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(126)“讃岐にも残る北条時頼の廻国伝承”

 北条時頼(ほうじょうときより)は、鎌倉幕府第5代執権を務め、幕府政治を磐石なものとした名君といわれる武将です。元寇を戦った執権として知られている北条時宗はその息子です。その政治は質素・倹約を旨とし、弱小御家人の保護や撫民に主眼をおく仁政だったといわれています。隠居後は出家して最明寺入道と名乗り、僧に身をやつして諸国を漫遊し、民の暮らしを視察したという廻国伝承が全国各地に残っています。中でも有名なのが、謡曲「鉢の木」(はちのき)の物語です。この物語は、次のようなものです。
 僧の姿に身をやつした時頼が、大雪で道を見失い、近くの貧しい家に一夜の宿を請うた。時頼であるとは知らずに、家の夫婦は粟飯を振る舞いもてなし、また貧しさ故に十分な薪も無いため、秘蔵の梅、桜、松の鉢の木を炉にくべて暖をとった。時頼が主人の素性を尋ねると、佐野源左衛門常世という武士で、一族に土地を奪われ落ちぶれてはいるが、もしひとたび鎌倉に大事が起きれば、「いざ鎌倉」と一番に馳せ参じる覚悟だと語った。その後、鎌倉に帰った時頼が御家人を召集すると、常世は言葉に違わず一番に馳せ参じてきた。忠節に感激した時頼は、かつての雪の夜のもてなしにちなんで、加賀の梅田、越中の桜井、上野の松枝の各荘を領地として与えた。

 讃岐には、高松市塩江町に「最明寺」という寺があり、この寺の縁起によると、元は如意輪寺と称していたが、行脚途中の北条時頼が再興したことにより寺名をその入道名にちなみ変えたということです。また、小豆島町池田の中山地区には殿川ダムがありますが、その麓近くにある八木家には、「鉢の木」物語に類似した物語が伝わっています。話だけでなく、北条時宗から与えられたという文永2年(1265 )5月10日付けの古文書と刀や、亀女という尼僧の木像を安置した四ッ堂という祠が残っているそうです。その物語とは次のようなものです。
 鎌倉時代中期の正嘉元年(1257)から正元元年(1259)の時代、旅僧姿の時頼は小豆島を行脚中、病のため河山村の四ッ堂という小堂の近くの路傍で倒れてしまった。時頼とも知らずそれをみつけた亀女という女性は、二人の幼い男の子を抱えて貧しい暮らしをしていたにもかかわらず、手厚い看病を施した。1年後、亀女が幕府から呼ばれて鎌倉に出向いたところ、そのとき助けた旅僧が出てきて、驚く亀女に謝礼を述べるとともに、褒美として小豆島の河山村一村を与えると告げた。亀女があまりの広さに恐れ入ってそれを辞退すると、時頼はせめて今の住まいの周辺の土地を末代まで安堵するという保証を亀女にした。時頼が亡くなった後、亀女はその土地を一族の者に騙し取られてしまった。時頼の言葉を思い出した亀女は、再び鎌倉に出向き訴え出たところ、ときの執権時宗は早速調べたうえ、その土地を文書でもって安堵したうえ、改めて父頼時が世話になった礼として刀を亀女に与えた。鎌倉からの帰途、亀女は京都に立ち寄り、出家したうえ自己の姿を木像とし、時頼が倒れていた四ッ堂に祠を建て、そこにその木像を安置した。

