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(144)“大坂石山本願寺に兵糧を送った讃岐の寺”

 現在の大阪城は昭和6年に復元されたものですが、この城は周知のとおり、天正11年(1583)に豊臣秀吉によって築造が開始されたものです。その前、この地には、かつて石山本願寺という浄土真宗の寺とその寺内町がありました。浄土真宗は、鎌倉時代初期、法然の弟子の親鸞がその教え(浄土宗)を継承発展させて開いた宗派で、人はすべて阿弥陀仏の本願にすがれば極楽往生ができると説き、念仏を唱えるだけでよいという気安さから百姓たちを中心に普及していきました。
 室町時代の後期には、8世・蓮如(れんにょ)が現れ、人々が平等に教えを聴き団結できる「講」と呼ばれる組織を築き、親鸞の教えを平易に説いたことから、急速に発展・拡大して一向宗と呼ばれるようになります。さらに、この講のよる信者の団結力は、国人・土豪が加わることによって政治権力化し、一向一揆という武装蜂起につながっていきます。長享2年(1488)から約100年間続いた加賀の一向一揆はよく知られているところです。
 讃岐における最初の浄土真宗寺院は、暦応4年(1341)に創建された法蔵院で、浄土真宗の讃岐への伝搬は禅宗や法華宗に比べて遅かったといわれています。これは、讃岐は空海の生誕地ということもあり、早くから真言宗が盛んだったためのようです。戦国時代の永正年間(1504~1520)以降、讃岐では一向寺院が増えはじめ、特に天文年間(1531~55)に目立って増加します。宇多津の西光寺も、天文年間に、向専(こうせん)が本願寺10世の証如(しょうにょ)に帰依して浄土宗から浄土真宗に改めています。

 石山本願寺の起源は、明応5年(1496)、蓮如が山科本願寺の別院として大坂御坊を建立し、自らの隠居房としたことに始まります。「石山」というのは、寺のあった小高い丘の名称です。また、今は「大阪」と表記しますが、もともとは、台地にそった坂という意味から「小坂」、後に「大坂」と呼ばれました。
 天文元年(1532)、山科本願寺が戦国の争乱に巻き込まれて焼き討ちに遭ったため、10世・証如は、大坂御坊に逃れてそこを本願寺とします。この地は、淀川と旧大和川が合流するところで、その付近に渡辺津(わたなべのつ)が形成され、淀川水系や瀬戸内海の水運の拠点でした。また、住吉や堺、紀州に向かう陸上交通の起点でもありました。本願寺が置かれると次第に商工民などが集まり、寺内町を形成して自治を行い、また寺の周囲に堀・塀・土塁などを設けて武装を固め、戦国時代末期には城郭に匹敵する要塞と化していました。
 永禄11年(1568)9月、足利義昭を奉じて上洛した信長は、三好長慶亡き後京を支配していた三好三人衆らを駆逐すると、石山本願寺に対して、矢銭5000貫を請求し、さらに石山からの立ち退きを要求します。矢銭とは軍事後援金のことで、5000貫は米1万石に相当しました。これに対して、このとき本願寺11世の顕如(けんにょ)は矢銭の請求のみを受け入れ、他については拒否します。
 この頃の讃岐は、永禄元年(1558)に阿波の三好義賢(よしかた、のちに実休と号した。)が天霧城の香川之景を攻略して以来、阿波三好家の支配下にあり、讃岐の十河存保(まさやす)が東、阿波の篠原長房が西にそれぞれ勢力を張っていました。十河存保は三好義賢の実子で、永禄4年(1561)、叔父の十河一存(かずまさ)の死去により、十河氏を継いでいました。十河氏は、現在の高松市十川東町にあった十河城を拠点とする讃岐武士ですが、義賢の実弟の一存(かずまさ)が阿波三好家から養子に入り、阿波三好勢力の讃岐における橋頭堡となっていました。十河一存は鬼十河とその勇猛さを称えられた武将です。篠原長房は阿波三好家の重臣で、永禄5年(1562)の三好義賢の死去によりその後を継いだ長治(ながはる)の補佐をしていました。

