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(135)“日本野球史上最大のライバル劇を演じた二人の讃岐男”

 日本における野球の発祥は、明治5年(1872)、アメリカ人教師のホーレス・ウィルソンが第一大学区第一番中学(現在の東京大学)で生徒たちに教えたのが最初だとされています。それを記念して、東京神田の神保町にある学士会館敷地内には、「日本野球発祥の地」の碑が建立されています。香川で野球が始まったのは、その22年後の明治27年、高松中学校(現在の県立高松高等学校)の校長がアメリカの「ベースボール技術書」を手にし、野球部を創設したときからだといわれています。
 以降、日本では学生野球を中心に普及していき、大正4年(1915)には、夏の甲子園といわれる全国高等学校野球選手権大会の前身である全国中等学校優勝野球大会の第1回大会が大阪の豊中で開催されます。また、大正13年には、春の甲子園といわれる選抜高等学校野球大会の前身である選抜中等学校野球大会の第1回大会が名古屋で開催されます。夏、春の甲子園大会が甲子園球場で行われるようになったのは、それぞれ第10回大会、第2回大会のときからです。
 さらに、大正14年(1925)秋からは東京六大学野球が始まり、学生野球が大学間のリーグ戦として行われるようになります。
 日本での本格的なプロ野球が始まったのは、昭和9年(1934)に来日したアメリカチームと対戦するために組織された全日本野球倶楽部(現在の読売巨人の前身)が結成されたのがきっかけで、昭和11年に巨人、阪神などによって日本職業野球連盟が発足します。
 この甲子園、東京六大学野球、プロ野球を通じて二人の讃岐男が、戦前から戦後にかけて、まるで運命の糸が絡み合うように、宿命の闘いを繰り広げます。その闘いのドラマは、あたかも戦国時代の武将を髣髴させ、日本中の観客を興奮と感動の渦に巻き込みました。
 その二人の讃岐男とは、巨人軍の監督として第二期黄金時代を築いた水原茂と、セ・パ両リーグ日本一を初めて達成し、「野球は筋書きのないドラマである」という名言を残した三原脩(おさむ)です。水原と三原は小次郎・武蔵にも例えられた永遠のライバルでした。

 水原は明治42年(1909)1月19日、香川県の高松市福田町で、父庄八・母章江の長男として生まれます。旧姓を竹林といい、のちに親子で五番丁(今の番町2丁目)の水原家へ養子に入ったことから水原姓を名乗ります。家業はクリーニング業を営んでいました。大正4年(1915)に築地尋常小学校へ入学し、3年のときに高松尋常高等小学校へ転校します。大正12年、14歳のときに高松商業学校(現高松商業高等学校)へ進みます。
 一方、三原は明治44年(1911)11月21日、現在のまんのう町で、父一彦・母政子の末っ子5男として生まれます。実家は大地主でした。大正7年(1918)、丸亀城西尋常小学校へ入学し、大正13年、13歳のとき丸亀中学校(現丸亀高等学校)へ進みます。しかし、野球に熱中したため野球嫌いの父親の意向で、昭和2年(1927)、4年生の秋、16歳のときに高松中学校へ転校します。ところが高松中学の校長が野球部に入ることを条件に転入を認めたことからさらに野球にのめり込んでいきます。
 高松商業は香川県における中等実学教育の中心で、一方、高松中学は県内第一の進学校でした。その校風は対照的で、大正の終わりから昭和の初めにかけて、高松商業と高松中学は野球で競い合い、高松の町も高中(たかちゅう)派と高商(たかしょう)派に別れて激しい応援合戦を繰り広げていました。高松中学の校長が三原に野球部に入ることを条件に転入を認めたのもこのような背景があったといわれています。
 水原が入ったころの高松商業野球部は、春の第1回選抜大会(大正13年)で全国優勝したのを皮切りに黄金時代を迎えようとしていました。水原の1年先輩で剛腕投手として知られた宮武三郎や同級生の井川喜代一、堀定一など、のちに慶応大学に進み、東京六大学野球やプロ野球界などで活躍する多くの逸材を輩出しています。
 水原は、高松商業では、投手・三塁手として活躍し、春夏合わせて5回甲子園へ出場しています。大正14年(1925)、3年生のとき、春の第2回選抜大会で全国準優勝し、その夏の第11回選手権大会では全国優勝を達成します。このときの高松商業の投手は宮武三郎でした。さらに、翌々年の昭和2年(1927)、5年生のとき、夏の第13回選手権大会でも全国優勝し、優勝投手にも輝きます。
 水原と三原は、夏の第13回選手権大会四国予選の準決勝において初めて対決しますが、このときは、三原を含めて高松中学は高松商業の水原の前に手も足も出ずノーヒットノーランで敗れています。しかし、水原が高松商業を卒業した後の昭和3年(1928)、三原のいる高松中学は高松商業を破り、夏の第14回選手権大会で甲子園へ出場します。三原は遊撃手として参加します。この大会で高松中学は準決勝戦まで進みますが、松本商業に「豪雨によるコールド負け」で無念の敗退をします。ちなみに、このとき高松中学野球部のマネージャーは、後に日本社会党中央執行委員長となる成田知巳でした。
 そのころの日本の野球は、学生野球が花盛りの時代で、甲子園の中等野球(今の高校野球)や東京六大学野球に観衆は熱狂していました。また実業団の都市対抗も人気を集めていましたが、プロ野球はまだ始まっていませんでした。このような中で、高松は野球が盛んなところで、大正13年から昭和5年の7年間における中等野球全国大会での成績は、高松商業が優勝2回、ベスト8が2回、それに次ぐ高松中学がベスト4が2回、ベスト8が1回という成績で、「野球王国」と呼ばれました。

