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(127)“神戸と讃岐を結ぶ平清盛にまつわる伝承”

 瀬戸内海沿岸には人口100万人を超える政令指定都市が3つありますが、その一つ神戸は、港とともに近代以降に発展した都市といえます。幕末の慶応3年(1868)に兵庫港が開港した当時、神戸の人口は2万人程度だったようですが、約70数年後の昭和16年(1941)には100万人の人口を擁する都市へと発展しています。しかし、その歴史は古く、現在の神戸港は、瀬戸内海航路の物資集散地や大陸との交易の拠点として栄えた大輪田泊(おおわだのとまり)と呼ばれた古代の港に始まります。
 神戸市兵庫区に島上町というところがあります。ここに地元では築島寺(つきじまでら)の名称で親しまれている来迎寺(らいごうじ)という寺があります。本堂正面の上には平家清盛流の蝶の家紋が飾られている平家ゆかりの寺です。この寺の境内には、松王小児(まつおうこんでい)と祇王(ぎおう)・祇女(ぎにょ)姉妹のものといわれる供養塔があります。これらには平清盛にまつわる物語があり、讃岐にもこれらにつながる物語が残されています。

 平安時代末期の二条天皇の御代、平清盛は、宋(中国)との貿易を拡大するため、その拠点となる大輪田泊の大修築を企てます。大輪田泊は旧湊川河口とその西側にある和田岬に挟まれた入江にあり、和田岬が西風を防いでいましたが、旧湊川の氾濫や風波で東北側の堤防がたびたび決壊していました。そこで、清盛は東南の沖合いに強固な人工島を築造して東南の風からの防波堤にしようとしました。なお大輪田泊は現在のJR兵庫駅の東、新川運河の辺りだと考えられています。
 清盛が築造を企てた人工島の大きさは、甲子園球場が7~9つ入るほどの規模だったといわれており、民役5万人を動員して塩打山(塩槌山)を切り崩し、約3キロにわたって海中に突き出す工事を行わせたといいます。しかし、潮流が早いため非常な難工事となり、完成目前に押し流されることが二度に及びました。
 このため、さすがの清盛も逡巡し、今後の方策を当時の陰陽博士、安部秦氏に占わせます。すると、これは竜神の怒りであるから、30人の人柱と一切経を写書した経石を沈めて築くとよい、との言上でした。そこで清盛は生田の森に隠れ関所を構えて往来する旅人から30人を捕らえさせますが、さすがに罪の深さを知り、決行に踏み切ることを躊躇していました。
 このとき、清盛の侍童(じどう)をしていた松王小児という当時17歳の少年がすすみ出て、「30人の身代わりにわたし一人を沈めて下さい」と申し出ました。松王小児は、讃岐の香川郡円座村(現在の高松市円座町)の出身で、その父は中井城主・中井左馬允といい、その祖父は香川郡辺河村(かわなべむら)(現在の高松市川部町)にあった中田井城の城主・中田井民部です。中田井民部のときに居城を辺河から隣接の円座に移し、中井姓を名乗っていました。中井氏は代々、平清盛に仕えてきた家柄で、松王小児も清盛に見出され、14歳のときからその側近として仕えていました。
 なお、現在の高松市仏生山町の法然寺の南側には平池(平家池)というため池があり、この池は高倉天皇の御代の治承2年(1178)、平清盛の命令を受けた阿波民部田口良成(たぐちよしなり)によって築造されたといわれています。当時、この高松の辺りは平氏の支配下にあったのかもしれません。ちなみに、この池には、人柱になった少女の「いわざらこざら」の伝承が残っています。
 松王小児の言葉に大いに感心した清盛は、その意志を入れ、応保元年(1161)7月13日、一切経を写書した経石と松王小児を入れた石櫃が沈められました。こうして、承安4年(1174年)、難工事であった埋立も竣工しました。その埋立地は経文を記した石を沈めて基礎としたので経が島(きょうがしま)と呼ばれ、その上にできた町は経が島の上にできた町という意味から「島上町」といわれるようになりました。ただし、一説には、平清盛は何とか人柱を捧げずに埋め立てようと考え、石の一つ一つに一切経を書いて埋め立てに使い、その後、無事に工事が終わったためにお経を広げたような扇の形をしたこの島を「経が島」と呼ぶようになったともいわれています。経が島は、おおよそ神戸市兵庫区の阪神高速道路3号神戸線以南・JR西日本和田岬線以東の地であるとみられています。
 二条天皇は自ら人身御供(ひとみごくう)になった松王小児に感動され、その菩提を永く弔うため寺を建立しました。その寺が、今の来迎寺だということです。讃岐にも現在の高松市円座町に松王小児の墓が残っています。

