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(35)“やじさんも、きたさんも参詣した金毘羅”

 十返舎一九は“やじ・きた道中”の物語で知られている「東海道中膝栗毛」の作者です。彼は、駿河国の同心の子として、今から約240年前の明和2年(1765年)年に生まれ、本名を重田貞一といいます。父のあとを継いで奉行所に勤めますが、以前から作家を志望しており、転勤で大阪に赴任したときには、役人を続けながら、近松門左衛門の門下に入り近松与七の名で浄瑠璃本を書きあげたりしています。しかし、作家と武士の両立はできないと考え、武士を辞めて作家業に専念します。

 その後江戸に出て、度々の東海道の往復で資料を蓄積して書きあげた「東海道中膝栗毛」が大ヒットして滑稽本作家の地位を確立します。滑稽本というのは宝暦年間(1751~1763年)以後江戸で生まれた新しい小説で、滑稽の中に風刺や教化を盛り込んだ本として書かれたものです。一九が執筆した「膝栗毛」は、人物の会話を中心として描いていて当時としては新趣向といえる代物でした。

 一九は、大坂にいた頃、金毘羅にも参詣しており、善通寺弥谷にも遊歴しています。そのときの印象を、「秀異勝景の地多くして、その感情今に想像するに堪えず。」と後に記しています。「東海道中膝栗毛」を書き上げた後、彼は版元から金毘羅参詣の体験をネタに東海道中の続編を書くよう勧められます。彼は讃岐の方言や風俗に疎いということでいったんは固辞しますが、再三の勧めに抗しきれず、ついに東海道やじ・きた道中の続編を「金毘羅参詣続膝栗毛(こんぴらさんけいぞくひざくりげ)」として執筆します。

 弥次郎兵衛と喜多八(金毘羅参詣続膝栗毛では「北八」と書かれています。)は、大坂で東海道中の旅を終え江戸へ帰るはずでしたが、ひょんなことから金毘羅を目指すことになります。大坂から金毘羅船に乗り込み、海路丸亀湊に渡ります。この湊は遠浅のため満ち潮になるまで沖に船を留めておかねければならないという「難渋」(なんじゅう)があったと書かれています。

 丸亀の「町屋は浜辺に沿いて建て続き、旅籠屋なども多く、いずれも家居きらびやかなり」で、弥次郎と北八は「大物屋(だいもつや)」という旅籠屋に泊まります。ここでは、軽快な両人の江戸弁と、船頭や女中の間延びした讃岐弁との掛け合いがユーモラスに描かれています。また、素焼き瓶の風呂や土地の料理が興味深く書かれています。

 二人は丸亀から街道を南に行き、「餘木田」(今の与北)の郷を経て、榎井村の茶屋で一服します。ここでは大坂からの参詣客と出会い、江戸弁と大阪弁との掛け合いが描かれています。榎井村は「旅籠屋茶屋など多き所」と書かれています。そこから金毘羅の町に行き、鞘橋が「上を覆う屋形の鞘におさまれる御代の刀のような反橋」と書かれています。

 それから本宮に登ります。「その荘厳いと尊く、拝殿は檜皮葺(ひはだぶき)にしていかめしく、花麗殊にいわんかたなし。」「この御山より海上の島々浦々郷々一望の中に見わたされて風景いうも更なり。」と記しています。

 本宮から下る途中、弥次郎と北八は若衆髷をした若い色白の女と60頃の親父の連れに出会います。二人は大坂からの参詣客で、四人の間で交わされる江戸弁と大阪弁の応酬やその仕草がコミカルに描かれています。

 金毘羅からの帰路、四人は善通寺に立ち寄ります。「本堂は薬師如来四国遍路の札所なり。」と記されています。ここでも茶屋で一服した後、曼陀羅寺に参ってから弥谷寺に参るため弥谷山の麓まで行きます。しかし、「曼陀羅寺より殊に険難の山坂を歴(へ)て来たるなれば各々足も疲れ、そのうえ小雨の降り出したるに、多度津の方へはまだ程遠きよし」ため、この麓の茶屋で止宿します。

 この茶屋での止宿の場面がこの物語のクライマックスでしょう。弥次郎と北八が金毘羅から同道している若衆髷をした若い色白の女に夜這いをかけるのですが、女だとばっかり思っていたところ、じつは男で、誤解が誤解を招き四人が絡み合ったドタバタの大騒ぎになります。

 次の日、弥次郎と北八の二人は、「弥谷寺の仁王門より石段を登り、本堂に参り、奥の院求聞持(ぐもんじ)の岩屋というに、一人前十二文づつ出して、開帳を拝み、この峠うち越えて、屏風ヶ浦というに降り立つ。」「それより弘法大師の誕生し給うという垂迹(すいじゃく)の御堂を過ぎて十四津橋(とよつばし)を渡り、行き行きて多度津の御城下に至る。」 多度津では、北八が虫歯の痛みで苦しみ、怪しげな薬屋に入ってとんだ目に遭います。
 そして、ほうほうのていで丸亀の大物屋に辿りつきます。

 なお、十返舎一九は天保2年(1831年)67歳で亡くなります。



 詳しくは「金毘羅参詣続膝栗毛」をお読みください。

●訪れてみたいところ

○丸亀港・新堀港・福島町界隈
 丸亀港の奥まった一角に新堀港があります。これは天保4年(1833年)に、金毘羅参詣船を受け入れるために二千両を用いて築造された港で、もとは新堀湛甫と呼ばれていました。新堀湛甫築港当時の熱気を今に伝える太助灯籠も立っています。 新堀港の西側にある福島町には、かつて新堀湛甫より古い福島湛甫という港があり、旅籠屋や土産物屋で賑わっていました。今もその名残が町の端々に残っています。

○こんぴら旧丸亀街道
 こんぴら五街道のなかで最も栄えた街道です。丸亀市中府―郡家―善通寺市与北―満濃町公文―琴平町苗田―高灯籠の東に至ります。中府に一の鳥居、苗田に二の鳥居があります。

○与北の茶堂跡
 丸亀街道のほぼ中間にあたり、参詣客がしばしの間旅の疲れをいやしたところです。文政11年(1828年)に大坂繁栄講が寄進したといわれる石灯籠が残されています。

○鞘橋
 鞘橋は寛永元年(1624年)にかけられたといいます。現在のものは明治2年(1869年)にかけられました。かつては丸亀街道・高松街道・阿波街道からの参詣者が渡っていましたが、現在は10月の大祭のときのみに使用されています。

○金刀比羅宮

善通寺
 四国霊場七十五番札所。正式には屏風浦五岳山善通寺誕生院といい、空海生誕の地といわれています。唐から帰朝した空海が自ら学んだ長安の青竜寺を模して弘安4年(813年)に建立し、父佐伯直田公善通(さえきあたいのたきみよしみち)の名を冠したといわれています。和歌山の高野山、京都の東寺とともに、大師三大霊場の一つといわています。

○曼茶羅寺(まんだらじ)
 国霊場七十二番札所。幼年時代の空海が修業したといわれる我拝師山の北麓にあり、空海が唐から持ち帰った金剛・胎蔵両曼茶羅を納めるために建立したといわれています。境内には大師お手植えという不老の松、西行法師の笠掛松、昼寝石、水茎(みずくき)の庭があります。

弥谷寺(いやだにじ)
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