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(148)“瀬戸内の島に伝わる歌舞伎と文楽”


 歌舞伎は、徳川家康が征夷大将軍の宣下を受けた慶長8年(1603)に、出雲のお国が、派手な着物を着、男髷に髪を結い、長い刀を差した「傾き者」(かぶきもの)といわれる男の姿で踊ったのが始まりといわれています。これを「女(遊女)歌舞伎」といいますが、風紀を乱すということで、寛永6年(1629)に幕府から禁止されます。
 次いで少年が女装した「若衆歌舞伎」が登場しますが、これも承応元年(1652)に「禁止され、4代将軍徳川家綱の時代の承応2年(1653)、前髪を剃り落とした成人の髪型(野郎頭)になること、物真似狂言尽(ものまねきょうげんづくし)に徹することを条件に再開が許可されます。これを「野郎歌舞伎」といい、この形態が今に至る歌舞伎の原形となっています。
 歌舞伎が興行として定着したのは、元禄時代(1688~1703)の頃だといわれていますが、それはまだ、江戸、京、大坂に限られており、地方でも興業されるようになるのはもっと後のことです。ちなみに、金毘羅大芝居が完成し、こけら落としが行われたのは、江戸後期の天保6年(1835)のことです。

 小豆島は、「オリーブの島」とか「醤油の島」などとして知られていますが、古くから農村歌舞伎が盛んなところで、「歌舞伎の島」ともいうべきところです。
 小豆島では、元禄時代前の貞享3年(1686)、すでに、現在の土庄町肥土山(ひとやま)において、灌漑用のため池・蛙子池(かえるごいけ)が完成したのを祝して、地元民により、離宮八幡神社の境内に仮小屋が建てられて芝居が上演されています。また、6代将軍・家宣の時代の正徳2年(1712)に、内海の葺田(ふきた)八幡神社境内で芝居が上演されたという記録が残っています。ちなみに、高松市香川町東谷にも、祇園座という農村歌舞伎が残されていますが、この地区で演じられるようになったのは、江戸後期の安政年間(1854~1860)の頃だといわれています。
 このように、小豆島では既に江戸時代前期に歌舞伎が演じられていたというのは、小豆島には上方の情報や物が短時間で伝わっていたということでしょう。これは、小豆島は、播磨灘を越え明石海峡を過ぎるとすぐに大坂に至るという地理的位置にあり、船で直接行き来することができるという海上交通の便に恵まれていたこと、また、江戸時代には、幕府直轄地として大坂奉行の管轄にあり、天領地では庶民が娯楽を楽しむことに寛大であったことなどによるものと考えられます。
 小豆島と大坂とは、古くから人的、物的な交流があり、深い結びつきがありました。例えば、島の若者は、年頃になると、女性は行儀見習い、男性は丁稚奉公・弟子奉公として大坂へ行く慣習があったといいます。また、醤油、素麺、石、塩といった島の産物の多くが大坂へ運ばれています。小豆島の農村歌舞伎も、上方と小豆島との結びつきから生まれたものでしょう。

 小豆島全島に歌舞伎が広がっていったのは、江戸時代後期、19世紀前期の文化・文政年間以降だと考えられています。それは、いわゆる祭典芝居といわれるもので、地元の氏神様の祭りのときに、氏子達が中心となって奉納芝居として演じられるものでした。芝居舞台も、そのほとんどが神社境内敷地の社殿と向きあった場所で建てられています。
 しかし、島の人たちは全く宗教的動機だけで芝居を演じたのではなく、当時、氏神様の祭りは庶民の大きな娯楽だったことからすると、娯楽的として芝居を演じ、鑑賞したものと思われます。小豆島の人は、お伊勢参りに行ったときには、大坂で芝居見物をしてから帰るなど、上方の文化に直接接し、馴染んでいたといわれており、芝居を楽しむという習慣が当時すでに定着しており、その文化的高さを伺い知ることができます。

