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(136)“日本モダニズム建築の到達点といわれる香川県庁舎”


 パリやローマなどのヨーロッパの都市を歩くと、日本の都市の街並みと大きな違いがあることに気が付きます。ヨーロッパの都市には、あまり高くなくクラシカルな外観の個性的な建物が多く残っています。これに対して、日本では、全国どこの都市でも、四角い箱のような没個性的なビルばかりが目立ちます。それは、広く開けられた四角いガラス窓や、凹凸や装飾の少ない外壁をもち、外壁の色も白系統か薄く目立たない色のものであるという共通性を持っています。ヨーロッパと日本のこのような差異は、建築思想の受け入れ方の違いに基づくものです。
 中世ののち、19世紀以前のヨーロッパでは、古代ギリシャ・ローマに起源を持ち、ルネサンス建築で復興された建築様式が長く主流とされてきました。建築は建物の基本構成から細部の装飾に至るまでやり方が決まっており、建築家は過去の歴史的様式を深く理解し、その決まった枠の中で個性を発揮して芸術的な作品を造ることが求められました。これを“歴史主義”あるいは“様式主義”といます。ヨーロッパの都市に残っているクラシカルな外観の建物は、この歴史主義に基づくものです。
 日本でも、1868年の明治維新以降、文明開化により欧米の文物が導入されるのに伴い、歴史主義に基づく洋風建築物が建てられていきました。今でも、東京日本橋にある日本銀行本店や、高松でも百十四銀行高松支店(旧本店、大正15年:1926)に、それを見ることができます。ただし、この“歴史”主義とは、ギリシャ・ローマに始まる洋風建築のものであり、日本の伝統的和風建築のものではありません。

 20世紀に入ると、18、19世紀に起きた市民革命と産業革命以降の合理主義的・社会改革的な思想を背景に、“モダニズム”(近代主義)と呼ばれる実験的な芸術運動が各分野で起こります。モダニズムは従来の19世紀芸術に対して、伝統的な枠組にとらわれない表現を追求し、その後、未来派、キュビズム、シュールリアリズム、ポップアート等へと展開していきます。
 建築の分野でも、19世紀以前の様式建築を桎梏としてそこから離脱し、合理的な精神から成り立つ近代精神をベースに、人が快適な生活を送ることができるための経済的・合理的・機能的な現実に合った建築を造ろうという試みが行われるようになります。その背景には、技術革新により、鉄骨造や鉄筋コンクリート造が普及し、また大量生産のガラスなどの新しい素材が使われるようになったことと、また社会生活の多様化に応じて建築に様々な要求が求められるようになったことがあるといわれています。これを“モダン・ムーブメント”(近代運動)といい、これにより生まれた建築様式を“モダニズム建築”(近代主義建築)といいます。
 モダニズム建築は、民族や国境を超えた、世界共通の普遍的なデザインを目指すことから“インターナショナル・スタイル”とも呼ばれ、機能的・合理的で装飾のない直線的構成を持つ立方体を特徴とします。モダン・ムーブメントは、1920年代に西ヨーロッパで明確な形をとり、その後世界に広まっていき、各国で新しい建築を求めて様々な試行錯誤が繰り返されていきます。

 日本でもヨーロッパの動きに応じ、1920年代からモダニズム建築の理念が導入され、第二次世界大戦による中断を含みながらも急速に普及していきました。日本では洋風の歴史様式をまとった建築は否定され、装飾のない“豆腐のような”、“白い箱”といわれる機能性・合理性だけの無味乾燥な建物が主流を占めます。その背景としては、日露戦争から第1次世界大戦にかけての日本の工業生産の発展、また日本にはギリシャ・ローマに始まる洋風建築の歴史的伝統が存在しなかったことなどが考えられます。

