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(137)“瀬戸内の古代の風景が残る信仰の山”

 シルクロードという言葉を初めて使ったのは、ドイツの地理学者であるリヒトホーフェン(1833~1905年)だといわれています。リヒトホーフェンは、1877年に出版した著書の中で、ユーラシア大陸の東西を結ぶ交易路を始めて「ザイテンシュトラーセン」(絹の道)と呼び、その後、それが英訳されて「シルクロード」といわれるようになりました。
 リヒトホーフェンは、幕末の万延元年(1860)に瀬戸内海に立ち寄り、「広い区域に亙る優美な景色で、これ以上のものは世界の何処にもないであろう。将来この地方は、世界で最も魅力ある場所の一つとして高い評価をかち得、沢山の人を引き寄せることであろう。此処には到る処に生命と活動があり、幸福と繁栄の象徴がある。」と、その風景の美しさを称賛し、旅行記として世界に発表しました。
 そのリヒトホーフェンが称賛した瀬戸内の風景とは、静かな海面に多数の島々が点在し、多くの岬が突出した多島海的景観の美しさと、白砂青松の連なる海岸の美しさにあり、また、段々畑など古くから自然と人間の営みとが一体となった景観だといわれています。その特徴は、風化花崗岩の白砂とクロマツが形成する白砂青松、海に面するアカマツの生えた絶壁の崖地など、マツが景観の重要な要素を形成していたと考えられます。讃岐でも、津田の松原(琴林公園)や観音寺の有明浜(琴弾公園)は、瀬戸内を代表する白砂青松です。
 しかし、幕末から明治初期にかけての時期は、日本列島の自然が最も荒廃していたときだといわれており、特に瀬戸内海沿岸は製塩業が盛んであったことから、塩田近くでは多量の木が燃料として伐採され、ハゲ山が広がっていました。リヒトホーフェンも、その景観を、「それらの山々は、けわしく傾斜しているとはいえ、粗削りの形はどこにもなく、針葉樹の群を含む灌木で覆われている。数多くの露出個所が赤みを帯びた分解した土壌を示しているが、その土壌ははなはだ不毛に違いない。そのために、それぞれの山は全体が、赤みかかった荒涼たる外観を呈している」と記しています。

 リヒトホーフェンが訪れてきたときから約1600年前、3世紀頃の中国は三国時代(220~280年)でしたが、その三国の一つ魏(ぎ)の使者が、当時、倭(わ)と呼ばれた日本を訪れています。のちにその見聞は「魏志倭人伝」としてまとめられ、その中に女王・卑弥呼が治める邪馬台国のことが書かれていることはよく知られているところです。
 魏志倭人伝には、倭国は「土地は山険にして深林多く、草木茂盛・・・」であり、そこにはクスやカシなどの樹木が見られると記載されているということです。しかし、その中にマツの記載はないそうです。この記述から、魏志倭人伝の使者が見た倭の国の自然は、カシ・シイ・クス・タブなどの暖温帯照葉樹林で覆われ、うっそうとして黒々とした深い森だったと想像されています。この当時の瀬戸内沿岸の風景は、リヒトホーフェンが見たものとは全く様相が異なっていたと考えられます。卑弥呼が生きた時代からリヒトホーフェンが訪れてきたときまでの間に、瀬戸内海沿岸の自然は人によって手が加えられ、それに伴って風景も大きく変化していったのです。