 昭和3年(1928)、水原は、先輩の宮武三郎がいる慶応大学へ、同級の井川喜代一・堀定一とともに入ります。昭和4年春の慶応野球部メンバー27名のうち、高松商業出身者は、宮武、水原、井川、堀のほか野村栄一の5名がいました。
 一方、翌昭和4年、三原は早稲田大学へ入ります。中学校を卒業するとき、三原は旧制第四高等学校(現在の金沢大学)を受験しており、野球を続ける気持ちはなかったようです。受験の間に東京の親類のところへ行ったときにスカウトされたといいます。
 水原と三原の二人が早慶戦で最初に顔を合わせたのは、昭和4年5月21日のときです。このとき2年生の水原は三塁手と投手をやっていますが、新入生の三原はピンチ・ランナーに出ただけでした。この年の10月13日、二人は初対戦をします。水原は投手として登板し、三原は新人でしたが左翼手としてスターティング・メンバーに入ります。この対戦では、三原は水原に対して、三振を2回を喫しています。ちなみに昭和4年には世界大不況が始まっています。
 二人の本格的な対戦は、昭和5年5月17日の早慶戦のときからです。このとき、水原は5番・三塁手、三原は2番・二塁手して出場し、三原は宮武三郎投手から安打を放っています。その後、水原と三原の二人は東京六大学野球のスター選手として人気を博します。ちなみに、宮武三郎は、打者としても活躍した選手で、長嶋に破られるまでは東京六大学のホームラン記録を持っていました。昭和40年に野球殿堂入りをしています。
 昭和6年(1931)春季の早慶戦2回戦で、早大の三原は、6回慶大が2-2の同点とした直後の7回、2死満塁の場面でホームスチールを敢行します。このときの慶大の投手は水原でした。三原のホームスチールは左打者が打席に入っていたときに企てたもので、打者が左打席に立てば三塁走者の動きは相手捕手から丸見えになるばかりか投手は右投げの水原であり、通常ホームスチールが考えられない局面でした。このホームスチールで勝ち越した早大は流れをつかみ、その後も加点して6-3で対戦成績を1勝1敗とし、前年春からの早慶戦の連敗を5で止めています。ちなみに昭和6年は満州事変が勃発し、翌昭和7年には五・一五事件が発生しており、世相は暗くなる一方でした。
 しかし、三原は、昭和8年(1933)春季終了後、スター選手の座を捨て野球部を突然自主退部します。病床についていた郷里の父が眼の黒いうちに三原が身を固めるのを見たいと言い出したのですが、当時早大野球部は学生結婚を認めていなかったので、結婚を機にあっさり退部したというわけです。三原は早稲田を中退して一時、香川へ帰郷します。
 一方、水原も、昭和8年秋のリーグ戦終了後、慶応野球部を退部します。この当時の早慶戦は応援もかなり過熱気味だったようで、この年の秋のリーグ戦で、早大側応援席から投げ込まれたリンゴを慶大三塁手の水原が投げ返したことにより乱闘事件が発生し、その責任をとったというわけです。のちに「水原リンゴ事件」と呼ばれるこの事件以降、早慶戦では、早大と慶大のダック・アウト・応援席は、それぞれ一塁側、三塁側に固定されたといいます。

