スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

(28)“最後の高松藩主は最後の将軍徳川慶喜の従兄弟”

 松平頼聰(よりとし)は安政8年(1861年)に第十一代高松藩主となります。一方、徳川慶喜は慶応2年(1866年)12月に第十五代将軍となります。頼聰は最後の高松藩主で、慶喜は江戸幕府最後の将軍です。また彼らは従兄弟どうしです。頼聰の父である第九代高松藩主・松平頼恕(よりひろ)は、慶喜の父である第九代水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)の実兄に当たり、頼恕と斉昭の父は第七代水戸藩主・徳川治紀(はるとし)です。

 慶応3年(1867年)10月14日、将軍徳川慶喜は朝廷に大政奉還の上奏を行い、朝廷は翌15日にこれを受理します。これにより徳川幕府は形式上その幕を降ろします。しかし、大政奉還は徳川家の政治生命の断絶を告げるものではなく、新政府に徳川家も加わることでその力を温存するという狙いがありました。しかし、岩倉具視や薩摩藩・長州藩は、新国家に徳川家の勢力が残されることを嫌い、密かに討幕を企てていました。

 12月9日、朝廷は王政復古の大号令が発します。その日の夜、宮中の小御所(こごしょ)で三職による会議が開かれます。この会議では、岩倉・薩摩藩・長州藩を中心とする倒幕派と、旧幕府を含めた諸藩連合を目指す土佐藩・越前藩らの公議政体派とが対立します。結局討幕派が公議政体派を押さえ込み、徳川慶喜を新たな政府の高官から除外し、官位も領地も没収するという徳川家を排除した宣言が出されます。これは討幕派によるクーデターでした。この会議は「小御所会議」と呼ばれています。12日、討幕派との衝突を恐れた慶喜は大阪城に退きます。

 一方、江戸市街では、薩摩藩士による挑発的な破壊工作が行われます。このため慶喜の周囲では「討薩」を望む声が上がり、旧幕府側の会津・桑名・姫路・松山・大垣藩らの兵約1万5千が大阪城を出発し、京へ向かって進軍します。このとき、高松藩大阪藩邸には家老の小夫兵庫・小河又右衛門の指揮のもとに藩兵が駐屯しており、銃手八小隊(約350人)が旧幕府軍の一翼として従軍しています。

 慶応4年(1868年)年1月3日の夕方、ついに旧幕府軍と薩摩・長州・土佐兵による官軍が下鳥羽付近で軍事的衝突を起こし、伏見でも衝突して戦端が開かれます。これが鳥羽・伏見の戦いです。この戦いでは高松藩兵も薩摩・長州藩兵と交戦し、重軽傷者5人を出します。

 旧幕府軍は兵力で新政府軍に勝っていましたが、その装備は旧式のものがほとんどであり、新型の洋式銃で武装した新政府軍に思わぬ苦戦を強いられます。さらに翌日4日に、官軍であることを示す「錦の御旗」が新政府軍に掲げられると、旧幕府軍のほとんどが戦意を喪失してしまいます。

 大坂城に構えていた徳川慶喜は「逆賊」の汚名を着せられることを恐れ、追討令が出た報を聞くと、7日には多くの兵士を置き去りにし、僅かな側近らと共に密かに城を脱し、大阪湾に停泊中の幕府軍艦・開陽丸で江戸に退却します。このため多くの藩が旧幕府軍を見限り、この戦いは旧幕府軍の全面敗北となりました。高松藩も、小夫兵庫・小河又右衛門の両家老が敗兵を率いて大坂から高松へ逃げ帰ります。

 江戸に戻った慶喜は上野の寛永寺で謹慎し、天皇に反抗する意志がないことを示そうとします。しかし、薩摩藩・長州藩を中心とする新政府軍は、鳥羽・伏見の戦いに参戦したことを理由に、旧幕府とともに高松藩・松山藩・大垣藩・姫路藩などを朝敵とし、徳川慶喜以下その藩主の官位を剥奪します。

 四国内では、11日、朝敵となった高松と松山藩を征討すべしとの朝命が土佐藩に対して下ります。土佐藩はすぐに朝敵追討の軍を起こし、まず松山・松平家を帰順させ、予讃の国境を越えて、讃岐に入ります。

