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72番曼荼羅寺・73番出釋迦寺・74番甲山寺とその周辺

善通寺市吉原町・碑殿町・弘田町の区域

【善通寺市吉原町】

●曼茶羅寺(まんだらじ)  MAP
 四国霊場七十二番札所。幼年時代の空海が修業したといわれる我拝師山の北麓にあり、号は延命院です。その由来は古く、推古4年(596)に建立され、はじめは世坂寺(よさかじ)といい、空海の生家佐伯氏の氏寺でした。その後、唐からの留学を終えて帰朝した空海が、亡き母の菩薩を弔うために唐の青竜寺に模して伽藍を造営し、大日如来を刻んで本尊としました。このとき、唐から持ち帰った金剛界と胎蔵界(たいぞうかい)の両界曼荼羅を安置し、寺号を曼荼羅寺と改めました。当時の曼荼羅寺は善通寺にも劣らぬ程の名刹伽藍だったといいます。
 その後数百年を経るうちに衰退し、殊に永禄元年の兵火にかかって堂宇を焼失してから益々荒廃しましたが、文祿年中生駒家の旧臣三野氏が諸堂を再建し若干の寄附をしました。その後貞享9年に沙門宥盛、本堂が再興されました。現在の本堂は明治29年の改築です。
 境内には多くの松の大樹があり、前庭には弘法大師のお手植えといわれる「不老松(ふろうのまつ)」があります。中心の高さ4メートル、枝張り18メートル程のほぼ正円形をしており、大きく傘をひろげた姿から「笠松」とも云われています。
    (御詠歌) わずかにも曼陀羅おがむ人はただ ふたたびみたびかえらざらまし
 また、境内には西行法師にゆかりがある「曲水式枯山水の庭園」、「笠掛桜」、「昼寝石」が残されています。西行法師は庭園を築庭したと伝えられ、寺に来たときには境内の石でしばしば昼寝をしたといいます。あるとき同行した旅人が桜の枝に笠をかけ忘れたのを見て、
           笠はありその身はいかになりぬらん あはれはかなき天が下かな
と詠んだという。
(関連記事)“崇徳上皇を偲び来讃した西行法師” “最初は88ヶ所以上あった四国霊場” “やじさんも、きたさんも参詣した金毘羅

●出釋迦寺(しゅっしゃかじ)  MAP
 四国霊場七十三番札所。空海が7才の時、衆生救済の誓願をたて、現在奥の院がある我拝師山の頂上から身を投げた時、釈迦如来が現れたことから、如来像を刻んで寺を創建したと伝えられています。本堂、大師堂、虚空蔵菩薩堂が建っており、山の頂上近くにある奥の院の裏には、石の護摩壇と稚児大師像が祀られています。
       (御詠歌) 迷いぬる六道衆生救わんと 尊き山に出ずる釈迦寺
(関連記事)“少年空海が身を投げた山” “最初は88ヶ所以上あった四国霊場

●我拝師山(がはいしさん)  MAP
 標高481.2mで、地元の人から「ぜんちょう」と呼ばれ、昔は倭斯濃山(わしのざん)と呼ばれていました。我拝師山の麓には73番札所出釈迦寺や曼荼羅寺などの札所があります。我拝師山の8合目あたり、出釈迦寺より徒歩で30~40分程のところに出釈迦寺の奥の院である「捨身ヶ嶽禅定」があります。ここの断崖絶壁の岩場が「捨身ヶ岳」です。
 捨身ヶ岳とは、空海が幼少の頃、身を投げたところで、そのときお釈迦様が現れて空海を救ったので、「我(われ)師を拝む」ということからこの山は「我拝師山」と呼ばれるようになりました。また、麓の寺は、釈迦が出現したところという意味から「出釋迦寺」と呼ばれます。
 我拝師山・火上山は、弘法大師空海に関わりが深く、善通寺界隈の景観と一体化した、文化的景観を有しています。
(関連記事)“少年空海が身を投げた山

●萬福寺  MAP
 讃岐三十三観音霊場第24番。天霧山南東麓に位置し、開創は不詳ですが、行基菩薩が聖観音と馬頭観音を刻んで本尊として安置されたといいます。
(関連記事)“讃岐にも残る行基にまつわる伝承