 昭和9年(1934)、水原は、奉天(今の中国瀋陽市)の自動車会社に入り、実業団野球に活躍の場を求めます。一方、三原は、香川から大阪へ出て就職し、都市対抗全大阪チームに参加します。
 この頃、わが国ではプロ野球を結成しようという動きが急速に高揚し、昭和9年(1934)、読売新聞社長の正力松太郎の招聘により、ベーブ・ルースらが加わるアメリカ大リーグ選抜チームが来日することになりました。そして、アメリカ選抜チームと対戦するため日本でも全日本チームが結成され、大阪にいた三原、満州にいた水原茂らが全日本チームに参加します。投手の沢村栄治もこのとき一緒に参加しています。三原23歳、水原25歳のときです。
 アメリカ選抜チームとの対戦では、水原と三原の二人は、交互に二塁を守り、三原は11試合出場で38打数6安打、水原は10試合出場で21打数2安打でした。なお、三原は両チームトップの5盗塁を記録します。ちなみに、静岡県草薙球場における試合で、沢村栄治投手がベーブ・ルース、ルー・ゲーリックらを三振にしとめる好投をした話はよく知られているところですが、このときの二塁手は水原でした。
 こうして日米野球の盛り上がりもあり、昭和9年12月26日、全日本チームを基礎としてわが国で初めてのプロ野球団体である「株式会社大日本東京野球倶楽部」(現在の読売巨人軍)が創設され、水原も三原も加わります。なお、大日本東京野球倶楽部と最初に契約し、我が国のプロ野球選手第1号となったのは、三原でした。
 翌、昭和10年2月、大日本東京野球倶楽部一行は105日間のアメリカ遠征に向かい、水原は沢村栄治らと参加します。しかし、三原は、陸軍から召集を受け、昭和10年1月に郷里の丸亀連隊に入隊したため参加できませんでした。これから本格的に活躍の場ができたと思っていた三原は悔しい思いをしたことでしょう。
 この年、大日本東京野球倶楽部が帰国すると、全国各地にプロ野球球団設立の動きが出てき、10月末に大坂タイガースができたのを皮きりに、名古屋軍、東京セネタース、阪急軍、大東京軍、名古屋金鯱軍の合計6球団が名乗りをあげます。そして翌昭和11年(1936)2月5日に巨人軍を含む7球団で「日本職業野球連盟」が結成され、初めてプロ野球のリーグ戦が始まります。
 昭和11年の前半、水原は巨人軍のメンバーとして第2回目のアメリカ遠征をしています。一方、軍隊にいた三原は、この年の7月末、1年余りで除隊することができ、早大の先輩である巨人軍藤本監督の要請で秋のリーグ戦から選手兼助監督として巨人軍に復帰します。そして、この年の秋の優勝チーム決定戦は、巨人軍と大阪タイガースとの戦いとなり、巨人軍は、トップ・二塁手三原、二番・三塁手水原で始まる打線で、沢村投手を擁してタイガースに勝ち初優勝をします。ちなみに、この年、二・二六事件が発生し、日本は軍国主義へ大きく傾いていきます。
 しかし、翌昭和12年7月、三原は、日華事変の勃発により再び召集され、丸亀連隊に入り、中国戦線へと赴きます。そして機関銃隊第1分隊長として大場鎮の激戦に加わり、このときの戦闘で左太腿に貫通銃創弾を受けます。翌昭和13年3月、除隊した三原は再び巨人軍に復帰しますが、審判とのトラブルにより、その年、27歳で現役を引退し、その後報知新聞のスポーツ記者に転向します。このときの報知新聞の社長は、高松中学、早大の先輩で高松出身の三木武吉でした。
 水原はその後も巨人軍で活躍し、スター選手となります。昭和12年に後楽園球場が竣工すると、オールスター紅白試合では後楽園球場第1号のホームランを打ちます。昭和15年(1940)にベストナイン、昭和17年(1942)にMVPにそれぞれ選ばれ、主として三塁手として活躍します。
 当然のことながら、現役選手としては、選手生活の長かった水原の方が活躍しており、通算では、三原が92安打、0本塁打であるのに対して、水原は昭和11年から昭和17年までの7年間で476安打、12本という成績でした。
 日米開戦直前の昭和16年10月、三原は、30歳のとき、3度目の召集令状を受け陸軍曹長として善通寺第十一師団の司令部勤務となり、楯師団に配属されビルマ戦線へ赴きます。一方、水原も昭和17年のシーズン終了間際の9月、33歳のときに応召されて丸亀歩兵連隊に入隊し、満州へ出征します。二人の戦争体験は悲惨を極め、三原は多くの兵士が病死したビルマでのインパール作戦に従軍し、水原はソ連軍に連行されてシベリアで強制労働に就かされます。

