争った観応の擾乱では、常に尊氏方として戦い、伊賀守護・若狭守護・評定衆・引付頭人と幕府内における地位を高めていました。

 しかし、その急速な勢力拡大と強引な性格から、清氏は幕府内の諸将と対立し、1361年(康安元年)、恨みを抱いていた佐々木道誉(どうよ)に讒言(ざんげん)され、義詮から謀反の疑いをかけられてしまいます。佐々木道誉は近江源氏の出で、丸亀京極家の祖先です。当時、婆娑羅(ばさら)大名と呼ばれていた人物です。

 義詮に京を追われた清氏は分国若狭へ逃れますが、国人たちに背かれ、北朝方から南朝方に走ります。その後、清氏は、かつて父・細川和氏(かずうじ)の分国であった阿波へ渡り勢力を回復しようとします。しかし阿波はすでに細川頼之(よりゆき)の勢力が及んでいたため讃岐に移り、まず三木郡白山の麓に陣を置き、次いで今の坂出市林田の地にある白峯雄山の高屋に城を構えて兵を募ります。そして、西長尾城(現在の満濃町長炭)に籠もる南朝方の中院源少将と連携を図ります。

 一方、義詮は、清氏追討の令を細川頼之に対して発します。清氏と頼之は同じ細川一族で、従兄弟どうしに当たり、幼い頃は一緒に遊んだ仲でした。このとき頼之は中国管領として備中の国に渡り、山陽道一帯の南朝方の反乱を鎮圧しているところでした。頼之は急いで宇多津に戻り、現在の丸亀と宇多津の間にある青ノ山に陣を張って備前の兵の応援を求めます。しかし、佐々木信胤が小豆島の星ヶ城を拠点として瀬戸内海の海上権を押さえていたため、備前からの増兵は困難な状況でした。

 頼之と清氏は宇多津と高屋で睨み合いを続けますが、形勢は頼之に不利でした。そこで頼之はまず母の禅尼を清氏のところに遣り和議の交渉を行います。頼之の母は清氏の義理の叔母に当たり、昔からの熟知の間柄だったからです。頼之は日を延ばしてその間に兵力を増強します。

 兵の増強を図った後、頼之は家臣の新開真行(まさゆき)と謀り陽動作戦に出ます。まず、真行が一部の兵を率いて西長尾城へ向かい、中院源少将を夜討ちするようにみせかけます。清氏はこれに驚き、高屋城の兵の大部分を西長尾城の救援に向かわせてしまいます。頼之はこの虚をついて兵が少なくなっていた高屋城を急襲します。清氏も自ら城を飛び出し戦いますが、あえなく味方の36人とともに討ち死にしてしまいます。頼之と真行の作戦は、清氏の自信と蛮勇を知ったうえでの策略だったといわれています。この戦を白峯合戦といい、「太平記」でも描かれています。1362年(正平17年/貞治元年)の出来事です。

 白峯合戦では頼之の家臣で乃木備前次郎という人物が討ち死にしています。日露戦争のときの旅順攻略で有名な乃木希典大将はその子孫です。明治時代、乃木大将は、善通寺におかれた陸軍第11師団の師団長を務めていましたが、赴任中にこの合戦のあった地を夫人と共に訪れ弔しています。

 敗れた清氏は三木郡白山の麓に葬られたといいます。白山の麓の畜産試験場の横に小さな祠があって五輪塔が建っているそうですが、この塔は、清氏のものと伝えられており、毎年8月には供養祭が行なわれているとのことです。

○訪れてみたいところ
細川将軍戦跡碑
 坂出市林田のさぬき浜街道と産業道路の交差点から産業道路を少し南に行くと、左手の田んぼの中に「細川将軍戦跡碑」という史跡が残っています。ここが白峯合戦の古戦場です。この碑は江戸時代に中山城山の筆になるものです。このあたりの所は、「三十六さん」と呼ばれ、清氏とその従士36人が、頼之の軍と奮戦苦闘、遂に力つきて、主従共に壮烈な戦死を遂げかばねを埋めたと伝えられています。
田潮八幡宮・駒ヶ林
 白峯合戦に際して、頼之は青ノ山に陣を張りましたが、清氏の追撃を受け危機迫り、土器八幡宮に祈願したところ、海水が押し寄せ田畑を没し、敵の攻撃を防ぐことができたので、それから土器八幡を「田潮八幡」と呼ぶようになったといわれています。田潮八幡宮の社頭には、頼之御手植えといわれる松の老樹(頼之の松)がありましたが、明治45年に枯死し、今は石碑があるのみとなっています。戦いの際の先勝祝いにこの松が神社に寄進されたといわれています。また、青ノ山の北西の麓に「駒ヶ林」というところがあります。ここは頼之が白峰合戦の時、その出陣をこの松林の中に軍馬を隠して勢揃いして進軍したということに由来するといわれています。
西長尾城跡
 満濃町長尾の城山にあります。この城は、1368年(応安元年)から1585年(天正13年)の二百数十年間、長尾大隅守の居城でした。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

四国のブログ

FC2Blog Ranking

全記事(数)表示
全タイトルを表示
讃岐
リンク
カウンター
琴平電気鉄道
栗林公園・一宮・金毘羅に便利 !
映画DVDファッション雑誌無料ブログパーツ
カテゴリー
歴史・旅行リンク
にほんブログ村 旅行ブログへ にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村 トラコミュ 讃岐の伝説へ
讃岐の伝説
にほんブログ村 トラコミュ 高松松平藩へ
高松松平藩
にほんブログ村 トラコミュ 日本の文化へ
日本の文化
最近の記事
天気予報
高松の天気予報
-天気- -FC2-
最近のコメント
時計
出来屋の電光掲示板
QRコード
QRコード
国盗りカウンター
プロフィール

讃岐の出来屋

Author:讃岐の出来屋
おいでま~せ、出来屋のページヘ""

カレンダー(月別)
04 ≪│2017/05│≫ 06
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。