 高松藩内は混乱し、帰順か抵抗か、藩論は容易に決まらず、三日三晩にわたって城中で評定が続けられますが、ついに朝廷に御赦免を願い出るという恭順説に衆議は決まります。当時の激論を続けた藩内の情景を、高松出身の作家菊池寛は、「時勢は移る」と題して発表しています。18日の夕刻、鳥羽伏見の直接の責任者であった家老の小夫兵庫・小河又右衛門に切腹が命じられます。兵庫は三番丁の正覚寺、又右衛門は浜の丁の弘憲寺で切腹しました。二人の首は、その時姫路まで下っていた征討軍総督の陣営へ届けられます。

 19日には3千に余る大軍の土佐藩兵が丸亀城下に到着し、その日の夜、藩主松平頼聰は城を出て浄願寺に入り謹慎します。この土佐軍の参謀兼大隊司令は、板垣退助でした。20日、丸亀・多度津藩兵250人が先鋒として高松城下に入り、その日の夕刻、錦御旗を先頭にした土佐藩兵が大手門から高松城に入り、高松藩は土佐藩征討軍の占領下となります。

 高松藩が許されて土佐藩征討軍の高松占領が終了したのは約1ヵ月後のことです。江戸城が無血開城されたのは、その後の4月11日のことです。

 しかし家老の二つの首だけでは高松藩は許してもらえず、免罪のため、12万両を新政府の要求に応じて献納させられています。松平家は重宝を売り払って2万4千両を第3回分として上納したといいます。

 この年の9月8日、年号が慶応から明治に改められます。また、9月22日には白虎隊で有名な会津戦争が終結します。この戦では高松藩兵約500人が官軍として従軍しています。

 高松藩は朝敵となったことにより藩閥政府からにらまれ、明治期には旧高松藩の子弟は陸軍士官学校に入学できず、籍を大坂に移して受験した者もいたといいます。明治から大正にかけて香川県人で中央の軍、官界で名をなした者が極めて少ないのは、この事件が長く影を落としたためともいわれています。

 明治2年6月17日、版籍奉還が行われ、高松藩では松平頼聰が藩知事となります。しかし、新政府は、明治4年7月14日に廃藩置県を行い、それまでの藩を廃止して、地方統治を中央管下の府と県に一元化し、さらに藩知事の職を解き東京移住を命じます。頼聡もこれを受け出港しようとしますが、農民たちは蓑笠(みのかさ)を着て頼聡の上京を阻止するために立ち上がるという事件、「蓑笠騒動」が起きています。

○訪れてみたいところ
高松城
県歴史博物館
高松市資料館
正覚寺
弘憲寺
浄願寺
法然寺
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

浄願寺

 松平家の菩提寺であった浄願寺は、はじめ宇多津に創立され、のち高松城下三番丁に移されました。正保年間(1644~1647)松平頼重は当寺を菩提寺と定めました。承応3年(1654)焼失。明暦元年(1655)に五番丁(中央グランドの地)に大規模な山門・本堂・書院・霊屋と四つの塔頭を再興し、寛文6年(1666)寺領300石を与えました。戦災で焼失しましたが城下町きってのお寺でした。
四国のブログ

FC2Blog Ranking

全記事(数)表示
全タイトルを表示
讃岐
リンク
カウンター
琴平電気鉄道
栗林公園・一宮・金毘羅に便利 !
映画DVDファッション雑誌無料ブログパーツ
カテゴリー
歴史・旅行リンク
にほんブログ村 旅行ブログへ にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村 トラコミュ 讃岐の伝説へ
讃岐の伝説
にほんブログ村 トラコミュ 高松松平藩へ
高松松平藩
にほんブログ村 トラコミュ 日本の文化へ
日本の文化
最近の記事
天気予報
高松の天気予報
-天気- -FC2-
最近のコメント
時計
出来屋の電光掲示板
QRコード
QRコード
国盗りカウンター
プロフィール

讃岐の出来屋

Author:讃岐の出来屋
おいでま~せ、出来屋のページヘ""

カレンダー(月別)
08 ≪│2017/09│≫ 10
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。