 ビルマ・タイ国境で終戦を迎えた三原は、敗戦後1年近くも経てた昭和21年(1946)6月、九死に一生を得て帰国します。35歳のときです。その後、読売新聞の記者として勤務していましたが、再び野球の世界に復帰するチャンスが廻ってきます。翌昭和22年、請われて総監督の立場で巨人軍に復帰したのです。1年目のその年は5位に終わりましたが、2年目の昭和23年には2位となります。
 一方、水原は、昭和24年(1949)7月20日、40歳のとき、4年間のシベリア抑留生活の末ようやく帰国し巨人軍に合流します。出征から7年ぶりでした。そしてその4日後の24日、巨人対大映の試合前にホームベースのところで「水原茂、ただいま帰ってまいりました」とマイクを握って報告し、ファンから大歓声を受けます。このとき、三原が花束を持って水原を迎え、二人は固い握手を交わします。
 戦前、水原は名プレイヤーとして多くのファンの人気を得ており、そのプレーを再び見たいという声が高まります。しかし、水原は既に現役選手としてプレーするには無理な年齢となっており、試合に勝つことを優先する三原が水原を起用することはありませんでした。そのような中、三原にとって3年目のこの年、巨人は2位に16ゲームという圧倒的な差をつけて優勝を果たします。
 ところが、巨人軍のチーム内から、「三原は水原に対し冷たい仕打ちをしている」という批判の声が出てきます。そして、その動きは、昭和24年のシーズン終了後、巨人選手たちが監督の三原を排斥して水原を擁立しようとするいわゆる「幻の連判状事件」に発展します。選手たちは、要求が聞き入れなければ巨人を退団して他球団に移籍するとの姿勢をほのめかしたといいます。慌てた球団はこれをみて「総監督・三原、監督・水原」の人事を発表し、昭和25年、ついに水原が三原のあとを受けて巨人の監督に就任します。
 三原は球団から説得されて専任の「総監督」に就きますが、それは事実上の棚上げでした。水原はこの謀議にはかかわっておらず、「優勝に導いた監督が辞めさせられるのは筋が通らない」と監督交代には否定的だったといいます。総監督に祭り上げられた三原に球団から仕事が与えられることはなく、退屈しのぎに新聞社で将棋や碁を打つ毎日だったといいます。第一線に立ち自己の考える野球をやりたいという三原にとっては、座敷牢に閉じこめられているような屈辱の日々でした。ちなみに、昭和25年は朝鮮戦争が始まったときで、翌昭和26年は日本がサンフランシスコ平和条約に調印してようやく占領統治から独立したときです。
 巨人を去ることを決意した三原は名前を修から脩に改名し、昭和25年のオフ、西鉄ライオンズの監督に就任します。そのときの心境を三原は、後に、「私は報復の思いを胸に秘めて関門海峡を渡った」と記しています。翌昭和26年、40歳のとき、初のキャンプで「我いつの日か中原(ちゅうげん)に覇を唱えん」と第一声を発し、巨人総監督時代の悶々とした気持ちを晴らすため、西鉄を強大なチームに育て上げて、日本シリーズで巨人と対戦して負かそうと誓ったといわれています。

