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(124)“京焼と讃岐との深い縁”

 
 陶磁器(とうじき)は練り固めた土を焼いて作ったものですが、焼方、用途、生産地などから瀬戸物(せともの)や唐津物(からつもの)などとも呼ばれています。このうち、京都で作られるものは一般的に京焼(きょうやき)と呼ばれています。
 京都が本格的な「やきもの」の生産地となったのは16世紀末、桃山時代末になってからのことで、江戸時代初期に活躍した野々村仁清(ののむらにんせい)という陶工が出て京焼の名を高めたといわれています。仁清はそれまでの唐物茶壺とは趣を異にした金銀彩色絵をふんだんに用いたいわゆる飾り茶壺や香炉等を数多く作ったことで知られており、京焼の租ともいわれています。

 仁清は、丹波国北桑田郡野々村(現在の京都府南丹市)に生まれ、俗名を清右衛門といいます。慶安年間(1648~1652)から延宝年間(1673~1681)の頃に活躍し、元禄7年頃に亡くなったと考えられています。若い頃、京都粟田口や瀬戸で陶芸の修業をし、後に京都に戻り、正保4年(1647)頃、洛西の御室(おむろ)の仁和寺門跡(もんぜき)の知遇を得て、門前に窯を開き、茶陶等を制作しました。仁清の号は仁和寺の“仁”と清右衛門の“清”をとって門跡から与えられたといわれています。仁清の制作した焼き物は始め、“御室焼”、“仁和寺焼”と銘されていましたが、万治3年(1660)になって“仁清焼物”などと記され、仁清の名が高まっていきました。
 仁清は、狩野派や土佐派の画風や漆器の蒔絵などを取り入れ、金銀を使った優美華麗な日本的意匠の絵付を創始したことから、色絵陶器の完成者ともいわれ、茶人の金森宗和の指導のもとに、茶壺、茶入、茶碗、水指(みずさし)など華麗な意匠をもりこんだ数々の茶器を制作しました。それらの作品は貴族をはじめ、大名や京坂の豪商などにひろく愛用されました。金森宗和は、公武の社会との交わりにより、清貧に甘んじた茶人、千宗旦との対比で「乞食宗旦、姫 宗和」と称された人物です。
 中世以前の陶工は無名の職人にすぎませんでしたが、仁清は自分の作品に「仁清」の印を捺したことから、近代的な意味での「作家」・「芸術家」としての意識をもった最初期の陶工だといわれています。現存する仁清の主要作品には、「色絵藤花文茶壺」、「色絵雉子香炉」、「色絵梅月文茶壺」、「色絵桜花文茶壺」などがあります。

 江戸時代、仁清の作品を数多く所持していたのが丸亀京極家です。京極家は色絵茶壷の名品を数多く収集しましたが、それらの名品の多くは、二代藩主京極高豊の時代に集められたものと考えられています。高豊は詩歌や絵を趣味とし、白からも絵筆をとるなど文人でした。また茶人でもあり、元禄元年(1688)には、中津にお茶所を設けています。
 仁清と丸亀藩京極家との関係については明らかでありませんが、一説によると、初代藩主高和(たかかず)に招かれ丸亀で窯を開いたともいわれ、京で本焼きして丸亀で上絵付けをしたともいわれています。晩年、京極家の招きに対して、「我齢80を過ぎ旅は困難なり」といったそうです。6万余石の小藩がこれほどの名品を数多く入手できたのは、ときの藩主の文化的な素養と卓越した手腕によるものといえるでしょう。
 仁清の色絵陶器は、大正時代までその存在が知られておらず、昭和の初めまでその生涯も謎に包まれていました。仁清の作品が世に出るようになったのは、所蔵していた旧大名家らが度重なる金融恐慌で手放していたからだともいわれています。
 平成9年、丸亀市では、丸亀城築城四百年を記念して、「丸亀藩京極家名宝・野々村仁清展」が猪熊弦一郎現代美術館で開催され、京極家が所蔵していたといわれる国宝、重要文化財の色絵茶壷と水指の秀作あわせて7点が展示されました。特に国宝の色絵藤花文茶壷は日本陶磁器の最高傑作といわれている絶品で、これらの名品が一堂に揃うのは京極家の手を離れて初めてのことでした。

 ところで、高松には、仁清が活躍していたのと同じ頃、その作風と類似した陶法が京とから伝わっていました。それは、高松藩初代藩主・松平重が京都粟田口で陶工をしていた森島作兵衛重利を高松に招いて焼かせた御庭焼です。作兵衛の父は、元は豊臣秀頼に仕える武士でしたが、大坂の役後故郷の信楽に閑居して焼物を業としていました。そして父を継ぎ陶工となった作兵衛が京都三條粟田口に出て作陶をしていました。
 正保4年(1647)、作兵衛は、頼重から10人扶持、切米15石を与えられ、名を「紀太理兵衛」と改め、高松藩別邸栗林荘(現在の栗林公園)の北に屋敷を賜って窯を築きます。このことから、この御庭焼は“理兵衛焼”、“高松焼”または“御林焼”と呼ばれ、京焼にも負けない色絵物や安南写などが多く作られました。
 初代理兵衛は、その作風は仁清のものと類似しているといわれ、「古理兵衛」あるいは「高松仁清」と呼ばれました。来讃時に色絵陶を作る使命を帯びていたのではないかともいわれています。明治初期に書かれた田内梅軒の「陶器考」によれば、「高松焼 利兵衛と云もの仁清に陶法を習ふ、是を利兵衛焼と云、作ぶり仁清に似て厚し、安南を写たる茶碗、朝鮮を写たる茶碗など有、土白、薄赤、黄、浅黄。薬白、浅黄」とあり、初代理兵衛は野々村仁清に陶法を学んだのではないかとも考えられています。
 以後、紀太家子孫が高松藩の御庭焼として代々「理兵衛」を襲名し、三代理兵衛以降は、「破風高」と呼ばれる「高」の印を押すようになりますが、一説によると高松藩の高の字を拝領されたともいわれています。
 九代目に至り、いわゆる明治維新で廃藩置県となったため、十一代目が京都に出て高橋道八に学び、名も「紀太理平」と改め、明治33年に現在の栗林公園北門前に「理平焼」として再興し、現在十四代紀太理平まで続いています。
                
●訪れてみたいところ

○猪熊弦一郎現代美術館
丸亀藩には、色絵藤花文茶壺(MOA美術館蔵・国宝)、色絵月梅図茶壺(東京国立博物館蔵・重文)、色絵吉野山茶壺(福岡市美術館蔵・重文)等が伝来しました。

栗林公園
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