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(133)“細川京兆家のお膝元だった讃岐”

 平成5年(1993)、初めて非自民党連立政権が成立しましたが、そのときの内閣総理大臣は、熊本県知事を務めた後、国政に出た細川護熙(もりひろ)氏で、その先祖が肥後熊本藩の藩主だということはよく知られた話です。肥後熊本藩主の直接の先祖は、戦国時代に活躍した細川藤孝(幽斎)という武将です。幽斎は、はじめ室町幕府最後の第15代将軍足利義昭に仕えましたが、のちに、長男の忠興とともに織田信長を経て豊臣秀吉配下の部将として活躍しました。関ヶ原の合戦では徳川方につき、そのとき、明智光秀の娘で忠興の妻であるガラシャが西軍の人質になることを拒んで自害したという話は、よくテレビや映画の中で採り上げられています。戦後、忠興は、功により豊前小倉藩39万9千石を経て肥後熊本藩54万石を領し、明治維新に至りました。
 しかし、その祖はもっとさかのぼり、鎌倉時代に足利氏の庶流が三河国額田郡細川郷に住んだことから、地名にちなんで細川を称したことに始まります。そして、細川氏が日本史上主役を演じたのは、室町幕府において、斯波氏・畠山氏とともに三管領の一家として権勢を振るったときです。細川一族は、南北朝の早期に、畿内及び東瀬戸内海沿岸を中心に8ケ国(摂津・和泉・丹波・讃岐・土佐・阿波・淡路・備中)におよぶ世襲分国を獲得し、室町幕府において確固たる地位を占めました。このとき、讃岐は京兆家(けいちょうけ)と呼ばれる細川氏嫡流家のお膝元だったところで、その重要な勢力基盤の地でした。今もその名残が讃岐には残されています。

 細川氏が室町幕府内で確固たる地位を築いたのは、細川頼之(よりゆき)の功労が大であったといわれています。頼之は、南朝方に走った従兄弟の細川清氏を讃岐の白峯合戦で破り、細川一門で随一の実力者となって幕府内で頭角を現していきます。そして、阿波・讃岐・土佐・伊予の守護職を兼任して四国管領と呼ばれ、讃岐の宇多津に本拠地を構えました。その後、京に上り、管領となって幼少の第2代将軍足利義満を補佐します。いったんは康暦の政変(天授5年/康暦元年(1379))で失脚しますが、復帰して管領となった弟で養子の頼元(よりもと)を幕府宿老として補佐し、明徳の乱では山名氏を破り丹波国を分国に加えます。
 頼之から細川氏惣領家の家督を継いだ頼元は、讃岐・丹波・土佐の守護職を継承するとともに、新たに摂津の守護職を得て、讃岐・摂津・丹波・土佐の4カ国の守護職を兼帯し、従四位下右京大夫に任ぜられます。以後、頼之・頼元系の細川氏は、代々右京大夫の官途を踏襲し、右京大夫の唐名を京兆と呼ぶことから、京兆家と呼ばれました。京兆家当主は、讃岐・摂津・丹波・土佐の4カ国守護職を世襲し、幕府管領に任ぜられる家格でした。頼元のあと、京兆家の家督は、満元(みつもと)→持元(もちもと)→持之(もちゆき)→勝元→政元と受け継がれていきます。この中で最も有名な人物が、応仁の乱(1467―77年)のときの東軍の将であった細川勝元です。
 また、頼之の弟らを祖とする細川氏傍系は、阿波・淡路・和泉・備中4カ国の守護職を占め、それぞれ阿波守護家、淡路守護家、和泉上守護家、和泉下守護家、備中守護家として京兆家を支えます。中でも、阿波守護家は、頼之からその弟の頼有を経て、さらにその弟の詮春の子・義之に伝えられ、その系統に継がれていきます。京兆家を上屋形と呼ぶのに対し、阿波守護家は下屋形あるいは阿波屋形と呼ばれ、庶流家の中では京兆家に次ぐ高い家格を有していました。なお、頼之が持っていた伊予守護職は、康暦の政変以後、河野氏に復帰しています。
 こうして細川一族は、畿内及び東瀬戸内海沿岸8ケ国(摂津・和泉・丹波・讃岐・土佐・阿波・淡路・備中)において、京兆家を中心とした同族連合体とも言うべき集団を形成し、頼之から政元に至るまでの約150年間、室町幕府内で最大の勢力を持つ守護大名としての地位を保ち続け、その権勢は勝元と政元の代になって絶頂期を迎えます。この間、讃岐は、頼之以来の京兆家直轄地だったところで、京兆家の勢力を支えたるための戦略上の要衝でした。これは讃岐を押さえれば瀬戸内海の海上交通権を掌握できたことによると考えられます。そして、京兆家の讃岐経営の中心都市だったところが宇多津でした。宇多津の港には、京と讃岐を往来する多くの船が出入りしていたと思われます。

