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(31)“朝鮮・中国からの侵攻に備えて築かれた城”

 6世紀から7世紀にかけて、朝鮮半島では百済(くだら)、新羅(しらぎ)、高句麗(こうくり)の三国が鼎立していました。倭国(日本)は南部の任那を通じて半島に影響力を持っていましたが、任那が新羅に滅ぼされたためこの地域の奪還を願っていました。

 斉明6年(660年)年、百済が唐(とう)と新羅の連合軍に攻め滅ぼされ、倭国に助けを求めます。大化の改新を成し遂げ国力が充実していた倭国は、新羅の強大化を好まず、実質的な首班であった中大兄皇子(なかのおおえのおうじ、後の天智天皇)は直ちに百済救援を決定します。皇子は、天智2年(663年)3月、2万7,000の大軍を朝鮮半島に派遣します。しかし、倭国と百済の連合軍は増強された唐・新羅の連合軍に追いつめられます。

 こうした形勢を打開するため、天智2年8月27日、倭国の水軍は錦江下流の白村江(はくすきのえ)に突入を試みます。しかし、この戦いで、倭国と百済の連合軍は唐と新羅の連合軍に歴史的な大敗を喫します。この戦いを白村江の戦いといいます。日本が外国との戦争で明確に負けたのはこの時と太平洋戦争の2度だけです。その5年後には高句麗も滅ぼされ、日本は朝鮮半島における友好国のすべてを失い、半島は親唐の新羅により統一されます。このとき日本は多勢の百済高句麗からの亡命者を受け入れます。

 その後、中大兄皇子は即位して天智天皇となります。そして、唐・新羅による報復と侵攻に備え、九州大宰府に水城(みずき)や瀬戸内海沿岸に朝鮮式山城(やましろ)などの防衛施設を築き、北部九州沿岸には防人(さきもり)を配備します。また667年には都を難波から内陸の大津京へ移し、万一新羅が瀬戸内海を渡って攻め込んで来たときに備えた防衛網を完成させます。この大津は壬申の乱で天智天皇の弟の天武天皇が天下を取るまで日本の都でした。白村江の敗戦は、倭国内部の危機感を醸成し、日本という新しい国家の建設を結果としてもたらしたといわれています。

 唐・新羅の侵攻に備えて作られた朝鮮式山城の一つが屋島城(やしまのき)です。日本書紀に、「天智天皇六年十一月築大和国高安城(やまとのくにたかやすのき)讃岐国山田郡屋島城(さぬきのくにやまだのこおりやしまのき)対馬金田城(つしまのくにかなたのき)是讃岐国ニ於ケル城壘ノ初メ也」との記載があります。長らくその実体はよく分かりませんでしたが、平成10年2月に南嶺山上部近くの西南斜面において石塁が発見されたことを契機にして、南嶺北斜面・南斜面で確認されていた土塁と関連することがわかり、東斜面でも同様の地形が確認されたことから、山上部付近の斜面に断続的ながら古代屋島城の外郭線(防御ライン)が巡っていることが判明しました。また西南斜面の石塁の一部から城門遺構が確認されたことにより、屋島城の存在が実証されました。

 日本書紀には記載されていませんが、讃岐にはもう一つ古代の山城があります。坂出市にある城山(きやま)です。この城は白村江の戦いの後に築かれたものか分かっていませんが、九州北部や山口県にある朝鮮式山城と同様の特徴を持っていると言われています。城山から北方眼下に瀬戸内海、西に丸亀平野、東に高松平野の一部を展望することができます。

○訪れてみたいところ
屋島城
 屋島山の南嶺・北嶺の中間を櫓ケ丘といい、その西側の山腹に古城址があります。構造は屋島の南嶺と北嶺との間の西側の渓谷をとりいれ、長さは南東より北東にかけて約3キロメ-トル、広さは最広部で約0.5キロメ-トル、周囲約7.8キロメ-トルにわたる大規模の山城です。
城山
 山頂には望楼跡を示す礎石群があり、少し下ったところに車道(くるまみち)と呼ばれる上端が平坦な土塁、城門跡、水門跡などが残っています。また、城山山上は、菅原道真が雨乞いの儀式をしたところです。
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屋島城

 日本書紀に天智天皇6年(667)冬11月、倭(大和)国に高安城を、讃吉(讃岐)国山田郡に屋島城、対島国に金田城を築くとある。
 屋島城の構造は朝鮮百済式の大規模な山城であり、城壁をもって数か所の谷を抱擁し、城内を広く、渓流をとり入れて水を確保し、大軍を受けいれることができるようにしていた。
 遺構は南峰に営舎・倉庫などがあったと思われ、屋島寺付近が城の中央で、近くにある池、水田は当時に設けられた軍用水の名残でなかろうか。
 北峰の山頂右陵の勾配のあるところに城壁と思われる幅のある石帯が散乱している。
 西面の谷に城壁の一部が残っている。高さ内側5.9メートル、外側12.4メートル、基底の広さ16.4メートル、頂の広さ2.7メートル、壁の長さ43.6メートル、破壊された跡20メートル。櫓跡と認められるところがあり、土地の人はこの櫓跡付近を「櫓の内」と呼んでいる。近くの渓底に水門と思われる水の流れ出ているところがある。
 城の広さ、長さ東南端より東北端まで約3.3キロ、広さ最幅部約0.6キロ、周囲約8キロ。
                (地域の本棚より)
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