 一方、巨人軍の監督に就任した水原は、就任1年目の昭和25年(1950)こそ3位でしたが、昭和26・27・28年と3年間連続でリーグ優勝と日本シリーズ制覇を果たします。そして、その名声はますます高まり、球界の寵児となります。一方、三原西鉄は、昭和26年が2位、27年が3位、28年が4位と、なかなか成果が出ず、我慢の日々が続きます。ちなみに、昭和28年から野球のテレビ中継が始まります。
 こうした中、昭和29年、ついに転機が訪れます。忍耐のチームづくりにより地力をつけた三原西鉄は、チーム初のパリーグ優勝を果たします。この年、セリーグでは中日ドラゴンズが優勝し、水原巨人は2位に終わります。日本シリーズでは、三原西鉄は中日ドラゴンズと対戦しますが、3勝4敗で敗れ、日本一の座へはまだ一歩及びませんでした。

 昭和30年(1955)、水原巨人は2年ぶりにセリーグ優勝を果たします。しかし、三原西鉄はパリーグ2位にとどまります。水原巨人はさらに2年ぶりの日本シリーズ制覇も果たします。
 昭和31年、水原巨人は前年に引続いてセリーグ優勝し、三原西鉄も2年ぶりにパリーグ優勝を果たします。ついに、三原と水原は日本シリーズで闘うことになったのです。当時、この2人の闘いはマスコミから「巌流島の決闘」と評されるほどの注目を集め、知将・三原vs勝負師・水原ともいわれました。そして、この闘いで、三原西鉄は4勝2敗で水原巨人を倒し、念願の「巨人を破っての日本一」を成し遂げます。ついに、三原は自分を追った巨人に対して、報復を果たしたのです。
 翌年の昭和32年も、三原西鉄と水原巨人は再度それぞれリーグ優勝を果たし、日本シリーズで対戦します。このときも、三原西鉄が水原巨人を打倒し、日本一に連続して輝きます。
 さらに翌年の昭和33年、三原西鉄と水原巨人は再々度それぞれリーグ優勝を果たし、3年連続、日本シリーズで対戦します。巨人には新人の長嶋が加わっていました。2年連続で三原西鉄に辛酸をなめさせられた水原巨人は初戦から3連勝し、日本中の者がとうとう水原巨人が三原西鉄の息の根を止めるときがやってきたと思いました。しかし第4戦以降、奇跡が起きたのです。西鉄はなんと稲尾和久が一人で4連投し、しかも4連勝したのです。まさに逆転の日本一で、三原の凄まじい執念が試合の流れを一気に変えたのではないかと思われました。この時稲尾が受けた称号が「神様・仏様・稲尾様」というものでした。ちなみに、この年の10月14日には東京タワーが完成しています。
 また、この頃の三原西鉄を打撃で支えたのが「怪童」といわれた中西太です。中西は、昭和8年4月11日に高松市で生まれ、高松市立第一高等学校に進み、昭和27年に西鉄に入団します。新人王を獲得し、翌昭和28年から31年にかけては4年連続で本塁打王に輝いています。ちなみに、三原の長女・敏子は中西太の妻であり、三原は中西の義父にあたります。
 昭和34年、パリーグでは鶴岡率いる南海(現ダイエー)が優勝し、三原西鉄は力を使い果たしたかのように4位に終わります。一方、水原巨人はセリーグ5連覇を果たし、セリーグの覇者としての地位を守ります。しかし、日本シリーズでは鶴岡南海に破れ、日本一の座に4度涙を呑みます。

