(130)“藤原京の瓦を焼いた日本最大級の瓦窯”
香川県の西部に高瀬川という川があり、その流域に三野津平野という北が海への出口となり三方を山で囲まれた小さな田園地帯があります。ここは、その大半が17世紀後半の江戸時代前期に干拓され、室町時代以前には山裾近くまで海だったところです。今でも、この辺りには、浅津・砂押(大見)、西浜・東浜(下高瀬)、津ノ前・汐木(吉津という当時海岸だった頃の地名が残っています。
この三野津平野の南の山麓に宗吉(むねよし、三豊市三野町吉津宗吉)というところがあり、古くからこの付近では、「ここでお大師さんが瓦を焼いた」との言い伝えが残っていました。近所の古老には幼い頃、赤茶けた窯(かま)の一部が露出していたところの中で遊んだという人もいたそうです。この瓦窯(がよう)の本格的な調査が始まったのは、平成2年の農道工事に伴う発掘調査からです。その調査により遺構が確認され、複弁八葉蓮華文軒丸瓦、変形偏向忍冬唐草文軒平瓦などが出土し、奈良国立文化財研究所で照合した結果、藤原京で使用された瓦と同一であることが確認されました。平成8年9月10日には、藤原京へ瓦を供給した瓦窯跡として国史跡に指定されています。
現在の奈良市が平城京として日本の都であった期間は、一時中断はあるものの、和銅3年(710)から延暦3年(784)に長岡京に遷都されるまでの約70余年間です。この平城京の前の都が現在の奈良県橿原市にあったといわれる藤原京です。ここでは、持統・文武・元明の3天皇が居住し、16年間、日本の都として天皇や貴族中心のおおらかな白鳳文化(はくほうぶんか)が華咲きました。
藤原京は、持統天皇の御代の持統4年(690)に着工されて同8年(694)に完成し、飛鳥浄御原宮(あすかきよみがはらのみや)から遷都されました。持統天皇は、天智天皇の娘で、夫は天智天皇の弟である天武天皇すなわち自分の叔父にあたります。夫がまだ大海人皇子と称していた頃に起きた壬申の乱(じんしんのらん)では終始行動を共にし、天武天皇が亡くなった後、子の草壁皇子が皇位を継承するよう目論んだものの、皇子が急逝したため孫の軽皇子(後の文武天皇)が成長するまでの中継ぎとして自ら天皇に即位しました。ちなみに、天智天応は大化の改新(645)のときの中大兄皇子です。なお、藤原京という名称は後世の人がそう呼んだもので、日本書紀には、京が「新益京(しんやくのみやこ、しんやくきょう)」、宮が「藤原宮」と書かれています。
藤原京は、日本で最初の条坊制(じょうぼうせい)が布かれた本格的な中国風都城だといわれています。条坊制とは、中国の都に似せ、東西の道を条路、南北を坊路という碁盤目状に道路を走らせる町割(まちわり)をいいます。その大きさは北に耳成山(みみなしやま)、西に畝傍山(うねびやま)、東に天香具山(あまのかぐやま)の大和三山を内に含む5.3km四方で、面積は少なくとも25平方キロあり、平安京(23平方キロ)や平城京(24平方キロ)をしのぐ古代最大の規模だったと考えられています。
都の中心やや北寄りには、ほぼ1km四方の内裏・官衙のある藤原宮が配置され、大極殿などの建物の周囲はおよそ5mほどの高さの塀で囲まれ、東西南北の塀にはそれぞれ3か所、全部で12か所に門が設置されていました。
また、藤原京は日本で初めて中心建物を瓦葺きに統一した都でした。瓦は仏教と共に百済から日本に伝来し、飛鳥時代では、瓦葺きの許された建物は寺院のみでした。寺院以外で初めて瓦が使用されたのが藤原京だといわれており、大極殿・朝堂院・大垣の全てが瓦葺きとされました。その規模からするとこれらに必要な屋根瓦の数は200万枚とも推計され、藤原京の造営には極めて限られた期間での膨大な量の瓦生産が必要でした。
これまでの出土例によると、藤原京のすぐ近くの日高山瓦窯(ひだかやまがよう)や久米寺瓦窯(くめじがよう)、奈良盆地緑辺部の安養寺瓦窯(あんようじがよう、平群町)、西田中瓦窯・内山瓦窯(大和郡山市)や高台・峰寺瓦窯(こうだい・みねでらがよう、御所市)で瓦が製造され運ばれています。さらに、これらの瓦窯でも需要に追いつかず、古墳時代以来の大窯業地帯であった陶邑窯(すえむらよう)を含む和泉国(大阪)や近江国(滋賀)の瓦窯で造られた瓦が補充されたものと考えられています。当時の軒瓦は1枚で10kgを超える重さがあることから、藤原宮のすぐ近くを除き、これらの地は水運に便利な地が選ばれたものと考えられます。
藤原京に用いられた瓦の生産地としては最も遠く、しかも大規模なものが現在の三豊市三野町にある「宗吉瓦窯(むねよしがよう)」です。畿内以外で藤原京に用いられた瓦が出土しているのはここだけです。