 幕末の安政3年(1856)には、上方役者の坂東いろはが来島して肥土山に住み着き、また、後に、その弟といわれる初代嵐璃當(あらしりとう)も大坂の大火で衣装を失ったため安田に着て住み着いたといわれており、彼らの指導により小豆島農村歌舞伎は磨きがかかり洗練されたものになっていきました。また、その演目も、「伽羅先代萩」、「仮名手本忠臣蔵」、「義経千本桜」などといった名作定番だけでなく、「清水騒動雪降新形」、「星ヶ城古跡の石碑」、「島義罠伝平井兵左衛門」など「島出来」(しまでき)という小豆島の事件から取材した独自のものが作られるようになっていきました。
 こうして、小豆島における農村歌舞伎は、幕末から活況を呈し、明治・大正の隆盛期を経て昭和の初年まで、島全体で舞台が33棟、衣装が1000点以上、鬘(かつら)が200個以上、根本(ねほん)が1000冊以上あり、俳優が600~700人いたといわれています。
 芝居は舞台だけでなく、各村の神社境内地や浜辺などの空き地に掛け小屋を作り、祭礼や縁日を主として、後援者の厄年・還暦の祝い芝居なども行われ、毎日島のどこかで上演しているというほど盛況でした。中には一座を組んで岡山児島方面に買われていくこともあったようです。この頃の小豆島では、観客が割盒(わりご)弁当を開き、酒を酌み交わしながら見物するという風景がいたるところで見られました。
 このように小豆島の農村歌舞伎は、300年あまり前から根付いてきた島の文化であり、現在でも、土庄町肥土山と池田町中山の2つの舞台において、毎年恒例の上演が催されています。

 小豆島の近くの直島(なおしま)でも、江戸時代から、歌舞伎や能、人形浄瑠璃などが盛んに上演されていました。本村地区の城山(しろやま)には間口13間(約23.7メートル)、奥行き8間(約14.6メートル)の回り舞台、セリ、囃子座(はやしざ)、スッポンなどのついた豪華な歌舞伎の舞台があり、島の一座により歌舞伎が上演されると、中国・四国、遠くは関西方面からも観客が訪れ、港はその人達の船で何重にも埋められるほどであったといいます。
 このように直島で芸能が盛んであったのも、瀬戸内海を通じて外の世界とつながり、また天領地であったとこから自由な気風があったことによるものと思われます。
 特に文楽は「デク芝居」として人気があり、八十八夜の鯛網の頃には、島の網元が淡路島から人形浄瑠璃の一座を呼び寄せ、琴弾の浜で上演されていたといいます。さらに見物するだけでは飽き足らず、島の人自身が人形を所有し、演じていました。最盛期の天保年間(1830~44)には、島内に、下津(かけ)、乾(なかや)、高田(きったいどん)、山名(ぎざえもん)の4家が人形の頭を所有し、一座を組んでいました。
 しかし、明治6年、阿波へ文楽の人形を買いに行った帰途、小豆島沖で船が難破し、5人中2人が死亡するという不幸が起き、それが原因で文楽熱は廃れていったといいます。こうして、明治・大正・昭和の3代にわたって文楽は途絶えましたが、昭和23年から青木ツタ、下津カツノらの女性が人形芝居の稽古を始めたことにより復活し、女ばかりの「直島女文楽」一座が誕生しました。昭和34年、県無形文化財となり今日まで受け継がれています
 なお、直島以外でも、讃岐には高松市円座町に「香翠座(こうすいざ)人形」、三豊市三野町大見に「讃岐源之丞(げんのじょう)人形」が伝わっています。


●訪れてみたいところ

○肥土山の舞台
 肥土山(ひとやま)は、土庄町の中央部、南を大麻山、北を仙多公峰(せんたくぼう)に挟まれ、伝法川とその支流殿川の合流した地域です。
 肥土山の舞台は、氏神の離宮八幡神社の境内にあり、現在のものは明治33年に行った5回目の改築によるものです。間口17メートル、奥行き8.8メートルの寄せ棟造りです。高座(見物席)2棟、衣装倉1棟、約884平方メートルの桟敷を備えています。
 今も年に一度、5月3日の例祭に上演されています。

○中山の舞台
 小豆島町池田の中山にあります。中山の舞台は、氏神の春日神社境内にあり、現在のものは天保元年(1830)に改築されたものといわれています。間口12メートル、奥行き8メートル、茅葺・本瓦葺の寄せ棟造り。この舞台は、初代の金毘羅大芝居(金丸座)の規模と様式に合わせているといわれています。
 回り舞台、ブドウ棚、二重台、スッポン、セリを装備。かつての回り舞台は牛で回転させたとか。花道は上演の際に設置され、奈落は一部楽屋に。所蔵の衣裳も五百数十点を数え、かつら、ふすまなど、数々の大道具、小道具を備えています。今も、毎年10月3日の例祭に上演されています。

○池田の桟敷
 小豆島町池田の亀山八幡宮から400mほど離れたところにあります。長さ80m・高さ約18m(6~8段の階段)の切石積です。江戸末期安政6年(1859)以前の築造と考えられています。亀山八幡宮の祭礼は10月16日です。

○四国村
 小部にあった舞台が四国村に移築されています。

○直島の城山
 本村にあります。戦国時代末期から安土桃山時代にかけて活躍した高原氏の居城があったところです。高原氏は、豊臣秀吉に仕え、島津征伐や文禄・慶長の役では塩飽水軍とともに、輸送や水先案内を務めたといわれています。江戸初期に改易され、その後直島は天領地となります。
 城山には、歌舞伎の舞台として間口約23.7m・奥行約14.6mの回り舞台、セリ、囃子、スッポンなどのついた舞台がありました。

