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(122)“海を町に変えた塩づくり”

  町はその形成・発展の要因により、城下町、門前町、港町、宿場町などに分類されます。現在の香川県の町も、高松、丸亀は城下町、琴平、善通寺は門前町、多度津、引田、仁尾などは港町として発展しました。このような香川県の町の中でも、坂出塩田の町としてユニークな発展の歴史を持っています。
 坂出市は昭和17年(1942)に香川県で3番目に市制が施行されました。坂出市の中でも東部地域は、かつて讃岐の国府庁が置かれたり、また崇徳上皇にまつわる社寺仏閣、史跡が残るなど古い歴史を持っています。しかし、西を聖通寺山と角山、東南を笠山と金山で挟まれた現在の市街地の辺りは、かつて遠浅の海と砂州だったところで、街として発展していったのは江戸時代後期以降のことです。その歴史は、塩を採るために人々が集まり、海を塩田にし、さらにそれを基に土地造成を行うことにより展開されました。これに伴い海岸線も北へ北へと大きくシフトしていきました。

 鎌倉時代から室町時代を通じて、讃岐の政治文化の中心だったところは、現在の坂出市街と田尾坂を隔てて隣接する宇多津でした。青ノ山の東麓には讃岐の守護所が置かれ、古くから多くの寺院が建立されていました。
 これに対して、現在の坂出市街の地は、江戸時代までは、海岸線が大きく南に後退し、今の坂出高校や笠山の麓辺りが波打ち際でした。また、笠山の南西にあたる現在の福江町二丁目付近まで入江が大きく湾入し、大束川(あるいはその支流)の河口に続いていました。そこに自然の入江を利用した福江の湊がありました。そして遠浅の海を隔てた北側には、現在の市街西側の八幡町三丁目あたりの付け根から洲加(須賀)と呼ばれる長い砂州が東に向かって延びていました。洲加の東端は現在の坂出商工会館裏にある天満宮辺りだと考えられています。さらに洲加の東側には島津(洲)、横洲と呼ばれる砂州が島のように点在し、これらの砂州は、天然の防波堤の役割を果たしていました。ちなみに、横洲は現在の横津町あたりです。
 想像するに、南側の陸地と北側の砂州で囲まれた遠浅の海は、湾が砂州(さす)によって外海から隔てられ湖沼化した潟湖(せきこ)(ラグーン)に近い地形で、東西に長い楕円形をし、北東の方向が沖合いの海に開けていたのではないかと思われます。そして、この楕円の中心点が現在の坂出駅あたりで、JRの線路が楕円の軸になるような形だったのではないかと思われます。
 この辺りは、古くは山本郷といわれたところで、南北朝時代(延元3年:1338)には、京都・崇徳院御影堂の荘園(北山本新荘)が置かれ、福江の湊が年貢の積み出し港として地域の流通機能を担っていました。

 坂出で塩田の築造が始まったのは、安土桃山時代の文禄年間(1592~1596)の頃だと考えられています。播州赤穂から「塩焼」という塩づくりの技術をもった民人が移り住み、金山と笠山の北麓にあたる現在の谷町あたりで塩田を造ったのが始めてといわれています。この頃の讃岐の領主は生駒親正で、天正15年(1587)に豊臣秀吉から讃岐一国を与えられました。この頃、引田や高松にも赤穂から塩焼が移住してきており、生駒氏は讃岐にやってくる前は赤穂の領主だったことから、赤穂から塩焼を呼んで塩作りをさせたのではないかと思われます。
 江戸時代に入っても、赤穂からの流民は増え続けていたようで、慶長年間(1596~から1615)から元和年間(1615~1624)にかけて、赤穂の人々が洲加やその付け根の内浜(現在の八幡町三丁目あたり)に移住し、集落を形成したといわれています。また福江から移住してきた人も多く、福江は「本村」と呼ばれていたそうです。
 彼らは次第に埋没して干潟となっていた入江を塩田に変え、塩業を生業としました。当時の文献によると、赤穂から移り住んだ塩焼の子孫は播磨訛りを話し、坂出には多くの塩釜が炊かれ朝夕をとわず煙が出ていたといわれています。ちなみに、「坂出」という地名は、宇多津から田尾坂を越えて出たところにある集落という意味です。この頃、高松城下から丸亀城下に至る丸亀街道は、金山北麓から笠山南麓へ回り込み、福江を経由して川津・津之郷に出るという経路でした。

