スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

(20)“讃岐の国司を務めた菅原道真”

 菅原道真は今から約1160年前の承和12年(845年)に生まれました。道真は10代にしてすでに和歌や文章の才能で評判となり、難関の式部省試に18歳で合格して文章生(もんしょうせい)となります。さらに25歳で方略試という国家試験に合格します。これは230年間で合格者がわずか65人という超難関試験です。後に道真が合格祈願の神様として称えられる所以です。そして道真は33歳で式部少輔と文章博士という学者としての最高位まで登りつめます。

 仁和2年(886年)、道真は讃岐の守を任じられ赴任します。41歳のときです。これは他の学者たちが道真一派の勢いを恐れて彼を京からひき離そうとしたためともいわれています。しかし、当時讃岐国は大国に次ぐ上国でその国司には「四位」で任じられるのが通常でしたが、この時の道真の位は「従五位上(じゅうごいじょう)」というランク的には中級で、讃岐守に任命されたのは大抜擢だったようです。

 道真が讃岐に赴任した当時、綾南町の滝宮神社の境内になっている辺りには行基が開創といわれる龍燈院(りゅうとういん)という寺がありました。道真は、龍燈院の一角にあった官舎に住んだと伝えられています。道真が赴任した当時、龍燈院の一角には讃岐一国の氏神を祀る祠があり、寛平元年(889年)、その祠に道真と龍燈院主とが祇園から牛頭天皇(ごずてんおう)を勧請(かんじょう)して社殿を創建し、それが後の滝宮神社になったと言われています。しかし、明治維新の神仏分離策により滝宮神社は残り、龍燈院は廃寺となってしまいました。その後龍燈院の建物は焼失して今は神社境内に跡地の記念碑が残されているのみです。

 道真が赴任した時には道真にとって讃岐での生活は寂しかったようで、初めて秋を迎えたときに次のような七言律詩を詠んでいます。



  涯分浮沈更問誰
   [涯分(がいぶん)の浮沈(ふちん)更に誰にか問はん]
  秋来暗倍客居悲
   [秋よりこのかた暗(ほのか)に倍(ま)す客居の悲しみ]
  老松窓下風涼処
   [老松(おいまつ)の窓の下(もと)に風の涼(すず)しき処(ところ)]
  疎竹籬頭月落時
   [疎竹(そたけ)の籬(まがき)の頭(ほとり)に月の落つる時]
  不解弾琴兼飲酒
   [琴(きん)を弾(ひ)き兼ねて酒を飲むを解(さと)らず]
  唯堪讃仏且吟詩
   [唯(ただ)仏を讃(たた)へ且(か)つ詩(し)を吟(ぎん)ずるに堪(た)
   ふるのみ]
  夜深山路樵歌罷
   [夜深く(よるふかく)して山路(さんろ)に樵歌(せうか)罷(や)む]
  殊恨隣鶏報暁遅
   [殊(こと)に恨むらくは隣鶏(りんけい)の暁(あかつき)を報(ほう)
   ずることの遅きことを]
[意味]
 身の程の浮き沈みを改めて誰に尋ねようか。秋になってから知らぬ間に募ってくる旅住まいの悲しさ。年老いた松に近い窓辺に涼しい風が吹く場所。まばらな竹の垣根のそばに月が沈む時。(私には)琴を奏でつつ酒を飲むのは分からない。ただ御仏を誉め讃えまた詩を口ずさむことができるだけだ。夜も更けて山道に(響く)木こりの歌も止んだ。とりわけ恨めしいのは近隣の鶏が夜明けを告げるのが遅い(なかなか夜が
明けない)ことだ。

 

 また、讃岐の海や山に生きる人々、さまざまな生業を営む当時の人々の姿を、冬の寒さをもっとも早く感ずる貧しい人たちへの思いこめて、「寒早十首(かんそうじゅっしゅ)」という漢詩を残しています。

 道真が讃岐にやってきて2年目の仁和4年(888年)、讃岐はひどい旱魃に見まわれました。そこで、道真は自ら府中の城山(きやま)神社で七日七晩祈願しました。7昼夜の祈祷の満願の日、空がにわかに曇り、三日三晩大雨が降り続いたといいます。喜び勇んだ農民は滝宮神社(当時は牛頭天皇社)の前に集まり、神に感謝して道真公の徳をたたえて踊ったといいます。その後300年を経た頃、讃岐に来た法然上人がこの踊りを見て振り付けを改め、現在の「念仏踊」のスタイルになったといいます。この踊りは綾上、綾南の11地区に伝わる五穀豊穣(ほうじょう)を願う年中行事として今も受け継がれており、綾南町の滝宮神社と滝宮天満宮で奉納されています。この踊りは、鉦(かね)と太鼓の鳴り響く中、陣羽織に羽織袴(はかま)の踊り手が「ナムアミドーヤ」の念仏を唱えながら、大うちわを振って飛び跳ねるように舞います。

