71番弥谷寺と本門寺を中心とする地域
三豊市三野町(大見・下高瀬・吉津)の区域です。
【三豊市三野町大見】
●弥谷寺(いやだにじ) MAP
四国霊場七十一番札所。聖武天皇の勅願で、行基が本尊の阿弥陀如来を刻んで安置したことにより開創されたといわれています。空海が少年時代にこの岩窟で修行し、さらに唐から帰国した後、再度この山で修業中、空から五柄の剣が降る霊を感じたので剣五山と改め、本尊を刻んで安置し、弥谷寺と改号して第71番の霊場に定めたといいます。標高382mの弥谷中腹に本堂、大師堂、多宝塔と多くの堂宇が立ち並び、山嶽仏教の場となっています。山門前には名物の俳句茶屋があり、参拝者の休憩所になっています。
また、ここには、弘法大師が中国から持ち帰ったという「金銅五鈷鈴(ごこれい)」が伝わっています。これは密教修法のとき振りならす金剛鈴のひとつ。柄が五鈷の形をしている鈴で、鋳銅製で鍍金をしています。
(御詠歌) 悪人と行連なんも弥谷寺 ただかりそめもよき友ぞよき
(関連記事)“讃岐にも残る行基にまつわる伝承” “最初は88ヶ所以上あった四国霊場” “やじさんも、きたさんも参詣した金毘羅”
●花立(はなだて)碑 MAP
鳥坂の正八幡神社飛地境内にあり、安永5年(1776)に里長の大井助左衛門惟義によって建立された高さ約2m石碑です。ここから真正面に弥谷寺の本堂が見え、その昔、鳥坂街道を往来する旅人は、この碑の前で花を供え、弥谷寺の方に向かって合掌遥拝したといわれています。
●戸峯山城 MAP
貴峰山(とみねやま)は、おむすび型をした標高222.8メートルの山で、「戸峰山」とも「大見富士」ともよばれています。天正2年(1574)、雨霧城四代城主香川信景の家臣である藤田四郎入道宗遍は、この山に天霧城の牙城として戸峯山城(大見城)を築いたといわれています。居館は山の西麓にありました。
一説によると、藤原純友の乱のとき、近江国出身の藤田四郎入道宗遍は、純友討伐に功績があったので、封を大見松崎に受けたといいます。
宗遍の墓は山の西麓御墓谷という所にあり、地元の人によってねんごろに弔われています。なお南麓には総官宮という小祠が祀られています。
貴峰山の東麓には、日枝神社という大見村の氏神とされる神社があります。この神社は近江の出身であった宗遍が、近江の山王大社から分祀し、山王社を建立して山王権現として祀ったのが始まりとされています。その近くにある多聞寺宝城院は、日枝神社の神宮寺だった寺です。
日枝神社 MAP
多聞寺宝城院 MAP
●津島神社 MAP
この神社は鼠島という小さい島に鎮座し、江戸時代、浮世絵師の二代目安藤広重にも描かれた風景地です。祭神は「素戔鳴命(すさのおのみこと)」で、例祭日は旧暦の6日24日、25日です。この神社の由緒は次のようなものです。
元禄3年6月の頃より8月まで、久保谷部落の浦に女の謡う声が聞こえてきました。人々が怪しんで浜に出てみましたが、人影はありません。しかし、歌う声が毎日聞こえ、人々は恐れて戸外に出なくなりました。その後大見村の一巫女に、「我は津島の明神というて、年久しくここを守っている。この頃毎日謡っているのは我なり、我を信ずるなれば、この島に樹木を植えよ」と神託ありました。村人がこれに従い島に樹木を植えると、霊験著しく、牛馬の疫病が周辺の村々に流行しても、久保谷部落だけは1匹も斃(たお)れませんでした。この事から津島明神は牛馬の神として尊崇され、6月25日には四周の村人が牛を引いて参拝するようになりました。現在は子供の神として県内外から尊崇され、約10万の氏子がいるといわれています。
【三豊市三野町下高瀬】
●高永山本門寺(こうえいざんほんもんじ) MAP
