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(134)“江戸時代初めに流行したパンクヘアのルーツは鬼十河”

 江戸時代、三代将軍徳川家光の頃、旗本小普請組の二男・三男の若者たちに、「十河額」という髪型が流行しました。それは前額から頭の中央にかけて月代(さかやき)を四角に大きく剃り込むもので、戦国時代の武将である十河一存(そごうかずまさ)がそのようなヘアスタイルしていました。十河一存は、「鬼十河」といわれた讃岐の猛将で、当時の若者たちがその武勇にあやかろうと真似をし始めたといわれています。
 徳川幕府も、三代将軍徳川家光の時代になると、戦乱も収束して安定期に入り、封建体制の確立により身分秩序も固定化されます。そして、武士の仕事も戦から幕府や藩を運営する行政的な事務に移っていき、武勇は無用の長物となっていきます。そうなると、下層武士の中でも特に家督を継げない次男以下の者たちは、いくら能力があっても、またいくら努力しても将来出世できるという見込みは全く無く、不平不満を蓄積させていきました。
 こうした封建社会から閉め出された下層武士や百姓の次男・三男、流民などの中から、派手で異様な身なりをして常軌を逸する目立った行動をする者が現れてきました。自分たちの不平不満を、武力により権力にぶつけるというほどの勇気は無いけれども、世間の耳目を自分たちに向けさせることにより発散しようということでしょう。当時、彼らは「傾者(かぶきもの)」と呼ばれました。
 こうした傾者は、徳川家直属の家臣である旗本の中にも現れます。下層の小普請組に属する不平分子には、幕府の直参であることを笠に着て、徒党を組んで町衆に乱暴・狼藉を働く者がいました。彼らは「旗本奴」と呼ばれ、上っ面だけの男伊達を競い、喧嘩と博打に明け暮れ、江戸市中を我が物顔で横行しました。その首領が悪名高い水野十郎左衛門(みずのじゅうろうざえもん)です。彼ら「旗本奴」が好んだヘアスタイルが「十河額」だったといわれています。十河額は、今風でいえば、パンクヘアのようなものでしょう。
 そして「旗本奴」に対抗して争ったもう一方のアウトロー集団が「町奴(まちやっこ)」です。その親分である幡随院長兵衛(ばんずいいんちょうべえ)と水野十郎左衛門との争いは芝居の題材にも使われ、よく知られた物語です。

 十河氏は神櫛王(かんぐしおう)の末裔といわれる植田氏の支族で、南北朝時代の初め頃から現在の高松市南部の山田辺りで勢力を伸ばし始めました。そのきっかけは、貞治元年(1362)、南朝方についた細川清氏が、勢力挽回のため讃岐の三木郡白山の麓に陣を構えて兵を募ったときの出来事だといわれています。清氏の呼びかけに、讃岐の諸豪族のうち、植田三郎景保の当時18歳であった末子・十河十郎吉保がまず応じ、次いで長兄の神内次郎景辰と次兄の三谷八郎景之が加わりました。このとき、清氏が、「十河は庶子であるが、惣領の挙動だ」といって、十河氏を植田一族の惣領に定めたということです。十河氏の家紋である檜扇は、このときに清氏から授けられた檜扇によるということです。清氏が細川頼之に敗れた後、十河氏は細川京兆家の被官となります。
 十河一存(そごうかずまさ)は、天文元年(1532)に、阿波の三好元長の四男として生まれます。通称を又四郎といい、讃岐の国人・十河景滋に子供が無かったのでその養子となり、後に一存と名を改め讃岐守と称しました。織田信長が生まれたのが天文3年(1534)ですから、信長と同世代といえるでしょう。
 阿波の三好氏は、甲斐源氏・小笠原長清を始祖とし、鎌倉時代に承久の乱での功績により阿波守護となり、その後、美馬・三好郡を与えられ三好姓を名乗るようになったといわれています。室町幕府が開かれると、阿波は讃岐とともに細川氏の領国となり、三好氏は南北朝時代には宮方に組みしていましたが、やがて細川氏に下りその重臣となった家柄です。

