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(147)“漂泊の俳人が終焉を迎えた島で生まれた二十四の瞳”

 瀬戸内海に浮かぶ小豆島は、「アヅキジマ」の名で「古事記」の国生み伝説にも登場する古い歴史をもち、海上交通の要衝であったことから各時代に様々な文化が入り込み、その温暖な気候と風光明媚さともあいまって、歴史と自然が織り成す一つの小世界としての独特の風土をつくっています。
 その小豆島の風土に引き付けられるかのように、島外の人々は、憩いと安らぎを求めて訪れてきます。大正末期、安住の地を求めてやって来た漂白の俳人尾崎放哉もその一人でしょう。
 しかし、小豆島で生まれ育った若者が、何か新しいものを求めようとするときには、その風土の重さは桎梏と感じられ、彼らは島外へ羽ばたこうとするのでしょう。小豆島が生んだ壺井繁治(しげじ)、黒島傳治(でんじ)、壺井栄の3人の文学者もこのような若者だったのでしょう。繁治は厳しい国家弾圧の下で詩を書きつづけ、傳治はプロレタリア文学の旗手として名作を次々と発表しました。中でも、栄は、その代表作「二十四の瞳」で小豆島を全国に知らしめました。
 日本近代文学史に記されるこの4人にまつわる物語や遺品などが、小豆島には多く残されています。

 小豆島は、自由律俳句の鬼才といわれた尾崎放哉が終焉を迎えた地です。自由律俳句は、約束ごとや制約に縛られない自由な表現という思想から、五七五の定型句や季語などにとらわれず生活感情を詠い込んだ俳句です。明治時代後期に荻原井泉水(はぎわらせいせんすい)が俳誌「層雲」を主宰し確立されたといわれており、大正時代になると尾崎放哉、種田山頭火がその代表的な俳人として登場します。
 放哉は、大正14年(1925)年8月、40歳のとき、京都から小豆島にやって来て、土庄の西光寺奥の院の南郷庵(みなんごあん)の庵主として入り、翌年4月7日に病没するまでの8ヶ月間居住しました。その間に自由律俳句200余句を創作しています。
 しかし、この放哉の来島は、著名な作家が創作活動に打ち込むために新たな環境を求めたというようなものではなく、社会的地位や金も家族も捨て身体を病んだ世捨て人が死に場所を求めて辿りつたとどのつまりでした。その臨終は、庵の近くに住む漁師の妻、南堀シゲだけに看取られた孤独で寂しいものでした。

 侘しい人生の終焉を迎えた放哉ですが、その途中までは、多くの人が羨望する典型的な秀才エリートの道を歩んでいました。
 放哉は、本名を尾崎秀雄といい、明治18年(1885)年1月20日、鳥取県邑美郡(現鳥取市)吉方町に生まれます。父は裁判所書紀官をしていました。当時、優秀な若者にとっては、「末は博士か、大臣か」といわれたように、勉学に励み、官僚や学者になることが立身栄達の道でした。放哉もごたぶんにもれず、この道を進み、鳥取県立第一中学校を経て、第一高等学校(現在の東大教養学部の前身)そして東京帝国大学法学部へと進みます。秀才として親や親類からも将来の出世を大いに期待されていたと思われます。
 しかし、放哉は、もともと、法律の勉強や官僚の仕事にはあまり興味がなかったようです。大学時代には「ホトトギス」や「国民新聞」の俳句欄にしきりに作品を投稿していたといいます。大学も追試験で卒業し、東大同級生の多くの者が権力の座を目指して官僚の道を選ぶのに対して、通信社を経て生命保険会社に就職します。
 そこでは、管理職としてそれなりに仕事をこなしていたようですが、会社組織の中で上手く立ち回れないのか、酒に溺れ人間関係の不都合から35歳のとき退職します。その後、職を得て朝鮮へと渡りますが、そこでも酒による奇行により不都合を生じ約1年で退社し、旧満州に移り肋膜を病んで入院治療の身となります。

