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仁尾の街

●賀茂神社  MAP
 仁尾港の東側に鎮座。仁尾浦は、平安時代の寛治4年(1090)に白河上皇が京都の鴨御祖社(かものみおや、下賀茂社)へ寄進した内海御厨(みくりや)荘といわれる荘園でした。仁尾の賀茂神社は、この縁で、京都の賀茂神社から白河天皇の勅許を得て津田島(今の蔦島)に分祀され、室町時代初期の正平5年(1350)細川顕氏が津田島から現在の地に移転したといわれています。中世には、仁尾浦の漁民たちは京都賀茂神社の神人・供祭人・供御人として保護を受けるとともに、供祭物を京都へ納めていました。仁尾浦では、室町時代初期には綿座が開かれ人々が集り商家も増加し、海路による上方との往来が頻繁になるにつれて港も発達していきました。更に、讃岐の守護細川氏の直轄地となり軍港としての役割もあったようです。
 10月12・13日両日にわたる祭礼では、長床神事(ながとこしんじ)という古いしきたり儀式が行われています。
 この神社の境内には「注連石」という地元漁民たちが海中から引き上げた石が奉納されています。この石は、元は詫間町鴨の越の入江にありましたが、漁船の通行の邪魔になることから、宮浜まで運び神前に建立したものです。また、境内には天女が下って羽衣をかけたようなところから「羽衣の松」と呼ばれ、樹齢およそ300年といわれる美しい姿の松があります。

●石積み井戸  MAP

●覚城院(仁保城跡)  MAP 
 讃岐観音霊場第19番不動護国寺覚城院。覚城院は仁保城跡に建てられたといわれています。
天正7年(1579)2月長曽我部元親の将兵は、今の観音寺市室本町の九十九山城を攻略し、細川伊予守氏政を追い、勢に乗じて仁尾に侵入しました。当時の仁尾城主細川土佐守頼弘は防戦に努めましたが討死し、旧暦の3月3日、結局落城しました。この戦は3月2日から3日にわたるもので、町の大半は兵火にかかり、死傷者は甚だしい数に上ったといいます。以降、仁尾の町では3月3日の上巳の節句はせず八朔の男子の武者人形と同時に飾られています。
 ただし、仁尾城は細川土佐守頼弘が城主であったと言う説と雨霧城城主香川信景の属城であったと言う説があります。
 境内には屋根にシャチのある鐘楼があり、桃山時代初期のものといわれています。元は賀茂神社のものでしたが、明治維新の神仏分離のときに移転されました。
なお、第57代住職森諦円(もりたいえん)は、昭和52年まで京都仁和寺の門跡を務めました。
(関連記事)“長宗我部元親が四国制覇の野望をいだいた山”  “三月三日に雛祭りをしない町
覚城院(仁尾城跡) 仁保城跡


●金光寺  MAP
 この寺には、細川頼弘公の墓があります。

●常徳寺  MAP
 室町時代初期の建造物で、四国では数少ない中世の禅宗様式の円通殿(えんつうでん)があります。また、裏庭にある雌雄異株のソテツは周囲3.5m、5枝に分かれ、高いものは5.3mあります。

●辻の札場  MAP
 晋門院(ふもんいん)の前にあり、丸亀蕃時代のお布令等を掲示した高札場です。江戸時代に建てられた木造本瓦葺き・切り妻造りで、棟の東西には京極家の家紋である四ツ目の瓦が置かれています。

●仁尾八朔人形まつり人形工房  MAP
(関連記事)“三月三日に雛祭りをしない町

●中津賀(なかつが)・境目(さかいめ)・中ノ丁(なかのちょう)の家並み
 江戸時代、仁尾は、醤油・酢・酒などの醸造業や綿花、茶、生糸等の生産と取引で大店が軒を並べ西讃の商工業の一中心地としての活況を呈し、「千石船見たけりゃ仁尾へ行け」とうたわれるほどでした。また、土佐藩主山内氏が参勤交代のため、仁尾の港を利用したといわれています。中津賀(なかつが)・境目(さかいめ)・中ノ丁(なかのちょう)には土蔵造や木造の古家が残っており、仁尾の街のかっての面影を見ることができます。

●吉祥院  MAP
 仁尾町仁尾丁にあるこの寺は、「四国讃州七福神」の一つで「吉祥天」だとされています。

●蔦島
・賀茂神社沖津宮  MAP
  京都の賀茂神社から最初に分祀されたところ。
・天狗神社MAP・姫岩神社 MAP  天狗神社には神楽石(男根)、姫岩神社には笑石(女陰)が祭られており、両方あわせて参拝すると家庭円満、夫婦円満にご利益があるといわれています。