 細川阿波守護家に仕えていた三好氏が頭角を現し始めたのは、細川京兆家の家督をめぐる永正の錯乱(永正4年(1507))が勃発したとき、一存の曽祖父に当たる三好之長(ゆきなが)が、管領細川政元の養子となった阿波守護家出身の細川澄元(すみもと)を支え、各地を転戦して活躍したときからです。之長の後は、その孫の三好元長が、澄元の子で幼君の細川晴元を支えて、ついには管領に擁立します。
 十河氏と三好氏との関係は、十河景滋が寒川元政と数年にわたる争いをしていたとき、大永6年(1526)に、三好元長が十河氏の求めで清水越えをして援軍に出向いたことに始まります。このとき、三好元長の軍勢は、阿讃国境の津柳(現在の三木町)で待ち伏せをしていた昼寝城主寒川元政にさんざん蹴散らされたといわれています。
 三好元長は、細川家中において随一の勢力となりますが、その台頭に脅威を感じた細川晴元が、三好一族で元長の台頭を妬んだ三好政長らの讒言を入れたため、元長は天文元年(1532)に自害に追い込まれます。
 一時は衰退した三好氏ですが、元長の後を継いだ三好長慶(ながよし、大永2年(1522)生)は、弟の三好義賢(よしかた、のちに実休と号した。大永7年(1527)生)、安宅冬康(享禄元年(1528)生)、十河一存の3人の弟と協力して、細川家中において父以上の勢力を築き上げていきます。ちなみに、長慶は、武田信玄(大永元年(1521)11月生)とほぼ同じ頃の生まれです。すぐ下の弟の義賢は阿波を治め、二番目の弟の冬康は淡路の安宅氏を継いで安宅水軍を率います。この三好四兄弟は、それぞれの本拠である阿波・淡路・讃岐を固め、三好長慶の京畿における活躍を支えます。

 十河一存は讃岐で国人の寒川氏と度々戦っていますが、あるとき、寒川氏の領内に攻め入ったときに、長尾の辺りで合戦となり、寒川軍の神内左衛門に槍で左腕を突き刺されます。一存は、太刀で槍を撃ち折り、左衛門を切り倒した後、負傷した傷口に塩を塗りこんで消毒し、その上から藤の蔓(かずら)をぐるぐる巻きにして血を止め、その治療が終ると、また何食わぬ顔して戦闘を続け、やがて勝利を得て、平然と帰陣していったといわれています。この時から一存は、「鬼十河」または「夜叉十河」と、その猛勇を世にうたわれることになりました。以後その瘢(あと)を見たものは無いといいます。一存は前髪をぜんぶ引き抜き、さらに月代を大きく広げて剃り上げた髪型をしており、多くの武士が真似たということです。これが「十河額」の起源です。しかし、実際には、一存は肌が弱かったらしく、長時間兜をかぶっていると、汗で蒸れて湿疹になってしまうので、それを防ぐための実用的な髪型だったようです。

 天文18年(1549)6月、一存の長兄・長慶は、細川晴元、三好政長(宗三)らに対する父・元長の復讐に立ち上がり、政長を摂津国江口において破ります。これを江口の戦いといい、一存は三人の兄たちを差置いて勲功第一の活躍をします。この一戦で三好氏は、畿内を制圧して入京を果たし、主家細川家を完全に凌ぐ勢力となります。細川晴元の政権は崩壊し、三好一族が名実ともに畿内の支配者となります。ちなみに、織田信長が父信秀の家督を継いだのが天文20年(1551)3月のことです。
 天文21年(1552)、長慶は、将軍足利義輝(よしてる)を京に迎え、将軍足利義輝-管領細川氏綱-三好長慶という体制に移行しますが、実権は長慶が握り、義輝も氏綱も傀儡に過ぎませんでした。また、この年、阿波にいた長慶の弟・義賢(実休)が主君細川持隆を討ち、実質的に阿波の国主の地位に就きます。
 一方、讃岐では、天文22年(1553)、三好義賢(実休)が、弟の十河一存に命じて東讃の安富盛方・寒川政国と、香川・阿野郡を領有する香西元政を服従させ、続いて、多度・三野・豊田郡を領する香川之景を服従させようとします。しかし、之景が応じないため、義賢(実休)は、永禄元年(1558)8月、阿波・淡路の兵と寒川・安富・植田・香西氏の兵を率いて、9月25日善通寺に18,000の兵で布陣しました。香川氏は6,000の兵で天霧城に籠城し、城はなかなか落ちませんでした。しかし、結局、香川氏は降伏を余儀なくされ、讃岐は阿波三好氏の支配下に組み入れられます。なお、三好軍が善通寺から撤収するとき、火が出、堂塔のほとんどが灰燼に帰しました。
 こうして阿波、淡路、讃岐の三国が三好氏の領国となり、細川氏の旧家臣も大半が三好氏に従い、三好氏は絶頂期迎えます。永禄3年(1560)には、一存は畠山高政を追って岸和田城主となっています。ちなみに、この年は桶狭間の戦いがあった年です。
 長慶は河内の飯盛城を本拠とし、長慶を中心とする三好四兄弟の勢力は、畿内(摂津、河内、大和、丹波、山城、和泉)や四国(阿波、讃岐、淡路)の9カ国(今の大阪府と、徳島、香川、奈良三県、さらに兵庫県南東部、京都府南部)と播磨、伊予、土佐の一部まで及びました。