宗吉瓦窯跡は、現在までに、山麓の傾斜面をトンネル状にくりぬいた窖(あな)窯と呼ばれる構造の23三基の瓦窯跡と工房跡と見られる掘っ建て柱建物跡の一部が確認されており、この23基の窯跡は当時の瓦窯としては全国最大規模のものです。また、そのうち17号窯(17番目に確認した窯跡)は全長が13メートルあり全国最長のものです。したがって、宗吉瓦窯跡は日本国内で最大級規模の瓦窯跡といえます。
7世紀末、大和から遠く離れた西讃岐の地が都の造営のための瓦生産地として選ばれた理由の一つは、水運の便だと考えられます。宗吉瓦窯跡の地は、現在は海から離れていますが、当時はすぐ近くまで古三野湾が迫っており、重い瓦を瀬戸内海を通じて船で運ぶことが可能でした。
二つ目は、讃岐には、藤原京造営以前に、すでに造瓦技術を持った工人がかなりいたのではないかということです。讃岐では飛鳥時代にすでに開法寺(坂出市)や妙音寺(三豊市豊中町)が建立されており、大化の改新によって律令国家の基礎が確立した白鳳時代には17の寺院があったといいます。藤原京造営以前までは、屋根を瓦で葺くのは寺院だけで、その造営には瓦造りの工人が不可欠でした。実際、藤原京造営以前に宗吉瓦窯から讃岐の地元の寺院に瓦が供給されていたことが明らかにされています。
三つ目は、短期間に大量の瓦を製造するためには、既存の造瓦工人だけでは追いつかず、その他多数の工人をかり出して瓦の生産にあたる必要があったと思われますが、宗吉瓦窯付近の現在の三豊市三野町大見、下高瀬から、高瀬町上高瀬にかけての火上山麓などの地域では、7世紀から8世紀の初めにかけて、須恵器作りが盛んだったといわれており、その人たちが瓦作りに従事したのではないかと考えられます。
宗吉瓦窯の存在から、讃岐は藤原京が造営される頃には、すでに大和朝廷と深い結びつきがあり、瀬戸内海を通じて頻繁に飛鳥地方と行き来があったのではないかと考えられます。また、讃岐は古代、仏教文化の先進地であり、当時の先端技術を持つ工人が多数居たのではないかと考えられます。瀬戸内海は中国大陸・朝鮮半島と大和を結ぶ交通ルートに当たることから、大和の西手前に位置する讃岐は、古代、先端の文化や技術がいち早くもたらされたのではないでしょうか。
ちなみに、空海が讃岐で生まれたのは、奈良時代の末期宝亀5年(774)6月15日で、藤原京の完成より80年後のことです。「ここでお大師さんが瓦を焼いた」という言い伝えよりも歴史的事実の年代の方が古いというのはおもしろいことです。
この三野津平野の南の山麓に宗吉(むねよし、三豊市三野町吉津宗吉)というところがあり、古くからこの付近では、「ここでお大師さんが瓦を焼いた」との言い伝えが残っていました。近所の古老には幼い頃、赤茶けた窯(かま)の一部が露出していたところの中で遊んだという人もいたそうです。この瓦窯(がよう)の本格的な調査が始まったのは、平成2年の農道工事に伴う発掘調査からです。その調査により遺構が確認され、複弁八葉蓮華文軒丸瓦、変形偏向忍冬唐草文軒平瓦などが出土し、奈良国立文化財研究所で照合した結果、藤原京で使用された瓦と同一であることが確認されました。平成8年9月10日には、藤原京へ瓦を供給した瓦窯跡として国史跡に指定されています。
現在の奈良市が平城京として日本の都であった期間は、一時中断はあるものの、和銅3年(710)から延暦3年(784)に長岡京に遷都されるまでの約70余年間です。この平城京の前の都が現在の奈良県橿原市にあったといわれる藤原京です。ここでは、持統・文武・元明の3天皇が居住し、16年間、日本の都として天皇や貴族中心のおおらかな白鳳文化(はくほうぶんか)が華咲きました。
藤原京は、持統天皇の御代の持統4年(690)に着工されて同8年(694)に完成し、飛鳥浄御原宮(あすかきよみがはらのみや)から遷都されました。持統天皇は、天智天皇の娘で、夫は天智天皇の弟である天武天皇すなわち自分の叔父にあたります。夫がまだ大海人皇子と称していた頃に起きた壬申の乱(じんしんのらん)では終始行動を共にし、天武天皇が亡くなった後、子の草壁皇子が皇位を継承するよう目論んだものの、皇子が急逝したため孫の軽皇子(後の文武天皇)が成長するまでの中継ぎとして自ら天皇に即位しました。ちなみに、天智天応は大化の改新(645)のときの中大兄皇子です。なお、藤原京という名称は後世の人がそう呼んだもので、日本書紀には、京が「新益京(しんやくのみやこ、しんやくきょう)」、宮が「藤原宮」と書かれています。