●東西神社  MAP
 天霧山南東麓にあります。古くは「塔立明神」と称され、雲気、加富良津の諸神とともに大社だったといいます。中世、戦乱の災禍にかかり衰退し、天正年間に天霧城主香川之景(後信景と称す)によって再興されました。寛延の百姓一揆の指導者である七義士の一人森甚右衛門を顕彰した石碑が建っています。
(関連記事)“神様になった一揆のリーダー

●青龍古墳・鷺井神社  MAP
 前方後円墳である青龍(せいりゅう)古墳は、二重の濠をめぐらし、幅の広い周庭帯と周濠の一部を残しています。古墳の前方部には、僧空海の創建と伝える鷺井(さぎい)神社(青龍大権現)が祀られています。後円部では石室も確認され小刀手が出土しています。この神社の秋祭りは、神輿の行列に張子馬にまたがった子供が参加するという珍しい行事です。
 神社の東100mの地に「青鷺の井戸(あおさぎのいど)」と呼ばれる湧水地があり、この井水が眼病の治療の効くといわれていました。しかし、今では鳥居と井戸枠を残すのみです。

●西行庵(水茎の岡)  MAP
曼陀羅寺の西方約400mのところを「水茎の岡」といい、西行法師は数年間ここに滞在したと伝えられています。現在、地元の手により庵が再建されています。
       山里に浮世いとはん友もがな 悔しく過し昔し語らん
       山里を人来る世とは思はねど 問るヽ事を疎くなりゆく
       山里の秋の末にと思ひしが 苦しかりける木枯の風
(関連記事)“崇徳上皇を偲び来讃した西行法師

●西行法師芋畑の歌碑  MAP
 七仏寺から西へ約200m行くと「三井之江の芋畑」というところがあり、西行法師の歌碑が立っています。西行法師が八月の十五夜に月があまりにも美しいので芋畑へ出てながめていると、農夫がこれはてっきり芋泥棒にちがいないと思ってとがめると、西行は今夜は昔から芋明月(いもめいげつ)というのだからどうぞ芋をひとつくだされと言いました。すると農夫は歌を一首詠んでくれるならさしあげましょうと答えました。そこで西行は、
       月見よと芋の子どもの寝入りしを 起しに来たが何か苦しき
と歌を詠みました。喜んだ農夫は西行に芋を与え、それからこのあたりの小字を芋畑と呼ぶようになったということです。
(関連記事)“崇徳上皇を偲び来讃した西行法師

●中山(なかやま) MAP
 標高438mで、我拝師山と火上山の中央に位置することから中山といったそうです。北麓の丘陵は水茎(みずくき)の丘と呼ばれ、西行法師の山里庵跡があります。

●火上山(ひあげやま)  MAP
 善通寺市と三豊市の高瀬町・三野町にまたがる海抜406メートルの山です。大化改新の頃、西讃において白方軍団が設置され、その要城雨霧山を中心とし、その燈火台を火上山に配したとの説があります。中山と火上山の間のくぼ地には平安時代に建てられた山岳寺院である大窪寺の跡地があります。また、前方後円墳の古墳もあります。

●七仏薬師(しちぶつやくし)  MAP
 鳥坂峠から少し降りたところ大池の南側のほとりにあります。ここは昔、弘法大師がここにお堂を建て、自ら薬師七体の石像を刻んで祀っていました。また、「乳薬師」とも呼ばれ、お参りすると乳の出がよくなるということで、かつては乳の出ない女性が訪れていました。乳のほとばし出る絵を描いた板絵がお堂の正面にたくさん掛けられていたといいます。

【善通寺市碑殿町】

●牛額寺(ぎゅうがくじ)  MAP
 京都清水寺成就院(じょうじゅいん)の住職となった勤皇僧月照(げっしょう)と信海(しんかい)の出身地です。昭和5年に月照・信海上人の銅像がこの寺に建立されました。しかし、その後、戦時中の金属の応召で銅像を供出し台座だけとなりましたが、昭和53年4月に石像として再建されています。
牛額寺の境内近くには「牛穴」という洞穴があります。この牛穴からは身が一つで頭が二つあるという不思議な牛がでてくるという言い伝えが残っており、この穴は山の向こうの奥白方というところまで続いているといわれています。
(関連記事)“西郷隆盛と入水自殺した幕末の勤皇僧