 昭和34年(1959)のオフ、三原は、9年間在籍した西鉄を去り大洋監督に就任します。当時大洋は昭和29年から昭和34年まで6年連続最下位でした。いよいよ、水原と三原の二人が同じセリーグで闘うことになったのです。セリーグ覇者の地位を守ろうとする水原、これを攻め取ろうとする三原、二人はペナントレースで死闘を繰り広げます。
 昭和35年、三原大洋は開幕から6連敗を喫し、苦しい幕開けとなります。しかし、すぐさま選手起用が冴え渡り、水原巨人と激しく優勝を争います。そして、三原は「超二流選手」たちを巧く組み合わせる采配を取り、1点差試合を33勝17敗で勝ち越し、ついに水原巨人を突き放して大洋球団史上初のリーグ優勝を果たします。水原巨人は2位に終わり、またしても三原に煮え湯を飲まされる結果となりました。
 この年の日本シリーズで、三原大洋は、「ミサイル打線」との異名を持つ大毎オリオンズと対戦します。そして、1点差勝ちの4連勝を果たしセリーグから日本一に輝きます。前年度最下位からの日本一でした。両リーグから日本一を達成したのは三原が初めてでした。また監督として3球団での優勝はプロ野球史上初の快挙でした。この功績が評価され、三原はスポーツ界では初めて菊池寛賞を受賞します。この賞は同郷の文豪菊池寛を記念して設けられたものでした。
 なお、三原大洋が日本一となったこの年、新人の近藤昭仁(あきひと)が日本シリーズMVPに輝いています。近藤は、昭和13年4月1日に高松市で生まれ、高松第一高等学校、早稲田大学を経て、昭和35年に三原大洋に入団していました。
 このときが三原の絶頂のときでした。一方、水原はセリーグ6連覇を達成できなかった責任を取り、昭和25年から昭和35年まで11年間務めた巨人軍監督を追われるような形で退任します。勝者が出れば、必ず一方に敗者が出るという勝負の世界の厳しい掟でした。なお、水原の後任は川上哲治です。

 しかし、野球の世界はまだまだ水原を必要としていました。水原は、請われて昭和36年から東映(現日本ハム)の監督に就任したのです。今度は水原がパリーグに移ったのです。そして、翌昭和37年(1962)、リーグ優勝を果たし、さらに阪神を破って日本シリーズを制覇します。水原自身にとって5度目の日本一でした。巨人を追われた水原が東映を育てて巨人に一矢を報いたのです。
 水原は、東映監督を昭和42年まで7年間務め、その後昭和44年から中日の監督を3年間務めます。昭和46年を最後に62歳で監督を退任します。
 一方、三原は、8年間務めた大洋監督を辞した後、昭和43年から3年間近鉄バッファローズの監督に就きますが優勝は出来ず、その後、昭和46年から3年間ヤクルトに移籍しますが、3年連続でBクラスのままに終わり、昭和48年を最後に62歳で監督を退任します。ちなみに、水原の中日監督最終日の第一試合の相手は終世のライバル・三原率いるヤクルトでした。

 通算成績は、水原が1586勝1123敗73分け、三原が1687勝1453敗108分けでした。
リーグ優勝は、水原が昭和26~34年(昭和27年を除く)の巨人優勝8回と昭和37年の東映優勝1回の計9回であるのに対して、三原が昭和24年の巨人優勝1回と昭和29~33年(昭和30年を除く)の西鉄優勝4回それに昭和35年の大洋優勝1回の計6回です。
 日本シリーズ優勝は、水原が昭和26~30年(昭和29年を除く)の巨人優勝4回と昭和37年の東映優勝1回の計5回であるのに対して、三原が昭和31~33年の西鉄優勝3回と昭和35年の大洋優勝1回の計4回です。
 水原は昭和52年に、三原はその6年後の昭和58年にそれぞれ野球殿堂入りを果たします。昭和57年3月26日、水原逝去、享年74歳。その2年後の昭和59年2月6日、三原逝去、享年72歳。
 水原と三原は小次郎・武蔵にも例えられた永遠のライバルで、犬猿の仲とも評されましたが、ユニフォームを脱いだ後は交流があったといいます。水原は「三原は素晴らしいライバルだった。彼の先を見通す眼の確かさ、着眼点の素晴らしさには敬服した。」と、三原は「彼がいなかったら私の闘争心はあれほど燃えなかっただろう。そういう意味で感謝しなければならない。」と、それぞれ相手を称えたといいます。