●仁尾の平石  MAP
 蔦島の北側海中に浮かぶ東西約17メートル、南北約13メートル、面積200平方メートルの大岩です。俎岩(まないたいわ)ともいわれています。表面が平らなところから、丸亀藩主がこの岩の上で酒宴を開き、風流を楽しんだといわれています。

●小蔦島(こつたじま)貝塚
 小蔦島は仁尾町の西方約1キロの海中にある小島で、8000年以前は燧灘を背にした荘内連峰の山頂部でしたが、海水が浸入するとともに汽水域から内海へと姿を変えていきました。この島の東北部の半島状に突出した丘陵の上に貝塚があります。貝層の中には多種類にわたる貝殻のほかに蔦島式土器が石器とともに、その下層からは山形連続文土器や殻粒文土器が蔦島式土器や石器とともに出土し、原始的性格を示し、縄文式文化時代のしかも早期に営まれた遺跡で、県下に類例を見ない特異な貝塚です。また、貝塚から最深部に汽水域に生息する大和蜆の貝殻が採集され、縄文海進のプロセスが伺えます。
(関連記事)“瀬戸内の分水嶺だった瀬戸大橋架橋の島々

●履脱八幡神社  MAP
 「仁尾の竜祭り」は、青竹と稲わらで作られた長さ35m、重さ3tの雨乞い竜を約160人の人が担いで街を練り歩きます。この祭りの由来は、江戸時代、干魃の年に雨乞い行者として知られる和蔵(わぞう)が、雨を呼ぶと信じられていた竜を作って海に流せばよいという祈祷をしたので、藁で大きな竜を作り村内を練り歩き、沿道の人々が貴重な水をかけ海へ流したところ、念願の雨が降ったと伝えられています。
 寛政11年(1799)の夏、仁尾の村は稀にみる旱魃にみまわれました。困り果てた村人は笠岡村(現在の豊中町)に住む行者の和蔵に相談しました。和蔵は全国各地を巡り歩いて修行を積み、雨乞いにかけての霊験はつとに知られていました。和蔵の教えは、「藁で大きな竜を作り、それに伊予の黒蔵渕(くろぞうぶち)から汲んできた水を掛けて祈ればよい。」というものでした。黒蔵渕は、川之江の奥の院(仙竜寺)からさらに2里(8km)山奥に入った銅山川の支流にある雄淵(おんぶち)・雌淵(めんぶち)の2つからなる青緑色の水をたたえ周りをうっそうとした杉木立に囲まれた大きな淵で、古くから竜が棲むといわれていました。
 村人たちは早速、八幡様の境内にある雨の宮神社の前に集まってそれぞれが持ち寄った麦藁で大きな竜を作りました。そして、夜中に村の若者が仁尾を発ち、10里の道を必死に駆けて朝方に黒蔵渕に着くや、水汲みの神事を行い、一斗樽一杯に水を入れて帰路につきました。
 水の入った樽は、腰にしめ縄をつけ数人が一組になった若者たちによって交代で運ばれ、昼過ぎに仁尾にたどり着きました。途中で休むとそこで雨が降ったそうです。
 和蔵がその水を藁の竜に供えた後、若者たちがその竜を担ぎ、口々に「そーれ、竜に水あぶせ、竜に水あぶせ」と叫びながら村中を駆けめぐり、竜が家の前を通ると手桶に水を一杯入れて待ち構えた村人たちが水をあぶせました。そして、最後に竜は父母ヶ浜(ちちぶがはま)から海に流されました。
 その間、和蔵は、雨の宮神社の前でひたすら祈り続けました。すると、不思議なことにその夜妙見山に大きな黒い雲がもくもくと現れ、雷光とともに、やがて大粒の雨が降り出しました。
 それ以降、仁尾では大干魃の度に藁で作った竜による雨乞い神事が行われていましたが、昭和14年で絶えていました。その後、昭和63年、瀬戸大橋開通の年に復活しました。毎年8月の第一土曜日に「仁尾竜まつり」は開催されています。
 なお、仁尾から比地(豊中町比地)へ山越えする鞍掛峠は和蔵が開いたといわれ、峠の旧道沿いには和蔵が自ら建立したといわれる日本廻国供養塔が今も残されています。

●父母ヶ浜  MAP
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