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(128)“山幸彦と豊玉姫のロマンスがのこる島”

 古事記は、和銅5年(712)に太安万侶(おおのやすまろ)が、稗田阿礼(ひえだのあれ)が暗誦していた帝紀・旧辞を書き記し、編纂した日本最古の歴史書です。また、日本書紀は、養老4年(720)に舎人(とねり)親王らの撰で、神代から持統(じとう)天皇の時代までを扱う日本における最古の正史です。いずれも奈良時代の初期に書かれたもので、両方をあわせて「記紀」といいます。
 記紀には、初代天皇である神武天皇の出生にまつわる山幸彦豊玉姫命(とよたまひめのみこと)の物語が書かれています。その舞台となったところは、一般的には南九州だといわれていますが、讃岐の島にもこの物語が伝わっています。

 記紀に書かれている山幸彦豊玉姫命の物語は若干内容に差異があり、また登場人物の表記にも差異がありますが、おおむねのストーリーは次のようなものです。
 大綿津見神(おおわたつのかみ)は、豊玉彦命(とよたまひこのみこと)ともいい、海底の綿津見神宮に住み海や水を支配する海神です。名前の「綿」は海を意味します。大綿津見神はその娘に姉の豊玉姫命(とよたまひめのみこと)と妹の玉依姫命(たまよりひめのみこと)がいました。
 一方、地上では、邇邇芸命(ににぎのみこと)が木花咲耶姫(このはなさくやひめ)との間にもうけた3人の息子がいました。長兄が火照命(ほてりのみこと)、次男が火須勢理命(ほすせりのみこと)、末っ子が火遠理命(ほおりのみこと)といいます。この3人は、木花咲耶姫が、邇邇芸命との一夜の交わりで身ごもり、そのことを邇邇芸命に疑われ、その疑いを晴らすために産屋に火を放ち、その中で生まれました。
 なお、邇邇芸命は天照大神の孫にあたり、三種の神器と稲穂と榊を持ち日向の高千穂に降り立った天孫降臨の神です。木花咲耶姫は山の神である大山津見神(おおやまつみのかみ)の娘です。
 3人の息子のうち、火照命は海幸彦ともいって、海で漁をするのが上手でした。末っ子の火遠理命は、山での狩猟が得意であったために山幸彦と呼ばれていました。あるとき、山幸彦は兄の海幸彦を説得して、互いの狩りの道具を交換して獲物を捕ることにします。海幸彦の釣り針は山幸彦が持ち、山幸彦の弓矢を海幸彦が持ちました。ところが山幸彦は、漁をしているうちに兄の釣り針を波間で失ってしまいます。山幸彦は仕方なく家に帰り、わけを話して兄に許しを請います。しかし、もともと二人はあまり仲がよくなく、兄は大事な釣り針だから探してくるまで家には入れぬと突っぱねました。しかし、落とした場所は広大な海で探しきれるものではありません。そこで、山幸彦は自らの剣を砕いて千本の釣り針に鋳なおして兄に献上します。それでも兄は許してくれません。
 途方にくれた山幸彦が悲嘆にくれて海辺にたたずんでいると、波間から塩椎神(しおつちのかみ)という老翁が顔を出し、悲しみの理由を尋ねました。それを聞いた老翁は小舟を作り、それに山幸彦を乗せ、波間に押し出しながら、「このまま潮に従って行けば海神(わたつみ)の宮に行けるだろう。着いたら門の脇の桂の木に登って待つといい。そうすれば海神の娘が出てきて相談に乗ってくれるだろう。」と告げます。
 山幸彦は、言われたとおりに海神の宮へ赴き、桂の木に登って待ちます。やがて美しい娘がやってきました。この宮の姫の豊玉姫です。姫は一目で山幸彦の素晴らしい姿に魅せられ、早速父に報告し、その許しを得て山幸彦と結婚しました。