 元亀元年(1570)6月、織田信長は、姉川の戦いで浅井・朝倉氏を破り、北近江を支配するとともに、岐阜から京都への通路を完全に確保します。しかし、7月、京から阿波へ追われていた三好三人衆が、信長に反撃するため摂津に上陸して陣を敷きます。このとき十河存保は三好勢として堺に布陣し、香川・安富・奈良・香西・寒川らの讃岐武士も阿波の篠原長房に率いられて出陣しています。こうした中、9月、顕如は三好勢を攻略するために摂津福島に陣を敷いていた織田軍を突如攻撃します。これが、天正8年(1580)までの11年間に及ぶ石山戦争の始まりでした。そして、顕如は「信長は本願寺を取り潰す仏敵である」として各地の本願寺門徒に檄を飛ばし、讃岐にも「讃岐坊主衆・門徒中」宛てに「門下の輩寸志励むにおいては仏法興隆たるべく候」と奮起を促しています。
 元亀3年(1572)3月、織田信長と石山本願寺との間で一応の和議が結ばれますが、翌年の天正元年(1573)4月、本願寺は再び蜂起します。これに呼応して讃岐の一向宗寺院も活発な動きをみせ、宇多津の西光寺は、石山本願寺へ、青銅700貫・米50石・大麦小麦10石2斗の軍資金と兵糧を送っています。この頃、西光寺は織田信長に対抗する一向宗門徒勢力の讃岐における中心で、住職・向専とその子の専念は石山本願寺に味方していました。西光寺は城郭造りで、土塀には今も“狭間”(さま)という弓、鉄砲を射掛ける三角形の銃口が見られます。
 天正元年(1573)11月には、三好長慶のあとの三好宗家を継いだ義継が織田軍に攻められて滅びます。また、その翌年には、上洛途上の武田信玄が没し、信長が15代将軍足利義昭を京から追放して室町幕府が事実上崩壊します。
 この年の7月、阿波で、篠原長房が讒言を受けて主家の三好長治に誅殺されると、香西・香川・寒川らの讃岐国人は阿波三好氏から離反し、独自の道を歩み始めます。これに対して、長治は、香西、香川、寒川氏を討とうとさかんに讃岐出兵を行います。しかし、天正3年(1575)に土佐の長宗我部元親の阿波侵攻が始まり、讃岐における三好の勢力も衰退していきます。ちなみに、この年の5月には、織田信長が長篠の戦いで武田勝頼を破っています。

 天正4年(1576)5月、四天王寺で戦いに敗れた石山本願寺は、織田軍による経済封鎖によって兵糧の調達が困難を極め、安芸の毛利輝元に援助を要請します。これを受けた輝元は兵糧搬入のため700~800艘からなる水軍を大坂へ送り込み、7月13日、毛利水軍・村上水軍を中心とする瀬戸内の水軍戦力と、これを阻止しようとする織田方の水軍戦力が大阪湾の木津川の河口で激突します。これを第一次木津川口の戦いといいます。この戦闘では毛利水軍・村上水軍の使用する焙烙玉(ほうろくだま)、雑賀集の使用する焙烙火矢(ほうろくひや)の前に織田方の水軍は壊滅的な打撃を受け、毛利方は石山本願寺に兵糧を運び入れることに成功します。
 讃岐でも、この年の8月、石山本願寺から、宇多津の西光寺や香川郡安原村安養寺などに対して救援の依頼が届きます。しかし、この頃、すでに讃岐の有力国人・香川之景と香西佳清は織田信長に臣従し、之景は名を信景と改め、三好存保も信長に降伏していました。また、翌年の天正5年(1577)3月、信長は、塩飽船に朱印状を出して堺の港を出入りする航行の自由を保証することにより、塩飽をその支配下に組み込み、東瀬戸内海の制海権を掌握しました。このため、讃岐国内寺院から石山本願寺への輸送路が絶たれました。
 なお、この年の7月には、安芸の毛利氏が讃岐の元吉城に入り、讃岐惣国衆の長尾・羽床衆らと合戦に及んでいます。これを元吉合戦といいますが、一説では、本願寺支援のための制海権奪回のための侵攻だったと考えられています。その場所についは、琴平町と善通寺市にまたがる櫛梨山であるとするものなど諸説があります。

