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(141)“応天門の変に連座した讃岐の恩人”

 10世紀後半から11世紀頃の平安時代、藤原氏が代々摂政や関白となって、天皇の代理者・補佐者として朝廷の実権を独占し続けた政治形態を摂関政治(せっかんせいじ)といいます。この摂関政治のさきがけは、平安時代前期に藤原良房(よしふさ)と基経(もとつね)の親子が摂政・関白になったことによるといわれていますが、良房・基経の親子が朝廷内で実権を握るきっかけになった事件が貞観8年(866年)に起こった応天門の変です。歴史の教科書などには、応天門炎上とそれにおどろく群衆の動きをみごとに描写した伴大納言絵詞という絵巻がよく掲載されています。
 この政変では、紀夏井(きのなつい)という貴族が連座して土佐へ配流となっていますが、夏井は国司として讃岐に赴任して善政を行った讃岐の恩人ともいうべき人です。

 貞観8年(866)閏3月10日、平安宮大内裏の正殿入り口にあたる応天門が炎上し、京中大騒ぎとなります。ほどなく、大納言・伴善男(とものよしお)が、この火災は左大臣・源信(みなもとのまこと)が伴氏を呪って大伴氏が造営した応天門に放火したものだと、右大臣・藤原良相(よしみ/よしあう)に告発しました。なお伴氏は大伴氏の子孫で、大伴皇子のとき、その名を避けて伴氏と姓を改めたものです。その告発を受けた良相は藤原基経に命じて、源信を逮捕させようとします。良相は時の太政大臣・藤原良房の弟で、基経は良房の嫡子(養子)にあたります。
 藤原基経は事の重大さからこれを父・藤原良房に告げると、良房は清和天皇に奏上して源信を弁護します。これにより、源信は無実となり難を逃れます。
 しかし、事件はこれに止まらず、2ヶ月後の8月3日、大宅鷹取(おおやけのたかとり)という下層の官人が、伴善男とその子・伴中庸(ばんのなかつね)が放火犯人であると検非違使に訴え出ます。鷹取は応天門の前から善男と中庸が走り去り、その直後に門が炎上したと申し出たのです。
 9月22日、朝廷は伴善男らを応天門の放火の犯人であると断罪します。事件は、源信の失脚の機会を狙っていた善男が、応天門の炎上を源信の放火のせいにして、源信の左大臣解任を謀ったともいわれています。善男は当然大逆罪として斬刑となるところを、特に死一等を減ぜられて伊豆国に遠流となり、財産いっさいを没収されます。また、伴中庸は隠岐国遠流となります。このとき、伴氏に仕えていた紀豊城(きのとよき)も陰謀に加わったとされ安房国に流されますが、紀夏井は豊城の異母兄だったため、連座制の適用を受け官職を解かれて土佐国へ配流となります。

 紀夏井は、応天門の変が起こる前の天安2年(858)、讃岐守に任じられ赴任しています。空海がなくなった承和2年(835)から25年後のことです。夏井は讃岐では善政を施したので、民は家業に励むことができ、深く夏井の人徳になついていたといわれています。貞観4年(862)に4年の任期が満了して帰京することとなったときには、百姓たちが大挙して役所に出向いて留任を懇望したので、讃岐守を2年延伸されて留まっています。このため、讃岐の百姓の暮らしぶりはさらによくなって納屋には五穀が蓄えられ、凶作に備えるためのもみ米を蓄える大蔵が40棟ほど建てられたといいます。やがて、任期が終わり夏井が帰京するとき、百姓達は餞別を送ろうとしましたが、夏井は決して受け取らなかったといいます。京へ帰った後に讃岐から愛好物や食糧品が送られてきても、紙と筆だけを受け取り、他のものはすべて送り返したといわれています。
 紀夏井は、能書家しても名高く、特に楷書の分野においては聖とまで言われるほどの才能を発揮し、さらに囲碁の分野でも名人として名を馳せるなど、多様な才能を持つ人物として、京においてもその名を知られていたそうです。
 応天門の変に連座して土佐国へ配流される護送中、讃岐を過ぎるとき、讃岐の百姓たちは讃岐国内から土佐国の境まで付き随い、老若男女が別れを悲しんで、その泣く声は数十里も続いたといわれています。その後、配所で没したと言われています。
 紀夏井が讃岐守の任期を終えて20余年後に、菅原道真が国守として讃岐に赴任していますが、讃岐国の百姓は紀夏井の善政を忘れていなかったため、道真は夏井と比較され国政運営で難渋したともいわれています。夏井の人徳がよほど深く讃岐人の心に刻まれていたのでしょう。
 ちなみに、同じ紀氏で、「土佐日記」の著者として知られる紀貫之(きのつらゆき)が、土佐守に遷任されて赴くのは、応天門の変から64年後の延長8年(930)のことです。

 伴善男が応天門放火犯人として捕らえられて間もなく、藤原良房は皇族でない貴族として初めて正式に摂政に命じられます。また、良房の死後、養子の基経は、日本史上初の関白に就任します。これにより、古代からの名族である伴氏(大伴氏)や紀氏の政界における地位は没落します。
 基経の死後、第59代宇多天皇は摂政・関白を置かず、菅原道真(すがわらのみちざね)を登用して藤原氏を押さえようとします。第60代醍醐天皇のときには、基経の子・時平(ときひら)が左大臣に、道真が右大臣になりますが、時平は策謀を用いて昌泰4年(901)に道真を左遷へ陥れます。しかし時平は摂政・関白に就任する前に没します。
 第61代朱雀(すざく)天皇のとき、藤原時平の弟・忠平(ただひら)が摂政・関白の地位につき、藤原氏の地位がほぼ確立しますが、その死後、第62代村上天皇のときには親政が行われ、摂政・関白の座は空位となります。しかし、村上天皇の逝去により、忠平の子・藤原実頼(さねより)が関白に就任し、以後、明治維新までほとんど摂政・関白が置かれるようになり、その地位にはかならず基経の子孫がつくのが慣例となります。なお、醍醐・村上天皇のときの親政を延喜・天暦の治(えんぎ・てんりゃくのち)といいます。
 摂関家の勢力が最も盛んであったのは、11世紀の藤原道長(みちなが)とその子頼通(よりみち)の時代で、道長の子・頼通は関白を50年の長きに渡って務めています。しかし、摂関政治は、応徳3年(1086)に白河天皇が上皇となり、いわゆる院政を開始したことにより終焉します。
●訪れてみたいところ
讃岐国司庁跡
 讃岐の国司庁は、現在の坂出市府中町に置かれていました。その規模はおよそ方6町(約650メートル四方)の地に条坊を区画して、国衙(こくが)を置き、周囲に土塁をめぐらしていました。四辺に四つの門をつくり、望楼を築いてあったといわれ、土塁の内側には重要な官舎や役人の住宅などが建てられていました。現在、その跡地には石碑が立っているだけですが、この一帯は国司庁内を意味する「垣の内(かきのうち)」と呼ばれています。また、南に「南坊」、「塔跡」の地名があり、北西には各種の帳簿を掌る帳調署(ちょうつぎ)から「帳次(ちょうつぎ)」、讃岐国印と鍵を保管していた所から「印鑰(いんやく)」、孔子を祀っていたお堂から「聖堂」、公文書を司る状調署から「状次(じょうつぎ)」や、「正倉」、「大町」、「右兵衛屋敷」、「唐屋敷」など、国司庁にゆかりの地名が残っています。
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