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(146)“承久の乱で明暗を分けた讃岐藤家”

 
 武士の起源は、古代律令制国家が崩壊していった10世紀から12世紀にかけて、在庁官人、郡司、荘官ら地方に土着した者たちによって形成されていった武装集団だといわれています。彼らを国人ともいいますが、讃岐の代表的な国人は、讃岐氏、讃岐橘氏、讃岐藤原氏の3つの一族です。
 讃岐氏は、神櫛王(かんぐしおう)の子孫だといわれ、三木・寒川両郡で勢力を張り、その一族は寒川、高松、三木、神内、植田、池田、十河、三谷、由良、村尾らの諸氏に分かれていきました。
 讃岐橘氏は、藤原純友を捕らえた警固使橘遠保(たちばなとおやす)の子孫で、荘内半島を中心に勢力を張り、長尾、海崎(みさき)、真部らの諸氏に分かれていきました。
 讃岐藤原氏は、阿野・香川2郡を中心に勢力を張り、羽床、香西、大野、福家、西隆寺、新居、豊田、柞田、柴野、植松、三野、阿野、詫間らに分かれていき、その一族は讃岐藤家(ふじけ)六十三家と呼ばれました。
 これら、3つの一族のうち、讃岐で最も有力な武士団となったのが讃岐藤原氏です。その初代は、藤太夫章隆(とうのたいふあきたか)といい、父は、平安時代末期の保安元年(1120)に讃岐守となって京から下向してきた正二位中納言・藤原家成(いえなり)です。家成は、藤原北家中御門流の公家で、平清盛の義母である池禅尼の従兄弟にあたり、鳥羽上皇に仕えたといわれています。母は綾大領貞宣(あやのかみさだのぶ)の娘で、綾氏は日本武尊の息子である武殻王(たけかいこおう)の末孫といわれ、代々阿野(あや)郡の大領(だいりょう、郡司のこと)を務めていた豪族です。
 章隆は成人して父方の藤原氏を名乗って藤太夫(とうのたいふ)と称し、綾の大領となります。その息子が讃岐藤原氏二代目の資高(すけたか)で、資高は治承年間(1177~81年)に羽床(はゆか)の庄司(しょうじ)となり、下羽床に居を構えて菅原、滝宮、小野、北村、羽床下、羽床上、牛川、西分、東分の9か村を治めます。そして、地名をとってはじめて羽床氏を称します。この羽床氏が讃岐藤家六十三家の嫡流です。
 資高には息子が生まれ、次男の有高は香東郡大野郷を本拠とする大野氏の租となります。三男の重高は羽床氏を継ぎ、のちにそこから、豊田氏、柞田(くにた)氏、柴野氏などが分流していきます。四男の資光(すけみつ)は阿野郡新居(にい)郷を本拠とし、新居氏を称します。
 資高の息子たちの中でも新居資光は、源平合戦の際、讃岐の藤原・綾両家の一族一千人を率いて源氏につき、寿永2年(1183)の備中水島の合戦で活躍し、さらに京に上って院の警護に当たり、寿永4年(1185)の屋島の戦いでは、義経の陣に加わって戦功を挙げ、頼朝から感状を受けて綾郡を安堵されたといわれています。そして、のちに新居氏から香西氏、福家氏、西隆寺氏が分かれていきます。

 建久3年(1192)鎌倉幕府が成立すると、京都を中心に西国を統治する朝廷と、鎌倉を中心に東国を統治する幕府が並立し、幕府が朝廷を抑える状況になりました。これに対して、後鳥羽上皇は、幕府に対して強い不満を抱きます。後鳥羽上皇は後白河法皇の皇孫に当たり、祖父譲りの智謀家で、譲位した後も土御門(つちみかど)天皇・順徳(じゅんとく)天皇・仲恭(ちゅうきょう)天皇の御世に院政を執っていました。また諸芸に通じる「万能の人」としても知られていました。
 承久元年(1219)、3代将軍・源実朝が暗殺されると、幕府執権・北条義時は、実朝のあとの将軍に、後鳥羽上皇の皇子を迎えようとします。しかし、源氏の嫡流が断絶したこのときを好機と考え討幕の決意を固めていた後鳥羽上皇は、これを拒絶し、結局、頼朝の遠縁にあたる九条道家の子・頼経が将軍として迎えられることになります。
 幕府と朝廷の争いは、後鳥羽上皇が、寵愛していた伊賀局(白拍子亀菊)の所領である摂津国長江・倉橋荘の地頭の免職を北条義時に命じ、北条義時がこれを拒否したことを発端として表面化します。後鳥羽上皇は、地頭の免職要求が棄却されたことを根拠に、承久3年(1221)5月15日、北条義時追討の院宣(いんぜん)を発し、ついに挙兵します。これが承久(じょうきゅう)の乱です。
 このとき、讃岐藤原氏の一族は、嫡流の羽床氏とその系統の柞田氏らが後鳥羽上皇の院宣に呼応して朝廷方につき、傍流の新居資村(すけむら)らが幕府側につきます。資村は新居資光の息子にあたります(ただし、弟、甥という説もあります)。