日蓮正宗の本山格寺院。正中2年(1325)、日仙上人により建立されました。法華宗系各派では本門寺という寺院名が多数あり、それぞれ区別するために頭に所在地の讃岐をつけた、讃岐本門寺(さぬきほんもんじ)とも呼ばれています。また、地元の人には、高瀬大坊の名で知られています。
広々とした境内には、天明元年(1781年)造営の本堂や明暦2年(1656年)に建てられた開山堂、元禄10年(1697年)造立の精霊殿などが建ち並び、堂々とした佇まいです。時代の相違による塔中数を外観すれば、南北朝期にはおよそ6箇坊、文安年中にはおよそ10箇坊、文明年中にはおよそ12箇坊、天正年中にはおよそ11箇坊が数えられるようです。
また、この寺では、新暦の11月22日から25日まで、市が開かれます。日蓮上人の法会に合わせて開かれる市で、「大坊市」、「たかせ市」、「くいもん市」とも呼ばれ初冬の風物詩となっています。
寺では毎年旧10月12・13両日御会式を行い一週間の市立が行われました。当時の民衆は秋の農作業の疲れを、この昼夜の市立に行きいやすのが唯一の楽しみでした。市立は寺から高瀬川堤防に至る3町余りの馬場の両側に、ぎっしりと小屋が立ち並び、農具、竹細工、雑貨、玩具類、陶器、おでん、うどん、果物、菓子饅頭、その他あらゆる飲食物の店が張られ、境内には掛け小屋芝居、サーカス、のぞき、最近では植木市等も出て、昔ながらの市を形成します。
(関連記事)“元寇の頃、甲斐国から讃岐に来た武士が建てた寺”
【三豊市三野町吉津】
●旧吉津小学校校庭西行上人歌碑 MAP
西行は讃岐の三野津に立ち寄ったと伝えられています。三野津は現在の三豊市三野町吉津とされ、昭和31年(1956)旧吉津小学校校庭に、「志きわたす月乃氷をうたかひて ひびのてまはる味のむら鳥」と刻まれた歌碑が建立されました。その後、吉津小学校は移転され、歌碑のある場所は、現在町の老人福祉センターの前庭になっています。
「山家集」に、「さぬきの国にまかりてみのつと申す津につきて、月の明かくて、ひびの手も通はぬほどに遠く見えわたりけるに、水鳥のひびの手につきて跳び渡りけるを敷き渡す月の氷を疑ひてひびの手まはる味鴨の群鳥」と載せられています。
この中で「みのつ」とは三野津のことで、当時三野津は広い入江の良港でした。西行が崇徳上皇の白峰参拝と空海の善通寺詣でをかねて讃岐に渡ってきた時の上陸地はこの三野津であったともいわれています。
「ひび」とは、魚をとるため、または海苔の養殖のため海中に立てる粗(えだ)のことです。川田順はこの歌を、「海上の月光を氷が敷いたのかと疑い恐れて、その方までは飛びゆかず、海(えだ)のあたりを翔け廻っている水禽らよ」と解釈しています。また、富士正晴は、「すうっと敷きつめている月の光を氷と錯覚してひびの手(ひびわれの手という意味も匂わせている)をよけて通る味鴨の群れよ」と解釈しています。
(関連記事)“崇徳上皇を偲び来讃した西行法師”
●吉祥寺 MAP
弘法大師が四国霊場開創のとき開基され、慶長8年に再建されました。文政年間には村内各家の神仏護符を集め、その灰と土をまぜて釈迦涅槃像52部類を作り、釈迦堂に安置されたといわれています。仏生山法然寺の涅槃像に勝るとも劣らない寝釈迦像であろうと言われています
●宗吉瓦窯 MAP
宗吉(むねよし)瓦窯で焼いた瓦は、持統天皇が作った藤原宮に運ばれ、平城京にも転用されました。宗吉瓦窯は現在23基が確認されています。三つのグループ(A、B、C群)に大別され、確認順に1号―23号窯と呼ばれています。
発掘調査の結果、C群の窯2基は藤原京への瓦供給以前に成立した最も古いもので、残るA、B群の21基の窯は後の時代の同時期に築かれたものです。C群の窯は三野郡の「妙音寺」(豊中町)用に、A、B群の窯は那珂郡の「法幢寺」(ほうどうじ、丸亀市)用に瓦を焼いたもので、その後、藤原京用の瓦も焼くようになったと考えられています。