 寛永19年(1642)、松平頼重が東讃岐12万石を徳川幕府から与えられ、生駒氏の後の高松城に入り、坂出は高松藩の領地となります。元禄時代(1688~1704)になると、洲加と陸地の間の海は埋め立てにより塩田として利用され、洲加の東側に点在する鳥洲・横洲などの砂州にも集落ができ始めたようです。
 そして、元禄2年(1689)、坂出八幡神社が角山北麓の現在の地(八幡町二丁目)に建立されます。この頃、坂出は各地から移住してきた人々が集まってできた単なる集落から、共同体的意識を持ったムラに転化したものと考えられます。八幡神社と教専寺の界隈である内浜と新浜は、坂出村の臍(へそ)のようなところといえるでしょう。
 しかし、まだまだ寒村だったようで、寛文7年(1677)の記録では、人口は約600人程度でした。この頃、丸亀街道の経路は北へシフトし、笠山北麓から西へ真直ぐ延びて教専寺・八幡神社門前を経て田尾坂を越えていました。
 また、洲加と陸地の間の海の埋め立てにより福江にあった港はその機能を失い、それに代わる新たな港が、洲加の北側の海岸沿いに造られました。これにより、現在の地蔵通商店街周辺にあたる中洲加の界隈が、荷揚げ場を控えたところとして賑わいます。享保17年(1732)には、高松藩の舟番所が林田から西洲加に移され、海に突き出した東洲加には灯台が立てられて船着き場とされます。現在、元町四丁目のやや小高くなった路地のあたりが船着き場の跡で、そこには灯台の記憶を伝える幕末の金毘羅灯篭が今も立っています。
 しかし、元禄年間までに拓かれた塩田は、早くも享保7年(1722)に洪水で壊滅状態となってしまいます。荒廃した塩田は、天明6年(1786)、阿河武太夫によって田畑へと切り替えられます。現在でも標高0.5m以下の低い土地が広がる谷町・室町一帯にその名残りを見ることができます。この当時の坂出は、「田少なく、壮者は往々去って四方に餬口(ここう)す。村は蓋し海に瀕し、海潮満ちつれば則ち村居を浸す。退けば則ち平土数里」(坂出墾田之碑)という状態だったようです。

 江戸時代後期、荒廃した製塩業に新たな活力をもたらしたのが、久米栄左衛門(通賢)による坂出塩田の開発でした。当時、洲加と鳥洲の北側(現在の御供所地区から江尻地区にかけて地域)は、まだ遠浅の海浜で残された入江でした。栄左衛門は、文政12年(1829)、ここにその広さ110余町歩、釜数72という広大な東大浜・西大浜塩田を築きます。また塩田中央部を南北に延びる堀割(現在の西運河)に船溜りが設けられ、天保2年(1842)には西大浜の沖にも波止で囲まれた船溜りが造られます(沖湛甫)。この塩田は当時の讃岐の塩田としては最大規模のもので、これを契機に坂出は塩田の町として大きく発展していくことになります。
 海岸線が北にシフトしたことにより丸亀街道の経路もさらに北にシフトし、金山北麓から西へ真直ぐ延びて現在の元町商店街を経由して田尾坂を越えるルートと付け替えられます。そして、それまで坂出の中心として栄えた中洲加は港湾機能が失われたことにより衰退し、東洲加にあたる現在の元町・本町界隈が賑わっていきました。

 明治時代、坂出は塩の生産量日本一を誇るまで栄えます。しかし、明治後半から大正にかけて、坂出塩田は次第に商工業地としての利用が行われるようになり、また、昭和2~26年に3次にわたって行われた坂出築港事業により、坂出港は埠頭や臨港鉄道を備えた近代港湾として生まれ変わります。
 戦後になると、昭和39年(1964)から、沖合の番の州が埋め立てられ、昭和44年に竣工して川崎重工、三菱化成、四国電力坂出火力発電所等の大企業の工場が立地していきます。一方、イオン交換樹脂膜製塩法の導入により塩田は不用となり、昭和47年、東西大浜塩田での製塩が終焉します。そして、昭和50年代以降、塩田跡地は区画整理事業により埋め立てられ、工業地、住宅地、道路などに転用されていきます。
 坂出は、塩を求めて、常に土地造成という自然地形への積極的な働きかけ行ってきたことによりできた町で、いわば塩づくりが海を町に変えたといえるでしょう。

