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(150)“讃岐で密かに亡くなった悲運の皇子”

重仁親王廟

 院政の始まりは、平安時代後期の応徳3年(1086)、第72代白河天皇が当時8歳の善仁(たるひと)親王(第73代堀河天皇)へ譲位し、太上天皇(上皇)となって幼帝を後見するため白川院と称して引き続き政務に当たったことによるといわれています。嘉承2年(1107)に堀河天皇が没すると、その皇子で白河上皇の孫にあたる宗仁(むねひと)親王が4歳で第74代鳥羽天皇として即位します。しかし、政治の実権は祖父の白河上皇が握り続けます。その後、朝廷には「治天の君(ちてんのきみ)」と呼ばれた「院」(出家後は「法皇」といいます。)と天皇の二つの権力が競合併存し、それにともなって権力争いが複雑かつ熾烈化していくことになります。
 保安4年(1123)、白河法皇はまだ20歳の鳥羽天皇をむりやり退位させ、その皇子で法皇の曾孫にあたる顕仁(あきひと)親王を第75代崇徳天皇とします。当時、顕仁親王はわずか5歳でした。白河法皇は曾孫の顕仁親王を非常にかわいがっていたといわれ、それは、顕仁親王は鳥羽天皇と中宮待賢円院璋子(たまこ、権大納言藤原公実の娘)の間に生まれた第一皇子とされていましたが、その本当の父は曾祖父の白河天皇であったためではないかといわれています。顕仁親王は白河法皇と中宮璋子の密通によりできた子であるという噂が囁かれていたのです。譲位した鳥羽天皇は上皇となりますが、政治の実権は祖父の白河法皇が握ったままでした。このようなこともあり、鳥羽上皇は、崇徳天皇のことを、本当は自分の叔父にあたる人(鳥羽の父である堀河の弟)だということから、「叔父である自分の子」という意味で「叔父子」と呼んで忌み嫌っていたといいます。

 大治4年(1129)、76歳という長寿を全うした白河法皇が崩御し、42年間に及ぶ白河院政がようやく終わります。これを機に鳥羽上皇が院政を執り、政治の実権を握ることとなって情勢は大きく変わっていきます。
 保延5年(1139)に鳥羽上皇と後に美福門院(びふくもんいん)と呼ばれる権中納言藤原長実の娘得子との間に躰仁(なりひと)親王が生まれると、鳥羽上皇は躰仁親王を次代の天皇とするためにむりやりそのとき世継ぎのいなかった崇徳天皇の養子とします。ところがその翌年、崇徳天皇は兵衛佐局(ひょうえのすけのつぼね)との間に重仁(しげひと)親王をもうけます。
 永治元年(1142)、鳥羽上皇は躰仁親王が3歳になると、そのとき23歳だった崇徳天皇を退位させて躰仁親王を第76代近衛天皇として即位させます。崇徳上皇は「新院」と呼ばれ、受戒して法皇となった鳥羽上皇は「一院」と呼ばれました。
 しかし、近衛天皇は生まれつき病弱で、久寿2年(1155)、眼病を患ったことにより17歳で崩御します。そのとき、次の帝位の候補者としては、崇徳上皇の皇子である重仁親王(当時16歳)と、鳥羽法皇の第4皇子である雅仁(まさひと)親王(当時29歳)がいました。雅仁親王は、崇徳上皇の同母弟であり、近衛天皇の異母兄に当たります。皇統の順からすれば次は重仁親王が皇位に就くはずでした。また、重仁親王は英明の誉れが高かったのに対して、雅仁親王は若い時から今様などの芸能ばかりに熱中し、「遊芸の皇子」、「文にも非ず武にも非ず」などと評され、天皇としての資質に欠ける人物と見なされていました。このようなことから、重仁親王が第一候補とみられ、崇徳もそのように考えていました。
 ところが、鳥羽法皇は、崇徳上皇の血統を徹底的に排除し、雅仁親王を第77代後白河天皇として即位させ、しかも、その皇子である守仁親王(のちの二条天皇)を皇太子とします。重仁親王は、天皇の第一皇子として生まれたにもかかわらず、完全にその存在を無視されたわけです。自分の皇子を帝位に就け、院政を布くこと絶たれた崇徳上皇の怒りは心頭に達しました。