○若山牧水歌碑
 大正10年(1921)初夏、若山牧水は、岡山の友人に誘われて鯛網見物に直島を訪れています。このとき牧水が詠んだ「ことひきの浜の松風静けしと 聞けば沖辺を雨過ぐるなり」の歌碑が琴弾の浜に建っています。またそのときの体験を「島三題」にしたためています。

 「 いま一度、私は瀬戸内海の島に渡って行ったことがある、備前の宇野港から数里の沖合に在る直島というのへ。
 夏の初、ややもう時季は過ぎていたがそれでもまだ附近の内海では盛んに名物の鯛がとれていた。その鯛網見物にと、岡山の友人I君から誘われて二人して出懸けたのであった。直島附近は最もよく鯛漁のあるところと云われているのだそうだ。
 附近に並んでいる幾つかの島と同じく、直島も小さな島であった。名を忘れたが、島の主都に当たる某村に郷社があり、その処の神官M氏をI君は知っていた。そして宇土網の周旋を頼むためにこんもりと樹木の茂った神社の下の古びた邸にM氏を訪ねて行った。
 M氏は矮躯赭顏(わいくしやがん。背が低く、赤ら顔。)、髮の半白な、元気のいい老人であった。そして私は同氏によってその島が崇徳上皇配流の旧蹟で、附近の島のうちでも最も古くから開けていた事、現にM家自身既に十何代とかこの処に神官を続けて来ている事等を聞いた。内海の中に所狭く押し並んでいる島々のうちにも、旧い島新しい島の区別のあることが私には興深く感ぜられた。
 『では、参りましょう。網は琴彈(ことひき)の浜という所で曳くのですが、途中を少し廻って上皇の故蹟を見ながら参りましょう。』
 『でも、たいへんではありませんか。』
 『いいえなに、島中くるりと廻っても半日とはかかりませんからな、ハハハ。』
 私も笑った。その小さな島にそうした歴史の残っていることがまた面白く感じられた。多分、船着場や潮流のよしあしなどの関係から出ていることであろうとも思った。
 邸の前から漁師の家の間を五六十間も歩くと直ぐ山にかかった。とろところ登りの坂ではあったが早くも汗がしみ出た。晴れてはいても、空には雲が多かった。
 『あそこに見えますのが……』
 杖をとって先に立っていた老人は立ち止った。まばらに小松が生え、下草には低い雑木が青葉をつけ、そしてところどころそれらが禿げて地肌の赤いのを露(あら)わしている様な山腹を登っていた時であった。老人にさし示されたところは我等より右手寄りの谷間に当たってその処ばかり年老いた松が十本あまり立ち籠っていた。
 『上皇のお側に仕えていた上臈(じょううろう)が後を慕って島へ渡って参り、程なく身重になった。で、身二つになるまであそこの谷間に庵を結んで籠っていたと云い伝えられている処です。』
 むんむと蒸す日光の照りつけたその松林にははげしい蝉時雨が起っていた。
 『そうして生みおとされたお子さまなどは、どういうことになったのでしょう。』
 『さあ、どうなられましたか……、まだほかに上皇の姫君も父君のお後を慕って参られましたが、どうしたわけか御一緒においでずに、この処とは別な谷間に上臈と同じく庵を結んで居られたと申します。』
 程なくその島の背に当たっている峠を越した。そして少し下った処に崇徳上皇を祭ったお宮があった。あたりは広い松林で、疎ならず密ならず、見るからに明るい気持がした。お宮もまた小さくはあったががっしりした造りで、庭も社殿も清らかな松の落葉で掩(おお)われていた。ことにいいのはその処の遠望であつた。眼下の小さな入江、入江の澄んだ潮の色、みないかにも綺麗で、やや離れた沖の島の数々、更に遠く眺められる四国路の高い山脈、すべてが明るく美しく、それこそ絵の様な景色であった。
 その処から二三丁下ったところに所謂行宮(あんぐう)の跡があった。その処も前の上臈(じょろう)の庵の後と同じく小さな谷間、と云っても水もなにもない極めて小さな山襞(やまひだ)の一つに当たっていた。松がまばらに立ち並び、雑木が混っていた。平地と云っても、ほんの手で掬(すく)うほどの広さでM氏に言われるままに注意して見るとその平地が小さく三段に区分されているのが眼についた。それぞれの段の高さおよそ三四尺づつで、茂った草を掻き分けて見ると僅かにその処に石垣か何かの跡らしいものが見分けられた。