藤原京は、日本で最初の条坊制(じょうぼうせい)が布かれた本格的な中国風都城だといわれています。条坊制とは、中国の都に似せ、東西の道を条路、南北を坊路という碁盤目状に道路を走らせる町割(まちわり)をいいます。その大きさは北に耳成山(みみなしやま)、西に畝傍山(うねびやま)、東に天香具山(あまのかぐやま)の大和三山を内に含む5.3km四方で、面積は少なくとも25平方キロあり、平安京(23平方キロ)や平城京(24平方キロ)をしのぐ古代最大の規模だったと考えられています。
都の中心やや北寄りには、ほぼ1km四方の内裏・官衙のある藤原宮が配置され、大極殿などの建物の周囲はおよそ5mほどの高さの塀で囲まれ、東西南北の塀にはそれぞれ3か所、全部で12か所に門が設置されていました。
また、藤原京は日本で初めて中心建物を瓦葺きに統一した都でした。瓦は仏教と共に百済から日本に伝来し、飛鳥時代では、瓦葺きの許された建物は寺院のみでした。寺院以外で初めて瓦が使用されたのが藤原京だといわれており、大極殿・朝堂院・大垣の全てが瓦葺きとされました。その規模からするとこれらに必要な屋根瓦の数は200万枚とも推計され、藤原京の造営には極めて限られた期間での膨大な量の瓦生産が必要でした。
これまでの出土例によると、藤原京のすぐ近くの日高山瓦窯(ひだかやまがよう)や久米寺瓦窯(くめじがよう)、奈良盆地緑辺部の安養寺瓦窯(あんようじがよう、平群町)、西田中瓦窯・内山瓦窯(大和郡山市)や高台・峰寺瓦窯(こうだい・みねでらがよう、御所市)で瓦が製造され運ばれています。さらに、これらの瓦窯でも需要に追いつかず、古墳時代以来の大窯業地帯であった陶邑窯(すえむらよう)を含む和泉国(大阪)や近江国(滋賀)の瓦窯で造られた瓦が補充されたものと考えられています。当時の軒瓦は1枚で10kgを超える重さがあることから、藤原宮のすぐ近くを除き、これらの地は水運に便利な地が選ばれたものと考えられます。
藤原京に用いられた瓦の生産地としては最も遠く、しかも大規模なものが現在の三豊市三野町にある「宗吉瓦窯(むねよしがよう)」です。畿内以外で藤原京に用いられた瓦が出土しているのはここだけです。
宗吉瓦窯跡は、現在までに、山麓の傾斜面をトンネル状にくりぬいた窖(あな)窯と呼ばれる構造の23三基の瓦窯跡と工房跡と見られる掘っ建て柱建物跡の一部が確認されており、この23基の窯跡は当時の瓦窯としては全国最大規模のものです。また、そのうち17号窯(17番目に確認した窯跡)は全長が13メートルあり全国最長のものです。したがって、宗吉瓦窯跡は日本国内で最大級規模の瓦窯跡といえます。
7世紀末、大和から遠く離れた西讃岐の地が都の造営のための瓦生産地として選ばれた理由の一つは、水運の便だと考えられます。宗吉瓦窯跡の地は、現在は海から離れていますが、当時はすぐ近くまで古三野湾が迫っており、重い瓦を瀬戸内海を通じて船で運ぶことが可能でした。
二つ目は、讃岐には、藤原京造営以前に、すでに造瓦技術を持った工人がかなりいたのではないかということです。讃岐では飛鳥時代にすでに開法寺(坂出市)や妙音寺(三豊市豊中町)が建立されており、大化の改新によって律令国家の基礎が確立した白鳳時代には17の寺院があったといいます。藤原京造営以前までは、屋根を瓦で葺くのは寺院だけで、その造営には瓦造りの工人が不可欠でした。実際、藤原京造営以前に宗吉瓦窯から讃岐の地元の寺院に瓦が供給されていたことが明らかにされています。
三つ目は、短期間に大量の瓦を製造するためには、既存の造瓦工人だけでは追いつかず、その他多数の工人をかり出して瓦の生産にあたる必要があったと思われますが、宗吉瓦窯付近の現在の三豊市三野町大見、下高瀬から、高瀬町上高瀬にかけての火上山麓などの地域では、7世紀から8世紀の初めにかけて、須恵器作りが盛んだったといわれており、その人たちが瓦作りに従事したのではないかと考えられます。
宗吉瓦窯の存在から、讃岐は藤原京が造営される頃には、すでに大和朝廷と深い結びつきがあり、瀬戸内海を通じて頻繁に飛鳥地方と行き来があったのではないかと考えられます。また、讃岐は古代、仏教文化の先進地であり、当時の先端技術を持つ工人が多数居たのではないかと考えられます。瀬戸内海は中国大陸・朝鮮半島と大和を結ぶ交通ルートに当たることから、大和の西手前に位置する讃岐は、古代、先端の文化や技術がいち早くもたらされたのではないでしょうか。
ちなみに、空海が讃岐で生まれたのは、奈良時代の末期宝亀5年(774)6月15日で、藤原京の完成より80年後のことです。「ここでお大師さんが瓦を焼いた」という言い伝えよりも歴史的事実の年代の方が古いというのはおもしろいことです。