 北条時頼が諸国を行脚したという史実は無いようですが、伝承によると時頼は受けた恩を決して忘れずそれに報いるという、義理堅い人情豊かな人物として描かれています。しかし、その執権時代は血みどろの権力闘争に明け暮れた人生でした。
 源頼朝によって建久3年(1192)に開かれた鎌倉幕府は、承久元年(1219)3代将軍源実朝の死により20余年で源氏嫡流が断絶します。その後、公家の九条家から2歳の藤原頼経が4代将軍として迎えられます(これを摂家将軍といいます。)。しかし、その地位は形式的なもので、幕府の実権は、頼朝夫人であった北条政子の父、北条時政を初代とする執権が握っていきます。
 承久3年(1221)に起きた後鳥羽上皇の討幕挙兵を鎮圧したことにより、幕府政権は京都の公家政権に対して優位に立ち、皇位継承についても影響力を持つようになります。これを承久の変(じょうきゅうのへん)といいます。しかし、この時期においては、まだ、執権北条氏が幕府内部で権力を独占していたわけではなく、三浦氏や安達氏といった源頼朝挙兵以来の御家人が北条氏と肩を並べるほどの勢力を持っていました。また、北条一門の間においても得宗家(とくそうけ)と呼ばれる嫡流が絶対的権力を有していたわけではありませんでした。幕府内における北条得宗家の独裁的地位を確立したのが第五代執権北条時頼だといわれています。
 北条時頼は、安貞元(1227)年、北条時氏の子として生まれます。最初の武家の法典として有名な御成敗式目(貞永式目)を制定した第三代執権北条泰時は時頼の祖父です。寛元4年(1246)3月、兄の第4代執権北条経時が病で倒れたためその後を受けて20歳で第5代執権となります。しかし、このとき幕府内部では、北条一門の名越光時が執権職などを巡って得宗家に対して強い不満の念を抱いていました。また、藤原頼経は、成人してから実権を掌握しようとしたため、そのまだ4歳の子である頼嗣に将軍職を譲位させられていましたが、なおも鎌倉に留まって前将軍として影響力を行使しようとしていました。
 閏4月、前執権北条経時が亡くなると、そのどさくさに、名越光時が藤原頼経と謀り、執権の時頼を殺害して幕府の実権を奪おうとしました。しかし、その陰謀を事前に察知した時頼は、機先を制して頼経を京都へ追放するとともに光時を伊豆に流します。これを宮騒動(みやそうどう)といいます。
 しかし、この騒動は、有力御家人である三浦泰村の弟・三浦光村が関わっていたことから、次の争いを生じます。なお、三浦光村は、仁治4年(1243)から讃岐守護を務めており、その被官の長雄(長尾)二郎左衛門が宇多津に置かれた讃岐守護所に代官として赴任していたようです。
 宝治元(1247)年5月以後しばしば三浦一族叛逆の流言が鎌倉で飛び交うようになります。これは三浦泰村に対抗するもう一方の有力御家人である安達景盛の挑発作戦でした。景盛は北条時頼の外祖父にあたり、三浦一族と安達一族はいずれ雌雄を決しなければならないと考え、子の義景や孫の泰盛らに戦いの準備を命じていました。しかし、泰村はなかなか挑発に乗りませんでした。こうした中、時頼が三浦一族の武装解除を条件に泰村の忠誠を認め、泰村がそれに従ったところ、安達一族がその虚を突いて三浦邸に大軍を率いて奇襲攻撃をかけました。騙し討ちされた泰村は、源頼朝の墓所である法華堂に籠もり、頼朝の絵像を前にして一族500余人と共に自害しました。ついで、時頼は、泰村の妹婿である千葉秀胤を攻撃して滅ぼします。これを宝治合戦(ほうじかっせん)といい、ここに北条得宗家の独裁的地位が確立しました。
 さらに、建長4(1252)年、北条時頼は、摂家将軍で反得宗勢力の支持を集めていた5代将軍藤原頼嗣を廃立し、新たに後嵯峨天皇の皇子である宗尊親王を6代将軍に迎えます。以後鎌倉は皇族が将軍に就くことになります。これを宮将軍または皇族将軍といいます。しかし、これにも将軍としての力は全くなく、幼少期に就任し、成人すれば退位させられるという形でした。

 康元元年(1256)、時頼は30歳で執権職を退き、その地位を庶流の北条長時に譲り、出家します。しかし、これは、嫡子の時宗がまだ幼少のため中継ぎとして長時に執権職を譲ったもので、時頼は出家後も幕府内での最高権力者として政治の実権を握り続けます。このときから、執権が北条氏の庶流出身者である場合、その時の最高権力者は執権ではなく得宗だという得宗専制政治が始まったと考えられており、執権と得宗の権力が分化し、得宗が執権の上に立つこととなったといわれています。
 これとともに、鎌倉御家人たちの忠誠の対象も、幕府という組織から得宗家に移っていったのではないでしょうか。全国各地に残る北条時頼の廻国伝説は、得宗家に対する忠誠心を分かりやすく説いたものではないでしょうか。
 弘長3(1263)年、時頼は37歳で亡くなります。吾妻鏡には袈裟を着て、坐禅を組んで、泰然として目を閉じたと記されています。時宗が8代執権に就いたのは時頼死後の文永5年(1268)です。

 得宗専制政治は、幕府政治に安定をもたらしたものの、その後、得宗家の私的な家人であった御内人がいつしか執権をも凌ぐ勢力を持ちはじめ、政治に絶大な影響力を行使するようになります。弘安8年(1285)年11月、御内人の平頼綱が安達泰盛を攻撃し、安達一族は500人が自害し又は討たれました。これを霜月騒動(しもつきそうどう)といいます。泰盛は宝治合戦のとき、北条時頼とともに三浦氏を滅ぼし、得宗専制政治の確立に一役かいましたが、今度は自分がつくりあげた得宗専制政治により滅びることになったわけです。
 有力な御家人がいなくなったことで、鎌倉時代中期以後には、北条氏及びその一族が全国4分の3以上の国々の守護職を占めることになります。讃岐守護も、三浦光村の後、北条重時、北条有時、北条守時など北条一門が占めています。

●訪れてみたいところ

最明寺
 高松市塩江町にある寺です。この寺は、大宝元年に行基菩薩が薬師如来像を彫り、伽藍を建立し本尊として安置したことに始まると伝えられています。古くは如意輪寺といい、のちに北条時頼が再興し、最明寺と改名したといわれています。萩寺とも呼ばれ、9月の初めから仲秋の名月まで白と紫の花が境内を包みます。

○小豆島町池田中山にある四ッ堂
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