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(142)“讃岐も戦場になった藤原純友の乱”

 “藤原純友の乱”は、平安時代中期に、西海で勃発した反乱事件です。これに呼応するかのように、ほぼ同時期に東国では、“平将門の乱”が起き、時の朝廷を震撼させました。この2つの反乱は、当時の年号をとって、“承平・天慶の乱”(じょうへい・てんぎょうのらん)と呼ばれ、武士の実力を世に示し、その時代の到来を告げる先駆けとなりました。

 藤原純友は、寛平5年(893)、伊予国で高橋友久の子として生まれたといわれています。高橋氏は伊予の名族・越智氏の一族で、越智郡高橋に代々居住していました。このような出自の純友が藤原氏を名乗るようになったのは、藤原良範(よしのり)の養子になったためです。

 藤原良範の曽祖父は嵯峨天皇の時代の藤原冬継(ふゆつぐ)で、祖父は長良(ながら)といいます。長良は早世しましたが、その弟の良房(よしふさ)は人臣最初の摂政にまで登りつめます。長良には遠経(とおつね)と基経(もとつね)という息子がおり、兄の遠経が良範の父にあたります。弟の基経は叔父・良房の養子となり、養父の位を継承して人臣最初の関白となります。基経は良範の叔父にあたります。
 このような良範の家系から、純友の父の高橋友久は、息子の立身栄達を願い、当時伊予国守をしていた藤原良範に頼み込み、純友をその養子に入れたのではないかと思われます。もちろん、息子を養子に入れるに当たっては、荘園の寄進等の財産的提供を良範に対して行ったことでしょう。
 良範の帰京にともない、純友も京へ上ります。中央官庁に職を得て官位をもらい、箔をつけてゆくゆくは地元に戻るという当時の土着豪族が一般的に進む出世コースをとったわけです。しかし、良範は辛うじて殿上が許される従五位下の大宰小弐(だざいのしょうに)止まりでした。大宰小弐は九州の大宰府に勤める役人です。

 藤原純友は、承平2年(932)、伊予掾(じょう)に任じられます。「掾」とは、守(かみ)・介(すけ)に次ぐ、国司の三等官で従七位下です。純友が伊予国の掾となったのは、純友の養父良範の従兄弟にあたる藤原元名が承平2年から5年にかけて伊予守であったことから、純友はこの元名の代行として現地に派遣されて京へ租税を運ぶ任にあたっていたといわれています。

 承平4(934)年の7月に伊予国喜多郡の不動倉(非常用の穀倉)に貯蔵された米3000余石が海賊から掠奪されるなど、この頃、瀬戸内海では海賊が出没し、税として都へ運ばれる官物が略奪されるという事件が頻発していました。朝廷は海賊を取り締まろうと何度も試みますが、上手くいかず、かえって海上交通が途絶えてしまうという事態に陥っていました。この海賊は、朝廷の機構改革で人員削減された瀬戸内海一帯の富豪層出身の舎人たちだったといわれており、税収の既得権を主張して京へ運ばれる租税の奪取を図っていたものでした。
 藤原純友は、租税を運ぶ任にあたるうちに海賊勢力と関係を結んでいき、伊予掾の4年の任期が過ぎても京へ帰ろうとはせず伊予に留まります。そして、承平6年(936)3月には、純友は、豊後水道に浮かぶ海上交通の要衝・日振島(ひぶりじま)を根拠に1000艘を組織する海賊の頭目となっていたといわれています。
 東国では、承平5年(935)2月に、野本付近の戦いで平将門が伯父の平国香らを破り、平将門の乱が始まっています。

 承平6年(936)6月、紀淑人(きのよしと)が伊予介に任じられ、追捕海賊使(ついぶかいぞくし)の役職も兼ねて伊予に下向します。このとき、紀淑人は、海賊集団約2,500人を、これまでの罪を問わないということを条件に、朝廷に帰順させます。これは、藤原純友が紀淑人に代わって海賊集団との交渉にあたり、一度は配下の海賊を捕らえたことにして、罪を認めた者には田畑を与えて解き放すという密約があったといわれています。
 しかし、朝廷が純友の功績を認めることはなく、純友は朝廷や淑人に対して怨み持ったといわれています。