 スギやヒノキなどの針葉樹に対して、温帯から熱帯を中心に分布し、葉が広くて平たい被子植物に属する木本を広葉樹といい、そのうち、生育に不適な季節になると全ての葉を落とすものを落葉広葉樹といいます。その樹冠つまり樹木の最上部は逆円錐形をしており、日本では、冬に葉を落とし、水分の消費を抑えて休眠状態で春を待ちます。一般的に、ある土地に生育している植物の集団を全体的にとらえて「植生」といいますが、日本における落葉広葉樹の自然植生は、水平的には平地では中部地方の山沿いから東北、北海道地方の南部にかけて、垂直的には本州南部では標高約1000m以上だといわれています。主な樹木はブナ、ミズナラ、カエデなどで、特にブナが中心になるので、ブナ帯とも呼ばれます。よく知られている白神山のブナ林はその自然植生の代表です。
 一方、広葉樹でも落葉する時期のない木を、常緑広葉樹といいます。樹冠は“もこもこ”と丸くなっており、葉は巾広で面積が大きく、初夏に新旧の葉を入れかえ、冬も青々と葉をつけます。熱帯から暖温帯にかけて通年の環境変化が少ない良好なところに生育します。常緑広葉樹の中でも暖温帯に生育するものは、冬の寒さに対する対策として葉が小さくて厚くなる傾向があり、また、葉の表面がロウ質の発達したクチクラ層で被われて陽光を受けるとテカテカ光ることから、「照葉樹」とも呼ばれています。主な樹木は、カシやシイ、クス、タブ、ヤブツバキ、サカキなどです。照葉樹林の林内は薄暗く、じめじめして、シーンと静まりかえっています。なお、地中海地方に見られるゲッケイジュやオリーブも暖温帯の常緑広葉樹ですが、夏期に雨が少ないため、それに対応して葉が硬くなっており硬葉樹とも呼ばれます。
 森林は長い年月をかけて気候的にできあがっていくものですが、照葉樹林の自然植生地帯は、アジアでは、ヒマラヤの南麓部からアッサム、東南アジア北部の山地、中国雲南省の高地、さらに揚子江の南側の山地を経て、日本列島の西南部と東アジアの暖温帯一帯に広がっています。日本列島においては、縄文時代前期の6500年前頃から、気候の温暖化により西日本の低地を中心に急速に拡大していき、倭国の時代にあたる弥生時代には、西日本の低地をびっしりと覆い、もうこれ以上変化しない極相林として安定したものと考えられています。
 ちなみに、西日本一帯を含めたアジアの照葉樹林帯では、ワラビ・クズなどを水に晒してアク抜きする方法、茶の葉を発酵させ加工して飲用する慣行、蚕から絹を作る技術、ウルシから漆器を作る技法、麹を発酵させた酒づくり、ミソ・納豆などの発酵食品づくり、コンニャクの製法、イモ類・アワ・ソバなどを栽培する焼畑農耕などの生活文化や、さらには神話・習俗においても共通の特色があることが指摘されています。これら地域を「照葉樹林文化圏」という概念でとらえ、日本文化をはじめ東アジアの伝統文化の基層を形づくる文化であると考える学説もあります。

 照葉樹林に覆われていた地域は気候も暖温であることから、そこには古くから人が住み着きました。人口が増加するにしたがって、食料、燃料、家屋、道具等を確保する必要があります。そこで、人は、田畑を開墾するために、また薪炭燃料や建築用材などを得るために照葉樹林の森を伐採していきました。そして、伐採した跡には、風・塩・砂に強くて痩せ地でも育ち火力の強いマツや、用材として加工しやすいスギ・ヒノキなど人が利用しやすい樹種を植林し、照葉樹林に置き換えていきました。また、人が再三の伐採などの人為的撹乱をしたことにより、照葉樹林は、コナラやアベマキ・クヌギなど落葉広葉樹の雑木林に移行していきました。
 ちなみに、マツは、6、7世紀にかけての飛鳥時代頃から急速に拡大したといわれています。これは、古墳に代わって寺院が建立されるなどにより、瓦を焼くための燃料、建築用材として多量の照葉樹林が伐採されていったためと考えられています。
 こうして、かつて日本列島を厚く蔽っていた原生の照葉樹林は、その大部分が失われていきました。わが国では、現在、原生の照葉樹林は、宮崎県綾町の照葉樹林地や、いわゆる「鎮守の森」といわれる寺社林、社寺林、とりわけ社叢などの一部例外を除き、まとまった面積のものはほとんど見られなくなってしまいました。
 その中で、瀬戸内海沿岸では、琴平町にある象頭山(琴平山)の金刀比羅宮社叢は、よく原生状態を残しており、全国的にも代表的で面積も広い原生林に近い亜極相の照葉樹林の森だといわれています。特に、この山のクスノキ林は、わが国のクスノキ林の北限地と考えられています。象頭山は、古くから神域として改変が禁止され、人の手が加えられてこなかったことから、原生状態をよく保ったものです。ちなみに、象頭山は昭和26年、天然記念物に指定されています。
 古伝によれば、太古の時代は、この辺りまで瀬戸内海の海水が深く湾入し、潮が常に山麓を洗い、湾奥に船の碇泊所が横たわっており、大物主神がここに行宮を営まれ、表日本経営の本拠地と定めて、中国、四国、九州の統治をされたといわれています。金刀比羅宮はその行宮跡に大物主神を奉斎したところで、のちに“海の神様”として広く親しまれるようになったものだと伝えられています。鬱蒼とした樹林に囲まれた象頭山の各所には、今も神の山という雰囲気が漂っています。卑弥呼が見ていた風景も、象頭山に見られるような照葉樹林の森の風景だったのではないでしょうか。