 この戦いに際し、幕府は、二代執権・北条義時を中心に結束を固め、義時は子の泰時を大将に、弟の時房を副将として軍勢を東海道から京都に向かわせ、東山道や北陸道からも攻めさせました。その軍勢は19万といわれています。そして、1ヶ月たらずのうちに京都を占領しました。
 乱後、幕府は朝廷方を厳しく処分しました。朝廷軍に加わった後藤基清・佐々木経高・三浦胤義・河野通信・大江親広らは厳罰に処せられ、また後鳥羽上皇は隠岐国、順徳上皇は佐渡国、土御門上皇は土佐国へとそれぞれ流され、仲恭天皇は廃位させられて後堀河天皇が践祚します。
 土御門上皇は、土佐に流される途中、讃岐白峯にある崇徳天皇御陵の近くを通り、その際に崇徳天皇の霊を慰めるために琵琶を弾いたところ、夢に崇徳天皇が現われて土御門上皇と都に残してきた家族を守ることを約束したという逸話が残されています。土御門上皇はのち阿波に移り、そこで崩御されました。

 幕府は、承久の乱の勝利で、上皇方の公卿や武士の所領を没収して新補地頭(しんぽじとう)を配し、さらに朝廷監視のために京に六波羅探題を置いて西国における幕府権力を強化します。
 讃岐では、鎌倉幕府のために戦った新居資村が、その功によって香川12郷・阿野4郷を支配することとなり、勝賀山東山麓の佐料に居館、その山上に詰めに城を築きます。そして、氏を香西氏に改めて左近将監に補任され、讃岐藤家六十三家の棟梁の座につきます。以後、香西氏は海陸ににらみをきかせながら勢力を伸長させていきます。一方、朝廷方についた羽床・柞田氏らは、それぞれの所領を没収され、以後羽床氏は香西氏の下に入ります。

 その後、鎌倉幕府滅亡後の南北朝動乱期にも、香西氏と羽床氏は、同族であるのもかかわらず、袂を分かっています。香西氏は、承久の乱のときと同様に武家方の北朝につきます。一方、羽床氏は、鎌倉時代末期、政成が楠木正成の千早城攻めに一番乗りの功を挙げますが、その後、政成の子の政長(まさなが)は、一族みな北朝に属した中で、ひとり羽床七人衆を率いて宮方の南朝につきます。勇名を馳せた羽床七人衆とは、秋山三郎、有岡牡丹、大林丹後、後藤是兵衛、造田佐渡、羽床源内、脇絲目です。
 北朝方についた香西氏は、南北朝時代以降、讃岐を支配した細川京兆家の重臣となり、細川四天王の一人として京へも進出するなど大いに栄えます。しかし、南朝方についた羽床氏は香西氏の陣代として勢力を保つこととなります。

 戦国時代末期の天正時代(1573~1593)、土佐の長宗我部元親の侵攻が始まると、香西氏、羽床氏ともその軍に下ります。その後、香西氏は秀吉の四国征伐により絶え、羽床氏も秀吉の家臣・仙石秀久に従って出陣した九州征伐における戸次川の合戦で絶えます。これにより、平安時代末期から鎌倉・室町時代を通じて讃岐の有力国人であった讃岐藤家(ふじけ)はその長い歴史に幕を閉じました。
●訪れてみたいところ

○「讃岐藤家発祥之碑」
 藤原家成の子隆季とその弟の成親も相次いで讃岐守となり、隆季は現在の綾川町綾南畑田の藤原丘に館を構えたと伝えられています。そこには、今、「讃岐藤家発祥之碑」が建てられています。
○羽床城跡
 羽床城は標高約50メートルの城山という小さな山の上にあります。羽床重高のときに城が築かれたといわれ、源平時代から豊臣氏に至るまで羽床氏の居城でした。羽床氏は、秀吉の島津征伐の際に先鋒を担い、豊後戸次川の合戦で嫡流が断絶し、羽床城も廃城となりました。今も羽床地区には、城山、御新送、蓮池、弥蘇田、倉屋敷、顔漬、射場、福禄池など羽床城にまつわる地名が数多く残っています。
○香西寺
 奈良時代の天平11年(739)に行基が勝賀山の麓に庵をつくったのが開基といわれ、平安時代前期の弘仁8年(817)に弘法大師によって再興されました。鎌倉時代の貞応元年(1222)、香西資村が幕命を受けて堂塔を再建し香西寺と名付けました。
 その後、戦火、失火に遭い、江戸時代初期の寛文9年(1669)、高松初代藩主・松平頼重によって堂塔が整えられ、別格本山・香西寺となりました。その後またも失火で焼失し、現在の建造物はその一部です。
○勝賀城跡
 香西氏が勝賀山(標高364メートル)山頂に築いた詰の城です。山頂には、頑丈な土塁によって守られた本丸(東西40メートル、南北60メートル)、二の丸、三の丸の名残があります。香西氏は、鎌倉時代から戦国時代の約360年間、笠居郷(鬼無・香西・下笠居)を本拠に活躍しました。
○佐料城跡
 佐料城は、香西氏が勝賀山の東麓に平時の居城として築いた城です。今でも、民家に囲まれていますが、佐料城の堀がL字状に残っています。
○藤尾城跡
 藤尾城は、天正3年に香西佳清によって、四国平定を目指す長宗我部元親の讃岐侵攻に備えて、小高い丘の藤尾山に築かれました。天正13年、豊臣秀吉の四国征伐に敗れ、佳清は下野し藤尾城も廃城となりました。現在、藤尾山の本の丸があったところは、宇佐八幡神社の境内となっています。
○鵜ノ田尾峠
 鵜の田尾峠には土御門上皇の家人、間野左近、宇野左近の2人が、上皇の崩御を知り悲しんでこの地で自害したという伝説が残されています。
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テーマ : 香川
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