 退院後、大正12年(1923)年秋に帰国しますが、すでに身体は酒と病でボロボロになり、普通の社会生活は困難になっていたのでしょう。放哉は妻と財産のすべてを捨て、京都にある修養団体の一燈園に身を寄せ、読経と托鉢、労働奉仕の日々に入ります。38歳のときです。
 その後、京都知恩院の常称院、兵庫県西須磨の須磨寺、福井県小浜町の常高寺と、堂守や寺男をしながら寺院を転々とし、再び京都に舞い戻ってその頃京都に居た荻原井泉水を頼ります。井泉水は一高の一級先輩で、俳句の上での師匠でもありました。
 井泉水は、かつて小豆島に来島したことがあり、そのときの縁で地元の「層雲」同人井上一二(いちじ)に放哉の世話を頼みます。こうして、土庄の西光寺の住職をしていた杉本宥玄の好意で南郷庵の庵主として入ることになったわけです。放哉は、やっと安住の地を得ることができたそのときの心境を、「これでもう外に動かないでも死なれる」と詠っています。「春の山のうしろから煙が出だした」が辞世の句となりました。放哉を慕う山頭火は、昭和3年、14年の2度にわたり、放哉の墓参りに小豆島を訪れています。

 一方、放哉が小豆島にやって来る半年前の大正14年(1925)2月、岩井栄という一人の若い女性が島を去っています。後に、「二十四の瞳」などを発表して一世を風靡する女流作家となった壺井栄です。
 壺井栄は、明治32年(1899)8月5日、醤油の樽職人である岩井藤吉、妻アサの五女として小豆郡坂手村(今の小豆島町坂手)に生まれます。幼少の頃、蔵元が倒産したことで家計が傾き、他家の子守や内職をしながら小学校へ通うなど苦労を重ねますが、大正2年(1913)14歳で内海高等小学校を卒業し、その後、村の郵便局、村役場に勤めます。この頃、同郷の壺井繁治(しげじ)、黒島傳治(でんじ)との交流から文学への強い関心を抱いていたようです。

 壺井繁治は、栄より2つ年上で、小豆郡苗羽村(現在の小豆島町苗羽)の出身です。栄とは遠縁にあたります。生家は村でも有数の農家であり、また網元でした。小学校を卒業すると、地元の内海実業補習学校(現小豆島高校の前身)に入学しましたが3年で退学し、大正2年に大阪の私立上宮中学2年に編入します。大正7年、上京して早稲田大学に学びますが、中退し、アナキスト詩人として左翼系の文学雑誌の出版などに携わっていました。
 黒島傳治は、壺井繁治より1つ年下、壺井栄より1つ年上で、繁治と同じ苗羽村の生まれです。貧しい半農半漁の家庭に生まれて網引きや醤油工場で働いていましたが、大正7年19歳のとき、文学を志して上京し、同郷の壺井繁治に出会い、その世話で、翌年、中学を経ないで進学できる早稲田大学選科に入学します。しかし、選科には徴兵猶予がなく12月学業半ばにして召集され、シベリアへ出兵し、そこで肺を患って大正11年(1922)内地へ送還されて除役となり、いったん療養のため小豆島に戻っていました。