 4年間の讃岐での任期を終えて京に戻った道真は、宇多天皇のひきあげで蔵人頭、参議、遺唐大使と昇進し、ついに54歳のとき右大臣となり、左大臣の藤原時平と肩をならべて政治の最高位にまで達します。この右大臣昇任は、律令制における門地主義からみて異例のことでした。

 しかし、藤原時平は、宇多天皇と道真の親密な仲に強い懸念を抱き、まず宇多天皇を若くして隠居させ上皇とし、まだ年少の醍醐天皇を即位させます。そして「道真は上皇をあざむき天皇との仲を裂いて権力を我がものにしようとしている」という難癖をつけて道真を九州の太宰府へ追いやります。その後道真は903年に失意のもとにこの世を去ります。

 ところが、道真の死から6年後、藤原時平が39歳の若さで急死し、それと重なるように天皇家では相次いで皇子が死去し、また天変地異が相次ぎ、疫病が流行します。さらに御所清涼殿での儀式の最中、落雷が藤原家の者たちを直撃して即死させるという事件などが起きます。これらを藤原家の人々は「道真公の怨霊の祟り」と恐れおののきました。そして、その怨霊を鎮めるために道真の身分を右大臣に戻し、また神として祭るため京都に「北野天満宮天神」を建立し、神号を「天満大自在天神」としました。それでも怒りはおさまらないと恐れた者たちは、道真の死から90年後に太政大臣という最高官位を授けました。

 やがて道真の「怨霊」が鎮まると、学問の神様としての天神信仰として天満宮が全国に広まっていきました。讃岐では、天暦2年(948年)に、龍燈院の僧空澄が前年北野天満宮が創建されたことから、道真の霊を鎮めるためにその官舎跡に祠を建て、それが起源となって現在の滝宮天満宮になったと伝えられています。讃岐は道真ゆかりの地でもあることから、本県には滝宮天満宮をはじめ天神様が235社あります。

○訪れてみたいところ
滝宮天満宮
 4月24日の春の大祭には「うそかえ神事」があります。
 8月25日に午前は滝宮神社で、午後に天満宮で、「滝宮念仏踊り」が行われます。
滝宮神社
 神社境内の収蔵庫には、龍燈院の本尊木造十一面観音立像(国重文)あります。この像は藤原前期の作です。
讃岐国府跡
明神原(みょうじんばら)遺跡

 この遺跡は城山の東山上にあります。この付近は、巨石が点在して小さな祠も置かれています。この場所が、道真が城山の神に祭文をよみあげて、雨を降らせて欲しいと祈った場所と伝えられています。明神原は、かつては城山神社の位置していた場所ともいわれ、神が降り立つ場所として古来から磐境(いわき)として神聖視された場所です。
城山神社
 城山神社は神櫛別命を祭る神社で、延喜式神名帳に大社と記された古くからの神社です。もとは明神原にあったとされ、中世の白峰合戦のころの兵火で消失したのち、国府の印鑰の地に移り、その後現在の城山東山麓の地に移ったと伝えられています。境内には、道真公を祀る『請雨天神』があります。請雨天神は、鼓丘の東にありましたが、近い頃城山神社の傍に移されました。
黒岩天満宮
 郷獅山は、城山の西側にある標高296メートルの安山岩の山で、南中腹には市内でも珍しい石窟仏も残っています。この郷獅山の西中腹に位置する黒岩天満宮は、菅原道真公を祭神とする神社で、近年は学問の神として多くの人の崇拝をあつめています。黒岩の名称は社の南の巨石が殊に黒いことから由来するとされています。仁和4年の大干ばつのおり、道真公は西中腹の当地にも下り、降雨に感謝する祈りを上げたと伝えられ、以来、この地を祈雨所として祠を建て、道真公を祭ったと伝えられています。元禄5年の干ばつの際、川津の住人で高松藩士の山口弥衛門が降雨を祈願し、雨が降ったことから、祠を改築して道真公をお祭りしたのが天満宮で、明治に火災をうけましたが、再建されました。
牛ノ子山天神
 菅公の松山館の跡であり、後人が祠を立てて祀りました。官舎は軒が交叉しあって、海の水際に枕するように建てられていたと伝えられています。
天満天神
 道真公が国司在任中に南山に遊んだとする時の南山にあり、当時の国府の正面に位置することから、「南山」と呼ばれます。菅公の旧跡から、1685年頃に藤原宅成が神霊を祀りました。
国分尼寺跡・法華寺
 法華寺境内には、菅原道真が「法華寺白牡丹」と題して詠んだ漢詩にちなみボタンが植えられています。

延命院
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

菅原道真に野球の監督は務まるだろうか?

