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(27)“井伊直弼と徳川斉昭との板挟みにあった高松藩主”

 高松松平藩は、初代藩主が徳川御三家の一つ水戸藩の初代藩主・徳川頼房(よりふさ)の長男である松平頼重(よりしげ)、また2代藩主が頼重の実弟である水戸2代藩主・徳川光圀(水戸黄門)の息子・頼常(よりつね)であり、さらに水戸3代藩主が頼重の息子・綱条(つなえだ)ということもあり、水戸藩とは非常に深い関係にありました。
 水戸7代藩主・徳川治紀(はるとし)には、長男・斉脩(なりのぶ、寛政9年(1797)生)、次男・頼恕(よりひろ、寛政10年(1798)生)、三男・斉昭(なりあき、寛政12年(1800)生)の3人の息子がいました。
 長男の斉脩は、文化13年(1816)、治紀の後を継いで水戸8代藩主に就任します。次いで、次男の頼恕は、高松8代藩主・松平頼儀(よりのり)の長女倫姫(みちひめ)と結婚し、文政4年(1821)に高松9代藩主となります。このとき、頼儀には道之助(後の松平左近頼該(よりかね)と貞五郎(後の松平頼胤(よりたね))の2人の息子がいましたが、弟の貞五郎を次の高松10代藩主とすることとし、兄の道之助を廃嫡とします。
 文政12年(1829)、水戸藩では斉脩が亡くなり、三男の斉昭が水戸9代藩主となります。これにより、その後約13年間、幕府初期における松平頼重と徳川光圀の関係と同じように、高松藩主が兄、水戸藩主がその弟という関係が続きます。

 天保13年(1842)、高松藩では、水戸出身の頼恕の後、斉昭の義理の甥にあたる松平頼胤が10代藩主になります。
 弘化元年(1844)、徳川斉昭は、藩政改革の行き過ぎを幕府に咎められ隠居処分を受けます。斉昭のあとは13歳の慶篤(よしあつ)が継ぎ、高松藩主の松平頼胤が守山・宍戸両藩主とともに幕府の意向を受けて、水戸藩を後見することになります。水戸藩の混乱は尊王攘夷を説く斉昭派とこれに反発する保守派の対立が原因でしたが、頼胤が保守派と提携を強めていったため、水戸の尊王攘夷派は頼胤に対して強い反感を抱くようになります。

 嘉永6年(1853年)6月ペリーが浦賀に来航し、翌年幕府は日米和親条約を締結して下田・函館の2港を開きます。しかし、米国総領事ハリスは、幕府に対してさらに通商条約の調印を迫ります。この問題について、幕府主流派は開国・通商条約締結の方針をとりますが、斉昭をはじめとする攘夷派はこれに強く反対し、国内は開国論と攘夷論に分かれ容易に収束しない状況となります。これに対して幕府は、条約調印について朝廷の勅許を受けるということで事態の打開を図ろうとします。
 折から、将軍家定の継嗣をめぐる対立が政治問題化します。幕政の改革と発言力の強化を求める雄藩藩主らは、徳川斉昭の子で英明と噂されていた一橋慶喜(よしのぶ)(後の徳川慶喜)を支持し、一橋派と呼ばれていました。これに対して、系統重視の幕府主流派は紀伊藩主・徳川慶福(よしとみ)(後の徳川家茂)を推し、南紀派を形成していました。
一橋派は、徳川斉昭のほか、福井藩主・松平慶永(よしなが)、薩摩藩主・島津斉彬らです。一方の南紀派は、彦根藩主・井伊直弼(なおすけ)のほか、会津藩主・松平容保、高松藩主・松平頼胤ら江戸城溜間詰(ためりのまづめ)の大名が中心でした。溜間詰は老中と列座する幕政の中枢で、中でも彦根井伊家、会津松平家、高松松平家は常溜(つねのたまり)という上位の家格でした。
 さらに、高松松平家では、頼胤の実姉が直弼の兄直亮(なおあき)の前夫人であり、また頼胤の世子である頼聰(よりとし、頼恕の息子)の正室に直弼の娘・弥千代姫を迎え、彦根井伊家とは同じ常溜の家として厚い親交関係にありました。ちなみに、この縁で昭和41年8月15日に彦根城と高松城とは全国で始めて姉妹城縁組が結ばれています。
 このような関係もあり、高松藩は彦根藩とともに開国・南紀派の幕府主流派を形成していました。しかし、一方で、頼胤の義理の叔父にあたる水戸の斉昭は幕政を非難してその改革を要求する攘夷・一橋派のリーダーであり、頼胤は板挟みにあう関係にありました。
 かくて将軍後継問題と外交問題がからんで政治情勢は複雑怪奇なものとなり、両派と攘夷派志士たちは入り乱れて奔走しました。