 戦後の20世紀半ばになると、世界ではモダニズム建築の理念が普及し、国連本部ビル(1952年)に代表されるような装飾のない建物が一般的となり、白い箱ばかりの街並みが生れていきました。しかし、このような街並みについては、単調で味気ないという批判が起こり、モダニズム建築は次第に革新性を失っていきます。そして、モダニズム建築が世界各国にも普及していくに従い、それぞれの地域の伝統に適用した建築、抽象と伝統との折り合いがその課題となりました。
 日本では、洋風としての歴史主義が消えても、和風あるいは“日本らしさ”への追求までが消えたわけではなく、むしろ、桂離宮などの数奇屋建築とモダニズムの近親性が論じられ、柱と梁(はり)で構成される日本の伝統的建築の方が、煉瓦や石を積み上げて造る西洋の建築よりも、モダニズムの理念と適合していると主張されました。

 第二次世界大戦後、モダニズムの旗手として登場したのが丹下健三です。丹下はすでに戦時中、伊勢神宮の中に伝統と抽象の同居する形を見出していたといわれ、白く四角い箱のモダニズムを“衛生陶器”と揶揄し、新たなモダニズムへの追求を試みます。
 丹下の戦後における実質的なデビュー作が、昭和30年(1955)に完成した「広島ピースセンター」です。この建物は、モダニズム建築でありながら、日本の伝統を強く感じさせる作品として、丹下の名声を一気に高めます。なお、平成18年(2006)、戦後の建築物としては初めて国の重要文化財に指定されています。
 さらに、丹下が、日本の伝統表現を建物の構造全体にまで及ぼしたのが、昭和33年(1958)に完成した香川県庁舎(現・東館)です。広島ピースセンターでの伝統表現は、ルーバー(羽板と呼ばれる細長い板を平行に組んで板状にして取り付けたもの)という表面の“装飾”にほぼ限定されていましたが、香川県庁舎では、日本の寺社建築に見られる柱と梁の繊細な組み合わせが、鉄筋コンクリートで表現されました。特に、床とベランダを支える小梁は、構造的な強さを確保しつつ、極限まで細く薄くすることにより、その連続・反復する様子は、下から見上げた時、五重塔のようにイメージされました。香川県庁舎は瓦屋根や日本的な装飾を用いずに、人々の感性に日本的伝統を訴えかけたモダニズム建築でした。
 「構造と表現」は、モダニズム建築が最初から抱えていたテーマでもありますが、香川県庁舎(現東館)は日本的伝統という切り口でこの難題に初めて明確な解答を出し、世界へ発信した作品という点で高い評価を得ています。日本におけるモダニズム建築の到達点を世界に示したともいえるものです。
 なお、香川県庁舎(東館)が完成した年は、巨人軍の長嶋茂雄選手が4打席4三振デビューをし、東京タワーが完成しています。また、現在の天皇・皇后である明仁・皇太子と正田美智子さんが婚約を発表し、ミッチー・ブームが始まったときで、日本が高度経済成長に突き進んでいたころでした。
●訪れてみたいところ

香川県庁舎(東館)    この建物は、「開かれた庁舎」の先駆け的な建築物といわれています。
 平成15年9月に日本建築学会とドコモモ日本支部により、「日本のモダニズム建築100選」が選定されていますが、香川県では、香川県庁舎(東館)、百十四銀行本店、坂出人工土地の3つが選出されています。
 ドコモモ(DOCOMOMO)とは、“The Documentation and Conservation of buildings,sites and neighborhoods of the Modern Movement”(モダン・ムーブメント(近代運動)にかかわる建物と環境形成の記録調査および保存))の略称で、モダン・ムーブメントやその理論的な基盤であるモダニズムに歴史的価値を認め、それにかかわる建築物や資料を保存することの意義を訴えることを目的とする国際組織です。

○百十四銀行本店  昭和41年に竣工。

○百十四銀行高松支店(旧本店)

○香川県立体育館  丹下健三研究室等の設計により、昭和39年に建設されました。瀬戸内海の近くに建っていることから、和船をモチーフとしたといわれています。地元では「舟型」の体育館といわれています。