  「讃岐国の風俗、気質弱く、邪智の人、百人に而(しか)して半分如(ごと)く斯(か)くなり。武士の風、別諂い(わけてへつらい)強く方便をもって立身をすべきなどと思う風儀の由(よし)、兼ねて聞き及ぶに不替形(ふたいけい)儀なり。」といわれるように、讃岐人は、利害にすばしこく、おべっかを使って出世しようという小利口で思慮の狭い「へらこい」県民性などと評され、昔から讃岐では大器が育たない風土ともいわれています。しかし、水原、三原の両監督は、このような讃岐人の典型から全く正反対の人で、自分の信念を、自分の実力でもって突き進んだ気骨のある讃岐男でした。
 高松市の中央公園には、水原と三原が並んで立っている像があります。その像を見ると、今まさに何かを二人が語ろうとしています。二人は永遠のライバルとして二人だけにしか分からない何かを語ろうとしているのでしょう。
●訪れてみたいところ

 水原・三原両監督にまつわる話・物・場所などは、香川では、意外に知られていません。水原の高松市五番丁(今の番町2丁目)の実家は、現在の高松高等学校敷地の北東隅から道路をはさんだ北側にあったようです。また、高松で三原が住んでいたところは、現在の高松工芸高校の西側にあったようです。
 讃岐には、「芸者、土地ではやらず」という諺があるように、外で名をあげても讃岐の人はそれをほめたたえないともいわれています。こういうところがこの諺のいうところなのかもしれません。残念なことです。

○中央公園
 この公園は、かつて高松市立中央球場があったところです。公園南側には、水原茂三原脩の銅像が建立されています。その台座には「野球王国高松を築いた名将」という字句が刻まれています。また、かつての内野の部分に造成された芝生広場には、本塁・一塁・二塁・三塁の位置にベースを模ったタイル石が埋め込まれています。
三原脩と水原茂

○県立高松商業高等学校
 明治33年(1900)年創立の香川県における実学の中心校です。水原が通っていた頃は、現在の県立中央病院のあたりにあったようです。野球部は明治42年の創部です。前身の旧制高松商業時代も含め、春の選抜大会には、4度決勝に進み、記念すべき第1回大会と、第32回大会で全国優勝を果たしています。夏の選手権大会には、第11回大会と第13回大会で全国優勝を果たしています。甲子園にはこれまで通算で44回(春25回、夏19回)出場し、ベスト8以上が21回を数え、通算54勝を挙げています。まさに甲子園の「古豪」といえるでしょう。地元では「タカショー」と呼ばれています。

○県立高松高等学校
 香川県では頂点に立つ進学校です。三原が通っていた頃は、現在の県立高松工芸高校のところにありました。前身の旧制高松中学時代も含め、夏の第1回大会に出場するなど甲子園に春3回、夏4回の計7回出場しています。平成16年度第77回選抜高等学校野球大会に21世紀枠として出場し、72年ぶりの選抜出場ということで話題になりました。現役のプロ選手には、横浜ベイスターズの松家卓弘(東大野球部出身)います。地元では「タカコー」と呼ばれています。

○市立高松第一高校
 高松地域では高松高校に次ぐ進学校です。甲子園には春1回、夏3回出場しています。元西鉄の中西太、横浜ベイスターズ元監督の近藤昭仁は同校の出身です。ウッチャンナンチャンの南原清隆も卒業生です。地元では「イチコー」と呼ばれています。
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野球王国

香川県が、『野球王国』と呼ばれているのは、創世記のプロ野球を支えた香川出身の三原脩と水原茂の存在があったからなのですね?
もっと、二人を記念した球場とか野球大会があれば楽しそうですね?
こんな偉業が埋もれていくのは残念です。

「野球は筋書きのないドラマである」も、三原脩の名言とは・・・・知りませんでした。

ありがとうございました。
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