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(139)“讃岐に残る神功皇后伝説”

 神功皇后(じんぐうこうごう)は、第14代仲哀(ちゅうあい)天皇の皇后で、第15代応神天皇の母親に当たり、三韓征討を行ったという伝説をもつ日本古代の女傑として知られています。明治14年発行の一円札・五円札には神功皇后の肖像が描かれ、また、戦前の国定教科書には兵を率いて海を渡ったという勇ましい伝説が必ず記されていました。その伝説は北部九州から瀬戸内海沿いにかけて広く分布しており、讃岐にも残されています。
五円札 神功皇后
五円札 神功皇后
 仲哀天皇は、父が日本武尊で、祖父が第12代景行天皇です。叔父の第13代成務天皇に後継ぎが無かったため第14代天皇に即位しました。それは3世紀頃だと考えられています。父の日本武尊の魂が白鳥となって天に昇ったことから、仲哀天皇は父の陵の周囲に白鳥を放して慰めようと、各地から白鳥を集めたといわれています。その後、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)を正妃に立て、彼女が「神功皇后」と呼ばれました。

 仲哀天皇は、神功皇后を正妃とすると、共に、角鹿(つぬが、現在の福井県敦賀)に行幸し、角鹿笥飯宮(つぬげのけひのみや)を建てます。皇后はここに留まりますが、天皇はさらに紀伊国に赴き、九州南部で熊曾(くまそ)の反乱が勃発したこと知ります。
 そこで、天皇はその足で穴門(あなと、後の長門)の豊浦(とよら、現在の山口県豊浦郡)に向かい、一方、皇后は日本海を伝わって天皇と合流します。ここで天皇は穴門豊浦宮(あなとのとゆらのみや)を建て、皇后と共に6年間過ごします。
 反乱を鎮圧するため豊浦宮を出発した天皇は、筑紫国に橿日宮(かしいのみや、現在の福岡市香椎にある香椎宮)を建て、南九州攻略の拠点とします。
 天皇は、橿日宮において、皇后、宰相の武内宿禰(たけのうちのすくね)と軍議を開きます。すると、皇后に「新羅を征伐せよ」との神託が下ります。新羅は、現在の朝鮮半島南東部に辺りです。その神託の内容は、熊曾の土地はやせて討つに値しないが、新羅は金銀財宝の豊かな国であり抵抗することなく服属するというものでした。しかし、天皇は、高い所に登って海のかなたを眺めてもそんな国は見えないと、その神託を信じず、熊曾征伐に向かいます。
 すると、神の怒りに触れたのか、天皇は熊曾に敗北を喫し、さらに突然発病して崩御しました。現在、福岡市東区にある香椎宮(かしいぐう)の鎮座している地が、仲哀天皇の崩御された地だと云われています。
武内宿禰
武内宿禰
 そこで、皇后が、神託を下した神の名を聞くと、天照大神と事代主神(ことしろぬしのかみ)、そして表筒男(うわつつのお)・中筒男(なかつつのお)・底筒男(そこつつのお)という神であることがわかりました。住吉三神から伝えられます。ちなみに、表筒男・中筒男・底筒男は、大阪市住吉区にある住吉大社の祭神とされている住吉三神です。
 このとき皇后は天皇の御子を身籠もっていましたが、神託に従って、熊曾を討伐して九州を平定した後、軍船を整えて自ら兵を率い、住吉三神を守り神として新羅の国に出兵します。すると、新羅は抵抗もせず降伏して朝貢を誓い、高句麗や百済の国も朝貢を約したといいます。これが三韓征討です。
 この物語が史実かどうかについては確証がありません。しかし、高句麗の国王・広開土王(好太王)の功績を叙述した石碑「広開土王碑」には、倭(当時の日本)が海を渡って新羅や百済などを臣民としたと読み取れる字句や、幾度か倭軍と高句麗軍とが交戦した記載があることから、歴史事実と考える説もあるようです。
 三韓を平定し筑紫国に戻った皇后は、その地で無事に出産し、この御子が誉田別命(ほんだわけのみこと)、後の応神天皇です。そしてその地を「宇美」(うみ)と呼ぶようになったということです。

 しかし、このとき、大和に居た香坂王(かごさかのみこ)と忍熊王(おしくまのみこ)の兄弟は、皇后が御子を出産したことを知り、反旗を翻し皇位を狙って御子の命を奪おうと企てていました。香坂王と忍熊王は、皇后が妃になる前に、仲哀天皇と大中津比売(おおなかつひめ)との間に生まれた皇子で、御子の異母兄に当たります。
 皇后は、九州から穴門豊浦宮に移り、仲哀天皇の遺体を仮埋葬します。そして、大和を奪還して御子を天皇の座につけるため、軍船に兵を乗せ、船団を組んで瀬戸内海沿いに海路大和を目指します。このときの皇后一行の船団進軍の様子が瀬戸内海沿岸各地に伝承として残されています。なお、天皇の遺体は後に藤井寺の方へ正式に埋葬されます。