 京兆家は幕府の管領となる家柄であったため、その当主である讃岐守護本人は常に在京しており、讃岐には被官からなる守護代が置かれました。応永年間(1394~1428)初頭から讃岐では、安富氏、香川氏がそれぞれ東と西を半ばずつ担当するという両守護代制がとられ、安富氏は本城を雨滝城に置き、香川氏は多度津本台山に居館を構え、天霧城を詰城としました。しかし、安富氏・香川氏も京兆家の重臣であったため在京することが多く、讃岐には一族の中から又守護代が置かれました。この2氏のほか、安富氏の所領には香西氏、十河氏、寒川氏という有力な国人がいました。
 これらの讃岐武士は、直参として京兆家家臣団の中核を構成し、京へ上がり、京兆家に近侍して内衆や奉行人としてその家政に参加して活躍しました。特に香西氏は応永21年(1414)から永享3年(1431)まで、京兆家の被官として丹波守護代を務めています。応仁の乱のときの勝元側東軍の主力戦力も讃岐武士で、安富・香西・奈良・香川氏は細川四天王と呼ばれました。当時、讃岐武士は、京兆家の権威を背景に、京において大きな勢力を張っていました。

 しかし、隆盛を誇った京兆家も、勝元のあとを継いで京兆家の当主となった政元の代から家督をめぐって内紛が始まり、急速にその勢力を低下させていきます。明応2年(1493)4月、政元は対立していた将軍・足利義稙(よしたね)を追放して新たに足利義澄(よしずみ)を将軍とします。そして将軍職を傀儡化し、幕府の実権を掌握して「半将軍」とまで呼ばれる専制体制を確立します。ところが、修験道に凝り、生涯女性を傍に寄せなかったため実子がなく、関白九条家から澄之(すみゆき)、阿波守護家から澄元(すみもと)、京兆家庶流から高国の3人の養子を迎えます。その後、この3人がそれぞれの被官や諸勢力と結びつき、京兆家の家督をめぐって争いを起こし、細川一族とその家臣団を内紛の渦に巻き込んでいきました。
 最初に、澄之派と澄元派の対立が表面化します。澄之には香西元長ら讃岐武士が、澄元には三好之長(ゆきなが)ら阿波武士がそれぞれ後ろ盾となります。永正3年(1506)、澄元が之長に擁されて阿波から上洛すると、政元は京兆家の分国であった丹波を澄之に、摂津を澄元にそれぞれ分割継承させますが、これに反発した澄之派の香西元長と摂津守護代薬師寺長忠は、永正4(1507)年6月、政元が湯殿で行水をしているところに刺客を差し向けて殺害し、澄之を京兆家の家督に擁立します。政元の死によって、頼之・頼元系統の京兆家はここに断絶します。これに反撃した澄元派は、細川高国らの支援をえて澄之と香西元長、安富元治、香川満景ら在京の讃岐武士を倒し、澄元を京兆家の家督に据えます。
 これにより京においては、澄之派に属した讃岐武士の勢力が一掃され、澄元派に属した阿波の三好之長が澄元の後見人として勢力を伸ばします。一方、讃岐が京兆家の本拠地だったという時代も政元の死によって終焉を迎え、その支配を脱した讃岐各地の国人・土豪たちによる群雄割拠の様相となっていきました。そして、この讃岐国内の混乱に乗じて阿波の三好の勢力が讃岐に及んでくることになります。

 その後も京兆家の家督争いは続き、永正5年(1508)、周防の大内義興が前将軍足利義稙を擁して上洛すると、高国は澄元派から離反して大内義興と結び、将軍足利義澄並びに管領細川澄元とその家臣三好之長を京から追い落とします。将軍に復帰した義稙のもと、高国は京兆家の家督を継承して管領に任じられ、大内義興らと連合政権を立ち上げます。しかし、京兆家の家督争いはこれに止まらず、高国と阿波に雌伏した澄元との争いは、将軍家の家督争いも巻き込んでその後も続きます。これを永正の錯乱、両細川の乱といい、政元が暗殺されて25年目の天文元年(1532)に、澄元と之長の遺志を継いだ細川晴元(澄元の子)と三好元長(之長の孫)が、摂津天王寺の戦いで高国を打ち破り、切腹させることによってようやく収束します。この合戦を大物(だいもつ)崩れといい、その後、阿波細川家から出た細川晴元が京兆家の家督を継ぎます。
 しかし、今度は、晴元とその家臣の三好元長との対立が始まります。両細川の乱の間、阿波から出た細川氏を支えたのは三好氏の軍事力であり、三好氏の勢力が細川氏を凌ぐようになっていたからです。天文元年(1532)、晴元は、元長の台頭を妬んだ三好一族の三好政長らの讒言を入れ、一向一揆と結んで元長を自害に追い込みます。そして、義晴を傀儡将軍とし管領となって幕政を執ります。その間、元長の子・三好長慶は父を晴元に討たれたものの、失地を回復してその家臣として頭角を現していきます。
 天文11年(1543年)、高国の養子・細川氏綱が挙兵したことにより、細川家の内紛が再燃します。初めは晴元側にたっていた長慶ですが、父が晴元によって自殺に追い込まれたことを知り、氏綱側に寝返ります。天文18年(1549年)、晴元と三好政長は摂津江口の戦いでに長慶に敗れ、政長は討ち死し、晴元は前将軍義晴と将軍義輝父子と共に近江に逃亡します。
 以後、細川氏綱を擁立した三好長慶が京都に入り、事実上畿内は長慶の制圧下に入ります。天文21年(1552)、長慶は将軍義輝(よしてる)を京都に迎え入れ、氏綱に京兆家の家督を継がせ、管領職に補任され、ここにおいて、永正4年(1507)の細川政元の暗殺に端を発した約45年間にわたる争いはようやく収束します。しかし、この争いにより、将軍家と京兆家は全くその権威を失墜し、傀儡化されます。以後、幕政の実権は長慶が掌握し、実体は三好政権というものでした。晴元はその後も復権を策して長慶との争いを続けますが、ついに政権に返り咲くことはなく、永禄6年(1563)に病死します。
 永禄11年(1568)、織田信長が足利義昭を擁立して怒濤の入洛を果たし、畿内から三好氏の勢力を一掃すると、晴元の嫡子・細川昭元は信長に属しその妹婿となり名を信良と改めます。しかし、もはや政治的に何ら影響を及ぼす存在ではなく、家運が回復することはありませんでした。その後、昭元の嫡子・細川元勝(頼範)は豊臣秀頼の近臣として大坂城に在り、大坂の陣の後、讃岐に隠棲したとも、常陸宍戸藩の秋田氏に仕えたともいわれています。
 一方、細川氏傍流の和泉上守護家出身の細川藤孝(幽斎)は、初めは足利義昭の側近としてその将軍職就任に奔走していましたが、後には息子の忠興とともに織田信長を経て豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の戦いで徳川側につき、江戸時代を迎えることになります。