●法然上人蛇身石  MAP
 西碑殿から弥谷寺への参道の途中、蛇谷池のほとりからそれて山を少し登ったところに法然上人蛇身石があり、蛇の頭の形をした石の口の中に法然上人の歌碑が祀られています。
 法然上人がこの地に来たとき、弟子の淨賀に向かって「汝の父は蛇となりて此の岩中に苦しめり、其の泣聲汝の耳に入らすや」と云ったので、淨賀が石工を雇ってその石を割らせたところ、一尾の小蛇が這い出てきたといいます。淨賀の父は信州の人で角割親政といいますが、かつて郷里で寺領を横領し、その後故あって讃岐にやって来て出釈迦寺に居住していましたが亡くなった後、生前に犯した罪により蛇となって苦しみを受けていたといいます。
(関連記事)“讃岐に逗留した法然上人

【善通寺市弘田町】

●甲山寺(こうやまじ)  MAP
 四国霊場第七十四番札所。甲山(こうやま、標高87.2m)の北東麓にあります。空海が満濃池を修築した際、岩窟に毘沙門天を祀り、工事の成功を祈りました。改修後は、朝廷から賜った功労金で堂塔を建立し、自作の薬師如来像を本尊として創建したと伝えられています。本堂、庫裏、大師堂、鐘楼が建っており、大師堂の近くに毘沙門天の岩窟があります。
      (御詠歌) 十二神味方に持てるいくさには おのれと心かぶと山かな
(関連記事)“最初は88ヶ所以上あった四国霊場

●甲山城跡  MAP
 戦国時代、天霧城主香川氏麾下の武将として活躍した朝比奈弥太郎(あさひなやたろう)が、甲山に居城を築いていました。山頂部に残る五角形の削平地が主郭跡だと考えられており、甲山城の碑があります。

●朝比奈神社  MAP
 朝比奈弥太郎を祀ります。朝比奈弥太郎は、永禄元年(1558)阿波三好軍の天霧城攻略に際して奮戦し、甲山南麓に討死しました。(ただし、土佐の長宗我部軍と戦い討ち死にしたという説もあります。)その墓標は甲山の付近の池の中州に祀られ、その池は朝比奈池と呼ばれました。のち朝比奈池が埋め立てられたことにより、墓標も筆の山北麓に移されたといいます。

●雲気(くもけ)神社  MAP
 延喜式内社讃岐二十四社の一つです。祭神は、豐宇気大神、大龍神、大雷神の三座とされています。社号の由来は、天霧山より出でし雲により良く雨が降るとのことから雲気神社と呼ばれたと全讃誌に記されていますが、真偽のほどは定かでありません。
 この神社は天正年間、長宗我部軍の天霧城侵攻の折、兵火にかかり殿宇は総て焼失したので雲気と言う地名だけが残っていたといいます。
 その後、丸亀藩4代藩主・京極高矩(たかのり)の時代、将軍家において騎射(馬弓)の催しがあり、高矩が選ばれますが、将軍もご覧になる催しなので、高矩はひどく悩んでいました。騎射の前夜、白ひげの老人が現れ、「明日の騎射は、重藤の弓に白羽の矢を用いなさい」と告げましたが、高矩はその話を疑わしく思いそのまま寝てしまいます。すると老人が再び現れて、「我は、汝の領地を守護する雲気神なり」と正体を告げます。これは神の教示に違いないと、高矩は翌日その指図どおりにしました。すると、見事に的(まと)を的中させることができました。この出来事があってから、高矩は領内の庄屋に命じて雲気の所在を探索させ、弘田村にその古址がある事を突き止め、宝暦4年(1754)に社殿を再興しました。以来、春秋の大祭には、藩主が公式に参拝するようになったといいます。
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