 夫婦となった豊玉姫と山幸彦は、海神の宮で楽しく幸せに暮らしますが、結婚から3年後のある日、山幸彦はふと自分が何をしにここにやって来たのかを思い出し、帰らなければと豊玉姫に告げます。そのとき豊玉姫はすでに彼の子を宿していましたが、父にそのことを話したところ、父も承諾し、海幸彦の釣り針を飲み込んでいた鯛を捕らえて針を取り戻し、さらに呪文と塩満玉(しおみつたま)、塩乾玉(しおひるたま)という2つの宝玉を山幸彦に与えます。こうして山幸彦は豊玉姫を海神の宮に残し、宝物を持って一人地上へ帰っていきます。
 再び大地を踏んだ山幸彦は、兄の仕打ちに対する報復として海神から授かった呪文を使い、兄の国をたちまち貧乏にしてしまいます。これに怒った兄は山幸彦の国に攻めかかりましたが、山幸彦は兄を塩満玉によって溺れさせ、兄が命乞いをすると今度は塩乾玉の力で助けます。これによって山幸彦は海幸彦を服従させ、支配者となります。
 豊玉姫は、間もなく地上の山幸彦のもと行き、「海の国で天津神の子を産むのは畏れおおいので、この国へ来ました」と夫に妊娠していることを告げます。山幸彦は妻のため、海辺に鵜の羽を集めて産屋を造り始めます。しかし、屋根を葺き終わらないうちに産気づき、夫に「決して中を覗いてはいけません」と念を押して産屋に籠もります。
 しかし、それを不思議に思った山幸彦は、中の様子をこっそり覗いてしまいます。すると、そこには身をもがく八尋和邇(やひろわに)の姿があり、驚いた山幸彦はその場を逃げ出してしまいます。(一尋は180㎝ですから、八尋は14.4mになります。また和邇とは鮫のことだといわれています。)このことを出産後に知った豊玉姫はこれを恥じ、産んだ子を地上に残したまま「もう以前のように海と陸とを自由に往来して親しむことはできません」と言い残して海と地上との通路を遮断して海の宮へ帰っていきました。このとき生まれた子が、鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)です。葺草(ふきくさ)の代わりに鵜の羽で産屋の屋根を葺こうとしたが葺き終らないうちに豊玉姫が産気づいたため、「葺き合えず」と名付けられることになったといいます。
 しかし、豊玉姫は、海へと帰った後も山幸彦への恋しい思いと我が子への気がかりから、妹の玉依姫を地上に遣わし、生まれた子の世話を頼みます。やがて成人した鵜葺草葺不合命は、自分の育ての親で、自分の叔母に当たる玉依姫と結婚し、4人の子をもうけます。4人の子のうち、第4子を神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれびこのみこと)といいます。この後、神倭伊波禮毘古命は、日向(ひむか)の国から東の大和の国へ向かい、橿原で日本の初代天皇に即位します。これがいわゆる神武天皇の東征です。つまり、山幸彦の子が鵜葺草葺不合命であり、その子が初代神武天皇だということです。
 したがって、天照大神の孫にあたる邇邇芸命は、神武天皇の曾祖父にあたります。山幸彦は神武天皇の祖父にあたり、豊玉姫は神武天皇の父方の祖母、かつ、母方の伯母にあたります。また、大綿津見神は神武天皇の曾祖父でもあり祖父でもあります。大山津見神は神武天皇の曾祖父にあたります。
 豊玉姫はしばしば浦島太郎の童話で知られる龍宮の乙姫と同一視され、また海の神の娘ということで、雨乞い・止雨の神としての信仰もあり、また孫が神武天皇になったということから子孫繁栄の神としても崇敬されています。また、安産や縁結びの神としても広く知られています。