○坂出人工土地  坂出市街中央部において、不良住宅地区の改良とその周辺にある商店街の環境整備を目的として、昭和41年11月から47年3月までの5年4ヶ月の工期で施行された再開発です。面積約9,000平方メートルの地に、高さ5.3メートルの鉄筋コンクリートの人工地延べ6,781平方メートルをつくり、ここに139戸のアパートを建設し、その下に商店、駐車場、倉庫などがつくられました。

○県営一宮団地(高松市)  この団地には丹下健三が設計した3階建ての低層棟があります。
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平家落人

 コメントありがとうございます。筒井日向守孫兵衛については、高松市立図書館で調べた本に基づいて書きました。その本を私の記憶では三木町史と思っていたのですが、貴殿がお持ちの三木町史と記述内容が異なるようなので、私が図書館で見た本は別のもので、私の記憶違いかもしれません。失礼しました。
 このブログは、一般読者を念頭に、香川の歴史文化をおもしろく語り、観光ガイドブックになることを目指して書いております。 もちろん私自身歴史家ではなく、歴史学的検証はできていません。
 今後とも、お気づきの点があれば、ご指摘いただきたく、よろしくお願いします。
                       出来屋二郎

筒井日向守孫兵衛(承前)

筒井日向守孫兵衛の平家の落人説の出典を御教示いただき、感謝します。私の手元にある『三木町史』(昭和63年刊)には、孫兵衛は「戦国時代の末ごろ、九州の日向の国から移住し...」とあり、先に挙げた岩部撓氏の著書とほぼ同じ内容になっています。私が土地の古老に出典史料を尋ねたところ、これらの郷土史編纂にあたっては、担当者が孫兵衛の子孫(初代三木町長を出した津柳筒井家)に聴取し、その家伝をもとに書いたとのことで、史料名は判明しませんでした。従って、孫兵衛の日向からの移住説も伝承ということになります。
今回のこのブログで知った平家の落人説では、平宗盛の命により戦った武将孫兵衛が、破れて狩人に匿われ竹尾に至ったという話で、興味をそそられます。屋島合戦は寿永4年(1185)ですから、日向からの移住説の言うところの戦国時代の末とは時代的に約四百年の差があります。有名な津柳熊野神社前の樹齢800年とされる二本杉は、筒井氏の先祖が植えたという伝承があり、平家の落人説と時代的に整合しますが、先ほどの古老によれば、こちらの筒井家は孫兵衛とは家系的に繋がらないとのことで、歴史はなかなか一筋縄では行かないようです。いずれにせよ、平家の落人説という魅力的なシナリオを教えていただき、有難うございました。

筒井日向守孫兵衛

 筒井日向守孫兵衛が平家の落人だという伝承が残っていることは、「三木町史」と、「讃岐の伝説」(武田明・北条令子、昭和51年角川書店)に書かれています。
 いずれも、地元にそのような伝承が残っているという記載であり、その伝承が史実かどうかについては断言はされていません。

筒井日向守孫兵衛

“讃岐に残る平家落人伝説”で書かれている筒井日向守孫兵衛について調べていて、この貴重なサイトを見つけました。私も十年ほど前に、孫兵衛が住み着いた山奥の部落を訪れたことがありますが、確かに竹尾の山中には日向大明神があり、屋敷跡や一族の墓地が認められました。ただし、岩部撓著『神山乃歴史』(昭和30年刊)によれば、孫兵衛は「戦国時代の末頃、九州日向の国から移住し...(中略)...元和三年六月十五日病を以て没したが、郷土の人は深くその徳を偲んで、日向大明神として祀った。」とあります。元和三年は西暦1617年ですので、もしこれが史実だとすれば、平家の落人説とは話が合わないように思います。孫兵衛の平家の落人説は、どのような文献に書かれているのでしょうか。

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