 大正14年2月、栄は、26歳のとき、村役場を辞め、壺井繁治をたよって上京します。そして、結婚して世田谷・三宿の小さな貸家で新生活を始め、4月には世田谷・太子堂の二軒長屋に移ります。この年の初夏には、黒島傳治も再度上京し、壺井夫婦宅に一時寄宿しています。当時、小豆島では、文学をやる人間は国賊のようにいわれていたようです。栄と傳治が島を出たのは、ここに居ては好きな文学をやることができないという思いがあったのでしょう。
 栄が世田谷・太子堂に住んでいた頃、二軒長屋の隣には林芙美子、近所には平林たい子の夫婦が住んでおり、共に夫がアナキスト詩人だという親近感からか、互いに生活を助け合い、文学的な影響を受け合ったようです。
 しかし、栄の東京での生活も厳しいものでした。大正14年12月には、小豆島の母が亡くなり、妹2人と兄の子1人を引き取っています。また、昭和2年から9年頃にかけては、軍国化の流れの中で、夫の繁治が、左翼系の思想犯として数回検挙されて入出獄を繰り返していたため、事務員の仕事や筆耕の仕事をして生活を支えていました。
 故郷の小豆島も壺井夫婦には冷たかったようです。昭和3年、帰島中の夫が高松警察に拘留されて小豆島の実家から親戚宅まで家宅捜査を受けたときは、親類らから国賊と罵られたといいます。

 一方、黒島傳治は、大正15年に「二銭銅貨」・「豚群(とんぐん)」を「文芸戦線」に発表します。昭和2年の日本プロレタリア芸術連盟の分裂に際しては、労農芸術家連盟の創立に加わり、後には日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)に参加して、ナルプ内の農民文学研究会の主要メンバーとして活躍します。そして、シベリアでの軍隊生活の体験から、この年、「雪のシベリア」・「橇(そり)」・「渦巻(うずま)ける烏(からす)の群(むれ)」・「国境」などの、すぐれた反戦作品を生み出します。しかし、昭和8年、35歳のとき、病気療養のため再び小豆島へ帰ります。

 昭和10年頃から栄は、童話、短篇小説を書き始めます。そのきっかけは、繁治が左翼系機関誌「戦旗」の発行責任者となり、その編集・経営を手伝ううちに、昭和7年頃から窪川稲子(後の佐多稲子)や宮本百合子と知り合い、親しく交わるうちに書くことを勧められたようです。
 栄は、昭和13年(1938)39歳のとき、処女作「大根の葉」を文芸に発表し、作家としてデビューします。そして、昭和15年41歳のときには、「暦」・「赤いステッキ」を発表し、翌年第4回新潮文芸賞を受けます。
 なお、小豆島に帰っていた黒島傳治は、10年近く闘病生活を過ごし、戦争たけなわの昭和18年10月17日、小豆島芦ノ浦の自宅で亡くなっています。享年45歳でした。

 戦後、栄の作家活動はさらに磨きがかかり、昭和22年(1947)48歳のときには「浜辺の四季」・「妻の座」を発表します。そして、昭和27年(1952)53歳のときに「二十四の瞳」を発表します。この作品は、昭和29年に木下惠介監督・高峰秀子主演で映画化され、一躍脚光を浴びます。なお、昭和27年に「坂道」、「母のない子と子のない母」で芸術選奨文部大臣賞を、昭和30年に「風」で第7回女流文学賞を受けます。
 栄は、300篇にのぼる作品を発表していますが、これらは、東京の生活の中から生まれたものもありますが、小豆島を描いたものも多いといわれています。苦しい東京での生活の中でも、故郷への思いは離れることはなかったようです。好きだった言葉は、「桃栗三年 柿八年 柚子の大馬鹿 十八年」といわれています。柚子(ゆず)と自分自身の遅咲きを重ね合わせていたようです。
 栄は昭和42年6月23日67歳のとき、繁治は昭和50年9月4日77歳のときに亡くなり、二人は東京の小平霊園で眠むっています。

●訪れてみたいところ

○西光寺
 島四国霊場第58番札所。土庄の街の中にあり、うしろの岡に三重塔(誓願の塔)があります。境内には大銀杏と、その下に「尾崎放哉種田山頭火句碑」があります。
    尾崎放哉種田山頭火句碑
        咳をしても一人            放哉
        その松の木のゆふ風ふきだした  山頭火
 放哉の句は、南郷庵で詠んだ代表的なものです。山頭火の句は、放哉の墓参りをしたときに詠んだ句の1つで、「その松の木」とは、放哉が住んでいた南郷庵の松の木を指すといわれます。二人の句の真ん中に、二人の師匠である荻原井泉水の絵が添えられています。