 香川県の高松市沖には、南から北に、女木島男木島豊島という島が連なっています。これらの島などには、記紀の物語に登場する山幸彦と豊玉姫にまつわる神社、地名、伝説が数多く残されています。
 その中心舞台が男木島です。この島には、豊玉姫を祀る「豊玉姫神社」と、山幸彦を祀る「加茂神社」があります。山幸彦と豊玉姫は「神井戸」で出会い、「殿山(でんやま)」の東の「御宅(みやけ)」で暮らし、豊玉姫は「こもが浜」でお産をしたといわれています。その場所は現在の男木島灯台の辺りだといわれています。そして、豊玉姫が安産の祈願を願いながら籠もり余生を過ごしたところが「豊玉姫神社」のあるところだといわれています。
 また、女木島には玉依姫を地上に送ったという鰐(わに)を祀った「荒多神社」があります。玉依姫を海の国へ連れて帰るものだと思っていた鰐は、女木島男木島の潮の流れの速い瀬で玉依姫を待っていましたが、姫がいつまでたっても現れないのでそのまま石になってしまったといわれています。
 さらに、「おぎじま」・「めぎじま」という名称の由来は、それぞれ大姉の島ということから大姫島(おぎじま)、姪の島ということから姪姫島(めぎじま)と呼ばれるようになったものだといわれています(豊玉姫と神武天皇の関係でみれば、玉依姫は甥の妻ということから姪になる)。それが「男木」・「女木」と表記されるようになったのは、平安時代に陰陽道の考えが入ってきてからのことだそうです。
 男木島の豊玉姫神社の鳥居は西の方向に向いており、そこから沖合を眺めると、五色台沖にある大槌島と小槌島が鳥居の両側に立つ門柱のように見えます。この二島の辺りは、槌ノ戸(つちのと)といわれる海で、山幸彦が釣針を探しても見つからず思案に暮れていたときに塩椎神(しおつちのかみ)が現れたところといわれています。大槌島・小槌島の間には、龍宮城があると信じられ、その入り口は、亀水の淵(亀水町・下笠居)と考えられていました。
 男木島の北には産業廃棄物の不法投棄事件で全国的にも有名になった豊島(てしま)があります。この島には豊玉姫・玉依姫姉妹の父である大綿津見神すなわち豊玉彦を祀る「豊玉神社」があります。豊島の地名は、室町時代の初めの応永2年(1395)の文書にみえ、延元4年(1339)以上には遡るといいますが、その由来は豊玉彦を祀る島という意味だといわれています。また、この島の西南には、鵜葺草葺不合命が生まれたという伝承の残る「神子ヶ浜(みこがはま)」という海岸があり、その海上にはかって石の鳥居が立っていたそうです。
 また、男木島・女木島から南東の方向に海を渡り四国本土に向かうと、屋島の西側にある新川の河口に行き着き、そこを南に遡っていくと現在の三木町に辿り着きます。そこには「鰐河(わにかわ)神社」と「和爾賀波(わにかわ)神社」という二つの古い神社が鎮座しています。いずれも、豊玉姫を祭神としており、豊玉姫が鰐に乗って川を遡上して来たという縁起が残っています。これらの神社が鎮座する地は、現在ではかなり海から離れたところになっていますが、古代は海岸線がもっと南に後退していたと思われ、川を通じて海との往来も可能だったのではないかと考えられます。

