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(34)“高杉晋作をかくまった侠客の勤皇志士”


 幕末の風雲児高杉晋作(たかすぎ しんさく)は、長州藩の人間で、奇兵隊をつくったこと有名です。晋作は琴平の街に一時潜伏していたことがあります。
 この物語は、司馬遼太郎が小説の素材としてとりあげており、「世に棲む日日」の中に讃岐の勤王家として日柳燕石(くさなぎえんせき)が登場しています。

 日柳燕石は、文化14年(1817年)、金毘羅の隣の榎井村で生まれました。当時榎井は幕府直轄地の天領で、豪商・豪農が軒を並べ、その財力は金毘羅をしのぎ、文化程度も高かったといいます。燕石の実家も加島家という豪農でした。このような環境の下で育った燕石は、幼いときから儒学の勉強に励み、14歳頃までには「四書・五経(ししょごきょうを)」を読破していたといいます。また詩文に天賦の才を持っていたといいます。
 しかし、豪農の跡取り息子にもかかわらず、持ち前の正義感と侠気(きょうき)から、燕石は、19歳の頃、一揆に巻き込まれて投獄されます。この頃から彼は詩作に没頭する一方で、遊郭で酒と博奕に耽る自由奔放な生活を始めます。持って生まれた度胸と金ばなれの良さ、人間的魅力もあっていつしか親分と立てられるようになります。彼が生涯に囲った妻妾(さいしょう)は十数人に及び、詩の中でも「妻妾は新詩の如し いよいよ新なれば いよいよ奇なり 朋友は古画の如くいよいよ旧(ふる)ければいよいよ宜(よろ)し」と詠じ、「畳と女房は新しいものほどよい」というようなことを言っております。
 燕石が勤皇を志したのは35歳の頃だといわれています。金毘羅の街には、江戸、上方をはじめ全国各地から参詣客が訪れてくるため、当時最先端の情報が集まっていたものと思われます。また彼は長崎を訪ねて海外事情にも触れて時代の動向に目覚めていきます。こうした中、彼は勤皇の志士とも交友し、久坂玄瑞(くさかげんずい)や吉田松陰(よしだしょういん)など長州藩の志士にも名が知られるようになっていきました。
 燕石が自分の居宅に付けた「呑象楼(どんぞうろう)」という名は、盃に映った象頭山を飲み干すという意味で、豪快な彼の意気を感じることができます。長州の桂小五郎(後の木戸孝允)もここを訪れ、燕石は桂の勤皇思想に共鳴して援助を惜しまなかったといわれています。

 元治元年(1864)7月の蛤御門の変により、攘夷派の長州藩は、京都を追われます。さらに幕府は長州藩を朝敵として、第一次長州征伐を行います。また、アメリカなどの四国艦隊が長州藩の下関砲台を占拠します。このような情勢下、長州藩内では幕府に恭順する俗論派が台頭し、正義派三家老が自刃します。しかし、高杉晋作らが奇兵隊を組織して下関の功山寺で挙兵し、俗論派を排斥して翌年の慶応元年(1865)2月に尊王倒幕派が藩政を再び握ります。
 この年の3月、晋作は、イギリスへの密航を企て、伊藤俊輔(のちの博文)と長崎へ行き、イギリス商人グラバーにその計画を相談します。27歳のときです。ところが、グラバーより説得されて洋行を中止し、4月には下関に戻り、開港を推し進めようとします。しかし、下関が支藩である長府藩の領内であることから、この計画は下関を長州藩の管轄にすることになるため、晋作は長府藩士および攘夷主義者から命を狙われます。この難を避けるため、晋作は琴平の日柳燕石(くさなぎえんせき)を頼って瀬戸内海を渡ります。
 晋作が燕石を頼って讃岐に来たのは、この年の5月のことです。下関の芸妓で愛人の「おうの」を連れだって来て、金毘羅の金山寺町(きんさんじ)にかくまわれます。このとき晋作は丸亀の村岡家に一時逗留し、長州藩士の井上善心、高松の勤王家太田次郎らと語り合ったといいます。
 晋作は、燕石のことを、「当所にて日柳燕石と申す奇人に出会い、議論符合し、益得ること少なからず候(そうろう)・・・、何(いず)れにしても、日柳氏一身を抛(なげ)うち潜伏させると申す位(くらい)につき、決して御懸念無用に存じ奉(たてまつり)り候」、「日柳氏は博徒の頭、子分千人ばかりもこれ有り、学問詩賦(しふ)も腐儒迂生(ふじゅううせい)の及ぶ所にこれ無く、実に関西の一大侠客に御座候」と記しています。
 閏5月3日、高松藩が晋作の捕縛にかかったさい、燕石は自分が代わりに縛に就き、晋作を逃します。虎口を脱した晋作は、象頭山を迂回して財田上の村より伊予川之江に出て、そこから舟で備後へ逃れ、6月には桂小五郎の斡旋により長州へ帰っています。