 讃岐にも、神功皇后の船団が、大和に向かう途上に立ち寄ったという伝説が残っています。石船に乗ってこられた皇后軍は、風波の難を避けるために、当時は海だった現在の多度津町の青木(おうぎ)北山に上陸し、宿泊したといわれています。青木北山には沢寺大明神という小さな神社がありますが、この神社は、その際の石船を祀ったところであり、この近くには「宿地(しゅくじ)」という地名が残り、「いかり石」という石船の碇(いかり)を沈めたところがあるといいます。そして、皇后は出発に際し、幟(のぼり)、熊手を港の近くに留め置いたうえ、その船団は榜(かい)を立てて、出船したといいます。幟は旗で、熊手は武器として用いられた鎌のことです。皇后の船団が榜を立てて出発したところが桜川の畔にある榜立(かいたて)八幡神社で、幟と熊手を村人が祀ったのが現在の西白方に鎮座する熊手八幡宮だといわれています。その祭神は神功皇后と応神天皇です。真偽のほどは分かりませんが、多度津が古くから瀬戸内海航路の寄港地になっていたことをよく物語っている伝承といえるでしょう。
 なお、熊手八幡宮に関係して、和歌山県伊都郡かつらぎ町の三谷というところにある「丹生酒殿神社」には興味深い伝承が残っています。この神社の境内社である「鎌八宮」は、かつて熊手八幡宮とも称され、その御神体は神功皇后が三韓出兵のとき用いたという幟と熊手で、それは讃岐国屏風浦の熊手八幡宮に祀られていたものだといいます。空海が高野山を開いた時、そのご神体が空海の後をついてきたので、櫟(イチイ)の木をその証の代わりとして祀ったということです。和歌山の奥に多度津の白方にある神社の話しが残っているのは不思議なことです。
 讃岐の島にも神功皇后の伝説が残っており、直島は神功皇后が吉備の豪族とこの地で待ち合わせたことから古代は真知島(まちのしま)と呼ばれていたといいます。また、皇后の船団は小豆島に立ち寄って一息入れて休まれたと云われており、そのところにあった松を「息休みの松」といい、その場所を「伊喜末(いきすえ)」ということです。そこから小豆島の北海岸沖を進みますが、島の東北の突端にある岬の沖合で暴風雨により難破しそうになりました。そこでこの辺りに上陸して神楽を奏すると波もおさまったと云われています。それからここを神楽坂といい、それが蕪崎(かぶらざき)になったということです。
 神功皇后の船団が大和に向かっていることを知った香坂王と忍熊王は、戦うことを決意し、陣を張り皇后軍を待ち受けます。ところが、戦いを前に兄の香坂王は変死し、弟の忍熊王は上陸してきた皇后軍との戦い敗れます。こうして大和を奪還した皇后は、我が子を天皇の座につけ、武内宿禰の補佐を受けながら摂政として政務を執ったということです。

 神功皇后の「神功」という諡号(しごう)は、神勅に基づいて自ら軍を指揮して軍功をあげたことから、神(かみ)の功(いさお)とつけられたものです。また、身重の状態でありながら自ら軍を率いて海を渡って朝鮮半島を平定し、また、子を守って国内の乱を平定したということから、安産の神であると同時に、武の神としての神威も備え、勝運、厄除け、病魔退散などの御神徳もあるといわれ、全国各地の神社で祀られています。
 その息子の誉田別命すなわち応神天皇は、八幡神として信仰の対象とされ、宇佐八幡宮(大分県)を発祥として全国各地に広まり、今でも「八幡さま」として親しまれています。

●訪れてみたいところ

○多度津町の熊手八幡神社・榜立八幡神社・宿地神社
 神功皇后三韓征討の後、大和に向かう途上、讃岐に上陸したという伝承が、白方郷社の熊手八幡神社、多度津町の榜立八幡神社、四箇村の宿地神社、與島村村社の八幡神社(与島)に、それぞれ伝えられています。

小豆島
 ・「伊喜末」
 ・四海村社・八幡神社  「蕪崎」、「見目」、「尾形崎」などの地名もまた、皇后の御寄島によるもの  と、四海村社・八幡神社の由緒に伝えられています。
 ・四海村小江蕪村の「神鏡塚の碑」  神功皇后が着船したと云われる四海村小江蕪村(かぶらむ  ら)の地からは、幕末の嘉永年間に至って、一個の古い鏡が発掘し、これこそ、その神の神器であ  ろうということで、さらにこれを埋めて「神鏡塚の碑」を建設し、もって神功皇后の遺跡を表したとい  われています。

○檀の浦
 屋島の麓の海、檀の浦は、昔、神功皇后が祈りのために檀を建てられた長門の檀の浦の名によって、このように名づけられたのであろうといわれています。

○船越八幡神社
 大浜小学校の前にあり、応神天皇仲哀天皇神功皇后を祀る。かつての郷社で旧荘内村の総産土社でした。拝殿・絵馬堂には多くの絵馬があり、とりわけ加藤清正の絵馬は全国的にも少ない逸品とされています。
 荘内半島の先の部分はかつて「浦島」という島だったところで、陸繋島が発達して現在のような半島となったものです。半島の中ほどにある船越と大浜を結ぶ辺りはかつて海だったところで、船越という地名は島であったときの運河状態の海に船が通っていた名残だといわれています。

○住吉神社(女木島)
 伝承では、神功皇后一行が立ち寄ったとき、住吉大神を奉祀し、海路の御平安を祈ったということです。後に、島人らがそこに祠を建てて住吉大神を祀ったとい云われています。
 慶長9年に領主高原久右衛門次利が社殿を改築。元和10年に領主高原佐助が精舎一宇を建立。寛文3年に四代目領主高原内記仲昌が社殿を造営。
 その後、高原氏が退轉した後、直島・男木島とともに松平氏の領となる。正徳3年と元文4年に松平氏が造営。
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テーマ : 香川
ジャンル : 地域情報

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ほんとですよ

よくわかりませんが、今週末祭りなんで香川に帰ります。

古津家

熊手八幡さんは昔から、古津家が祭事を司っていますが、どういう訳があるのでしょう?
言い伝えでは、神功皇后が上陸した時、村の先頭になって、お世話をした為と聞いているのですが、どんなんでしょうね。
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