 史実かどうかは別として、記紀によると、神武天皇は九州の日向国から東征に出発されたとされており、また、山幸彦・豊玉姫の物語はそれより前のものですから、この物語の舞台を讃岐の島だとし、神武天皇の出生地を讃岐だと考えることには無理があるように思われます。では、どうして讃岐の島に山幸彦・豊玉姫の物語が伝わっているのでしょうか。
 これは全くの想像ですが、神武東征が史実だとすれば、九州から大和に向かう神武天皇一行の旅は、瀬戸内海を船で東へ進んだものと考えられます。その航海には、航海術や地理に長けた瀬戸内海を支配する海人族の協力が不可欠だったものと思われます。大和へ向かう神武天皇一行は、豊島・男木島・女木島を中心に東備讃瀬戸一帯を支配していた海人族と接触し、その協力を得ることができたのではないでしょうか。そうだとすれば、その時、神武天皇一行が、自分たち一族の正統性を説くために、その出自に関わる物語を、豊島などを根拠とする海人族に語り伝えたとしても不思議ではありません。それを聞いた海人族はその物語を自分たち一族の物語として取り込み同化させていったのではないでしょうか。

 記紀には国生みの物語が書かれています。伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)は、淡路之穂之狭別(あわじのほのさわけ)島から始まり、伊予之二名(いよのふたな)島、隠伎之三子(おきのみつご)島、筑紫(つくし)島、伊伎(いき)島、津(つ)島、佐度(さど)島、大倭豊秋津(おおやまととよあきづ)島、と順番に生んでいきます。現在の淡路、四国、隠岐、九州、壱岐、対馬、佐渡、本州です。これらを総称して大八島(おおやしま)といいます。
 そして次に、吉備児島(きびのこじま)、小豆島(あづきじま)、大島(おおしま)、姫島(ひめじま)、知訶島(ちかのしま)、両児島(ふたごじま)、と6つの国土を生みます。通説では、吉備児島は岡山県の児島半島、小豆島は香川県の小豆島、大島は山口県の周防と屋代島、姫島は大分県の国東半島の北東に浮かぶ姫島、知訶島は長崎県の五島列島、両児島は五島列島よりさらに西の沖にある男女群島の男島と女島を指すと考えられています。
 通説では、最初の吉備児島・小豆島の2島だけは備讃瀬戸にあるにもかかわらず、大島・姫島・知訶島・両児島の4島は突然そこから遠く離れたところになっています。しかし、記紀の著者は物語性を持って書いたものと思われ、そうだとすれば6島はすべて近い距離にあると考えるのが自然ではないでしょうか。東備讃瀬戸で小豆島の次に大きい島は豊島です。しかも豊島は豊玉彦という親の島です。そう考えると、「大島」は親の島という意味で豊島、「姫島」はその娘の島という意味で男木島・女木島のことではないでしょうか。そして、両児島はその形から大槌島・小槌島を指しているのではないでしょうか。さらに、直島神功皇后が三韓征伐の時、吉備の豪族とこの地で待ち合わせたことから古代は真知島(まちのしま)と呼ばれていたといいますから、それが訛って「チカノ島」すなわち知訶島といわれたのではないかとも考えられます。

 真偽のほどは確かめようがありませんが、豊島、男木島、女木島などを中心とした島は、神話の島といえるでしょう。特に、豊島は、今ではごみの島というイメージが定着してしまっていますが、かっては、山の神である大山津見神を祀る大三島の大山祇神社とともに、海の神である大綿津見神を祀る島として瀬戸内海を支配する海人族の信仰の中心だったところではないでしょうか。
●訪れてみたいところ

男木島
豊玉姫神社
  安産の神様です。港を降りると大きな第一鳥居が見えます。豊玉姫神社の参道脇に県指 定自然記念物のサイカチの木があります。豊玉姫神社と、隣合わせに、お寺の鐘つき堂が あります。昔は、安楽寺というお寺の鐘で、今は豊玉姫神社の鐘として使われています。
・加茂神社
  本殿の横には、鬼と綱引きをする桃太郎の彫り物があります。
男木島灯台
  明治28年に建設された灯台で、建設当時のまま今日まで残されています。灯台に隣接す る灯台資料館は、総御影石造りで建てられており、明治時代の洋風建築です。
  この灯台は、昭和32年に、木下恵介監督、佐田啓二・高嶺秀子主演で封切りされた映画 「喜びも悲しみも幾年月」の舞台にもなったもので、実際にここでロケが行われました。
・ジイの穴
  標高213m、島中央部にそびえるコミ山の山頂付近にあり、鬼ヶ島(女木島)から逃げ込んだ鬼が拠点にしたという伝説が残っています。
・タンク岩
  高さ9m、幅3mの玄武岩からなる柱状節理です。

女木島
 この島には桃太郎伝説が残っています。これについては、(55)“讃岐に残る桃太郎と姉の物語”を参考にしてください。
 なお、男木島女木島の名称の由来については、源平合戦のとき、那須与一の射た扇が流れ着いたことから「扇島(おうぎじま)」→「男木島(おぎじま)」、めげた(壊れた)弓が流れ着いたから「めげじま」→「女木島(めぎじま)」になったと言われていますが、これは俗説のようです。
・荒多神社
  玉依姫を地上に送ったという鰐を祀る。

豊島
・豊玉神社
  もとは家浦八幡宮の傍にありましたが、現在は家浦今宮にあります。
・神子ヶ浜(みこがはま)
  豊島の南西の海岸にあり、かって浜の海上には、付近の島々から参詣に訪れる石の鳥居 が立っていました。1970年代に嵐のため水没したといいます。この浜には、鵜葺草葺不合命生誕の伝説が残っています。この浜には、縄文時代後期から弥生時代前期またそれ以後の遺跡があるそうです。
・豊峰権現(とよみねごんげん)神社とスダジイの森
  豊島最高峰(標高340m)の檀山(だんやま)中腹には、豊峰権現神社とその付近に常緑広葉樹の椎(スタジイ)を主体とした森(県指定自然記念物)があります。この森には樹齢250年、幹廻り4mの巨樹もあり、小豆島地域を中心とした瀬戸内海島嶼部の植生の中でも数少ない暖帯極相林の面影をとどめた貴重なものです。
・唐櫃の霊泉
  スタジイの森を水源とする唐櫃地区の清水です。
○鰐河神社と和爾賀波神社
  二社とも現在の三木町にあり、「鰐河(わにかわ)神社」は下高岡、「和爾賀波(わにかわ)神社」は井戸にあります。いずれも讃岐延喜式二十四社のうちの一つといわれる古社で、豊玉姫を祭神とします。
  「鰐河神社」は、縁起によると、その昔、豊玉姫が亀に乗って山田郡(現高松市屋島町潟元)へ来られ鵜葺草葺不合命をお産みになった。そこで、その地を「浦生(うろ)」と呼ぶようになった。次いで、鰐(わに)魚に乗って川を遡り四条まで来られたので、その地に祠を建てて祀り、その川と神社を、それぞれ鰐河、鰐河神社と呼ぶ。
  「和爾賀波神社」は玉依姫も祀り、その縁起も、豊玉姫が鰐魚に乗って川を遡り、この地に来て鎮座したというものです。鰐に乗った豊玉姫を描いた絵馬があります。
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テーマ : 香川
ジャンル : 地域情報