 ところが三好四兄弟の布陣は早い時期に崩れていきます。一存は疱瘡を患って、療養のため有馬温泉へ向かいます。途中、松永久秀の見舞いを受けますが、このとき、一存が葦毛の馬に乗っているのを見て、久秀は「有馬権現様は葦毛の馬を嫌うから、別の馬に乗りかえられい」と忠告しました。一存は虫が好かない久秀の言うことなど聞かずに出かけ、落馬し、その傷がもとで永禄4年(1561)3月、若くして亡くなります。なお、松永久秀に暗殺されたという説もあります。ちなみに、この年の9月、山本勘助が討死した川中島の戦いが行われています。
 また、翌年の永禄5年(1562)には、次兄の三好義賢(実休)が戦死し、すぐ上の兄安宅冬康は松永久秀の讒言を信じた長慶によって誅殺されます
 永禄7年(1564)、三好家当主の長慶も亡くなります。長慶は安宅冬康の無実を後で知り、悔い悩みながら没したといいます。

 三好長慶が没すると、十河一存の実子で養子の義継が三好宗家を継ぎますが、若年のため家臣の三好三人衆(三好長逸・三好政康・石成友通)と三好家執事の松永久秀が後見しますが、三好三人衆と松永久秀と対立するようになり、一進一退の争いを繰り広げます。このような状況のときの永禄11年(1568)、織田信長が怒濤の入洛をし、三好の勢力は畿内から追われていきます。
 長慶は、織田信長が永禄11年(1568)に上洛する前の天文18年(1549)から永禄7年(1564)の約15年間にわたって、都にあって天下に号令したことから、戦国時代初の天下人といわれます。
●訪れてみたいところ

○十河城跡(現在の称念寺)
 高松市十河東町にあります。十河城は、南北朝時代に十河氏によって築かれ、その後十河氏の居城だったところです。現在は「称念寺(しょうねんじ)」という浄土宗の寺の境内となっており、寺が本の丸跡といわれています。鯱がのった城の山門、十河一存・存保の墓などが残っています。現在の城は称念寺になっている。
 十河城は、阿波三好氏の讃岐攻略の拠点になった城です。細川氏に代わって阿波の総主となった三好実休は、弟の十河一存とともに讃岐の諸氏を下します。しかし、西讃岐の香川之景(ゆきかげ)だけは、中国の毛利氏を頼り、三好氏に下りませんでした。永禄元年(1558)、実休は阿讃連合軍1万8千余を差し向けて、善通寺を本陣として香川氏を攻撃しました。香川之景は天霧城に篭城して抵抗しましたが、和議を受け入れ降りました。このとき、三好の兵が善通寺を去った後、人無き所から出火して善通寺の大伽藍が灰燼に帰しました。
 その後、西讃岐を押さえた土佐の長宗我部元親は、天正11年(1583)に引田で十河氏を助けにきた秀吉家臣の仙石秀久を打ち破り、翌12年、十河城を包囲します。当時、秀吉と家康は小牧・長久手で戦っていました。元親は全力を投じて6月についに落城させ、存保は逃亡しました。翌13年、秀吉の四国征討軍が阿波、讃岐、伊予と攻め込み、長宗我部氏は降伏し、城は十河存保が城主として返り咲きます。しかし翌14年に十河存保が島津征伐に討死し、十河氏も解体されて、城も廃城となりました。

○三木町奥山の津柳(つやなぎ)
 大永6年(1526)、阿波から津柳を通って讃岐の寒川郡に入ろうとした三好元長の軍勢は、津柳で待ち伏せをしていた昼寝城主寒川元政にさんざん蹴散らされたといわれ、この辺りには「合戦田(かせんだ)」という地名が残っています。
 津柳の集落には、貞治5年(1366)創祀と伝えられる熊野神社があり、境内には樹齢600年といわれる「兄弟杉」と呼ばれる大きな2本の杉の巨木があります。

○昼寝城
 さぬき市長尾町前山の昼寝山(標高455m)の山上にあります。讃岐の国人・寒川氏の拠点だったところです。寒川氏は、守護細川氏の家臣として大内・寒川両郡を領有し、応仁の乱では、細川勝元に従って参戦し、相国寺合戦で勇名を馳せました。戦国時代は、王佐山城主・三谷氏、雨滝城主・安富氏、十河城主・十河氏らと争います。

○天霧城跡
 天霧山(標高360m)には、大化の改新後の702年に白方軍団の要城が設置されていたといいます。室町時代の初期、香川景則はこの山に城を築きます。城の遺構には「天守台跡」、「砦跡」、「切通(きりとうし)」、「井戸」、「馬道(うまみち)」、「犬返し(いぬがえし)」などがあります。またこの城にまつわる伝説には「白米城物語」、「尼斬り城物語」があります。この城は峻険な自然を巧みに利用しており、千早城(ちはやじょう)とならぶ中世を代表する貴重な山岳城跡といわれています。
 香川氏は相模国の香川郷(神奈川県茅ヶ崎市郊外)の出といわれ、白峰合戦の功により多度、三野、豊田の西讃三郡を与えられ、多度津本台山に居館を置き天霧山に城を築きます。
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