開法寺跡

 飛鳥時代後期の頃、国庁に隣接して建てられた古寺で、城山の東南麓、坂出市府中町本村の讃岐国庁跡と考えられる地点の南西隅に位置しています。
 「菅家文草」の客舎冬夜の詩の一節に「客舎秋徂(ゆ)きて此の冬に到る 空床夜々顔容(よなよなかおばせ)を損(そん)したり 押衙門の下寒くして角(つのぶえ)を吹く 開法寺の中(うち)暁にして鐘に驚く 開法寺は府衙(ふが)の西に在り」とあるので、この寺が平安中期(九世紀末)菅原道真が讃岐国司の頃(仁和2年―886~寛平2年―891)には存在していたことが明らかです。
 府中町鼓岡の南部に塔跡と伝えられている土壇には自然石の礎石と思われるものが残っていて、そのすぐ西に開法寺池と呼ばれている池が在り、この池の中や附近から飛鳥時代後期の布目瓦の破片が出土しており、昔の開法寺のものであろうといわれる石仏が数個この池から出ているそうです。また国庁を中心として、周辺には開法寺、弘法寺、西福寺、妙楽寺、安楽寺等の名刹(めいさつ)が上古の府中に存在していたそうですが、中古に廃絶して現在は地名だけが残っています。
 昭和45年に開法寺塔跡が発掘調査された結果、塔の基壇(きだん)や礎石、その中心に直径80センチの柱座をもつ心礎が確認せられ、塔跡の北方に、僧房或いは講堂跡と考えられる礎石も残存しています。
 開法寺塔跡は昭和45年8月8日に県指定史跡になっています。

坂出市加茂町

 弘仁年間(810~824)弘法大師の伯父・阿刀大足が、京から迎えた加茂神社の社名をとって名付けたといいます。大明神原から出土した銅鐸(たく)や綾川を隔てて国司庁が設けられたことからも、早くから讃岐文化の中心地だったことが推測されます。

坂出市府中町

 大化元年(645)に国司庁が設けられ、讃岐の政治文化の中心として府中の名が生まれました。その後、讃岐に流された崇徳上皇が崩御されるまでの6年間、写経生活をしながら京をしのばれたのもここ。

菅原道具ゆかりの下笠居の牛鼻崎、神在山

菅公が筑紫太宰府に謫せられ、難波を発して讃岐沖を過ぎるとき、風浪が激しくなり、下笠居(現在の高松市下笠居地区)の牛鼻崎に両3日宿泊されたと云われています。
牛鼻崎は憂(うし)が鼻崎という意味だそうです。
また神在山は菅神のおられた山という意味で、鎮西が崎原とか深際山とかいうのが後に神在山となったそうです。

滝宮天満宮のウソ替え行事

 ウソ替え行事は菅原道真を祭神とする天満神社、天神社で行われており、九州の太宰府天満宮・大阪の天満天神・東京の神戸神社でも行われているそうです。
 この奇祭が初めて行われたのは、明治9年で毎年4月24日に行われています。うるしの木を彫り、高さ10センチほどの白丸木に頭と口を赤く、目と脚を黒く、背部を削って羽をカールさせた愛嬌たっぷりのウソ鳥を「替えましょう」「替えましょう」と老若男女が呼びかけながら、互いに交換し、交換すればするほど、いい開運の吉兆が得られ、一年中、知らず知らずのうちに犯した人間の過失や罪けがれを、ウソ姫鳥に託して清めはらい、よき心身に取り(鳥)かえることができるといいます。
四国のブログ

FC2Blog Ranking

全記事(数)表示
全タイトルを表示
讃岐
リンク
カウンター
琴平電気鉄道
栗林公園・一宮・金毘羅に便利 !
映画DVDファッション雑誌無料ブログパーツ
カテゴリー
歴史・旅行リンク
にほんブログ村 旅行ブログへ にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村 トラコミュ 讃岐の伝説へ
讃岐の伝説
にほんブログ村 トラコミュ 高松松平藩へ
高松松平藩
にほんブログ村 トラコミュ 日本の文化へ
日本の文化
最近の記事
天気予報
高松の天気予報
-天気- -FC2-
最近のコメント
時計
出来屋の電光掲示板
QRコード
QRコード
国盗りカウンター
プロフィール

讃岐の出来屋

Author:讃岐の出来屋
おいでま~せ、出来屋のページヘ""

カレンダー(月別)
06 ≪│2017/07│≫ 08
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。