(関連記事)
(58)“伊能忠敬より進んだ測量技術を持った江戸時代の先端科学技術者で塩田の父
(92)“かつて塩田王国といわれた香川

●訪れてみたいところ

坂出高校
 現在、松並木がある坂出高校校庭は入江に面した浜の名残りであり、その両側に延びて緩やかな段差を伴う乱れた地割は海岸線の痕跡を示しています。

坂出八幡
 もとは角山山麓にありましたが元禄2年(1689)に現在地へ遷座したと伝えられています。拝殿や本殿には、虹梁や蛙股などの各所に細かな彫刻が見られ、拝殿には金毘羅金光院の僧・宥怡筆の額(天保14年)が掲げられています。また毎年10月に行われる祭りでは、市街地各町のチョウサ(太鼓台)が境内から市街地を練り歩くことで有名です。近代の建造物としては、日清・日露戦争の戦没者名を刻んだ戦勝碑があり、特に日清戦争戦勝碑は洋風の石造台座と明治の元老・山県有朋の揮毫が見られます。

○教専寺
 寛永4年(1627)に建てられた浄土真宗の草庵に始まり、慶安2年(1649)に本堂が建立されたと伝えられています。

坂出八幡神社・教専寺界隈
 内浜・新浜の界隈は、江戸時代初頭に始まる坂出村のオールドタウンです。各地から移住してきた人々の精神的な拠り所として建立されたのが、八幡神社と教専寺です。門前を通っていた江戸時代中期の丸亀街道(笠山北麓から西へ真直ぐ延びて教専寺・八幡神社門前を経て田尾坂を越えるルート)は、幅1~2間程度の曲がりくねった狭い路地で、地形に沿って延びており、古い街道の面影をとどめています。

○中洲加界隈・地神社
 江戸時代中期から荷揚げ場を控えた賑わい地であった中洲加界隈は、現在の地蔵通商店街周辺にあたります。付近は文化元年(1804)11月の大火で被災し、また文政12年(1829)の東西大浜塩田の造成で洲加の港湾機能が失われたことで中心市街地としての役割を終えましたが、現在でも水尾醸造所など黒漆喰で塗り込められた表構をもつ中規模町家や看板建築が点在しており、戦前の面影を留めています。
 この通りの西端にある地神社は、西大浜の完成を記念し、これを守護するために建立された社です。この境内にある大井戸には、角山北麓の水源地から竹樋で引水され、周辺住民の飲料水や醸造用水に利用されていました。ただし坂出の飲料水の多くは、依然として水売りなどで賄われていたといい、近代上水道が敷設されるのは昭和初期になってからのことです。

○西大浜の石積み堤防
 西大浜塩田の石積みは現在でも護岸となって残っています。地元で採取できる安山岩(一部サヌカイト)が粗いが巧みに積み上げられており、石波止にも通じる施工技術の高さを物語っています。
 聖通寺山中腹にある塩竃神社は、かつて西大浜にあったものが現在地に移転されたものです。またその境内にある灯篭は、慶応4年(1868)、白峯山に眠る崇徳上皇の霊を京都に奉還した際、沖湛甫に建立されたものです。

○阪出墾田之碑
 東大浜に隣接した天神社境内にあります。藩主の命により江戸まで運ばれた大きなサヌカイトの1枚石に、当時最高の学者・書家・名工が碑文・書・彫刻を施しています。

○元町・本町界隈
 江戸時代後期、中洲加が衰退した後、南に隣接する丸亀街道(金山北麓から西へ真直ぐ延びて現在の元町商店街を経由して田尾坂を越えるルート)周辺が整備されていきます。明治以降は、公共建築や銀行などが建ち並ぶ空間となり、旧元町交番(昭和12年)や百十四銀行本町出張所(旧坂出支店、昭和5年)が見られます。昭和40年代に至るまで、この界隈が坂出の中心市街地でした。

○鎌田共済会郷土博物館
 鎌田勝太郎(1864~1942年)は、上京して福沢諭吉に師事し、地元で家業の醤油醸造業を営む一方、坂出銀行・宇多津塩田などを創立した明治の起業家の典型的人物です。衆議院・貴族院議員を務めるかたわら、鎌田共済会を設立し、地域の社会教育の振興に傾注しました。この建物は、旧鎌田共済会附属図書館で大正11年建築。現存する県内最古の鉄筋コンクリート(RC)造建築で、竹中組の設計・施工。連続するアーチ形窓や幾何学的な意匠の玄関が特徴的で、古典様式がモダンにアレンジされています。
 隣接した鎌田醤油の敷地には、鎌田勝太郎の住宅・淡翁荘(昭和11年、清水組大阪支店施工、RC造2階建)があり、同敷地の南側の香風園(明治43年)は、鎌田勝太郎邸の一角に造られた回遊式庭園で、飯野山(讃岐富士)を借景としています。

○坂出人工土地
 坂出駅北側にそびえる坂出人工土地(大高正人設計、昭和43年)は、駅前の木造家屋密集地のクリアランス事業として立ち上げられました。
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