 段々になった一番下の所に警護の武士の詰所があり、二番目が先ずお附の人の居た場所、一番上の狭い所が恐らく上皇御自身の御座所ででもあったろう、というM老人の解釈であった。とすると、御座所の御部屋の広さは僅かに現今の四畳半敷にも足りない程度のものであったに相違ないのである。そして、一番下の警護の者の詰所から十間ほどの下には、黒い岩が露われて波がかすかに寄せていた。あたりを見廻しても険しい山の傾斜のみで、この処のほかには一軒の家すら建てられるべき平地が見当たらない。同じ島のうちでも、全然家とか村とかいうものから引離された、こうした所を選んで御座所を作ったものと想像せられるのであった。こういう窮屈な寂しい所に永年流されておいでになって、やがてまた四国へ移され、その処で上皇はおかくれになったのだったという。
 その処から路もない磯づたいを歩いて入江に沿うた一つの村に出た。玉積の浦というた。その処を右に切れて田圃を拔けるとまた一つ弓なりに湾曲した穏かな入江があり、広々とした白砂の浜を際どって一列の大きな松の並木が並び、松の蔭に四五軒の漁師小屋があった。その処が名にふさわしい琴弾の浜というのであった。
 丁度、昼前の網を曳きあげたところであったが、一疋の鯛もかかっていなかった。次の網は午後の三四時の頃だという。途方に暮れて暫らく松の蔭に坐っていたが、やがてM老人は急に立ち上って漁師共の寄っている小屋へ出かけて行った。そしてにこにこと笑いながら帰って来た。
 『ええことがある、今に仰山な鯛を見せてあげますぞ。』
 老人からこっそりとわけを聞いてI君も踊り上って喜んだ。そして時計を出して見ながら、
 『早う来んかのう。』
 などと幾度となく繰返して私の顏と沖の方とをかたみがわりに眺めて笑っていた。その間に老人は 一人の漁師を走らせて酒や酢醤油をとり寄せた。
程なく右手に突き出た岬のはなの沖合に何やら大きな旗をたてた一艘の発動機船の姿が見えた。
 『来た来た。』
 そう叫びながら漁師たちは惶(あわ)てて小舟を浜からおろした。解(わけ)のわからぬままに私も促されてそれに乗った。二人は漕ぎ、一人はせっせと赤い小旗を振っていた。
 入江の中ほどに来ると、その発動機船は徐ろに停った。我等の小舟はそれを待ち受けていて、漕ぎ寄するや否や一斉に向うに乗り移った。私もまた同樣にそうさせられた。そして、引っ張られてとある場所にいき、勢いよくさし示された所を見て思わず声をあげた。
 この大型の発動機船の船底はそのまま一つの生簀(いけす)になっていた。そしてその処に集めも集めたり、無数の鯛が折り重なって泳いでいるのである。I君は機船の人に問うた。
 『なんぼほど居ります。』
 『左様千二三百も居りますやろ。』
 おお、その千二三百の大鯛が、中には多少弱っているのもあったが、多くはまだいきいきとして美しい尾鰭(おびれ)を動かして泳いでいるのである。
 その中から二疋を我等はわけて貰うた。小舟の漁師たちと機船の人たちとの間に何やら高笑いが起っていたが、やがて漁師たちは幾度も頭をさげて小舟へ移った。機船は直ぐ笛を鳴らして走り出した。聞けば彼女はこの瀬戸内の網場々々を廻って鯛を買い集め、生きながら船底に囲うて大阪へ向けて走るのだそうである。
 浜の松の蔭では忽ちに賑やかな酒もりが開かれた。うしほ(潮汁のこと)に、煮付、刺身に、塩焼に、二疋の鯛は手速くも料理されたのである。
 いつか夕方の網までその酒は続そいた。そして食する漁師達の網にどうしたしやれ者か、三疋の鯛がかかて来た。よれつもつれつ、我等三人は一疋づつその鯛を背負うて、島の背をなす山の尾根づたいの路を二里ばかりも歩いた。歩いているうちに月が出た。折しも十五夜の満月であった。峠から見る右の海左の海、どこの海にも影を引いて数多の島が浮かんでいた。斯(か)くて今朝早朝に発動船で着いた船着場とは違った今一つの港に着いて、その処から一艘の小舟を雇い、漕ぎに漕がせて宇野港へ帰りついたのは夜もよほど更けていた。可哀相に、その処まで送って来てくれたM老人はその処からまた島まで一人で帰るのであった。昼間の酒をほどほどに切り上げて午後の定期の発動船に間に合う様に老人の村まで帰って居ったらばこうした苦労はせずとも済んだであったのに。 」
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