【関連記事】
○“乃木希典大将の先祖が討死した南北朝の合戦
○“室町将軍足利義満の宰相となった讃岐守護
○“応仁の乱で活躍した讃岐武士
○“室町幕府管領細川政元を暗殺した讃岐武士

●訪れてみたいところ

○宇多津の多聞院と円通寺
 この2つの寺のある辺りの地域が細川京兆家の讃岐守護所のあったところだと考えられています。

○高松市歴史資料館
 応仁の乱の7年前にあたる寛正元年(1460)、京兆家当主で讃岐守護の細川勝元は、讃岐国に触書を出しています。これは田村神社壁書として伝えられ、現在、高松市歴史資料館で展示されています。

○志度寺
 四国霊場第八十六番札所です。志度寺には、讃岐の守護細川家が造営し、寄進した日本に三つしかないという曲水式庭園があります。これは、戦後、わが国造園の大家である重森三玲によって明らかにされ、その指導のもとに昭和37年に復元されました。面積は3,300平方メートルです。
 曲水式庭園はもともと中国からはいってきた造園方法で、池水は入江が多いのが特徴とされています。堀の上手から流す酒盃で、参集の詩人が、酒をいただくまでに詩か歌をつくるという一種の遊びに使われ、わが国でも、平安時代の貴族の間で盛んに行われました。池中の島は、志度寺縁起にちなんで竜蛇の形と真珠島とを模したものといわれています。

○さぬき市長尾町の極楽寺
 旧長尾町亀鶴公園の北500mにあり、号を紫雲山宝蔵院といいます。真言宗嵯峨大覚寺派に属します。本尊は藤原時代の作といわれる薬師如来の木造立像です。「極楽寺宝蔵院古暦記」によると、応仁の乱のときの文政元年(1446年)12月に、細川氏が寺領を寄進して、山名追討のことを祈願したといいます。
 天平元年(729年)行基により石田東(旧寒川町)に開基され、天長元年(824)東讃四郡(寒川、大内、三木、山田)の根本道場、勅願所となり、宝蔵院と号しました。その後焼失して弘仁12年(821)弘法大師により鴨部東山(旧志度町)に再興され、それも延元元年(1336)に焼失し、再度現在地に再興されました。元あった石田東の地には極楽寺の地名があるといいます。
 この寺の末寺はもと、東讃4郡にわたり、八栗寺、屋島寺、与田寺、志度寺、大窪寺、長尾寺など真言宗寺80余ヵ寺がすべて末寺といった全盛期だったときもあります。しかし、高松初代藩主松平頼重の入部以来、本山制度の設置などで極楽寺の社会的権力は失墜し、地方の一寺院にすぎなくなりました。文政5年(1822)に火災に遭い多くの宝物什器を失いました。また、明治8年にも火災に遭っています。

○さぬき市長尾町の亀鶴公園
 亀鶴公園西側の鶴が山(つるがやま)の上に鎮座する宇佐八幡宮は、承平6年(936)に豊前宇佐八幡宮から勧請されたものであり、室町時代、長尾郷の総鎮守として守護細川氏から厚く尊信されました。
 また亀鶴公園の宮池は、正中19年(1364)、細川頼之が築造したといわれています。

観音寺市大野原町の萩原寺

○さぬき市津田町の雨滝城

○多度津町の桃陵公園と天霧城
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