 保元元年(1156)7月2日、鳥羽法皇が53歳で崩御します。これを機にそれまでの27年間に及ぶ鳥羽院政に対する不満が公家衆、藤原一族の中から噴出し、鳥羽法皇の後継者である後白河天皇に対抗する勢力は、崇徳上皇を旗頭とし、両者の政治的緊張が一挙に高まります。こうして、鳥羽法皇が崩御した後、崇徳上皇と後白河天皇の兄弟対立に端を発した保元の乱が勃発しました。
 この戦いは後白河天皇一派の勝利に終わり、崇徳上皇は讃岐へ配流となります。しかし、その皇子である重仁親王は、寛暁の弟子として出家することを条件に許されます。
 崇徳院の讃岐における配流所は、最初は国府に勤める当地の庁官であった綾高遠(あやたかとう)の邸宅が仮の御所とされ、、やがてその近くの長命寺(ちょうめいじ)とされ、保元3年(1158年)年に国府のすぐ近くの鼓岡(つづみがおか)に造られた行在所(木の丸殿)とされました。
 その配流生活は、食事を運ぶ者以外の人は出入りを差し止められた軟禁状態で、座敷牢に閉じこめられているようなものでした。崇徳院の発言も守護の兵士から国府庁の役人に逐一報告され、厳重な監視の下にありました。

 重仁親王は、乱の後、仁和寺の華蔵院に入り剃髪して出家し、「空性」と称します。そして寛暁大僧正のもとで仏道に励みますが、足の病により応保2年(1162)に享年23歳で死去したといわれています。ただし、親王がどこで亡くなったかについては定かでないようで、長野県川上村には親王が落ち延びてきて隠棲したという伝承が残り、親王を祀る御霊宮(ごりょうのみや)が残っているそうです。
 讃岐に残る伝承では、重仁親王は、父の崇徳院が配流されてから3年後の平治年間、密かに行脚僧の姿となって父君である崇徳院の讃岐の配所を尋ねてこられたといいます。なお、この伝承は、江戸時代の宝暦6年、竹本出雲らの作による浄瑠璃「崇徳院讃岐伝記」の中で、崇徳院の御子である「千里の宮」が女装に身をやつしてひそかに父の居る讃岐へ潜行したという物語となって、上演されています。
 しかし、父子が一緒に暮らすことは到底かなわぬることであり、重仁親王は、綾高遠により密かに崇徳院の配所から東の方向にある檀紙村(現在の高松市檀紙町)にある薬王寺へ送られます。そして親王はそこで寺僧とともに起居し、応保2年1月に亡くなられたといわれています。崇徳天皇の崩御の2年8ヶ月前のことです。重仁親王はひどい頭痛に悩まされていたことから、その地は、以後頭痛よけの守り神となったといわれています。
 檀紙村の薬王寺は、江戸時代初めの万治年間に高松初代藩主松平頼公によって高松城下(現在の高松市番丁5丁目)に移転され、今もその境内には五輪五塔の重仁親王墓が残されています。また薬王寺があったといわれる高松市檀紙町には、今も「重仁親王廟」が残され、地元の人々によって守られています。その廟は、崇徳上皇が葬られている白峯御陵に向かって建てられています。
●訪れてみたいところ

○鼓岡神社  MAP
○高松市檀紙町にある重仁親王廟(弁天神社)と薬王寺庵  MAP
薬王寺(弁天神社) 重仁親王廟

○高松市番丁の薬王寺にある重仁親王墓  MAP
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テーマ : 香川
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