(関連記事)“藤原京の瓦を焼いた日本最大級の瓦窯”
【三豊市三野町大見】
●弥谷寺(いやだにじ) MAP
四国霊場七十一番札所。聖武天皇の勅願で、行基が本尊の阿弥陀如来を刻んで安置したことにより開創されたといわれています。空海が少年時代にこの岩窟で修行し、さらに唐から帰国した後、再度この山で修業中、空から五柄の剣が降る霊を感じたので剣五山と改め、本尊を刻んで安置し、弥谷寺と改号して第71番の霊場に定めたといいます。標高382mの弥谷中腹に本堂、大師堂、多宝塔と多くの堂宇が立ち並び、山嶽仏教の場となっています。山門前には名物の俳句茶屋があり、参拝者の休憩所になっています。
また、ここには、弘法大師が中国から持ち帰ったという「金銅五鈷鈴(ごこれい)」が伝わっています。これは密教修法のとき振りならす金剛鈴のひとつ。柄が五鈷の形をしている鈴で、鋳銅製で鍍金をしています。
(御詠歌) 悪人と行連なんも弥谷寺 ただかりそめもよき友ぞよき
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●花立(はなだて)碑 MAP
鳥坂の正八幡神社飛地境内にあり、安永5年(1776)に里長の大井助左衛門惟義によって建立された高さ約2m石碑です。ここから真正面に弥谷寺の本堂が見え、その昔、鳥坂街道を往来する旅人は、この碑の前で花を供え、弥谷寺の方に向かって合掌遥拝したといわれています。
●戸峯山城 MAP
貴峰山(とみねやま)は、おむすび型をした標高222.8メートルの山で、「戸峰山」とも「大見富士」ともよばれています。天正2年(1574)、雨霧城四代城主香川信景の家臣である藤田四郎入道宗遍は、この山に天霧城の牙城として戸峯山城(大見城)を築いたといわれています。居館は山の西麓にありました。
一説によると、藤原純友の乱のとき、近江国出身の藤田四郎入道宗遍は、純友討伐に功績があったので、封を大見松崎に受けたといいます。
宗遍の墓は山の西麓御墓谷という所にあり、地元の人によってねんごろに弔われています。なお南麓には総官宮という小祠が祀られています。
貴峰山の東麓には、日枝神社という大見村の氏神とされる神社があります。この神社は近江の出身であった宗遍が、近江の山王大社から分祀し、山王社を建立して山王権現として祀ったのが始まりとされています。その近くにある多聞寺宝城院は、日枝神社の神宮寺だった寺です。
日枝神社 MAP
多聞寺宝城院 MAP
●津島神社 MAP
この神社は鼠島という小さい島に鎮座し、江戸時代、浮世絵師の二代目安藤広重にも描かれた風景地です。祭神は「素戔鳴命(すさのおのみこと)」で、例祭日は旧暦の6日24日、25日です。この神社の由緒は次のようなものです。
元禄3年6月の頃より8月まで、久保谷部落の浦に女の謡う声が聞こえてきました。人々が怪しんで浜に出てみましたが、人影はありません。しかし、歌う声が毎日聞こえ、人々は恐れて戸外に出なくなりました。その後大見村の一巫女に、「我は津島の明神というて、年久しくここを守っている。この頃毎日謡っているのは我なり、我を信ずるなれば、この島に樹木を植えよ」と神託ありました。村人がこれに従い島に樹木を植えると、霊験著しく、牛馬の疫病が周辺の村々に流行しても、久保谷部落だけは1匹も斃(たお)れませんでした。この事から津島明神は牛馬の神として尊崇され、6月25日には四周の村人が牛を引いて参拝するようになりました。現在は子供の神として県内外から尊崇され、約10万の氏子がいるといわれています。
【三豊市三野町下高瀬】
●高永山本門寺(こうえいざんほんもんじ) MAP
日蓮正宗の本山格寺院。正中2年(1325)、日仙上人により建立されました。法華宗系各派では本門寺という寺院名が多数あり、それぞれ区別するために頭に所在地の讃岐をつけた、讃岐本門寺(さぬきほんもんじ)とも呼ばれています。また、地元の人には、高瀬大坊の名で知られています。