 天慶2年(939)のはじめ、東国では、平将門が常陸国の国府を襲撃し、平将門の乱が本格的に始まります。その年の夏には西国で旱魃が発生するなど、日本国内に不穏な情勢が漂っていました。
 この年の秋、備前国では受領(ずりょう)の藤原子高(さねたか)が藤原文元(ふみもと)と対立し、同様に、播磨国では受領の島田惟幹(これもと)が三善文公と対立し、紛争化しました。受領とは、地方長官である守が任官されながら実際には任国に赴かず官職に伴う給付だけを受ける遙任(ようにん)国司である場合、それに代わって現地赴任して行政責任を負う国司の筆頭者をいいますが、事実上国衙行政の最高責任者となっていました。そして、その強大な権限を背景に、官人を私的従者のように使役し、莫大な私的蓄財を行うようになっていました。

 藤原文元と三善文公は、純友と同じように、京の貴族社会から脱落した中級官人で、さきの海賊平定の際、純友に与力してその郎等となり土着した者です。受領との紛争の原因は明らかではありませんが、赴任してきた受領に勲功を横取りされたり、搾取の対象となったりしたことで、その支配に不満を募らせていたものと思われます。

 藤原文元と三善文公から加勢を求められた藤原純友は、武装集団を率いて伊予から遠征に向かいます。それを知った藤原子高は妻子を連れて京へと逃亡を図ります。しかし、藤原文元の武装集団に追いつかれ、12月に摂津国菟原郡須岐駅(すきえき)で襲撃されます。子高は耳を切られ鼻を削がれるなどの暴行を受け、子息は殺害、妻は略奪されます。須岐駅は現在の兵庫県西宮市夙川(しゅくがわ)あたりです。この襲撃事件が、藤原純友の乱の始まりです。
 なお、この年の12月頃には、平将門が、自身の謚號を「新皇」と称しています。

 翌年の天慶3年(940)1月、朝廷は小野好古(よしふる)を山陽道追捕使、源経基(つねもと)を次官に任じます。しかし、襲撃事件を起こしたにもかかわらず、朝廷は純友を従五位下に叙し、藤原文元にも官職を与えます。これは、関東で起こっていた平将門の乱に対して兵力を集中させるため、とりあえずは純友の懐柔を図ったものだったのではないかといわれています。純友は官位を受けますが、引き続き淡路国の兵器庫を襲撃して兵器を奪うなどの海賊行為を続けます。

 翌月の2月、純友は、叙位への礼を名目に、武装集団を引き連れて上洛を試みます。これに対して朝廷は、純友の上洛を阻止するために、追捕山陽道使に加えて追捕南海道使を任命します。これは、朝廷が山陽道に加えて、南海道にも反乱鎮圧のための軍を派遣するという意思の表明でしたが、同時に純友に対する牽制の意味もありました。結局、純友は上洛を断念することになります。

 しかし、純友の郎党の藤原文元は、2月頃までに備前・備中を実効支配下に入れます。また、前山城掾の藤原三辰が讃岐国で純友に呼応し、讃岐介の藤原国風(くにかぜ)に対して叛乱を起こします。これによって国風は戦死者数百名を出す大敗を喫し、叛乱軍は国府に乱入して財物を奪い、国府庁を焼き討ちにしました。国風は警固使坂上敏基とともに阿波に退き、さらに淡路に逃れます。讃岐国司だった菅原道真が讃岐を去った寛平2年(890)から50年後のことです。