 このように、瀬戸内沿岸地域の元の自然植生は照葉樹林であり、マツ、雑木林、スギ・ヒノキなどは、人の手が入ったことにより、照葉樹から替わっていったものですが、人によって改変された植生も、人為的作用が加わらなくなると、その土地本来の元の植生に復帰していきます。これを「再極相化遷移」といいます。「遷移」とは、その土地で植物種が自然に交代して植生が変化していくことで、数百年から数千年単位のサイクルで繰り返しています。
 高度経済成長時代以降、我が国では、エネルギー源が、薪炭燃料から石炭・石油の化石燃料へ急速に転換していきました。また、農地肥料は、それまでの森林の落ち葉・下草を材料とした堆肥から化学肥料へ転換していきました。さらに、昭和38年に木材輸入が自由化され建築用材を外材に依存するようになりました。こうして、日本の多くの森林は人の手が入らず、放置されたままになっていきました。それに加えて、昭和30年代後半以降、マツクイムシが猛威をふるい、多くのマツ林が枯死しました。このため、放置されたままの雑木林や松枯れ地などが増加し、これらの森林には瀬戸内の本来の植生である照葉樹林へ徐々に移行する再極相化遷移が見られます。
 照葉樹林は、森から川に流れ出す降水のスピードが緩慢であるため緑のダムとして水源涵養の機能が高く、山火事にも耐性があり、魚つき林として河口付近に好漁場を確保するなど、多くの効用があります。したがって、照葉樹林への再極相化遷移を否定的に考える理由はありませんが、このままの再極相化遷移が進めば、リヒトホーフェンが見た瀬戸内の風景は、見られなくなってしまうでしょう。また、こうした再極相化遷移もすんなり進行しているわけではなく、放置されたスギ・ヒノキ人工林の水土保全機能の低下、モウソウチクの繁茂による竹害などが大きな問題となっています。

●訪れてみたいところ

象頭山金刀比羅宮社叢
 象頭山(琴平山)は、標高524mで、大きくは、①金刀比羅宮の建造物を中心に造られた庭園地、②スギ、ヒノキによる造林地、③自然林の3つの部分に分けられます。自然林は、ツブラジイ林、クスノキ林、ヤマモモ林などの原生林に近い亜極相の照葉樹林だといわれています。昭和26年天然記念物指定。
○皇子神社社叢
 小豆島町池田神浦(こうのうら)外浜。ウバメガシ、イブキなど照葉樹の群落が残っています。昭和3年天然記念物指定。
菅生(すがお)神社(両社八幡宮)社叢
屋島
 屋島北嶺のウバメガシの極相林があります。昭和9年天然記念物指定。
豊島
 豊島の最高峰(標高340m)である檀山(だんやま)中腹には、豊峰権現神社とその付近に常緑広葉樹の椎(スタジイ)を主体とした森(県指定自然記念物)があります。この森には樹齢250年、幹廻り4mの巨樹もあり、小豆島地域を中心とした瀬戸内海島嶼部の植生の中でも数少ない暖帯極相林の面影をとどめた貴重なものです。
○大滝山
 徳島との県境にある讃岐山脈の中でも、竜王山から大滝山、大川山を擁する区域は、平成4(1992)年に大滝大川県立自然公園に指定されています。大滝山(標高:946m)の山頂付近では、ブナの自然林を見ることができます。
○琴林公園
 さぬき市津田町にあり、通称、「津田の松原」として知られています。広さ約10ヘクタール、樹齢600年を超える根上がり松など、数千本の美しい老松群と前面1キロメートルに及ぶ白浜の海浜が調和した景勝地となっています。
○琴弾公園
 観音寺市の財田川河口近くの琴弾山と、その西側の有明浜一帯が県立琴弾公園に指定されています。ここには、白砂青松の松原を見ることができます。
○内海八幡神社社叢
 小豆島町内海馬木の西方、苗羽の西北方の海岸近くの花崗岩丘陵上に発達した社叢で、ウバメガシの極相林です。
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