 慶応2年(1866)2月、長州藩は、桂小五郎らと共に土佐藩の坂本龍馬を仲介とした薩摩藩との軍事同盟を積年の宿敵である薩摩藩と結びます。いわゆる薩長同盟です。6月には幕府の第二次長州征伐が始まりますが、幕府は長州軍に敗退します。
 慶応3年(1867)4月14日午前2時、高杉晋作は29歳で亡くなります。大政が奉還されたのはその年の10月です。
 一方、燕石は晋作を匿った罪で高松城下鶴屋町の獄に丸3年つながれます。明治元年(1868)、明治維新政府の成立により出獄すると、長州で尼となった「おうの」に会い、病で倒れた晋作をしのんで、「故人は鬼となり、美人は尼となる、浮世は変遷、真に悲しむべし」という詩を残しています。
 その後、維新政府軍に属し、奥羽越列藩同盟軍との戦いに日誌方(記録係)として従軍します。しかし、途中病気となり、越後(新潟県)の柏崎の陣中で、8月25日に亡くなりました。享年52歳でした。

 金毘羅の草莽の志士としては、日柳燕石のほか、長谷川佐太郎(さたろう)、美馬君田(みまくんでん)らが活躍しています。
 長谷川佐太郎は榎井村の醸造家で、燕石の勤王活動を側面から経済的に支援しました。家号は新吉田屋、略して新吉と呼び、同士間では梧陽堂ともいったそうです。桂小五郎は梧陽堂の離れ座敷で潜伏していたことがあり、3畳の秘密部屋へ備前倉敷の役人が臨検したとき、据え並んでいる酒樽の中に身を潜め、辛うじて捕吏の眼から脱することができたといわれています。
 美馬君田は、元阿波美馬郡の僧侶で、還俗して勤王活動に身を挺しました。燕石とは、「燕石ある処には必ず君田あり、君田の影には常に燕石あり」と言われ、燕石とともに高杉晋作を匿い、一緒に鶴屋町の獄に繋がれました。



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○訪れてみたいところ
呑象楼
 榎井小学校の北西隅の道路沿いにあります。元は興泉寺(こうせんじ)の前にありました。別名「からくり屋敷」と呼ばれ、のぞき窓、掛軸の裏にある密室、回転扉な ど、不意の侵入者に対する備えが細工されています。現在は老朽化のため残念ながら中に入ることはできないそうです。呑象楼の道路を隔てた北には湧水が出ているという春日神社があります。
琴平の街並み
 琴平町には江戸時代をしのばせる細い路地と古い土壁の家が残っているところがあります。
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お知らせ

 記事を少し加筆しました。冒頭でも書きましたが、この物語は司馬遼太郎が「世に棲む日日」の中でも書いています。
 琴平、丸亀には坂本竜馬も来ていたようです。竜馬が丸亀で撮ったという写真も残っているそうです。

燕石という酒

琴平町榎井に燕石という清酒を売っているところがあります。
凱陣という銘柄を売っている丸尾本店というところです。
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