広々とした境内には、天明元年(1781年)造営の本堂や明暦2年(1656年)に建てられた開山堂、元禄10年(1697年)造立の精霊殿などが建ち並び、堂々とした佇まいです。時代の相違による塔中数を外観すれば、南北朝期にはおよそ6箇坊、文安年中にはおよそ10箇坊、文明年中にはおよそ12箇坊、天正年中にはおよそ11箇坊が数えられるようです。
また、この寺では、新暦の11月22日から25日まで、市が開かれます。日蓮上人の法会に合わせて開かれる市で、「大坊市」、「たかせ市」、「くいもん市」とも呼ばれ初冬の風物詩となっています。
寺では毎年旧10月12・13両日御会式を行い一週間の市立が行われました。当時の民衆は秋の農作業の疲れを、この昼夜の市立に行きいやすのが唯一の楽しみでした。市立は寺から高瀬川堤防に至る3町余りの馬場の両側に、ぎっしりと小屋が立ち並び、農具、竹細工、雑貨、玩具類、陶器、おでん、うどん、果物、菓子饅頭、その他あらゆる飲食物の店が張られ、境内には掛け小屋芝居、サーカス、のぞき、最近では植木市等も出て、昔ながらの市を形成します。
(関連記事)“元寇の頃、甲斐国から讃岐に来た武士が建てた寺”
【三豊市三野町吉津】
●旧吉津小学校校庭西行上人歌碑 MAP
西行は讃岐の三野津に立ち寄ったと伝えられています。三野津は現在の三豊市三野町吉津とされ、昭和31年(1956)旧吉津小学校校庭に、「志きわたす月乃氷をうたかひて ひびのてまはる味のむら鳥」と刻まれた歌碑が建立されました。その後、吉津小学校は移転され、歌碑のある場所は、現在町の老人福祉センターの前庭になっています。
「山家集」に、「さぬきの国にまかりてみのつと申す津につきて、月の明かくて、ひびの手も通はぬほどに遠く見えわたりけるに、水鳥のひびの手につきて跳び渡りけるを敷き渡す月の氷を疑ひてひびの手まはる味鴨の群鳥」と載せられています。
この中で「みのつ」とは三野津のことで、当時三野津は広い入江の良港でした。西行が崇徳上皇の白峰参拝と空海の善通寺詣でをかねて讃岐に渡ってきた時の上陸地はこの三野津であったともいわれています。
「ひび」とは、魚をとるため、または海苔の養殖のため海中に立てる粗(えだ)のことです。川田順はこの歌を、「海上の月光を氷が敷いたのかと疑い恐れて、その方までは飛びゆかず、海(えだ)のあたりを翔け廻っている水禽らよ」と解釈しています。また、富士正晴は、「すうっと敷きつめている月の光を氷と錯覚してひびの手(ひびわれの手という意味も匂わせている)をよけて通る味鴨の群れよ」と解釈しています。
(関連記事)“崇徳上皇を偲び来讃した西行法師”
●吉祥寺 MAP
弘法大師が四国霊場開創のとき開基され、慶長8年に再建されました。文政年間には村内各家の神仏護符を集め、その灰と土をまぜて釈迦涅槃像52部類を作り、釈迦堂に安置されたといわれています。仏生山法然寺の涅槃像に勝るとも劣らない寝釈迦像であろうと言われています
●宗吉瓦窯 MAP
宗吉(むねよし)瓦窯で焼いた瓦は、持統天皇が作った藤原宮に運ばれ、平城京にも転用されました。宗吉瓦窯は現在23基が確認されています。三つのグループ(A、B、C群)に大別され、確認順に1号―23号窯と呼ばれています。
発掘調査の結果、C群の窯2基は藤原京への瓦供給以前に成立した最も古いもので、残るA、B群の21基の窯は後の時代の同時期に築かれたものです。C群の窯は三野郡の「妙音寺」(豊中町)用に、A、B群の窯は那珂郡の「法幢寺」(ほうどうじ、丸亀市)用に瓦を焼いたもので、その後、藤原京用の瓦も焼くようになったと考えられています。
(関連記事)“藤原京の瓦を焼いた日本最大級の瓦窯”