尾崎放哉記念館
 西光寺から南方向へ200メートルのところに建っています。記念館は西光寺の奥の院・南郷庵(みなんごあん)を復元した建物です。なお、吉村昭が「海も暮れきる」で方哉の生涯を描いています。
 尾崎放哉句碑  記念館内前庭に、「いれものがない両手でうける」と刻んだ放裁の句碑があります。

○本覚寺・荻原井泉水句碑
 荻原井泉水・桂子夫妻は、大正9年4月、島に20日ほど滞在し、小豆島を第二の故郷のように愛していました。土庄町渕崎にある島四国霊場第53番札所本覚寺の梵鐘には、「水や花やさきあふれみちたたへ 地は青しはや清風の草の丈 空を歩む朗々と月山とり 火よあした雪ふりさかりもえさかる」という井泉水の春夏秋冬の句が鋳込まれています。梵鐘の下には、井泉水の句碑と桂子夫人の句碑が並んで置かれています。
     ほとけをしんず むぎのほの あおきしんじつ  井泉水
     夕べとなれば 風の出る山荘よ ともしび    佳子

○平和の群像
 「二十四の瞳」の12名の生徒たちが大石先生を取り囲んでいる群像で、土庄港に立っています。昭和29年の木下恵介監督、高峰秀子主演による映画化を記念し、昭和31年11月10日に除幕されました。香川県丸亀市出身の彫塑家・矢野秀徳の作品で、大石先生の顔は高峰秀子にそっくりです。また像の背の高さは、周囲の風景に調和するよう後ろに見える皇踏山(おうとざん)の山並みと稜線が同じになっています。題字の「平和の群像」は当時の内閣総理大臣・鳩山一郎、碑文は当時の文部大臣・大達茂雄によるものです。

二十四の瞳映画村
 小豆島町内海の田浦にあり、昭和29年と昭和62年の2度にわたって映画化された小説「二十四の瞳」をテーマとするテーマパークです。昭和62年映画化のときのロケで使用された「岬の分教場」と大正から昭和初期の民家、男先生の家、漁師の家、茶屋、土産物屋などのオープンセットが展示されています。そのほか、敷地内には、壺井栄文学館や1950年代の映画をテーマとする「キネマの庵」もあります。

壺井栄文学館
 二十四の瞳映画村内にあります。かつて壺井栄が住んでいた自宅のいろりの間、応接の間などを再現し、愛用していた調度品や身の回り品、小説「二十四の瞳」の生原稿、色紙類、眼鏡、万年筆、出版本、また映画のポスターなどが展示されています。壺井繁治と黒島傳治のコーナーもあります。

○旧田浦尋常小学校
 映画村の近くに、「岬の分教場」の原型となった旧田浦尋常小学校(苗羽小学校田浦分校)が現存しています。この建物は、明治35年の開校から昭和46年の閉鎖まで70年間、村の小学校として使用された切妻瓦葺平屋建校舎(教員住宅を含む)です。

壺井栄生家・壺井栄文学碑
 生家は坂手港の近くにあります。その向いの丘に、没後3年目の昭和45年、「桃栗三年 柿八年 柚子の大馬鹿 十八年」の文学碑が建立されました。除幕式には、親交のあった中野重治・佐多稲子・木下恵介らがかけつけました。

○壺井繁治詩碑
 昭和59年、小豆島町内海の堀越の生家の裏にある旧堀越分校跡地に、「石は 億万年を黙って 暮らしつづけた その間に 空は晴れたり 曇ったりした」と刻まれた詩碑が建立されました。

○黒島伝治文学碑
 昭和40年、小豆島町内海の苗羽に、「一粒の砂の千分の一の大きさは世界の大きさである」と刻まれた碑が建立されました。
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