 条約調印について孝明天皇の勅許が不承認となった直後の安政5年(1858年)4月、開国・南紀派井伊直弼が大老職に就任します。直弼は任命されると政務を専断し、6月に日米修好通商条約の調印を断行し、徳川慶福(家茂)を将軍継嗣(けいし)と決定します。
 徳川斉昭らは違勅調印を激しく非難し、尾張藩主・徳川慶勝、松平慶永らとともに不時登城を行い、直弼を詰問します。これに対して7月直弼は彼らに対して隠居謹慎などの処分を下します。このため、頼胤と斉昭の関係も極めて険悪となり、水戸では頼胤が水戸藩主の地位を狙っているという噂まで流れます。
 8月に入ると、幕府が無断で条約に調印したことに激怒した孝明天皇が水戸藩に勅書を下します。しかしそれは、前例のない藩への直接降下でした(これを戊午の密勅といいます)。大老井伊直弼はこれを水戸藩の幕府転覆の陰謀と考え、密勅降下に関係した者、及び政敵である一橋派の徹底弾圧にのりだします。これが安政の大獄の始まりです。弾圧されたのは尊王攘夷派及び一橋派の大名・公卿・志士らで、連座した者は100人以上にのぼりました。橋本左内、頼三樹三郎、吉田松陰らもこのとき死罪となっています。高松藩でも長谷川宗右衛門、速見父子が連座しています。

 これにより井伊直弼は、特に水戸藩から強い恨みをかい、万延元年(1860)3月3日、登城途中の江戸城桜田門で水戸藩の浪士から襲撃を受け暗殺されます。これが桜田門外の変です。直弼以外にも御供8人が死亡し、13人が負傷しました。斬奸状の中には頼胤の名も含まれていました。桜田門外の変のとき、頼聰は舅である直弼登城の行列に加わっていましたが辛くも難を逃れます。翌年、頼胤は病を理由に隠居し、家督を頼聰に譲ります。
 井伊直弼が暗殺された事により弾圧は収束しますが、さらに文久2年(1862)水戸浪士は坂下門外で老中安藤信正を襲撃します。相次ぐテロにより幕府権力は衰退に向かい、薩摩・長州など西南雄藩が中央に進出し、かつて直弼に退けられた一橋慶喜が将軍後見職に、松平慶永が政事総裁職に任じられるなど幕閣では一橋派が復活します。また将軍家茂と和宮の婚儀が成立して公武合体路線が進められます。
 逆に井伊家と親しい高松藩では頼胤に蟄居が命ぜられ、頼聰も自ら請うて30日の閉門に服します。さらに翌年、頼聰は直弼の娘である千代姫を離婚して実家に戻し、井伊家との絶縁を宣言します。頼聰は最後の高松藩主で、二人が再び夫婦になったのは明治になってからのことです。
○訪れてみたいところ
高松城
法然寺
 初代藩主松平頼重が、浄土宗の開祖法然上人が讃岐に流されたときに小松荘(現在の満濃町)に開いた寺を現在の仏生山の地に移して菩提寺としました。歴代高松藩主の墓があります。
霊芝寺(れいしじ)
 志度にある真言宗の寺です。この寺には、水戸光圀の息子である高松藩二代目藩主・頼常(よりつね)と九代目藩主・頼恕(よりひろ)の墓があります。彼らは水戸家出身の藩主です。またこの寺には「藩主お成りの間」などが残されています。
長崎鼻砲台跡
 屋島北端の岬にあり、江戸時代末期の文久3年(1863年)、外国船からの防御のために高松藩が築いた砲台の跡です。
蕪越(かぶらごし)のろし場跡
 東かがわ市白鳥町にあり、高松藩が幕末に海防のために設けたのろしの台の一つです。
県立歴史博物館
高松市歴史資料館
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讃岐幕末史

 前の記事を少し加筆しました。
 現在、讃岐の幕末を少し勉強しているところです。
 讃岐の勤王家といえば日柳燕石がよく知られていますが、その他にも長谷川宗太郎とか小橋安蔵などが活躍しています。次号から彼らを素材にした記事を書いてみたいと思います。

長崎の鼻の砲台

 屋島の北端を長崎の鼻という。昔ここに役人を置いて海上の非常を防ぐ遠見番小屋があった。小屋の上に灯をともし、夜間航海者のための標識の役もしたという。幕府は文久3年高松藩主松平頼聰に命じて、瀬戸内海防衛のため、ここに砲台を築かせた。砲台は藤川三渓の設計によるもので、南丘上から北の海に向い、上・中・下の3段に分け、上段は守備兵の屯所、中・下段には3個づつの大砲を備えていた。そして東・北・西方に向いて砲撃ができるようになっていた。(地域の本棚より)
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