 次は祇王と祇女の物語です。
 平安時代末期には、白拍子(しらびょうし)という歌舞が流行していました。これは、水干(すいかん)・立烏帽子(たてえぼし)・緋の長袴を身につけ、蝙蝠(かわほり)と呼ばれる扇子の一種を持って舞う芸能です。この言葉が転じてこれを舞う遊女も白拍子と呼ばれ、その中には身分の高い貴族や武士の屋敷に出入りし、その愛人になった者もいました。その代表的な女性が源義経の愛人だった静御前です。
 平清盛が権勢を振るっていた頃、祇王と祇女という白拍子の姉妹がいました。姉の祇王は清盛の寵愛を受け、その母や妹も面倒をみてもらい何不自由の無い生活をしていました。そこへ、仏という名の白拍子が清盛に目通りを請いに来ました。清盛は最初は全く取り合いませんでしたが、祇王のとりなしでしぶしぶその舞を見ます。ところが、その舞を見て、たちまち仏に心を奪われ、邪魔になった祇王を屋敷から追い出してしまいます。
 涙ながら屋敷を出てもとの貧乏暮らしをしていた祇王らのところに、ある日、清盛から仏御前が寂しそうなので参上してなぐさめよという使いが来ました。祇王は行く気もありませんでしたが、母に諭されてやむなく参上しました。ところが、その扱いは非常に冷淡なものでした。それでも涙を抑えつつ歌い舞い、公卿から侍にいたるまで、見た者はみな感涙に耐えませんでした。しかし清盛の言葉は、冷淡なものでした。
 祇王は、悔しさと悲しさのあまり、妹とともに自害しようとします。しかし、母に諭され思いとどまります。そして、母と2人の娘は、共に剃髪して嵯峨の山里にあった小さな庵に籠もり、そこで念仏三昧の静かな暮しに入りました。
 その後、ある日、その庵に、剃髪して尼になった仏御前が訪れてきました。4人は一緒に庵に籠もり念仏三昧の日々を過ごし、それぞれ往生を遂げました。その庵は今の京都の奥嵯峨にある祇王寺だということです。
 神戸の来迎寺に伝わる話では、祇王と祇女は、奥嵯峨で庵を結んだ後、平家が滅んだため、平家ゆかりの兵庫の寺に住持して一門の菩薩を弔ったということです。
 一方、讃岐に伝わる話では、祇王と祇女は、奥嵯峨に身を隠した後、清盛からもう一度よりを戻したいという誘いを受けましたが、それを振り切り、海を渡って讃岐の安原郷下谷の里に一時落ち着いたとされています。そこは現在の高松市香川町東谷地区の祇園山(標高275メートル)西麓にある専光寺という寺の門前付近だといわれています。そして平家が滅んだ後、姉妹は奥嵯峨に戻ったとされています。
 祇園山はかって「祇王山」と呼ばれ、この寺の山号も祇王山頓乗院といい、姉妹の念仏だったという石仏が本堂に祀られ、寺の記録にも姉妹のことが記されているそうです。また、この寺の近くには姉妹の後を追ってきた仏御前にちなむ「仏坂」という地名も残っているそうです。
 ちなみに、高松市香川町東谷には、祇園座という農村歌舞伎が残されており、この地区が祇園山を仰ぐことから祇園座というようになったといいます。祇園座は、安政年間(1854~1860)には既に行われていたといい、芸能をよしとした祇王・祇女姉妹の隠棲の地にふさわしく、今もその伝統を守り活動が続けられています。

 松王小児や祇王・祇女姉妹の物語が史実かどうかは分かりませんが、神戸と讃岐に平清盛にまつわる同一人物の物語が残っているのは興味深いことです。また、神戸市の西部に位置する須磨海岸には、平安時代初期の仁和2年(886)、在原行平(ありわらのゆきひら)が須磨に流され蟄居していたとき、松風、村雨(むらさめ)という潮汲みの姉妹を愛したという伝承が残っており、この姉妹の出身地は塩飽の本島だといわれています。
 これらの物語は、神戸と讃岐は瀬戸内海で結ばれ、古くから船での往来が頻繁にあったことを示しているのではないでしょうか。

●訪れてみたいところ

松王小児廟所
 高松市円座町にある中井家墓地にあります。

○専光寺
 高松市香川町東谷にある真宗佛光寺派の寺です。

○祇園山

○平池(平家池)
 この池は何回築いても豪雨のたびに氾濫し、なかなか築堤工事が成就しませんでした。ある日、東の雌山から機を織る時に使う「チキリ」(機織機の一部)を持った若い機織り女性がやってきて、「この池はたびたび堤がきれ長くもたない、人柱を埋めるとよい」と告げました。人々は誰を人柱にするか迷い、その女性を捕えて、むざんにも生き埋めにしました。すると、さしもの難工事も、たちまち立派に完成しました。その後、堤の岩の間から流れ出る水の音が、「いわざらこざら(いわなかったらよかった、こなかったらよかった)」と悲しく聞こえたといいます。犠牲になった若い女性を勝(ちきり)の女といい、その霊を祭るため建てられたのが勝神社です。堤防の上には「乙女の像」が立っています。

○松風村雨の物語は次のようなものです。
 塩飽の本島に住む秦良式(はたよしのり)に2人の娘がいたが、後妻の継母にいじめ抜かれ命まで奪われそうになった。それをみかねた家僕が小舟で姉妹を逃がし、二人は摂津国須磨浦島に流れ着いた。そこの猟師に助けられ塩田の潮汲みをしていたところに、都から左遷されてきた在原行平と出会い、松風・村雨と名づけられて愛された。
 この物語は、室町時代に謡曲とされ、その後、浄瑠璃や歌舞伎、近代には映画などにも取り入れられました。須磨には衣掛松や松風村雨堂などの伝承に基づく遺跡がいくつかあり、須磨区内には村雨町・松風町・行平町・衣掛町という付けられた地名もあります。
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