 ところが、2月14日、関東では平将門が平貞盛(さだもり)、藤原秀郷(ひでさと)らに討たれ、関東での叛乱が鎮圧に向かったため、朝廷はその軍事力を西国に向けることが可能となります。6月、朝廷は、将門討伐に向かった東征軍が帰京すると、藤原文元を藤原子高の襲撃犯と断定して追討令を出します。これは直接純友を罪人と名指しせず、純友配下の武装集団の分裂を誘おうとしたものでした。
 この作戦の効果があったのか、8月、山陽道を進撃する追捕山陽道使小野好古の軍は、備前・備中・備後の制圧に成功します。このため、この地域を支配していた藤原文元や三善文公は藤原三辰を頼って讃岐に逃れてきますが、朝廷軍の追求が急であったため窮地に陥り、純友に助けを求めます。
 この時点で純友は、遂に朝廷に対して公然と叛旗を翻すことを決断したと考えられています。8月中旬、純友は400余艘の兵船を率いて讃岐国に入り、藤原文元・藤原三辰らと合流して朝廷軍の船を焼き払い、海賊軍の先頭に立って合戦に及びます。こうして藤原純友らの叛乱は本格的な戦乱へと発展し、「賊首純友」の名前は確定してもはや後戻りは出来ないことになりました。純友の兵船は、10月には安芸・周防国方面を、11月上旬には周防国鋳銭司を、12月中旬には土佐国幡多郡を、つぎつぎと襲撃します。そのような神出鬼没な純友の攻勢を朝廷軍側は抑えることができず、年を越します。

 翌年の天慶4年(941)2月、情勢は急展開します。この年の初め、藤原恒利(つねとし)が、藤原純友率いる叛乱軍から寝返り、讃岐国で朝廷軍の先導を行います。これによって朝廷軍は、讃岐の叛乱軍の鎮圧に成功し、藤原三辰は捕縛され、処刑されたのち、京にて曝し首にされます。この戦い以降、情勢は朝廷側に有利に傾き、2月には純友の本拠地である伊予の叛乱鎮圧にも成功し、これにより純友は大打撃を受けます。

 本拠地の伊予を失った純友は、日振島にたてこもり、反撃の機会をうかがいます。そして、その年の5月、純友は意表をついて博多湾に上陸し、西国政治の拠点である大宰府を急襲します。純友軍には、受領層とは対立していた豊後・日向らの九州の有力豪族も参加していました。純友軍は、大宰府に蓄えられていた財物を強奪し、大宰府の政庁施設に火を放ち、政庁は炎上、焼失しました。

 しかし、藤原純友の大宰府襲撃に対する朝廷の反撃は素早く、この年の5月の下旬には海陸両面より追撃を開始し、純友が率いる武装集団の船を焼き払い、純友軍を壊滅に追い込みます。純友とその息子の重太丸は、本拠地である伊予国へと落ちのびますが、6月中旬に伊予警固使の橘遠保(たちばなとおやす)に捕縛され、斬首されました。その首は酒漬けにされて京へ送られたといいます。ここに天慶2年(939)から天慶4年(941)まで続いた藤原純友の乱は終結しました。

 天慶5年(942)3月、論功行賞が行われ、征西軍長官の小野好古は太宰大弐・参議・従三位に、次官の源経基は太宰少弐・右衛門権佐・正四位にそれぞれ叙されました。

 讃岐には、平将門の長子と伝えられている平良門(よしかど)らが落ちのびてきたという伝承が残っています。太郎良門は、家臣の貞廣丑之助、神戸城太郎、下戸城五良、成房三良、成行十郎、成行千代春ら6人とともに、善通寺五岳山の西端の火上山(ひあげやま)の南麓にあたる三豊市高瀬町の音田(おとだ)の毘沙門谷(現在は、おにが谷)という所に落ちのびてきて、そこに住み着き、六名(ろくみょう)を名乗ったといいます。

●訪れてみたいところ

○讃岐国府庁跡

三崎神社
釜島松島
 2島とも、岡山県倉敷市に属し、藤原純友の備讃瀬戸における拠点だったところだといわれています。松島は鷲羽山の目の前にあり、周囲は1.2kmです。ここには全国でもただ一つと言われる藤原純友を祀った純友神社があります。松島の東には、藤原純友城趾のある釜島があります。

産巣日神社
 
観音寺市豊浜町の神田神社
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