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神功皇后

神功皇后
長府と満珠島、干珠島
長府。日本書紀には、仲哀天皇・神功皇后が西国平定に際し、現在の忌宮神社に豊浦宮を置かれたと記されています。
長府という地名は、大化の改新(645年)以降、豊浦を「長門の国府」と定め、それがつづまって長府と呼ばれるようになったものです。以後、壇之浦で平家が滅亡した後、守護職が置かれるなど、長府は長門の政治の中心として栄えたのです
神功皇后は、神様から「龍神より満珠・干珠の二つの珠を借りなさい」とのお告げを受け、早速、家来に二つの珠を借りて来させました。いよいよ敵の大軍が攻めて来ると、皇后はまず干珠を海に投げました。するとたちまち潮が干き、敵は船を降り、歩いて攻めて来ました。そこで今度は満珠を投げると、みるみる潮が満ちて敵はおぼれ、皇后の軍隊は見事勝利しました。
勝利を祝う皇后は、お礼と共に珠を海に返しました。すると二つの珠が沈んだ海の上に、二つの島が浮かび上がってきました。皇后は「龍神が作られたこの二つの島は永久に長門の浦を鎮め、平和の波は、満珠・干珠の岸をいつまでも洗うだろう」と歓び、以後二つの島は満珠島、干珠島と呼ばれ、神聖な島として長府沖を彩っています。
▲ ▼
和布刈神社と水先案内をつとめる龍神安曇磯良
由緒:社記によると、第代仲哀天皇の九年、韓国からの凱旋の途中に、神功皇后が戦の勝利を神に感謝して、自ら神主となって創建した。西門鎮護の神として、歴代の将軍、領主の崇敬を集めてきました。
御祭神は第1座に比売大神(アマテラス)、第二座に日子穂々出見命(ホホデミノミコト‐山幸彦)、第三座に鵜草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト‐山幸彦と豊玉姫の間に生まれた子供で、神武天皇の父)、第四座に豊玉比売命(トヨタマヒメ‐龍神の娘で山幸彦の妻)、第五座に安曇磯良命の、五柱の神を配しています。
これらの神様の関係は、第一座の天照の、二番目のホホデミは孫に当り、その子供と妻が第三と第四座の神となります。第五座の磯良だけが少々関係が遠く、開祖の神功皇后に仕えていた志賀島の海士人です。ただこの安曇磯良は、豊玉姫の子供として民間には伝えられることもあり、住吉大社を始めとする、全国の海に関係のある神社に良く祭られている神。
「和布刈神事」
旧暦の大晦日に、お社の前の海に入り、鎌で和布を刈ることなのです。刈られた和布は、その年初めて神に捧げられる、神饌とされます。
朝献:最も古い記録としては和銅三年、元明天皇の時代の和布刈神社で刈られた和布は朝廷にも献じられものがあります。
従者の安曇磯良を海中に遣わし、潮涸珠・潮満珠の法を授かり、めでたく新羅侵略を成功に導いた、その遺風によるものであると書かれています。そして、昔ホホデミが海中の龍宮城を訪れ、海龍王の娘の豊玉姫を妻に迎え、また潮満・潮干の宝珠を授かり、それを子孫に伝え、万世途絶えることなき繁栄を見たという慶事を記念して、海中の和布を新年に神前に供え、また朝廷に捧げるのだと書かれています。
▲ ▼
北条鹿島:愛媛の鯛飯
北条市沖に浮かぶ鹿島、名前のとおり鹿の住む島です。ここに鎮座する鹿島神社に要石があります。
神功皇后が,朝鮮出陣の道すがら,鹿島明神を歓請して,戦捷を祈願されたとき,北条の鹿島の鯛飯を賞味されたと伝えられている。