 第一次木津川口の戦いに敗れた織田信長は、毛利水軍・村上水軍の使用する焙烙玉や雑賀集の使用する焙烙火矢に対抗するため、九鬼嘉隆(くきよしたか)に命じて大筒・大鉄砲を装備し焙烙が効かない鉄甲船6隻を造らせます。天正6年(1578)6月、九鬼嘉隆が指揮する織田水軍は、石山本願寺支援のため大阪湾に入った毛利水軍・村上水軍と木津川口で海戦となります。これが第二次木津川口の戦いです。この海戦では、織田軍の鉄甲船が毛利水軍・村上水軍を撃破して大阪湾の制海権を握り、本願寺を孤立させます。
 讃岐では、この年の夏、土佐の長宗我部元親の侵攻が始まり、藤目城・財田城が落ちています。翌年の天正7年(1579)には、天霧城の香川信景が長宗我部元親に下ります。
 第二次木津川口の戦いにより、石山本願寺に対する勝利を確信した織田信長は、朝廷に働きかけて石山本願寺との講和を策します。顕如も食料の欠乏に加え、反信長包囲網が事実上壊滅したこともあって、朝廷の斡旋により和議を受け入れます。こうして天正8年(1580)4月9日、ついに顕如は石山本願寺を退去して紀州の雑賀に落ちていき、石山合戦はここに終結します。
 しかし、顕如の長男である教如(きょうにょ)は石山本願寺から退去せず、父の顕如が説得しても効果がありませんでした。このため、顕如は教如を勘当して教如の弟の准如(じゅんにょ)を嫡子と定めます。これが後の東と西の両本願寺分立のきっかけとなります。

 石山合戦に勝利したものの、織田信長は、天正10年(1582)6月2日、本能寺の変により自害に追い込まれます。その後、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が天下を掌握する間に、長宗我部元親は四国制圧を進め、天正13年(1585)春に四国統一を果たします。しかし、その年の6月、秀吉は四国侵攻を開始し、元親は秀吉に下り土佐一国に押し込められます。

 天正19年(1591)、顕如は、秀吉から京都七条堀川に土地を与えられ、本願寺を再興します。しかし、慶長7年(1602)、顕如の長男である教如が、家康から本願寺のすぐ東の七条烏丸に土地を与えられ東本願寺を構えます。これは、石山退去時の見解の相違等をめぐる教団内部の対立に、徳川家康が乗じたものだといわれています。
 以後、本願寺は、顕如の三男准如を12世宗主とする西(現在の浄土真宗本願寺派、真宗興正派など)と、長男教如を12世宗主とする東(現在の真宗大谷派など)とに分裂し、現在に至っています。
●訪れてみたいところ

○宇多津の西光寺
 山号を諦観山といいます。もとは承元2年(1208)に、法然の弟子の然慶(ねんけい)が浄土宗の寺として創建したもので、天文8年(1539)に進藤専向が浄土真宗に改めました。本願寺11世の顕如のものの文章類も残っているといいます。
 境内にある船形茶室は、もと多度津藩所有の屋形船をこの寺に移築し茶室としたものです。また、貞享4年(1687)12月7日付の「水戸光圀書翰一軸」が保存されています。

○三木町の常光寺
 東讃における浄土真宗の草分けともいえる寺です。足利三代将軍義満の治世の應安元年(1368)に、佛光寺了源上人が浄泉坊と秀善坊の二人の僧を布教のために四国へ派遣し、浄泉坊が三木郡氷上村常光寺を開いたといわれています。この寺にはラッパイチョウという全国でも十数本しかない木があるそうです。

○高松市扇町の真行寺
 現在の高松市扇町にある「真行寺」の前身が、暦応4年(1341)に創建された讃岐における最初の浄土真宗寺院である「法蔵院」であるといわれています。法蔵院は、最初、屋島沖の大島で建立されていましたが、おそらく生駒時代に現在の高松城下に移されたのではないかと考えられています。
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戸次川で讃岐の名族は滅んだ

うちのご先祖様も応仁の乱の歳には、都に出向いていったんかな。
仙石さんに伴って戸次川で讃岐の名族の嫡流はほとんど絶えたそうですが、私らはその子孫。
平和な時代に感謝。
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