仲哀天皇の后、神功皇后は西征の途中、軍船を風早郷の鹿島に止められ、軍備を整えられた。このとき、島の東部中腹二の平に仮宮を設けられたといわれ、この所を今も皇后の局と呼んでいる。 島の東北海岸一帯は大津地と呼ばれ、昔港のあったところといわれている。神功皇后は髪洗磯に立たれ、御姿を整え、旅装をなされると鹿島山頂の御野立の巌に立たれ、弓に矢をつかえ、沖へ放たれて戦勝を祈願し、大津地の港を出発したと伝えられている。
▲ ▼
住吉明神
伊弉諾神が黄泉国の穢に触れ給いたるに因り、橘小門(をど)之阿波岐原にて禊祓を為られ給える時に成り出で給える神である。
古事記によると、「・・・上瀬は瀬速し、下瀬は瀬弱しと詔りごち給いて、初めて中瀬に随(お)りかづきて水底に滌ぎ給う時になり坐せる神の御名は底津綿津見神、次ぎに底筒男命、中に滌ぎ給う時になり坐せる御名は中津綿津見神、次ぎに中筒男命、水の上に滌ぎ給う時になり坐せる御名は上津綿津見神、次ぎに上筒男命、此の三柱の綿津見神は安曇連等が祖神と以ちいつく神なり。故安曇連等はその綿津見神の子、宇都志日金析(うつしひかなさく)の子孫なり。その底筒男命、中筒男命、上筒男命三柱の神は、墨江の三前(みさき)の大神なり」
順に、磐土命、赤土命、底土命とも申す。
▲ ▼
牛窓伝説
 牛窓には、神功皇后の言い伝えがあります。仲哀天皇は、妻である神功皇后と共に軍船にて三韓攻め(新羅・百済・高句麗の三国)に出発した。途中吉備の国であるこの牛窓浦に立ち寄られた時、軍船が港に着くや、激しい落雷と共に頭が8つの怪物が現れました。その怪物は塵輪鬼(ちんりんき)と言い、黒雲に乗って仲哀天皇の一群に襲いかかった。仲哀天皇は恐れるご様子もなく側の御弓を手にとり、塵輪鬼に矢を射て、射落とした。しかし仲哀天皇も、その時の流れ矢に当たり、それが元で御崩御されてしまいました。海に落ちた鬼の首が鬼島(黄島)、胴が前島、尾が青島となりました。 神功皇后は、大変お嘆きになられましたが、夫君のご遺志を継ぐべくこの浦の住吉明神に参拝(男装をして)された。
三韓征伐を終えて再びこの地に立ち寄られた時、塵輪鬼の魂魄(こんぱく)が牛鬼に姿を変えて海底から出現し、皇后の船を転覆させようとした。 その時、住吉の大明神が老翁の姿となって現れて、その牛鬼の角をつかんでなげ倒しました。これにより牛鬼は息絶え、神功皇后は無事に難を逃れ、それからはこの浦を牛転び(うしまろび)と呼ぶようになった。

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海神の島

出来屋二郎様
 読ませていただきました。大変わかりやすく書かれていると思いました。ありがとうございました。
 豊島が、大島ということですが、そうかもしれません。ただ、私の中では、豊島は近隣の古代海人族の信仰の島であり、他の部族に知られたくなかった島であった為、古事記にも出てこなかったような気がするのです。備讃瀬戸においてあのような大きな島の存在が、文献に少ないことからそう考えました。
 そのような位置づけの為、大きな島なのに住民が少なく、上古は、神に仕える人達だけが住んでいたような気がするのですが、如何でしょうか。
 それ故、古事記にも豊島を囲む島々が順番に書かれたと考えているのですが・・・。

さぬきの桃太郎さんへ

 いつもお世話になります。さぬきの桃太郎さんから教えていただいた物語を記事にしてみました。私なりの考えも述べさせていただきました。本文でも書いていますが、私は「大島」は屋島沖の大島ではなく、豊島のことではないかと思いました。
 桃太郎さんのご意見をお待ちしております。
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